2010年12月30日木曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第5回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

キリストへと洗礼を受けている魂の持ち主が、信仰と正しい良心を完全に失い(「テモテへの第一の手紙」1章19節)、洗礼において罪から清めていただいたことを忘れて(「ペテロの第二の手紙」1章9節)、自分自身を世の汚れにまみれさせるということが、残念ながらこの世ではしばしば起こります。
彼らの欲望が彼らを占領してしまったわけです。
その結果彼らは、信仰の道を踏み外し、自分自身のために神様の御子を再び十字架につけるようなことをしているのです(「ヘブライの信徒への手紙」6章6節)。

聖霊様が今、このような人々を「死にいたる眠り」から目覚めさせて、もう一度照らし、彼らがいったんは見捨てたイエス・キリストを再び知るようにしてくださらなければ、もうどうにもなりません。
それゆえ御霊は言われます、
「眠っている者よ、目を覚ましなさい。死者の中から起き上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らしてくださいます」(「エフェソの信徒への手紙」5章14節)。
聖霊様がこれら失われた人たちを探し出し、道に迷った者たちを御許に集めるみわざを忠実に行ってくださっているのは、なんと偉大で素晴らしいことでしょうか!

このことを主御自身が、「なくした銀貨」についてのすばらしいたとえによって証してくださっています、
「もしもある女の人が銀貨を十枚もっていて、もしその一枚をなくしたならば、彼女はランプをつけて家全体を掃き、それを見つけ出すまで注意深く探しつづけないでしょうか?」(「ルカによる福音書」15章8節)。

これよりもさらなる忠実さをもって、主の御霊は、
「失われた魂の持ち主たちを再びキリストの御許に集めて、彼らを御言葉の光によって照らし、安全な恵みの場、神様の御許に連れて行こう」、
と望まれています。
この聖霊様の忠実さがなければ、洗礼の契約を破った罪人は、もはや一人たりとも自分の贖い主を見つけることができないし、父なる神様の恵みに再びあずかるようにも決してなれないことでしょう。

しかし、永遠の父なる神様に感謝します。御父は、愛する御子のゆえに、倦むことのない恵みと忠実さをもって、道を見失いさまよっている御自分の子供たちを、聖霊様のみわざによって探しておられ、また、彼らのうちの一人でも見つかった時には、大喜びしてくださいます!

F.G.ヘドベルグ 「疲れた人たちのための清涼剤」

2010年12月20日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第5回目の質問

  
「コリントの信徒への第一の手紙」 第5回目の質問
  
パウロはコリントの教会の中にあらわれた不品行の問題に干渉し、教会が内部で秩序を取り戻すことを要求しました。
  
1)あなたがたの教会の性道徳にかかわる規律について、パウロだったらどのような批判をすることがありえるでしょうか。
彼が私たちの教会の状態を見たならば、どんなことを言うと思いますか。
また、どのようなことがらにパウロは注目すると思いますか。
  
2)この章によれば、教会の牧師には教会員の生活に干渉する権利や責任がある、ということになるのでしょうか。
一般の意見ではどうでしょうか。
  
3)教会の歴史では、清い教会と罪のない者たちのみによる聖餐式の実現をめざす試みがしばしば見られました。
これは今の教会では可能でしょうか。
また、必要なのでしょうか。
  
4)7節でパウロは、コリントの信徒たちに対して清くなるように命じています。
それと同時に彼は、「彼らはすでに清いのだ」、と宣言しています。
どうしてこのようなことがありうるのでしょうか。
  
5)もしもこの手紙の基準に基づいて私たちの教会から人々を追い出し始めた場合には、あなた自身は教会内に留まることになりますか、それとも教会の外へ追いやられることになるのでしょうか。
  
6)パウロはひどい罪のひとつとして、貪欲と他人の中傷を挙げています。
これらの罪はどのような意味を持っていますか。
また、それらは私たちの教会ではよく見受けられるものでしょうか。
  

2010年12月17日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」5章9~13節 

世から出て行くのではなく 5章9~13節

パウロはすでに以前コリントの教会に、
「姦淫を行う者と信仰の兄弟姉妹の交わりをもってはならない」、
と手紙を書き送りました。
今、コリントではこの言葉を、
「教会員ではない人々も含め、あらゆる公の罪人との接触を避けなければならない」、
と曲解する人たちがでてきました。
パウロは大急ぎで彼らの誤解を解こうとします。
ここで問題になっているのは、クリスチャンであるにもかかわらず実に放縦に生きている者たちのことなのです。
言うまでもなく、コリントの一般市民は神様のことをまったくないがしろにして生活していました。
にもかかわらず、(パウロによれば)クリスチャンは彼らのことを避ける必要はないのです。
ただし、クリスチャンだと自認している公の罪人のことは、よく見分けて彼らを避けるようにしなければなりません。
ここで「罪のリスト」に載っているのは、第六戒を破る罪だけではありません。
そこにはまた、貪欲、略奪、そしり、なども含まれています。
この「そしり」というのは、ここでは、神様をそしることではなく、人をそしることを指しています。
教会の外部にいる人たちのことは、神様が裁いてくださるでしょう。
クリスチャンはこの世から出て行くことができません。
それに対し、誰が教会の会員であるかということは、コリントの教会でも皆が正確に知っておかなければならないことでした。

2010年12月15日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」5章6~8節 

  
無きに等しい自慢の種 5章6~8節
  
パウロは不幸な事例をひとまず置いて、今度はより一般的なことについて話し始めます。
パウロはコリントの信徒たちが誇っている内容自体を否定しているわけではありません。
コリントの信徒たちは自分たちの恵みの賜物と教会を誇りにし、使徒の権威を認めようとはしませんでした。
こうした態度は、彼らが御言葉を捨て、神様の怒りの対象になる、という事態を招きました。
本来ならば、コリントの信徒たちはキリストを誇りとし、神様に栄光を帰するべきだったのです。
  
パウロは今度は、台所のことや誰でも知っている事柄について話し始めます。
パン種の入ったパンを作るときには、パン種はたくさんは要りません。
少しでも入っていれば生地全体がふくれあがります。
今、パウロはパン種を厳密な意味で完全に抜き去るように命じています。
こうした言い方の背景にあるのは、ユダヤ人の過越しの祭と出エジプトの出来事です。
その時、民全員はすべてのパン種を投げ捨てるように神様から命令を受けました。
新しいパン種ができあがる前に、神様は御自分の民をエジプトの隷属から解放してくださいました。
その当時、人々はパン種の入っていないパンを食べて生活していました。
そういうわけで、ユダヤ人の過越しの祭には、今も昔も、パン種を取り除くこととパン種の入っていないパンを食べる日が定められているのです。
今ここで、パウロはキリストの教会を「生地」と呼んでいます。
この生地は古い生地をこねなおしたものではなく、完全に新しい、つまり罪のない生地だ、ということです。
それゆえ、教会からは「古いパン種」、すなわち罪の生活を完全に除去して、教会を清く保たなければなりません。
確かにコリントの信徒たちは清いのです。
今パウロは彼の手紙の一番重要なことがらに話題を移します。
それは、キリストはすべてを清めてくださった、ということです。
キリストが賜物として与えてくださった「聖さ」がすべての根底にあります。
キリストは「過越しの羊」です。
この羊が犠牲となって流される血が、私たちを神様からの罰と死から守っています。
しかしそれは、もはや教会は神様の御心を探し求める必要がない、という意味ではありません。
このように奇妙なやり方でパウロは、罪に塗れた者たちが清められるように勧めているのです。
なぜなら、彼らは「すでに清い」からです。
キリスト教の信仰は鉄壁な論理などではありません。
それは神様とその恵みと共に生きることです。
  

2010年12月13日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」5章1~5節(その2) 

   
コリントの教会の姦淫の問題 5章1~5節(その2)
   
パウロの「処方箋」は厳しいものでした。
今、彼はコリントの信徒たちと話し合ったりはしません。
彼らを問いただしたりもしません。
彼は裁きを下しています。
残された仕事は、それを厳粛に宣言することだけでした。
  
パウロが教会を訪れたとき、教会の総会が開かれます。
そこで主の教会は「公に罪の生活を送っている者」を教会から排除する式を行います。
  
「その男は悪魔に引渡し、彼の肉体が滅びるようにしなければなりません。
そうするのは、彼の霊が主の日に救い出されるためなのです」
(「コリントの信徒への第一の手紙」5章5節)。
  
この御言葉もまた謎めいています。
その人は、教会の外部に追い出され、もはや教会の権利や宝にあずかることができなくなります。
その人はクリスチャンではなくなり、誰もその人のことをクリスチャンとみなすこともなくなります。
当時の教会にはこの世の裁判においても有効であるような公式の判決を下す権利がまったくありませんでした。
それゆえ、モーセの律法による懲罰である「石打の死刑」や、パウロの時代のユダヤ人たちが好んで用いた「鞭打ちの刑」は執行不可能だったのです。
   
ここでは特にある点に注目する必要があります。
パウロは「躓いた教会員たち」の最善を考慮しているだけではないのだ、ということです。
彼は教会員たちのレヴェルを引き上げることを目指しているのではありません。
この罪を犯した人間の霊が「最後の日」に救われることを目的として、すべては執り行われているのです。
研究者たちは5節の正確な意味をつかみあぐねています。
まさかパウロは、教会から除名される人間の上に肉体的な衰弱、たとえば病気を招来しようとしているのではないでしょう。
また、この節で霊と肉体との非常に深い区別を提示しているのでもないでしょう。
「罪人の肉」、「古いアダム」はクリスチャンの中で死んで、キリストの御霊に場所を譲らなければなりません。
それゆえ、クリスチャンが自分自身を律して神様を探し求めるようになるために、厳しい手段を取るのもやむをえないことなのです。
   
現代に生きる教養人である我々クリスチャンにとって、パウロのやり方にはついていけないところがあります。
パウロなら今の私たちの教会の中に倫理的な罪過を多く見出だすだろう、ということは誰にも否定できない事実でしょう。
教会の中にさえ、同棲している人々がたくさんいます。
離婚や婚外性交もあっという間に一般化してしまいました。
もしも私たちの教会の中の誰かが、わずかばかりであれパウロと同じようなやり方で行動しはじめるならば、雑誌などのメディアや世間の意見は一斉に大喜びしてこの事件に飛びついてこう言うことでしょう、
「こんなに愛に欠けた残酷な牧師が教会にいてよいものか。
人は自分の頭で考えて好きなように行動するのは当然だ。
彼らは自分の人生について神の前で責任をとらなければならないのだから、教会の職員である牧師が他人の生き方に関してあれこれ口出しする筋合いなどはないのだ」。
私たち自身もこのような考えに慣れてしまっています。
しかし、このような話を聞いても、パウロならまったく理解を示さなかったことでしょう。人々が知らず知らずに地獄に向かって転げ落ちていくのを見過ごすのも、「愛」ということになるのでしょうか。
  
数年前に交通安全の責任者が踏切事故についての懸念を表明したことがありました。
テレビではこのテーマにスポットをあてたキャンペーンが展開されました。
そこでは、車が列車の下敷きになる際の様子をさまざまな車で試していました。
得られた結論によれば、列車との衝突を避けるためには、列車が来るときにレールの上にいてはいけない、ということです。
神様の怒りと裁きはこの列車のようなものです。
それを避ける唯一の方法は、キリストの十字架のみわざの守りの中に生き、神様の警告の御声に聴き従うことです。
  

2010年12月9日木曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」5章1~5節(その1) 

  
コリントの教会の姦淫の問題 5章1~5節(その1)
  
コリントの教会では激しい霊性と激しい放縦が奇妙に混交していました。
コリントは「姦淫」の中で生きていました。
それは、あらゆる意味でのルール違反を意味していたものと思われます。
それは、結婚前の性的関係のケースも、また不倫のケースも含んでいました。
特にひどいのは、パウロが例としてあげたケースです。
父親の妻と同棲している者がいた、というのです。
これがどういう意味だったか、完全にはわかりません。
おそらくその女性は自分の母親という意味ではなかったでしょう。
もしもそうならば、パウロはそう記していたはずです。
つまり、自分の継母と性的関係を結んだ男がいた、ということです。
彼の父親がまだ生きているかどうかについては何もわかりません。
ともあれ、モーセの律法はこのような関係を完全に禁止しています(「申命記」27章20節)。
まさにこのようなケースについてモーセの律法は死刑を定めています(「申命記」17章6~7節)。
「聖なる民」(ユダヤ人)からはあらゆる悪を滅ぼし尽くさなければならなかったのです。
異邦人もまた、継母との結婚を認めてはいません。
それゆえパウロは、「この点に関してコリントの信徒たちは異邦人たちよりも悪い」、と断言することができたのでした。
  
パウロがしきりにいぶかしんでいるのは、コリントの高度な霊性がこのようなことがらをまったく問題視してはこなかった、という点です。
このことについて私たちは確かな理由を知りません。
コリントの教会の有力者たちは、教会で上座を占めるのには長けていても、いざという時に教会を正しく指導する能力がなかった、ということはありえます。
しかし、より実情に近いと思われるのは、この問題には神学的な背景があった、ということです。
初代教会の時代には、霊的な力を知った多くの人々は、「どんなことをしてもかまわないのだ」、という思い込みを抱くようになってしまいました。
「(人が死ぬときには)どうせ肉体はこの世に残って朽ち果てる。
大切なのは、霊が神の高みに上ることだ」、というわけです。
コリントの教会には、「復活はもう起きたのであり、人間はもはや罪を犯すことがありえなくなっている」、と信じ込んでいる人たちがいたのはあきらかです。
しかしパウロは、このような話に耳を傾ける気など毛頭ありません。
教会は罪の中で安住してはいけないのです。
もしも人の心にキリストが住んでおられるならば、キリストはその人を罪との戦いに連れ出すものです。
  
(つづく)  

2010年12月3日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」5章 導入部 

無きに等しい自慢の種

「コリントの信徒への第一の手紙」5章

パウロは最初の4章分をコリントの教会のもめごとの調停に費やしました。
彼がこのようにしたのには理由があったことを私たちは見てきました。
コリントの教会の一番の難問は、そこではパウロの権威が認められてはいなかった、という点でした。
こうした状況の中で、教会の問題点をすぐさま取り上げて、教会の指導者として意見を声高に述べるほど、パウロはナイーヴではありません。
まずはじめにAとBのことについて話すべきで、ようやくその後でCについて話すことができるわけです。
それゆえパウロは、「コリントの信徒たちは、あらゆる諍いの現実を超えて、教会の設立者である彼の言うことに従わなければならない」、ということを示そうと苦心しています。
このことをはっきりさせた上で、パウロは教会の他の諸問題に話題を移します。
今や彼は歯にもの着せぬ言葉遣いで全力を投入しています。
最初のテーマはコリントの信徒たちの性的関係に関する罪過です。

2010年12月1日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第4回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

「この方がしてくださったことはすべて素晴らしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださった」(「マルコによる福音書」7章37節)。
 
御言葉が正しく用いられるところにはどこであれクリスチャンがいるものです。
御言葉が正しく扱われないところにはクリスチャンもいません。
神様の御言葉を真剣に聴き続けることを決して忘れてはいけません。
神様は、御言葉を介さずにあなたの心に何かを告げようとは思っておられません。
もしもあなたが神様を見て知りたいならば、それは御言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)を通してのみ実現します。
他の方法によっては、聖霊様はあなたの中でみわざを行われないのです。
   
神様御自身、天国について教えられるとき、
「これは私の愛する子、御心に適う者です。彼の言うことを聴きなさい」
(「マタイによる福音書」17章5節)
と言われています。
  
同じように、キリストは弟子たちに、
「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。
父、御子、御霊の御名により洗礼を授けなさい。
私があなたがたに命じておいたことをすべて守るように彼らに教えなさい」
(「マタイによる福音書」28章19~20節より)
と命じておられます。
  
神様はこのようにも言われています、
「あなたがたのことを聴く者は私のことを聴くのです」
(「ルカによる福音書」10章16節)。
   
主キリストは私たちが口を開き、人々に福音を宣べ伝え、彼らに洗礼を授けることを命じておられます。
これが、救われるための正しい方法です。
他の方法は何であれまったく役に立ちません。
  
「あなたがたのことを聴く者は」、
と主は言われます、
「私のことを聴くのです」。
   
主なる神様御自身が説教なさる教会がどこにあるかわかれば、どんなに遠くからでもその教会に馳せつけない人は私たちの中には一人もいないでしょう。
誰もが神様の御声を聴きたいと望んでいるのです。
   
主なる神様はこう言われます、
「私はあなたのすぐそばに来ます。
あなたは長い旅行をする必要などはないのです。
あなたの教会の牧師、またお父さんとお母さんのことを聴きなさい。
そのようにして、あなたは私のことを聴くことになるのです。
彼らは私の弟子であり、職員なのです。
あなたが彼らのことを聴くときに、私はあなたの心に語りかけています。
私が口の利けない人に話しかけたときのように、あなたの耳は開かれ、あなたの舌はもつれが解かれます。
そうして、あなたは耳が聞こえ話すことができる人間になります。
あなたはもう前のような耳の聞こえない人でも口が利けない人でもありません」。
  
しかし、もしも父や母、この世の権力者、御言葉の説教者を通して私たちに話される神様の言われることを聴こうとしないならば、その罰として、悪魔はさらにきつく耳を閉じ、舌を縛り、神様の御言葉を聴くことと告白することを今まで以上に困難にします。
そのかわり悪魔は、自分の偽り、分派、間違った教え、その他みだらなことを聴く耳を開きます。
御言葉を見下す態度が普通そのような報いを招くのです。
そうなるのが当たり前です。
まさにそのような状態を望んでいたわけですから。
  
「この方がしてくださったことはすべて素晴らしい。
耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださった」、
と言って主キリストを賛美した、まじめなクリスチャンたちの模範に従おうではありませんか。
  
このことを主イエス様は、キリスト教会で、聖礼典(洗礼と聖餐)と外的な御言葉を通して、休むことなく実現なさっています。
主は説教者が御言葉を説教するようになさいます。
それにより耳の聞こえない人の耳が開かれ、口の利けない人が話し始めるようになるためです。
他の何ものでもなく、御言葉を通して、聖霊様は私たちの中で働きかけてくださいます。
このことによく注目し、以前よりも熱心に配慮しなさい。
なぜなら、それは、耳を開き、舌のもつれを解き、救われるための、一番直接的で確実な方法だからです。
どうかそれを、愛する救い主キリスト・イエス様が私たちに与えてくださいますように!
アーメン。
  
(マルティン・ルター 「霊的な活力」)
   

2010年11月30日火曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第4回目の質問

「コリントの信徒への第一の手紙」 第4回目の質問

パウロはコリントの教会の争いの調停を続けています。
今彼は、自分自身の立場について説明し始めました。
パウロは主の使徒であると同時にコリントの教会の設立者でもあるので、コリントの信徒たちは彼の特別な地位を認めなければならない、ということです。

1)現代のクリスチャンは他の人々をあまりにも性急に裁いてしまう傾向がありますか。
また、「裁く」とはどういう意味でしょうか。

2)「書かれていることを超えない」(4章6節)とはどういう意味でしょうか。
どのようにすれば、私たちはこの指示にしたがうことができるでしょうか。

3)いわゆる「成功のための神学」(Theology for Success) は、極端な場合には、「クリスチャンである人は病気にも貧乏にもならない」、と教えています。
そして、「もしも神様がクリスチャンを富や健康によって祝福しないならば、その人の信仰生活には何か問題がある」、というように言われます。
こうした考え方にはどのような根拠を提示できるか、まず皆で一緒に考えてみてください。
それから、そうした「根拠」を8~13節と照らし合わせて、評価してみてください。

4)あなたは、「何の困難もなくキリストもいらない「自立した生活」を送りたい」、という誘惑に駆られたことがありますか。

5)パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」で、自分の権威のために戦っているのでしょうか、それとも自分の立場のために戦っているのでしょうか。

6)誰のキリスト教教育についてあなたは責任を負っていますか。
あなたはパウロのように、そのことに自分の全存在を賭ける用意ができていますか。

2010年11月26日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」4章14~21節(その2) 

  
コリントの教会の使徒、パウロ 4章14~21節(その2)
  
「コリントの信徒への第一の手紙」4章は、パウロがコリントの信徒たちの間に秩序を回復させようとするやり方についての興味深いドキュメントであるだけではありません。
主の使徒は私たち信徒の間にも秩序を取り戻させようとしているのです。
つまりこれは、私たちにとって非常に身近な意味をもっています。
主の使徒に対して声を張り上げて反対するのは、なにもコリントの信徒たちにだけ当てはまる罪ではありません。
他の土地でも、何時でも、パウロや他の使徒たちの言葉を真面目に受け取らなかった人々がいたものです。
現代に生きる私たちの間にも、「パウロは時として過ちを犯すふつうの人間にすぎず、彼の意見には一人の人間が理解した分の価値しかないのだ」、と考えている人たちがいます。
もちろんパウロは罪人でしたし、不完全な人間でもありました。
にもかかわらず、彼や他の主の使徒たちは自分たちの名前によってメッセージを伝えたわけではありません。
パウロはテサロニケの信徒たちに対して次のように書いています、
「これらのことのゆえに私たちが神様に絶えず感謝しているのは、あなたがたは、私たちから神様の御言葉を聴いたときに、それを人間たちの言葉としてではなく、真実通りに、神様の御言葉として受け入れてくれた、ということです。
そして、この神様の御言葉は、信じているあなたがたのうちで働きかけているのです」
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章13節)。
神様は私たちに人間を通して語りかけてくださいました。
まさにこのようにして、神様は私たちに御自分の御言葉を与えてくださったのです。
不完全な人間の言葉は、彼らを遣わした方の言葉、神様御自身の御言葉です。
それゆえ、たとえばイエス様の言葉とパウロの言葉とを互いに対置させるのは間違っています。
両方共、私たちに語られた神様の御言葉なのですから。
主御自身がそれを保証されておりますし、先ほど引用した箇所からもわかるように、主は御言葉が私たちの中で働きかけるようになさっています。
ここで私たちは人間の意見にではなく、聖書の御言葉にしたがっているのです。
「ルーテル教会信条集」は聖書の御言葉について次のように述べています、
「私たちは、次のことを信じ、教え、告白します。
すべての教えと教師とを調べて評価する際に唯一の原則と規範となるのは、預言的かつ使徒的な旧新約聖書のみである、ということです。
「あなたの御言葉は私の足のともしび、私の道の光です」(「詩篇」119篇105節)
と書いてある通りです。
また、
「たとえ私たちであれ、天からの御使いであれ、私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えるなら、その人は呪われるように」
(「ガラテアの信徒への手紙」1章8節)
とパウロが言っている通りです。」
   
多くの人の考えによれば、聖書に対する上述のような信条告白は、自分を縛り上げて奴隷にするようなものです。
しかし、ここではまったく違う見方をするべきなのです。
私たちは罪人です。
そして、自分自身に頼って行動するかぎり、地獄への旅を続けているのです。
ところが今、神様の御言葉は、キリストの血のゆえに罪の赦しと天国とを私たちに約束しています。
決して裏切らない神様の御言葉が私たちに「本当にそうなる」と保証してくれないならば、いったい誰がこのようなことを信じる勇気をもてるというのでしょうか。
神様は約束なさったことを取り消したりはなさいません。
それゆえ、弱く不完全な信仰者は、神様のみわざと御言葉に「避けどころ」を求めることができるのです。
  

「コリントの信徒への第一の手紙」4章14~21節(その1) 

    
コリントの教会の使徒、パウロ 4章14~21節(その1)
  
神様が御自分の宣教者たちを低くされ苦境に立たせるやり方を説明した後で、パウロは再びコリントの信徒たちの方へと向きを変えます。
コリントの信徒たちは主の使徒(この場合にはパウロ)を軽んじる権利が彼らにはあるかのように思い込んでいました。
多くの者はコリントの教会におけるパウロの権威を認めていませんでした。
コリントの教会では他の多くの教師や使徒が影響を及ぼしていたのは言うまでもありません。
   
ここでパウロは彼の主張にはどのような根拠があるかを明かします。
たとえコリントの信徒たちにキリストにある一万人の養育者がいたとしても、彼らにはキリストにあってただおひとりの御父がいます。
パウロは教会の設立者でした。
彼がコリントに福音を伝えたのです。
このことに基づけば、彼は少なくともコリントの信徒たちに対しては使徒でした。
パウロにとって、自分が他の使徒たちと同列の使徒の一人として認められるだけでは、十分ではありませんでした。
コリントの信徒たちにとって彼は、教会全体の責任を負う「第一の使徒」でした。
この責任を彼は他の者に譲り渡すつもりはありません。
それゆえ彼は、自分に与えられている責任と権威を堅く守り抜きます。
教会の側はこのことを認めるべきなのです。
しかし、皆が喜んでそれを認めないのは明らかで、中にはいやいやながらそれを認める者もでてきます。
コリントの教会を訪れるときに、パウロは教会内部を徹底的に調査する予定でした。
パウロと教会員たちとの出会いがうれしい再会となるか、それとも厳しい懲罰の時となるかは、教会員たち自身にかかっています。
   
手紙でパウロがどのようにコリントの信徒たちに接しているかを見るのはためになります。
彼の最大の懸案は、教会から自分の権威を否定された彼がそこで牧会するのは不可能になってしまっている、ということでした。
このことをはじめの章で口にするほど、パウロは愚かではありません。
まず彼は、キリストの福音について、また説教者の使命と責任について、事細かに説明します。
この後で彼は、使徒の苦境を目にしているコリントの信徒たちに訴えかけ、自分の側に喜んで立つ人々を皆、自分の方へと引き寄せます。
彼の側に立つのを喜ばない者に対しては、彼は、それ自体は好ましくないやり方や、厳しい言葉遣いによって、自分の方へ引き寄せようとしています。
このようにパウロは、非常に優れた魂のカウンセラーであり、また手紙の書き手でもありました。
彼は心の激昂を長い間我慢します。
それから、抑制しつつも、心中にあることを激しく表現しています。
使徒は、教会を異端教師たちの餌食にされたままではおかない、と堅く決意したのです。
それゆえ、彼は戦います。
自身の栄誉のためではなく、神様が彼に与えられた使命のゆえに。
  

2010年11月23日火曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」4章8~13節 

王と道化師 4章8~13節

パウロはコリントの信徒たちを痛烈な皮肉をもって次のように批判しています、
「コリントの信徒たちは「神様に所属する強大な民」という妬ましいような高みにのし上がっています。彼らは王や裁判官のようなお偉方になってしまいました。キリストの十字架によって、彼らは世間から愚か者とはみなされなかったし、敬われる彼らの立場を誰も怪しんだりはしません」。
ところが、使徒たちはまったく違う待遇を受けました。
手紙の最初の挨拶の後、今ようやくはじめて、パウロはこのメッセージを自分自身に当てはめました、
「神様は御自分の使徒たちを多くの苦しみを受ける最悪の立場へと低められました。彼らは家もなく窮乏の中でどうにか暮らしてきました。彼らは馬鹿にされ迫害され悪く言われます。神様は使徒たちを皆からつばきを受ける「世のゴミ溜め」になさいました。一方、コリントの信徒たちは、あらゆる点でうまくことが運んでおり、彼らは権威を誇る大人物になっています」。
パウロの皮肉は切れば血が出るほど鋭く、また文章としても最上のレヴェルのものです。
しかし、彼はたんに揶揄で終わらせようとはしていません。
「コリントの信徒たちの恵みの賜物は、それ自体としてはすばらしいものだ」、とパウロは考えています。
問題なのは、彼らがそれについて栄光を神様に帰さなかった、という点でした。
使徒パウロはすでにここで、とりわけ「コリントの信徒への第二の手紙」の最も中心的なテーマ、私たちルター派にとって決して捨てることができない大切なことを扱っています。
すなわち、神様の力はこの世では人間的な能力とか輝きとして目に見えるようには現れない、ということです。
この世の時には、神様は御自分の力を弱さの中に隠されます。
神様はなかんずくキリストの人生において、このようになさいました。
キリストは光り輝く宮廷の中にではなく、貧しく片隅に追いやられた者として、お生まれになりました。
キリストの贖いのみわざは栄光の道ではなく、キリストは御自分を常に可能なかぎり低められました。
そしてそれは十字架上の恥辱に至るまで続きました。
教会が設立される時が来て、神様はこの世の超一流の哲学者たちではなく、学のない漁師たちを教会形成のために選ばれました。
パウロは神様の御心を実現するために働くことを許されましたが、すでにその召命の時に、「これから多くの苦しみを味わうことになる」、と神様から言い渡されています(「使徒の働き」9章16節)。
そして、終わりまでその通りになりました。
「十字架の神学」の核心は、
「神様はこの世では栄光を隠され、神様の力はそれとは全く逆の「弱さ」の中に現れる」、
ということです。
それに対して「栄光の神学」は、神様の目に見える力、強いクリスチャン、大説教者などを偏愛します。
しかし、パウロにとってそれはまったく疎遠な教えでした。

「コリントの信徒への第一の手紙」4章6~7節 

アポロとパウロの例 4章6~7節

「私はあなたがたのためにこのことを自分とアポロにあてはめてきました。
それはあなたがたが私たちのことから教訓を得るためでした」(6節)。
パウロの考えは明瞭です。
前の箇所でパウロは、コリントの信徒たちに御言葉の説教者の使命を具体的に説明するために、自分とアポロを例として引き合いに出しました。
パウロもアポロも神様の僕であり、おひとり神様から裁きを受ける立場にあります。
問題になったのは、コリントの信徒たちがあまりにも性急に、自身の言葉に重きを置く「裁判官」として振舞いはじめた、ということです。
「コリントの信徒たちはいったいどこからこのような権威を得たのか」、とパウロは厳しく問いただします。
実のところ彼らは、裁判官の役を演じる権利がないにもかかわらず、その職務を遂行しようとしていたのです。
彼らが得たものは何であれ、すべて神様からの賜物としていただいたものでした。
しかしコリントの信徒たちには、それを理由にして他人よりも上に自身の立場を持ち上げる権利はなかったのです。

2010年11月19日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」4章1~5節 

  
唯一の裁き主なる神様 4章1~5節

ここでパウロは自分の立場について話します。
パウロはコリントの教会の創始者でした。
彼がコリントを離れた後に、他の教師たちが教会を訪れ、力強い宣教によって教会員の心をつかみました。
パウロはコリントの信徒たちに、「このようなことはまったくかまわない」、と伝えます。
問題になったのは、パウロの使徒としての権威を無視しようとする動きが生まれてきたという状況の変化でした。
教会にはパウロの言うことにもはや耳を傾けようとはしないグループができていました。
彼らは、パウロがエルサレムの原始教会の偉大な使徒たちに肩を並べるような使徒である、とは認めませんでした。
しかし、パウロは自分の立場を守りぬきます。
これは自分を無意味に誇示する行為ではありません。
それは、神様がパウロに与えてくださった使命に忠実であろうとする態度でした。
神様御自身がパウロを異邦人の使徒として召してくださったのです。
それゆえ、使徒の言葉に従うべきかどうかということは、コリントの信徒たちが勝手に決めてよいことではないのです。
パウロは「キリストの命を受けた者」、「神様の選ばれた管理者」であり、まさにそこに、コリントの教会におけるパウロの立場は基づいています。
他の人からどう評価されるかということは、パウロにとってはどうでもよいことでした。
パウロは、与えられた使命をどのように遂行したかについて、他ならぬ神様の御前で裁きを受ける覚悟を決めています。
今パウロは、コリントの信徒たちが「本来神様に属すること」を「自分たちに属すること」であるかのように考えて、神様の「奥義の管理者」を裁き始めたりしないように、警告を発します。
いつか必ず神様が、御自分の僕たちも含めて、皆を裁かれる日がやってきます。
この日をパウロは、へりくだった心で、神様の裁きの下に自分をゆだねて、待ち望んでいます。
それに対してパウロは、コリントの信徒が裁きの権能を「自分や他の人々のもの」とみなしている態度を不適切であるとして完全に否定しています。
  

「コリントの信徒への第一の手紙」4章 パウロの職務

パウロの職務

「コリントの信徒への第一の手紙」4章

 
はじめの章でパウロは、コリントの教会の問題を取り上げました。
その問題とは、教会が幾人かの教師を中心とするグループに内部分裂していた、ということです。
この後でパウロは、あることを念頭に置きつつそれについては明かさないまま、福音が人間の教えではなく神様の教えであることを語り始めます。
福音は、神様の知恵であり、理性にとっては愚かしいことであるため、人間的な諍いとは何のかかわりもないのです。
この後でパウロは3章で、「御言葉の説教者は皆、神様の御前で自分の使命と責任があり、教会が彼らに関して争い合うべきではない」、ということを強調しました。
あちこち寄り道した末、ようやく今パウロは、教会内に騒乱を巻き起こした争いの解決に乗り出します。
その争いはパウロ自身にとっても大きな問題でした。
すなわち、コリントの信徒たちの全員が、パウロの使徒としての権威を認めているわけではなかったのです。
このことについてパウロは1章ではまったく触れませんでした。
やっと今になって、長い教理的な説明をした後で、彼はこの問題に着手しました。

「コリントの信徒への第一の手紙」第3回目の終わりのメッセージ

   
終わりのメッセージ
  
ある知り合いの家族が湖畔のサウナ付の小屋を買いました。
はじめはすべてが順調に見えました。
よい小屋で、美しい湖畔でした。
しかし、ほどなくして小屋の基盤が崩れてきました。
床は傾斜し、ドアは開けることができなくなりました。
高くつく嫌な修理が、早々にも必要になりました。
小屋を買った家族にとって、それは予想外の残念な出来事でした。
これは人生についても当てはまるイメージだと思います。
現代では「変化」が話題になることがしばしばあります。
  
社会が変わる、学校が変わる、人間が変わる。
変化について行かなければならない。
前に受けた教育を補充するか、あるいは新たな教育を受け直さなければならない。
物事も知識もどんどん古びていく。
時代の趨勢に取り残された者は負け組になる。
   
これはもちろん本当のことです。
しかし、変化を煽り立てる風潮にはどこか大げさなところがあります。
まるで変化することが自己目的にでもなっているかのようです。
こうした風潮は必要以上に変化を喧伝しすぎてはいないか、批判的に検討するべきでしょう。

とりわけ疑わしくまた苦々しく思われるのは、変わることがなく留まりつづけるはずのことさえも「古びた」とみなされる場合です。
「結婚や家庭というものさえもゴミ箱に投げ捨ててしまおう」、という風潮に対して、注意警報のベルが鳴り出しています。
その時にはすでに床は傾き、ドアはガタガタになり、基盤が揺るがされています。
全部が全部変化しなければならないものでしょうか。
他の全部が変化していく中で、変化しないまま留まりつづけるものは何もないのでしょうか。
まったくすべてが流れ去ってしまうわけではありません。
崩れない基底が存在します。
「神様の御言葉」は決して変わりません。
その上に人生という家を建てることができるし、「いつかまた新しい基盤を探さなければならない」、などと考える必要もありません。
「救い主の贖いのみわざ」は変わることなく立ちつづけています。
罪人に対して、揺るぐことのない恵みがあります。
それに基づくとき、信仰も変わらずに立ちつづけます。
基盤なしの信仰は何の価値もありません。
人生という建物を、その隅が沈下したりしないように、変わることなく留まりつづける基盤の上に建てていくことができるのです。
  
(ラウリ・コスケンニエミ 「私と今日共にいてください」)
  

2010年11月15日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第3回目の質問

「コリントの信徒への第一の手紙」第3回目の質問

パウロはコリントの教会の諍いの調停を続けます。
そして、それぞれ別の説教者を中心としてさまざまなグループに分かれている教会の状態を指摘します。
神様はすべての「御言葉の説教者」を教会のために与えてくださいました。
そして教会は神様のみに属しています。
それゆえ、働き人は皆それぞれ神様の御前で責任を負っています。
コリントの信徒たちは(特定の)人間を誇るのではなくて、神様を誇りとするべきなのです。

1)「ミルクを飲ませる」と言うとき、パウロはどのような教えを意味しているのでしょうか。
本文の説明を参照してください。

2)あなたの教会は信仰のことについて基本的なことをわかりやすく教えていると、あなたは思いますか。

3)あなたは、どのような集まりに、まだ信じてはいない友人を喜んで連れて行きたいと思いますか。

4)体験豊かなクリスチャンが「ミルク療法」の必要に迫られることがあるでしょうか。

5)本当の意味で「ミルク」をたくさん消費していたのはマルティン・ルター博士です。
彼は毎日「教理問答書」を復習していました。
彼は十戒とその説明、主の祈りとサクラメント(洗礼と聖餐)とを研究し続けました。
私たちはこうした彼の態度からどのようなことを学べるでしょうか。
あなたが一番最近「教理問答書」を読んだのはいつですか。

6)14~15節は煉獄について語っているのでしょうか。
煉獄というのは、カトリック教会の教えによれば、人が死んだ後に天国に入る前に自分を清めるために行かなければならない場所のことです。
本文の説明を参照してください。

7)今回取り上げた「コリントの信徒への第一の手紙」3章は、「牧者たち」に、つまり私たちの牧師たちにどのような責任を与えていますか。
あなたは自分の教会の牧師を支えるために、どのようなことをしましたか、またこれから何ができるでしょうか。

2010年11月12日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」3章18~23節 

  
3章18~23節
  
この箇所でパウロは、それまで述べてきたことをまとめる方向へと少しずつ進み始めます。
このまとめを彼は最終的には4章で行います。
コリントの教会の信徒間の派閥争いがまったく不要で愚かなことであることを、パウロは強調しています。
こうした諍いの背景にあるのは、自分を他の人よりも賢いとみなして尊大に振舞いたいという人間の欲望です。
パウロは2章で扱ったテーマに戻ります。
福音は人間的な知恵に基づく教えではありません。
自分を賢いと思う者は愚かになりなさい。
そして、キリストにあって知恵を自分のものとしなさい。
人間のせいで神様の教会の中で争いごとを生むべきではありません。
パウロ、アポロ、ケファ(ペテロのこと)は皆、神様が御自分の「畑」の世話をするために与えてくださった働き人なのです。
すべてはコリントの信徒たちの最善を考えてなされています。
それはちょうど、神様がコリントの信徒たちに用いきれないほど豊かな賜物を分け与えてくださっているのと同じです。
神様に甘やかされているからといって、誰も「教会は自分のものだ」などと思い込む誘惑に陥ってはなりません。
教会は「キリストのもの」であり、コリントの信徒たちはキリストの御名によって洗礼を受けたのです。
さらに教会はキリストを通して「神様のもの」なのです。
それゆえ、教会員は主のみに栄光を帰さなければなりません。
   

「コリントの信徒への第一の手紙」3章10~17節 

  
説教者の使命 3章10~17節
  
パウロはここでも比喩を用いています。
教会は「神様の建物」です。
コリントに到着した後、パウロは「建築家」になって、建物にしっかりとした土台を置きました。
そして、神様のもうひとりの働き人、つまり誰か他の説教者がパウロの置いた礎石の上に建築工事を続けました。
しかし建物自体は、「パウロのもの」でも「もう一人の建築家のもの」でもなく、「神様のもの」でした。
パウロはコリントで、「自分が置いた礎石とはちがう礎石の上に誰も教会を建てたりしないように」、と厳しく警告しています。
そのパウロの置いた礎石とは、「キリストとその十字架の死」でした。
これこそが、揺らぐことのない唯一の基底なのです。
この基底の上に、働き人は皆それぞれ、さまざまな建築材料を利用しつつ技量のかぎりを尽くして教会を築いていくことができます。
その建物がちゃんとした耐久性をもっているかどうか、最後の裁きの時に火によって試されます。
裁きの日に、ある説教者の働きが実は無価値であったことが明るみになる場合もあるかもしれません。
言い換えれば、その説教者が労苦して築き上げた建物、たとえばコリントの教会、が裁きの時に燃えて灰となり誰も救われない、などという事態にもなりかねないのです。
ただし、神様の働き人がキリストという岩の上に教会を建てた場合には、建て方がどんなに下手であったとしても、彼自身は救われます。
とはいえ彼は、あたかも火の中をくぐりぬけるようにして、何ももたずに神様の御国に入っていくことになります。
この箇所は(カトリックの教えでいう)煉獄について語っているわけではありません。
またこの箇所は平信徒一般についてではなく、牧者についてのみ語っています。
牧者とは、神様の教会について責任をゆだねられている人のことです。
しかし、こうしたちょっとびっくりするような(聖書の提供する)イメージをここで確認しておくのは、牧師だけではなく、すべてのクリスチャンにとっても有益です。
最後の日に(神様の)裁きは「神様の部屋」、すなわち教会から始まります。
その時、建物が持ちこたえるかどうか、明らかになります。
パウロの言葉に、コリントの教会の教師たちへの、うっすらとヴェールに包まれた警告を見て取るべきでしょう。

パウロはさらにもうひとつの警告の言葉を発しています。
彼がコリントに建てたのは、ありきたりの建物ではなく、そこに主の御霊がお住まいになっている「神様の神殿」でした。
「神様の神殿は聖なる不可侵の場所であり、誰もそれを滅ぼし去ることができない」、と旧約聖書は何度も強調しています(「詩篇」125、129、132篇)。
もしも今誰かがコリントの教会を訪れて、教会が正しい教えから離れるように仕向けるならば、悪い結果を生みます。
もしも誰かが神様の神殿を破壊するならば、神様はその人を滅ぼします。
この章全体からわかるのは、クリスチャン全員が有している「霊的な牧師としての資格」に加えて、それとは別に「牧師職」というものが存在するということです。
牧者(教会の牧師)は教会の責任者であり、彼が教会で行ってきたことについても責任を負っています。
  

「コリントの信徒への第一の手紙」3章5~9節 

説教者の意味 3章5~9節

コリントの教会では、教会員のうち誰がどの説教者の肩を持つか、言い争っていました。
とりわけアポロの力強い説教(「使徒の働き」18章を参照してください)は多くの信徒を魅了したようです。
しかしパウロは、「コリントの信徒たちが人物に応じてさまざまなグループに分かれてしまうようではいけません」、と言います。
使徒一同は神様のみわざに携わっている同僚であり、(福音を蒔き育てる)「畑」は「神様のもの」であり、コリントの信徒たちは「神様の建物」であることをパウロは強調します(9節)。
畑も働く人も「神様のもの」なのですから、人物に応じてさまざまな派閥に分かれるのはまったく意味がないのです。
パウロはコリントの教会を設立しました。
つまり、植えたわけです。
アポロは教会の世話をしました。
つまり芽に水を上げたのです。
しかし、すべての背後には神様がおられ、成長させてくださったのでした。
アポロもパウロも自分の仕事に応じて神様から「報酬」を得ます。
つまり、「皆がそれぞれ自分の仕事に責任をもてばよい」ということです。
御言葉を説教する者たちは皆、神様の同じみわざに携わっています。
ところが一方ではパウロは、「神様の御前で彼らは「共同責任」を問われることになる」、とは言ってはいません。

2010年11月5日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」3章1~4節 

  
諍いの示していること
   
「コリントの信徒への第一の手紙」3章
   
パウロは1章のおわりと2章で、「キリストの福音は人間の教えではなく神様の教えである」、ということを語りました。
これから扱う箇所は、他から独立した部分ではなく、コリントの教会の内部の争いに対するパウロの返答でした。
今もパウロは返答を続け、それから再びコリントの状況に立ち戻って行きます。
そこでも彼はコリントの人々の諍いを取り上げます。
それと同時にパウロは、ごくふつうの「羊たち」の口元にも干草のかごを置きます。
3章のテキストは、それ以前の箇所よりもあきらかに単純なものです。
 
 
単純な食材の選択 3章1~4節
  
コリントに到着したとき、パウロは神様の奥義をすべて一遍に明らかにして見せたりはしませんでした。
彼は自分の「子供たち」を優しく世話し、乳を飲ませる「母親」のように振舞います。
生まれたばかりの赤ん坊は何でも食べてよいわけではありません。
そんなことをすればたいへんなことになります。
それゆえパウロも、コリントの信徒たちによく気を配り、基本的なことがらを何度もおさらいし、さっさと先へ進んでもっと深くて難しい問題を取り上げたりはしません。
神様の知恵をまるごと彼らに与えるのは、以前は無理だったし(ここでパウロは瞬く間にコリントの争いに話を戻します)、実は今でも無理なのです。
各々が教会での自分の教師たちをかついで派手に言い争っているところを見ると、コリントの信徒たちは信仰の問題についてあまり理解してはいなかったようです。
まったくもって彼らには、改めて「ミルク」を飲ませることから、すなわち基本の復習からはじめなければならないのでした。
ところが、彼らは自分自身がすでに「霊的」であるかのように思い込んでいたのです。
「霊的な人々」という言葉で、明らかにパウロはコリントの教会にたくさん現れていた「恵みの賜物」のことを指しています。
主の御霊の力によって生きていると思い込んでいる人々は、実際は「信仰生活の新入生」に過ぎなかったことが突然ばれてしまいました。
本来、彼らには「信仰生活のABC」を手取り足取り教える必要があったのです。
    

2010年11月4日木曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第2回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

私の神様、あなたは何なのでしょう。
私は尋ねます。
もしも主よ、あなたが私の神様でなければ。「私たちの主ではない主」とは、いかなるものでしょうか。
「私たちの神様ではない神」とは、いかなるものでしょうか。
最高で、最善で、最大で、全能で、最も憐れみ深く、最も義しく、最も隠されていて、にもかかわらず、あらゆるところに臨在しておられる、最も美しく、最も力強く、堅く立ち、と同時に決して人間の手には届かず、移り変わらず、にもかかわらず、すべてを変えるお方、あなたは、いまだかつて新しくあったことも古くあったこともなく、すべてを改めます。
しかしあなたは傲慢な者を、彼らがまったく気づかないうちに、しおれさせてしまいます。
あなたは常に影響力を持ち、いつもリラックスしていて、集めたり纏めたりしながらも、御自分では何も必要とはなさらず、支え、満たし、守り、創造し、養い、完全なものにし、探し求めながらも、御自身には何も欠けるところがありません!
あなたは愛し、しかも平安を失うことがありません。
あなたは激烈な行動に移られるときにも安らかであられます。
あなたは悔いたり、怒ったりなさいます。
ところが一方では、静謐さを保たれます。
あなたはすべてを変えますが、御自分は変わることがありません。
あなたは見つけたものを大切に取って置かれ、それを決して失くしません。
あなたは貧しいことが決してありませんでしたが、にもかかわらず、手に入れられたものを喜ばれます。
常に貪欲から自由であるあなたは、にもかかわらず、利子を要求されます。
あなたへの債務をどんどん増やすために、あなたは有り余るほど豊かに与えてくださいます。
しかし、「あなたのものではないもの」を何かもっている者が一人でもいるとでもいうのでしょうか。
誰に対しても債務を負うことなく、あなたは他の者たちの債務を支払ってくださいます。
何も失うことがないまま、あなたは債務を帳消しにしてくださいます。
あなたについて私たちは何を言うことができるのでしょうか、私の神様、私の命、私の聖なる救いよ。
にもかかわらず、あなたについて押し黙る人は哀れです。
あなたについて語る者たちでさえも口が聞けないに等しいのですから。

(アウグスティヌス 「告白」)

2010年10月28日木曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第2回目の質問

「コリントの信徒への第一の手紙」第2回目の質問

パウロは前章で始めたコリントの教会内の諍いの調停をこの章でも続けます。
十字架につけられたキリストについての福音は人間の理性にとっては疎遠なものです。
にもかかわらず、それは偉大で深遠な神様の知恵なのです。

1)はじめてコリントを訪れたときのパウロについて、私たちは何を知っているでしょうか。(「使徒の働き」16~18章を参照してください。)

2)教会から疎遠になった人たちの心をつかむために、教会は往々にして何か目に付く「派手なこと」をやったりするものです。
例として、大ホールを借り切ったり、たくさん仕事をしたり、外国から有名な説教者を招待したりすることが挙げられます。
これらのことについて、よい点や疑問に思える点について考えてみてください。

3)私たちの教会には多くのさまざまな仕事があります。
たとえば、教会の子供会や家族キャンプと、教会以外の主催する家族キャンプとの間にはどのような違いがあるでしょうか。
はっきりとした違いがありますか。
もしもない場合には、どのようにすれば教会の活動がよりよいものになるのでしょうか。

4)パウロによれば、人間の知恵はキリストの福音を拒絶します。
これは、「クリスチャンは頭がよくない」、とか、「クリスチャンは学がない」という意味でしょうか。

5)論理的にいくら考えたところで、人は信仰をもつようにはなりません。
それならば、信じるようになるために人はいったいどうすればよいのでしょうか。

2010年10月25日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」2章6~16節 

  
この世で一番美しい花、「福音」 2章6~16節
  
「この世の知者たちがキリストの福音を無視している」と語るとき、パウロはキリストの福音を恥じたりはしません。
それとは逆に、まさにこの箇所で、パウロは福音の素晴らしさを賛美しています。
福音は完全な真の知恵であり、偉大で尊いものなのです。
この世の知者たちは、まったく自分自身のせいで、この福音を学び知るようにはなりませんでした。
彼らが自分を知者と思い込んで福音を無視したとき、実は自分の愚かさのせいで、あらゆるもののうちで最も貴いものを失ってしまったのでした。
この世の権力者たちは実権を握っており、周囲から非常な敬意を受けています。
彼らの知恵は好意的に評価されます。
ところが、権力者も知者も一様に、自分自身の知恵の虚しさに気づくのです。
それとひきかえ、神様の隠された知恵、「キリストの血の福音」は、すでに天地創造の前から神様の御心の中にありました。
福音はこの世の中で秘密にされ隠されてきました。
栄光の主、キリスト御自身が十字架に磔にされたということは、人が神様の知恵を見ていないことを最も端的に示しています。
人々から高い評価を受ける者たちは、神様の知恵を無視します。
それとは逆に、神様を愛する者たちは、福音を通してキリストをいただいているのです。
それも、誰一人思いも及ばないほど深く。
  
もしも福音が人間の知恵では手に入れることができないものだとしたら、人はいったいどのようにして福音を知るようになるというのでしょうか。
もしも理性や本能によってはキリストについてのメッセージを受け入れることができないのだとしたら、誰もクリスチャンにはなれないのではないでしょうか。
もしも人間の知恵が福音を知る妨げとなっているのだとしたら、人間の愚かさによるならば神様の知恵が把握できる、ということなのでしょうか。
「一般的に人がクリスチャンになるのは、人間の知恵のためでも愚かさのためでもなく、神様なる聖霊様のみわざのおかげである」、とパウロは言っています。
神様の奥義は偉大です。
人間はそれを究めることができません。
人間というものについても、人が心の中でどのようなことを考えているか、知っているのは本人だけです。
このことは神様についてはなおのことよくあてはまります。
人間に対して神様は隠れたお方です。
しかし、御自分の御霊、聖霊様に対してはそうではありません。
人が神様の知恵を知るようになる唯一可能な方法は、聖霊様がその人をお招きになることです。
ちょうどこのことについてルターは、「小教理問答書」の聖霊様についての信仰告白の箇所で、次のように言っています、
「私は次のことを信じています。すなわち、私は自分の理性や力によっては私の主イエス・キリストを信じることができないし、その御許に行くこともできません。聖霊様が私を福音を通して招いてくださったのです。そして、私を御自分の賜物によって照らし、聖別し、正しい信仰の中に保ってくださったのです」。
聖霊様のみわざがなければ、キリストの十字架についてのメッセージは、人間には親しみがない難しく愚かしいものになってしまいます。
聖霊様がはたらいてくださるときに、人はキリストを愛するようになり、福音を神様からの慰めと感じられるようになります。
実はこれこそ、神様が人に何をプレゼントしてくださったか、人が心で知るための唯一の方法なのです。
   
福音は人間の知恵に基づいていません。
まさにそれゆえ、パウロも自分のメッセージを人間の知恵に基づいて説明しようとはしていません。
彼は御霊が教えてくださった御言葉によってキリストの十字架について語ります。
このメッセージは、内で聖霊様がはたらいておられる人の中に応答を生みます。
「自然のままの人間」、すなわち、ありのままの人間は福音を拒絶し、それをまったく愚かな教えとみなします。
「霊的な人間」、すなわち内で聖霊様がはたらいておられる人間の中には神様の福音への応答が生じます。
この応答を私たちは「信仰」と呼んでいます。
  
パウロは「天の高み」にそれとなく触れたこの箇所のしめくくりとして、「イザヤ書」(40章13節)を引用しています。
この箇所をパウロはヘブライ語の旧約聖書ではなく、「七十人訳」(ギリシア語でセプトゥアギンタといいます)と呼ばれるギリシア語の旧約聖書から引用しています。
ヘブライ語版が「主の御霊」について語っているのに対し、ギリシア語版は「主の御心」について語っています。
おそらくパウロは、「私たちは神様の御霊を所有している」というような主張を意識的に避けたのではないでしょうか。
それゆえパウロは、「主の御霊」についてではなく、「キリストの御心」について語っているのです。
ともあれこの箇所は、パウロがどのように旧約聖書を読んでいるかをよく示しています。
聖書の箇所が(父なる)神様について語っているようにみえる場合でも、パウロはそれを(御子なる)キリストを意味している箇所として捉えているのです。
神様の三位一体性の奥義はすでに旧約聖書の端々に見てとれる、ということです。
パウロは手紙の1~2章でキリストの福音と人間の知恵とについてとても深く語ってきました。
この箇所は彼の手紙の中でも卓越したもののひとつです。
    
まさにこれらの箇所は「異邦人の使徒」を、人間的に考えても非常にハイレヴェルな思想家とみなすように促します。
パウロは、彼の時代の哲学者たちと議論する際に、自分を恥じる必要がないほどの知性の持ち主でもあったのです。
多くの研究者は、「宗教を哲学的に考察するのがコリントの教会のクリスチャンの一部の趣味だったため、彼らのことを念頭においてパウロはこの箇所を書いた」、と仮定しています。
しかし私たちは、「こうしたことを確信をもって断言できるほどコリントの教会の状態について十分に知ってはいない」、ということを告白しなければなりません。
まさにこの難解で深遠な箇所でパウロがあらゆる人間的な知恵を否定しているのは、興味深いものがあります。
それにはもっともな理由がありそうです。
もしも学のない猟師が「人間の知恵には何の役にも立たない」と言ってみたところで、笑いものになるのが落ちでしょう。
同じことを学識豊かで俊英な「異邦人の使徒」が口にすれば、ちがう結果になる可能性があります。
パウロは、知識人たちの知恵の歪みを示すために、彼らのレヴェルまで上がります。
彼らの知恵の歪みはキリストの十字架を否定するところに端的に現れています。
信仰の核心にふれる問題を自分に正直に考えてみようとする人にとって、この知恵の歪みは容易に無視できないことです。
私たち人間が皆互いに独自の存在であるのは、神様の創造のみわざの豊かさの表れです。
天国のことを深く考えることを、避ける人もいれば、生きていくうえで欠かせないことだと思っている人もいます。
ともあれ、このような箇所が示しているのは、信仰の領域では神様が人間に与えてくださった知性を働かせる機会も十分にある、ということです。
そして、その最良の例が使徒パウロです。

2010年10月22日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」2章1~5節 

  
十字架の御言葉
   
「コリントの信徒への第一の手紙」2章
   
おびえた心でコリントへ 2章1~5節
    
1章でパウロはコリントの教会の争いを取り上げました。
今この箇所では、彼はまったくちがうことについて話しているように見えます。
1章の終わりで彼は、「神様の福音は人間的な教えではないこと、神様の知恵は人々の考えとはまったくちがう何かであること」、をはっきり示しました。
とはいえ、パウロはコリントの教会とその争いを常に念頭においていたことを、私たちは忘れてはなりません。
彼が教会の分裂について思いめぐらしつづけていたことを、私たちは4章で気付かされることになるでしょう。
  
使徒パウロのコリントに至るこれまでの旅路は、たいへん厳しいものでした。
フィリピで虐待、投獄され、テサロニケとべレアからは逃亡を余儀なくされ、アテネでは哲学者たちとの議論に時間を浪費しました。
パウロは図太い神経を持った「スター説教者」などではなかったのです。
アテネからコリントへと向かう途中、彼はごく普通の意味で恐怖にとらわれていました。
どんなことがコリントで彼を待ち受けているか、いったい誰が知っていたでしょうか。
そういうわけで、パウロがコリントの教会にあらわれたときの様子は、力強く周囲を圧倒するようなものではありませんでした。
こうした状況の中で、かえって彼は一番大切なことのみに集中することができたのです。
彼は、キリストの十字架と罪の赦しについて話しました。
パウロは「神様の奥義」を周りの人に伝えつづけました。
神様がこの奥義を信じるように召された者は、パウロのもとに来て福音を聴き、洗礼を受け、「神様のもの」となりました。
コリントでパウロは、言葉を巧みに操る者と競争したり、哲学者たちと議論する必要はありませんでした。
そのメッセージは単純でした。
それを信じた者は神様を見つけました。
信じなかった者は傍らを通り過ぎました。
まさにこのように、コリントの信徒たちの信仰は、人々の知恵あるいはパウロの才能や魅力に基づいて得られたものではなかったのです。
彼らの信仰の背後には、神様おひとりがおられました。
また、理性では理解できない、「キリストの贖いのための死」についての神様の教えがありました。
そして、まさにこの教えがまったく不思議なかたちで実を結んでいったのでした。
    

2010年10月20日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第1回目の終わりのメッセージ

   
終わりのメッセージ
  
この友を知っているあなたがたは、「外」で、この世のむなしさの中で、ぐずぐずしていてはいけません。
あなたがた主に祝福された者よ、「内」に入りなさい。
来て見てごらんなさい!
こちら側、垂れ幕の後ろ、目に見える世界の向こう側では、私たちの花婿が立って、私たちを待っておられます。
私たちはこの方の声を福音の御言葉の中に聴きます。
そして、この方を聖餐式で食べて飲みます。
信仰の中で抱きしめ、愛の中で口づけします。
  
「外」で悲しそうにぶらぶらしていないで!こっちへ、あなたの友、あなたの花婿のところにおいでなさい。ここには、世が与えることができない「平和」があります。
ここでは、すっかり憩うことができます。
イエス様御自身が私たちの平和、私たちの憩いなのです。
ですから、どうしてまだ躊躇し、ぐずぐずしているのですか。
主を知っており、主の善性を味わった皆さん、どうかこちらに来てください!
  
主の次の呼びかけを聴いてください!
   
「私の花嫁よ、私と一緒に来なさい。
内に入って、こちらにおいで。
獅子の隠れ家から、豹の山から、出てきなさい」。
   
主は私たちが、主と共にいるように招いておられます。
主は私たちが、獅子の隠れ家や豹の山から出てきて、私たちの花婿の個室の中に入るように命じておられます。
  
(F. G. ヘドベルグ 「疲れた人に安息を」)
  

2010年10月18日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第1回目の質問

「コリントの信徒への第一の手紙」第1回目の質問

挨拶の後で、パウロはコリントの教会の争いを取り上げます。
紛争を解決するためにパウロは、キリストの福音が人間的な教えではなく神様の教えであることを強調します。

1)パウロはコリントの教会の信徒を「聖」と呼んでいます。
あなたは自分や自分の属する教会の他の信徒のことを「聖」と言い切ることができますか。

2)パウロは、言いたいことを肯定的な態度で取り上げ、コリントの教会の信徒に、「彼らの賜物が本当にすばらしいものだと自分も思っている」、ということを伝えるために苦心しています。
パウロは、コリントの教会の信徒たちの多くが彼のことをコリントから追い出そうとしているにもかかわらず、このように書いているのです。
この使徒パウロの姿勢から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

3)私たちは皆、さまざまなグループに分かれて、自分のグループのリーダー格の人物の肩を持ち、その結果、教会の中に争いが起きてしまうようなことをしてはいませんか。
教会内での争いで、争いの「内容」と争っている「人々」とを互いに区別して考えるのは容易なことですか。

4)「十分わかりやすく説明しさえすれば、人々は教会に来て福音を信じるようになる」、と私たちは考えがちです。
これは本当でしょうか。
自分の体験を話してくださいませんか。

5)パウロの時代の信仰者は、多くの場合、貧しく名も知れぬ出自の人たちでした。
私たちの時代にはどうでしょうか。
いまでもイエス様は、飢えに苦しんでいる世界の一番貧しい人たちに対して、伝えるべきメッセージをおもちでしょうか。
この点に関して、私たち豊かな生活を享受しているクリスチャンの使命はどのようなものでしょうか。

2010年10月8日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」1章26~30節 

  
さまざまな信徒がいる教会の宝 1章26~30節
   
コリントの教会の例を見ると、「人間的な理性は神様の知恵を受け入れない」というパウロの言葉が本当だとわかります。
権力者、哲学者、貴族などが大勢連れ立ってキリストの御許に集まってくるようなことはありませんでした。教会員の大半は貧しく学のない人たちでした。
こうすることで神様は、世が高く評価するすべてのものを恥じ入らせたのです。
世が軽蔑してきたタイプの人々が、キリストの中に自分たちの宝と知恵を見出したのでした。
こうしてまた、エレミヤに語らせた、「誇る者は、私を知っていることと、私が何を望んでいるかを知っていることを、誇りとしなさい」(「エレミヤ書」9章24節をまとめた)という神様の御言葉が成就したのでした。
  
ここでパウロの言葉に注目するべきでしょう。「この方(イエス・キリスト)は神様により私たちにとって知恵、義、聖、贖いとなられました」(1章30節)。
この短い御言葉の中に、純粋で素晴らしい福音が隠されています。
キリストは神様の与えてくださった賜物を拒まない人たちにとって「知恵」です。
またキリストは人々にとって「義」となられました。
ルターはまさにこれに関連して「自分のものではない義」(ラテン語でjustitia aliena(ユースティティア アリエーナ)と言います)という言葉を用いているわけです。
この言葉の意味は、「神様の御前において罪人を守ってくれるのは、その罪人自身の聖と完全さではなく、キリストの聖と完全さである」、ということです。
「キリストが私たちにとって聖となられた」とパウロが言うとき、人間自身の「聖化」、つまり、「よりよい存在になることの大切さ」を強調するキリスト教のグループに対して、かなりの平手打ちを食わせていることになります。
私たちの唯一の避けどころは、「キリストが私たちの聖でもあってくださっている」、ということです。
「贖い」について語るとき、まずまちがいなくパウロの念頭にあったのは、「奴隷を買い取って自由にする」、ということでした。
誰かが奴隷を買い取って自由にするのとまったく同じように、キリストは私たちを御自分のために御自分の血で買い取ってくださいました。
このイメージが未来のことも指し示しているのは確かです。
すなわち、最終的な贖いは最後の裁きの時に行われる、ということです。
この裁きの座で、私たち罪人はキリストのゆえに神様の怒りから救い出されるのです。

このようにパウロは手紙を「愛する問題児の教会」に書き始めました。
彼は問題を回避せず、すぐ手紙のはじめに取り上げています。
この手紙でパウロは、コリントの信徒たちの頭を撫でるような真似をまったくしていません。
にもかかわらずパウロは、教会の信徒たちのことを「神様に愛されている聖なる者」である、と言い切っています。
このことについて、私たちにはきっとたくさん考えてみるべきことがあるでしょう。
  

2010年10月1日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」1章18~25節 

  
理に反する十字架の説教 1章18~25節  
  
パウロは、コリントの教会の紛争者のうちの誰が正しく誰が間違っているか、少なくともすぐにはっきり示そうとはしません。
彼は「神様の福音」について語り始めます。
この福音は人間の考えの及ばぬ遥か上方にあるため、福音を敬愛する者が福音をめぐって人間くさい喧嘩を始めるのはありえないことです。
キリストについての福音は、人間的な教えでも人間が捏造した教えでもありません。
人に福音の宣教をゆだねることによって、神様は、「人間の賢さを無意味なものにする」という預言を成就なさいます(「イザヤ書」29章14節)。
キリストの誕生、死、復活以前に、神様は御自分の偉大な知恵と義とを預言者に宣教させました。
しかし、人々は福音に背を向け、神様を無視した生活を続けました。
これに対する神様の答えは、御自分の知恵を受け入れなかった人間たちにまったく愚かな教えを与えることでした。
それがキリストについての福音です。
福音は人間的な理性の限界を超えるものです。
ユダヤ人は大いなる奇跡を、ギリシア人は鉄壁の論理と深い知恵を要求します。
人間の知恵はいつでも神様を隅に追いやるものです。
にもかかわらず、神様は福音を皆に宣べ伝えるようになさいました。
神様が信じるように召された者は福音を信じます。
まさにこれは、神様の愚かさや弱さでさえも人間の最高の知恵とはまったく別格のものだ、ということをよく示しています。
   
注意深い読者なら腰を抜かしてしまうような表現をパウロはここで用いています。
もしも主の使徒がこのように話さなければ、誰一人「神様の愚かさ」などという言葉を口にする勇気などは持ち合わせてはいないことでしょう。
しかしパウロは、あえてこのように言うことによって、福音の核心を信じがたいほど深く探り当てているのです。
  

2010年9月29日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」1章10~17節

教会の中の争い 1章10~17節

神様への賛美の後で、パウロはすぐに本題に入ります。
コリントは争いが絶えない教会でした。
パウロはコリントから来た教会員から今の教会の状態を聞いて知ったとは言っていません(16章15~18節)。
そんなことをすれば、争いが減るどころか、いっそう悪化してしまうことでしょう。
パウロは「クロエの家の者たち」から教会のことを聞いて知りました(1章11節)。
クロエは当時の奴隷のふつうの名前でした。
ですから、このクロエというクリスチャンの女性は比較的富裕な解放奴隷であった、と考えられます。
確かなことはいえないにせよ、彼女はコリントには住んでいなかった、と推定することができます。
パウロは教会外部の情報源を意図的に選出し、ここで提示しているわけです。
「クロエの家の者たち」、すなわち奴隷たちがコリントを訪問したということは、パウロが当地の教会の状態についての情報を得た理由を説明するのに十分だったので、コリントの信徒たちは誰がパウロに告げ口したかについて互いに責め合う必要はありませんでした。
それにまた、教会内での争いは外部の人間が訪問した際に気がつくほどあからさまなものだった、とも推定できるのです。

コリントの教会では、「自分はパウロにつく」、「自分はアポロに」、「自分はケファ(ペテロのこと)に」、「自分はキリストにつく」、と言い争う人たちが出てきました。
パウロは、「教会内のこのような分派争いはまったく愚かなことであり、罪の結果に他ならない」、ということを示しました。
クリスチャンの一致の根本にあるのは、皆がキリストと結び合わされるために洗礼を受けている、ということです。
誰ひとり、パウロやペテロの名によって洗礼を受けてはいません。
それゆえ誰も、教会を人間のリーダーに基づいて分けてはいけないのです。
パウロは、自分がわずか数人のコリントの人に洗礼を授け、他の人たちには彼の協力者たちが洗礼を授けるようにしたことを、神様に感謝しています。
もしもそうではなかったならば、クリスチャン同士の一致の基、洗礼さえも、コリントの教会をばらばらにする口実とされたことでしょう。
17節でパウロはコリントで争い合っている者たちを恥じ入らせるようなことがらに、話題を移します。
すなわち、キリストの福音についてです。

2010年9月22日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」1章1~9節 

  
「コリントの信徒への第一の手紙」1章  
 
あいさつ 1章1~9節  
  
現代と同じく古典時代でも、手紙はある種の決まり文句にしたがって始められ、また終わりました。
単純なのは、「AがBにあいさつを送ります」、あるいは、「A、Bに」というパターンです。
ふつう手紙の終わりには、「お元気で」という短い言葉が添えられていました。
古典時代には、手紙はたとえば次のように始まります、「使徒および長老たちから、異教から改宗した信仰の兄弟たちに、あいさつを送ります」(「使徒の働き」15章23~29節)。
手紙の中でパウロは、このような決まり文句を部分的に採用し、そこに独自の新しい表現も盛り込んでいます。
今取り扱う「コリントの信徒への第一の手紙」でも、あいさつはふつうの手紙よりも長めです。
大胆にもパウロは、自分のことを「神様の御心によるキリストの使徒」と名づけています。
この手紙のもうひとりの差出人は、ソステネという人です。
彼はもしかすると、アカヤの総督ガリオが冷ややかに見守る中、ユダヤ人から暴行を受けたコリントのユダヤ人会堂(シナゴーグ)の前の責任者であった人かもしれません(「使徒の働き」18章)。
だとすると、パウロの以前の反対者(だったかもしれない)者がクリスチャンになり、今やパウロと一緒に仕事をしている、ということになります。
  
はじめのあいさつの中のいくつかの短い言葉は、大半の聖書の読者にはたやすく見過ごされてしまうようです。
パウロはこの手紙を「神様の教会」に宛てて書いています。
これは、「聖」なる人々、「キリスト・イエスが聖とされた」人々のことをさしています。
私たちは自分のことを「聖なる人」とはなかなか呼べないものです。
「それは言いすぎだ」、と私たちは考えるのです。
私たちはふつう自分のことを、まったくの悪人とも思いませんが、聖人だとも思えないのです。
パウロの言葉遣いは、「聖」とは何か、私たちに教えてくれます。
もちろんパウロは、コリントの教会がどのような群れであるか、よく知っていました。
彼らは互いに争い合い、ひどい罪の生活を送り、自分自身に与えられた恵みの賜物によって驕慢になっていました。
にもかかわらず、パウロはコリントの教会を、「聖」と、「聖別されたもの」と、呼んでいるのです。
それはなぜでしょうか。
聖には段階などはない、ということです。
人は、聖であるか、あるいは、聖でないか、のどちらかです。
もし人が聖でなければ、その人は神様の呪いの下にあります。
もし人が聖ならば、その人は神様の呪いの下にはいません。
教会の「聖」は教会員自身の聖ではなく、キリストが賜物として与えてくださった「聖」なのです。
  
手紙を書くときパウロは、はじめのあいさつの後、神様へ感謝を捧げます(「ローマの信徒への手紙」1章8~10節、「コリントの信徒への第二の手紙」1章3~4節、「フィリピの信徒への手紙」1章3~6節などを参照してください)。
今もパウロは自分のスタイルを変えず、コリントの信徒たちのゆえに神様に感謝しています。
この段階ではパウロは、教会の問題については何もふれず、知っていることをとりあえず脇に置いて、彼らを喜ばせることに専念します。
パウロは、コリントの信徒たちが手紙の始まりの部分ですぐに耳をふさいでしまうような事態を避け、彼らに言うべきことがらを彼らがおわりまでちゃんと聞くことができるよう、努力しています。
そのためにパウロは、礼儀正しく格調高く手紙を書き始め、教会に感謝しているのです。
とりわけ、パウロはコリントの教会の豊かさを強調します。
この教会の中には、他の教会よりも多くの特別な恵みの賜物があったからです。
 

「コリントの信徒への第一の手紙」 手紙の構成

 
手紙の構成
  
1章1~9節   あいさつ
1章10節~4章21節  コリントの教会の争い
5章1節~6章20節   コリントの教会の倫理的な間違い
7章1~40節   結婚
8章1節~11章1節   偶像に捧げられた肉
11章2節~14章40節  礼拝
15章1~58節   復活
16章1~24節   手紙の終わり

2010年9月20日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」 牧会のプロとして

牧会のプロとして
  
コリントの教会では、霊的な面と肉的な面とが奇妙に一体化していました。
教会員の中にはさまざまな恵みの賜物をいただいた者が大勢いて、各々、自分の方がパウロよりも優れた専門家である、と自負していました。
一方では、港町の悪弊が教会に入り込み、ひどい罪がおおっぴらに行われていました。
パウロがこの愛する問題だらけの教会にどのような手紙を書いているかを読むのは、とても興味深いものがあります。
パウロは、自分で行ったことがないローマの教会に対しては、慎み深く礼儀正しい手紙を書きました。
今回はそうではありませんでした。
パウロは、ガラテアの教会に対しては、福音の核心を弁護するために、怒りのほとばしる手紙を書きました。今回は怒りを爆発させることもありませんでした。
パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」で、できうるかぎり慎重に、コリントの信徒に対して自分自身の証をしています。
パウロは、コリントの教会が彼の教えを受け入れることを信じ、コリントの信徒が愛用している言葉遣いを採用しています。
もっとも、時には「ガラテアの信徒への手紙」で周知のパウロの鋭利な言葉の刃が飛んでくることもあります。
そうした箇所ではパウロは、コリントの教会に自分勝手に活動する余地を微塵も与えてはいません(「コリントの信徒への第一の手紙」5章、14章)。

2010年9月17日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」 パウロとコリントの信徒との間の手紙のやりとり

   
パウロとコリントの信徒との間の手紙のやりとり
  
私たちの手元に残されているのは、パウロとコリントの教会との間の手紙のやりとりのうちの一部にすぎません。
「コリントの信徒への第一の手紙」の1章11節と7章1節には、パウロがコリントの教会から手紙を受け取ったことが記されています。
5章9節では、パウロは以前自分がコリントの信徒に送った手紙についてふれています。
「コリントの信徒への第一の手紙」を書く前に、パウロは、コリントの教会には何か問題があるということを知らされました。
パウロはコリントの教会にテモテを派遣しましたが(4章17節)、テモテも教会の秩序を正すことができませんでした。
それで、パウロはこの手紙を書くことになりました。
ところが、パウロの手紙でさえも、状況をすぐに変えることはできなかったのです。
使徒パウロに残された唯一の方法は、自分自身で実際にコリントに赴くことでした。
このコリント訪問について、パウロは「コリントの信徒への第二の手紙」の13章2節で語っています。
このパウロの二度目のコリント訪問は完全に失敗に終わったようにみえます。
その後で彼にできることは、全力を注いで非常に厳しい火の出るような手紙をコリントの教会に送りつけることだけでした(「コリントの信徒への第二の手紙」2章4節、7章8節)。
この手紙はコリントの信徒たちの心を砕きました。
彼らは神様の御心にかなう仕方で悲しみ、悔い改めたのでした。
「コリントの信徒への第二の手紙」では、パウロはこの都市の教会に宛てて愛情と仲直りの気持ちを込めて書いています(7章6~13節)。
   
パウロとコリントの教会との間の手紙のやり取りの過程や、意見の食い違いの原因について、私たちにはわからないところがあります。
ともかくも、パウロはコリントの教会で強い影響力をもっている異端の教師たちに対して苦しい立場に追い込まれ、自分に与えられた使徒の任務が正当なものであることを自分で弁護しなければならなくなりました。
コリントの教会に宛てた最初の手紙は、エフェソで聖霊降臨日(五旬節、ペンテコステ)の頃、つまり春に書かれています(「コリントの信徒への第一の手紙」16章8節)。
パウロの生涯に起きたほかの出来事と照らし合わせてみると、手紙が書かれたのは西暦54年か55年であったと推定できます。
「コリントの信徒への手紙」の読者は、パウロがコリントの教会ととても難しい関係になっていることに気がつきます。
しかし、パウロの努力はむだにはなりませんでした。
コリントの信徒たちは、一世紀の終わりになってもまだ牧会の難しいやっかいな群れでした。
このことについては、使徒教父文書のひとつ、「クレメンスの手紙」に語られています。
ところが、後の時代になって、コリントは正しいキリスト教の信仰を守り続ける堅固な砦となったのでした。

2010年9月7日火曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」 罪深い都市、コリント

罪深い都市、コリント

コリントには古く輝かしい歴史がありました。
ギリシア人が海洋術を学ぶとまもなく、両側に海浜をもつ狭い峡部に位置するこの都市は、絶好の港町となりました。
ギリシアが勢威を振るった時代(紀元前480~330年)に、コリントは海洋業が盛んな活気あふれる町でした。
その後、ギリシアの覇権を握ったのは、フィリッポスとその息子アレクサンダー大王の率いるマケドニア人であり、さらに100年後、彼らに続いて支配の座に着いたのは、ローマ人でした。
こうした変遷の中で、ギリシア人の都市国家の重要性は薄れていったのです。
コリント主導の下に結集した都市国家は、ついにローマに反旗を翻しました。
紀元前146年、ローマ人は、ほかのすべてのギリシア人に対するみせしめとして、コリントを破壊しました。100年後、紀元前46年に、ガイウス・ユリウス・カエサルはこの都市をローマ人の植民都市として再建しました。
地の利を生かして、コリントはまもなく新たな隆盛を迎えました。
すでに紀元前29年には、コリントはアカヤ州の首都、総督府の都市となっています。
パウロの時代には、コリントは現代の大きな港湾都市と同じような賑わいを見せていました。
そこには、ありとあらゆる堕落と不道徳がありました。
都市には大金持ちも貧乏人も大勢いました。
それに加えて、港町にはさまざまな新しい宗教がなだれこんできていました。
これらすべてのことが、コリントの教会および「コリントの信徒への手紙」の中にくっきりと刻印を残しています。
  

2010年9月1日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」 はじめに

  
これからは、「コリントの信徒への第一の手紙」を主に信徒同士の聖書研究会で読むために書かれたガイドブックを翻訳掲載していく予定です。



コリントの信徒への第一の手紙を読むためのガイドブック
  
著者 エルッキ・コスケンニエミ (牧師、神学博士)
  
フィンランド語から翻訳編集 高木賢 (神学修士)
 
   
争いの最中で
  
はじめに
  
パウロのヨーロッパ伝道は、さまざまな困難の中ではじまりました。
使徒の働き16章はパウロとシラスが投獄されたことを記しています。
テサロニケとべレアから、パウロは危うく死にそうな目にあいながら逃げ出さなければなりませんでした(使徒の働き17章)。
ヨーロッパ文明のゆりかご、アテネでは、福音は嘲笑の的になりました。
これらのことを体験したばかりのパウロは、アテネから、悪名高い港町コリントへと向かいました。
パウロがコリントの信徒たちに、「私はひどく弱り、恐れ、震えながらあなたがたのところに行きました」(コリントの信徒への第一の手紙2章3節)と書いたのは無理もありません。
ところが、おびえる心でコリントに着いたパウロは、主の器として一年半の間、誰にも邪魔されずに働くことができました。
この時期の出来事については、使徒の働き18章で語られています。
人間的に計算する場合にはまったくありえないことだが、実はコリントには「神様のもの」となる人々がたくさんいる、と神様はパウロにお告げになりました。
主は約束されたことを実行なさり、多くの人の心を異教から引き離してキリストの方へと向けさせました。
まもなくユダヤ人たちはパウロが会堂(シナゴーグ)に入れないように邪魔しましたが、会堂の隣に住んでいた神様を畏れる異教徒のテテオ・ユストの家で、パウロは迷うことなく説教を続けました(コリントの信徒への第一の手紙18章6~7節)。
ユダヤ人と他の民族(「異邦人」)との間の溝は、現代の私たちの想像をはるかに超える深いものでした。
福音がこの溝の上に橋をかけました。
コリントの教会員の大部分は、以前異教徒でしたが、その中にはユダヤ人も含まれていました。
  
ほかの都市でも生じた艱難が、ついにはコリントでも起こりました。
西暦50年、アカヤのローマ人の最高指揮官なる総督として着任したルキウス・ユニウス・ガリオに対し、コリントのユダヤ人たちはパウロのことを訴えました。
ところが、総督は宗教に関わることがらを法廷で取り扱うことを認めませんでした。
この決定にもかかわらず、パウロはまもなくどこかほかのところで福音伝道の仕事を続けることに決めました。
こうしてパウロは活発なコリントの教会を後に残しました。
   
この教会に宛てたパウロの手紙は、全新約聖書の中でも最も大切な書物のひとつです。
コリントの教会はパウロにとって、いろいろな意味でやっかいでした。
まさにそのゆえに、パウロは全力を尽くして手紙を書かなければなりませんでした。
このことは、コリントの信徒への手紙から読み取れます。
そしてそれゆえに、とても読み応えのある手紙になったのです。

2010年8月23日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 第6回目の終わりのメッセージ 

   
   
第6回目の集まりのためのおわりのメッセージ

主イエス・キリスト様、あなたは私の魂のもっともかけがえのない友です。
   
私が心からあなたを愛し、あなたに話しかけることができるように、あなたの恵みをお与えください。最愛なる主イエス様、あなたの愛以外の何ものも私の心を満たさないように、なさってください。
あなたの愛に関係のないことをすべて、私の心から取り去ってください。
私は自分の心の中に、あなたの愛以外のものは欲しくないからです。
あなたの愛はいかに良く素晴らしく好ましいことでしょう!
それがどれほど私の魂を元気付けてくれることでしょうか!
それがどれほど私の心を喜ばせてくれることでしょうか!
私があなたの愛以外のことを考えたり見たり慕ったり知ったりすることがないように、なさってください。
あなたの愛にはすべてがあり、あなたの愛はすべてを内に含み、あなたの愛はすべてに勝つからです。
私はこの貴い宝を永遠に自分のものとしておきたいのです。
この宝を昼も夜も見張り、忠実に保ち、それに気を配り、それについて祈ることができるように、私を助けてください。
この宝は、永遠の命を「味見」させてくれ、楽園へとつづく「前庭」に導いてくれるからです。
あなたは私の愛する方であり、あなたは私への愛ゆえに、傷を受けられたからです。
あなたの愛によって、私の魂を傷つけてください。
   
私への愛から流してくださったあなたの貴い血は、本当に無垢で力強いので、石のように硬くなった心をもやわらかくしてくれます。
あなたの血が私の心をつらぬいて、あなたの愛がそれと同時に私の心の中に流れ込むように、なさってください。
あなたの愛はあなたの血の中にこそあるからです。
死との戦いの中で地面に滴り落ちた、あなたのすばらしい無垢な血のしずくを、私が心を開いて受け止めて飲むことができれば、どれほどよいことでしょうか。
あなたの血のしずくが、その愛によって、私の目頭を熱くし、涙ぐませてくれたら、また、あなたが私を迎えに来られ、その腕に抱きかかえてくださる時が来るまで、私が子供のようにあなたを慕って泣けたら、そして、あなたがどれほどすばらしいお方か私に味わわせてくだされば、どれほどよいことでしょうか。
     
私を御許に引寄せてください。私は馳せ参じます。
あなたは、私の慰め、力、命、光、宝、救い、最高の持ち物、です。
私を御自分に結び付けてください。
あなたと関係なく私がもっているものはすべて、心を悲しくさせる悲惨な苦しみや平安のない嘆きを生みだすばかりだからです。
あなたは私の魂の唯一の憩い、平和、喜びです。
それゆえ、あなたの清潔ですばらしい愛によって、私をいつも永遠に照らしつづけてください。
あなたの好ましい愛の聖なる火、窒息させるような苦しみも悲しみも含んでいない、あのあなたの聖さの火、喜びの火、優しく好ましい火が、私をまるごと点火してくれれば、どれほどよいでしょうか。
あなたの愛の貴い香りが私を元気付けてくれますように。
私が貴い天のクリームの香りをいつでも自由に楽しんで、それが私の心の痛みを和らげ癒してくれますように。
    
あなたは愛することを知っている存在のうちで最もすばらしいお方です。
あなたの愛の中で私が持っていないものが何かあるというのでしょうか。
あなたの愛は、私の緑の牧場、私を完全に満ち足らせてくれるもの、私の食事、飲み物、天のパン、甘いぶどう酒、喜び、好ましい平和、命、光、救い、豊かさ、歓喜、栄光、美しい装飾、輝きです。
もしも私があなたの愛を失えば、私には何が残ると言うのでしょうか。
そのときには私は、着るものが何もない裸で、貧しく惨めな存在ではありませんか。
私が、マグダラのマリアのように、あなたを見出すまで止むことなくあなたを慕って泣き、涙ながらにあなたを探しつづけることができるようになさってください。
   
永遠の愛によって、あなたは私を愛してくださいました。
それゆえ、あなたはまったくの恵みにより、私を御自分へと引き寄せてくださいました。
あなたの愛がいつも私を導いてくださるように。
そうして、あなたの愛が私のもとに留まって、もしも私が迷子になる場合には、私を正しい道に戻してくださるように。
また、私が途方にくれたとき、私に助言を与えてくださるように。
私の愚かさの中で、私の賢さになってくださるように。
私があなたの御心に反したことを行ったときに、私を悔い改めへと導いてくださるように。
私が揺らぐときに、私を支えてくださるように。
私が転んだとき、私を立ち上がらせてくださるように。
私が悲しんでいるときに、私を慰めてくださるように。
私が弱っているときに、私を強めてくださるように。
私の心の炭火が消えかかっているときに、それに空気を送り込んでくださるように。
私がこの世から離れるときには、私を御許に受け入れて、永遠にお傍においてくださいますように。
    
アーメン。

2010年8月20日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」 第6回目の質問

  
   
第6回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第6章

「エフェソの信徒への手紙」は、人が重圧と運命に翻弄されるままにはしません。
すべては神様の御手の中にあるのです。
キリストの教会は「避難場所」を提供します。
そこでは、愛と喜びは消えることがありません。
しかし一方で、私たちは、罪や「魂の敵」に対抗して絶えず戦いつづける必要があるのです。

1)「エフェソの信徒への手紙」は「この世」の現実を描き出しています。
つまり、教会やクリスチャン一人一人の直面しているさまざまな困難の只中に、悪の力が影響を及ぼしていることを見て取ることができるのです。
私たちは悪魔の存在を信じているでしょうか。
それは私たちにとって、具体的にはどのような意味を持っていますか。

2)私たちはよい天使たちの存在を信じていますか。
それとも、(あなた方の家では、)「天使たちの翼」は、(まだ子供が小さいうちに)すでに子供部屋で、折られてしまっているのでしょうか。

3)あなたがたは説教者たちのために祈ってきましたか。
福音を説教する仕事が、国内国外を問わず、どれほど困難なことであるか、私たちは理解しているでしょうか。

4)神様の御言葉が「エフェソの信徒への手紙」が挙げている唯一の「武器」であるのは、どうしてでしょうか。
それは、私たちや教会の活動に、具体的にはどのような意味を持っているのでしょうか。

5)朽ちることのない世界で、またすでにこの世で始まっている永遠の命の中で、私たちは主イエス・キリスト様を愛しています。
人生の意味を問うときに、「天国」は答えとして十分なものでしょうか。

6)「エフェソの信徒への手紙」全体について、話し合ってください!
この聖書の学びの会を通じて、あなたがたはこの手紙に親しみと愛着をもつようになったでしょうか。

2010年8月13日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 6章21~24節

  
  
6章21~24節 手紙の結語
  
現在「エフェソの信徒への手紙」として知られているこの手紙がどのようにして教会(あるいは諸教会)のもとに届けられたのかについて、ここでヒントが与えられています。
手紙を届けたのは、テキコという人(「幸福な子」という意味の名前)です。
彼は、新約聖書の他の箇所でも登場する、パウロの近しい同僚でした(「使徒の働き」20章4節、「コロサイの信徒への手紙」4章7節)。
パウロの仕事はチームワークによって行われました。
そこでは、同僚たちの協力が、今の私たちが想像を超えるほど、非常に大切な意味を持っていたのです。
「エフェソの信徒への手紙」は、最初の部分からずっと「恵みの手紙」であったのにふさわしく、短く美しい恵みの挨拶で閉じられます。

2010年8月9日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 6章10~20節 

6章10~20節 真の戦い

先の箇所で「家訓」は終わります。
クリスチャンが受けた指示は、結びの勧めにまとめられています。
第1章によれば「諸力」はすでに打ち砕かれていますが、この箇所はふたたびこれらの「諸力」について語っていることは興味を引きます。
実は、ようやくこの段階になって、クリスチャンはそれらの諸力と戦うことができるようになったのです。
    
人はキリストと離れている限り、神様とも関係がない状態にあり、死の支配下にいます。
そのような人の内にあるのは、「墓場の中の平安」です。
ところが、神様が人を命へとよみがえらせたときに、戦いが始まります。
死者は横たわったままですが、生者は戦い、祈ります。
    
感動的なのは、牢獄にありながらも、心に苦い怒りを抱かず、ただ無我夢中に、言葉にはできないほど大きな神様の愛と奥義を描き出した男パウロが、へりくだり、適切な言葉によって主について自分が正しく証できるようにと、皆にとりなしの祈りを頼んでいることです。
       
「神様の武具」の各部分が、旧約聖書からの引用の数々からなっているのは、感動をさそいます。それらは、ひとつの例外を除き、神様が人間に与えてくださった武具であるにとどまらず、旧約聖書で神様御自身が身につけられた武具でもあります。
この武具を、今クリスチャンは装着するのです。
「御霊の剣」なる神様の御言葉について語っている「ヘブライの信徒への手紙」4章12節のほかにも、少なくとも次の旧約聖書の箇所は特に注目するべきものです。
 
「正義はその腰の帯となり、真理はその身の帯となる。」(イザヤ書11章5節)
   
「主は義を胸当てとしてまとい、救いのかぶとをその頭にかぶり、報復の衣をまとって着物とし、熱情を外套として身を包まれました。」(イザヤ書59章17節)
  
「福音を伝える者の足、平和を告げる者の足、よき福音を伝える者の足、救いを告げる者の足、シオンに向かって「あなたの神様は王となられた」と言う者の足は、山々の上にあって、なんと麗しいことでしょう。」(イザヤ書52章7節)
   
「私の盾は神様です。神様は心のまっすぐな者を救われます。」(詩篇7篇11節)
   
「エフェソの信徒への手紙」のこの箇所は、誕生して間もない教会のクリスチャンたちにとっても旧約聖書が信仰の基本書であったことを、私たちに教えてくれます。
旧約聖書を軽んじるのは、クリスチャンにふさわしい態度ではありません。
ともすると聖書の3分の2が読まれずに放置されているという現状を、私たちは恥じるべきでしょう。
とりわけ、私たちに提供されている武具は、神様の御言葉の光の下で、自分自身の生き方全体を見つめなおすように、何度も繰り返し促してくれます。
私たちの生活の中に、聖書とは相容れないことが何かあるでしょうか。
「神様が私を憐れんで、御自分の子供としてくださった」ということに基づいて、よりよい生き方を送ることができるように、私たちは、どのような結論を下すことができるでしょうか。
  

2010年8月5日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 6章5~9節 その2

    
   
6章5~9節 本当に「奴隷」だったのでしょうか。その2
      
いつもと同じようにして、今回も、「主人に対して下に立ち、できるだけよく仕事をするように」、という指示が奴隷に与えられています。
日常の仕事をする者は神様に仕えているのです。
同じように、主人たちにも指示が与えられています。
神様は主人たちの主であられ、彼らは皆それぞれ、「人と人との間に差別を設けない」神様に対して申し開きをすることになります。
このように、奴隷と自由人は同じ基準に従って裁かれることになります。
       
幸いなことに「奴隷制」の時代は過ぎ去りました。
にもかかわらず、このテキストには、私たちの生活にも直接適用できることがらがあります。
この箇所の指示は、労働者と雇用者との生き方にもあてはめることができるのはもちろんですが、さらに、私たちに大切なことを教えています。
それは、日常の仕事は神様にお仕えすることだ、ということです。
ここに、宗教改革の大発見のひとつがあります。
しかし残念なことに、それはあまりにもしばしば忘れ去られています。
       
     

2010年6月21日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 6章5~9節 その1

   
6章5~9節 本当に「奴隷」だったのでしょうか。その1
  

私たちの社会とパウロの時代の世界との間の顕著な違いのひとつに「奴隷制」があります。
私たちにとって奴隷の立場を理解するのは困難です。
それは、仕えることになる主人がどのような人かによって、よくもなるし、耐え難いことにもなります。
ローマ人の法律では、奴隷は家族の主人の法的な権力の下にありました。
すなわち、奴隷がどのような扱いを受けているかについて、外部の人間には誰も何も口出しすることができなかったということです。
主人が正しいと思うやり方に応じて、奴隷は、厳しすぎる処罰の対象となったり、殺されたりすることもありました。
主人の多くは、常識はずれの厳しさによってではなく、当時の慣習に沿ったやり方に従って、奴隷に対して接していました。
こうした「慣習」には、たとえば異性同士あるいは同性同士による性的な利用が含まれることもありました。
これも、いつも強制的であったというわけではありません。
奴隷の生活はたいそう平和で問題もないケースもありました。
すべてはどのような主人かによって決まるのでした。

クリスチャンの奴隷は新約聖書ではしばしば指示を受けています。
「奴隷制」という制度自体は一度も疑問に付されてはいません。
もっとも、一般的にも嫌悪されていた人買い商人は、「テモテへの第1の手紙」1章10節によれば、公然と罪の生活を送っているとされており、「奴隷制」が神様の設定なさった制度であるとは、一度も言われてはいないのですが。
そのかわり、制度は内から新しくされます。
神様の目には、奴隷は自由人であり、自由人は奴隷なのです。
人間の価値はその人のやっていることに基づいて決められるのではなく、神様のはたらきによって決まるのです。
この箇所のポイントは、制度としての「奴隷制」にあるのではなく、「自由人か奴隷か」という人間の間の相違は教会に人が集うときに取り除かれるのだ、という点です。

2010年6月18日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 6章1~4節

 
         
完全武装

エフェソの信徒への手紙 第6章

この第6章では第5章にはじまる「家訓」が続きます。今回指示を受けるのは、まず子供と父親であり、それから奴隷と主人です。
 
6章1~4節 第四戒を大切にするために
  
子供たちが行うべきことを彼らに勧めるときに、「エフェソの信徒への手紙」は単純な指示を与え、第四戒を引用します。
主がイスラエルの民に与えてくださった土地への言及(出エジプト記20章12節にはあります)は、今回の引用では省かれています。
このように、第四戒は小アジアの異邦人にも放牧の民であるヘブライ人にも同じようによくあてはまる形で提示されています。
         
この第四戒はもともとは、小さい子供が言うことを聞かないで親の手を焼かせることを禁じていたわけではなく、大人になった子供が年老いた親の面倒を見ることを勧めるものだった、ということを思い起こしておくべきでしょう。
しかし、「エフェソの信徒への手紙」のこの箇所は、あきらかに、家庭にいるまだ若い子供と彼らの生き方について語っています。
         
興味深く今でもなおとりわけ有益な指示は、父親は子供を激しく怒らせることなく彼らを教育しなければならない、ということです。
聖書学のユッカ・トゥレーン教授がコメンタリーで説明しているように、この指示ももともとは非常に具体的な教育方法のあらわれでした。
すなわち、クリスチャンは自分の子供をごみために投げ込んだりはしてはいけなかったのです。
異邦人たちは実際にそういったこともしていました。
父親の義務は、まずもって、子供を家で育て、彼らが心身ともに健康に生活できるように配慮することであり、そしてそのあとで、しつけとか教育とかの話になるのです。
「あなたがたの子供たちを大人になるまで育て、主の御心に従ってしつけ、諭しなさい」ということです。
        
このように、クリスチャンの子供の教育では、十分に厳しいしつけがなされなければなりません。
しかし、子供の中に怒りが生まれるほどしつけが厳しすぎてもいけません。
私たちはどうすればこの指示に従うことができるのでしょうか。
クリスチャンにふさわしい子供の教育のあり方について、十分に話し合う必要があるでしょう。

2010年6月17日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 第5回目の終わりのメッセージ 

第5回目の集まりのためのおわりのメッセージ

キリストの教会の聖さの基であり始点となっているのは、キリストが教会を愛しておられ、教会のために身代わりに死んでくださった、ということです。
使徒はこう言っています、「キリストは教会を愛し、御自分を教会のために犠牲としてささげられました。それは、キリストが教会を聖とするためです」。
      
しかし、どのようにして主キリストは教会を、御自分の貴い犠牲によって確保した聖さにあずかるようにしてくださるのでしょうか。
        
答え。洗礼と御言葉を通してです。
   
なぜなら、使徒はこう付け加えているからです、「主は教会を、御言葉の中で、水の洗いによってきれいにし、聖となさります」(「エフェソの信徒への手紙」5章26節)。
洗礼を受け、御言葉を信じる者たちは、本当にきれいで聖いのです。
      
たとえ彼らが、この世や自分自身の目には、誤りやすく弱い者のように見える場合であっても、そうなのです。
これは本当に、ごくつまらない清さや聖さなどではありません。
たとえそれが理性や偽善者の目にはまったくそうは見えない場合でも、そうなのです。
神様の御子キリスト御自身が清くなさった教会は、神様とすべての天使たちの御前では本当に清いにちがいありません。
たとえ悪魔やこの世や盲目の理性が、教会の中に、清さではなく、汚ればかり見出す場合であっても、そうなのです。
      
キリストが、すべてを犠牲として捧げ、神様と人とを完全に和解させ、すべてを成し遂げてくださる愛を通して、私たちに確保してくださったこの聖さ、聖なる洗礼と御言葉を通して教会があずかれるようにしてくださったこの聖さが、どれほど偉大で特別なものか、ということを示すために使徒は次のように語っています、「それは、しみも、しわも、その類のものが一切なく、清くて傷のない教会を、栄光に満ちたものとして御自分の御前に立てるためです」(27節)。
        
しかし、キリストが十字架の死と復活の報酬として確保してくださったもの、洗礼において与えてくださったもの、御言葉を通して私たちに約束してくださったもの、は信仰によって受け入れられ、用いられるべきものです。
さもなければ、それらすべては、失われた賜物のままになってしまいます。
         
キリストを信じている私たちは神様の恵みと愛と好意をいただいている、と今私たちは確かに知っています。
なぜなら、「そうなのです」と、主御自身の使徒がここで告げているからです。
理性や感情にはそうではないように見えたとしても、それが何だと言うのでしょうか。
御言葉は、私たちが見たり理解したり感じたりするあらゆることよりも確実なものです。
御言葉は神様から発しており、それがうそをついたりだましたりすることはありえません。
        
この御言葉に私たちは信頼します。
       
(F.G.ヘドベルグ 「命のことば」)

2010年6月2日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」 第5回目の質問

第5回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第5章

洗礼において、私たちは、異邦人の命とはまったく異なる「新しい命」をいただきました。
それは、クリスチャンの生活の中にあらわれてきます。

1)この章の最初の部分には、悪い行いについての長いリストがあります。
これらのうちで、私たちの時代でも問題になっていることはどれでしょうか。

2)クリスチャンは、この世の人々とまったく同じような態度で、自分の財産を取り扱っているケースがしばしばあります。
貪欲が私たちの生活を蝕んではいませんか。

3)「エフェソの信徒への手紙」5章22~33節は、夫と妻の関係についてどのようなイメージを描き出していますか。
私たちはそれを受け入れることができますか。
このような聖書の指示は、「古びてしまう」ことがありうるでしょうか。

4)この章は「奴隷と主人」について語っています。
どのようにすれば、この箇所を現代にあてはめることができるでしょうか。

5)「教会がキリストの花嫁である」ことを語っている聖書の箇所を探してみてください。

2010年5月31日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 5章21~33節

         
5章21~33節 「家訓」の部のはじまり
               
新約聖書には、さまざまな人生の状況の中に生きているクリスチャンに対して、単純で実際的な指示が与えられています。
マルティン・ルターがこれらの指示を「小教理問答書」に取り入れた後、それらは「家訓」と呼ばれるようになりました。
それらは、家族の成員ひとりひとりに与えられた指示を記した「掛け軸」のようなものです。
ここでは、信仰が日常生活の中で実際的な形を取っています。
        
最初の指示は、教会に属する妻たちに対してのものです。
イエス様に弟子として従っていた者たちの中には、男も女もいました。
ラザロとマルタの姉妹マリアは立派な弟子でした。
この、ユダヤ人の信仰生活からずれたイエス様のやり方は、途切れることなく、初代教会でも継続されました。
しかし、イエス様が家族をばらばらに引き離すのではなく、刷新なさったのと同様に、初代教会においても男と女の教会での使命は同一ではありませんでした。
それゆえ、妻は夫の下に留まるように、と勧められているのです。
          
夫に対する「家訓」の指示は、聖書の他の箇所にも広くあらわれている教えに関係しています。
すなわち、最善の場合、結婚はより大きな真理を反映しているのです。
清く心のこもった無私の愛は、「キリストが御自分の花嫁なる教会のために御自分を犠牲としてささげられた」というイメージを喚起します。
このように、神様の民はキリストの死と聖なる洗礼の水とによって聖別されているのですから、彼らは神様の御前でまったく傷のない清く聖なる存在なのです。
キリストの教会は聖です。
しかし、その聖さは教会員たちの聖さではなく、キリストが賜った聖さなのです。
そして、この偉大な愛が、夫ひとりひとりに対して、従うべき模範として与えられているのです。
               
神様の創造の目的がどうすれば私たちの家族の中で実現するか、私たちはよく考えてみなければなりません。
まず、聖書によれば「誰かの下に立つ」というのは悪いことではない、と理解するのが肝要です。
キリストは自ら下に立たれます。聖霊様は預言者に対して自ら下に立たれます。
罪人の私たちには、これは難しいことです。
聖書が意味している「下に立つ」とは、わざと謙遜に振舞うということではありません。
家族を自分の「下に置く」のもよくありません。
そうした態度は逆に祈りが聴かれるのを妨げてしまいます(ペテロの第1の手紙3章7節)。
家庭の父親には大きな責任と使命がゆだねられています。
キリストが彼の模範でなければ、誰もそれを実行することはできません。

2010年5月26日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 5章6~20節 

5章6~20節 この箇所は、「間違った生活を送っている者」をさしていますか。それとも、「間違ったことを教えている者」をさしていますか?

「エフェソの信徒への手紙」は、よりいっそう厳しい警告を続けます。
たとえば、「愚かな話」をする者たちとは何も一緒に行ってはならないのです。
ここで問題になっているのが、「間違った生活」についてか、あるいは、「間違った教え」についてか、見分けるのは容易なことではありません。
これは解釈者によって説明が異なる箇所です。
今問題となっているのが、「ある行いが罪かどうかなどはどうでもよく、人に罪をおかさないように警告する必要もない」などと教えている者たちのことだ、とは言えるでしょう。
初代教会の頃には、このように教えていた者が大勢いました。
彼らは自分の考えをさまざまなやり方で正当化しようとしました。
コリントの教会では、すさまじい霊的志向と節制のない肉欲とが、理解を絶するやり方で、一体化していました。
コリントの信徒たちに対しても、前にあげたような人たちとは何も一緒にやらないように、という指示が与えれていました。
ただし、この指示は、「実生活で自分の信仰を無視しているクリスチャン」についてのみ当てはまり、いわゆる「この世の人々」に対しては適用されない、という留保が付いています。
グノーシス主義者たちは、「人間の魂が肉体の牢獄ではなく栄光に属している」という「知識」に基づき、肉体に峻酷な節制を課したり、逆に完全な自由を与えたりしました。[1]
「エフェソの信徒への手紙」は、「このようなメッセージに気をつけるように」、と厳しく警告しています。
    
光の子は光の子にふさわしく生きるものです。
ヨハネの第1の手紙1章を読んでみてください。
ここで、「エフェソの信徒への手紙」の初めの部分を思い出してみることにしましょう。
最初の3章では、クリスチャンはいかに生きるべきか、については何も言われていません。
それらの章では、天国への道、義認について、手紙は的をしぼって語りました。
それに対して、この第5章は「聖化」を非常に強調しています。
これからわかるのは、義認と聖化は信仰生活の中心的なことがらであり、そのどちらも忘れてはならないものだ、ということです。
ただし、それらの相互関係は常に正しく位置づけられなければなりません。
まずはじめに、罪人がキリストの十字架のみわざのゆえに義と認められ、そしてそのあとに、その結果として聖化が来るのです。

[1] 「おもに正統キリスト教を攻撃した秘教的な宗教運動。最盛期は2~3世紀。ほとんどの宗派が、キリスト教を自称しているが、初期の教会の信仰とはかけはなれていた。グノーシスという名称は、ギリシャ語で「知識」を意味する。 グノーシス主義の信奉者は、この思想によって神の国のかくれた知識があたえられると信じていた。最高神の火花や種子が、至高の世界から悪の支配する物質界に転落し、人間の体にとじこめられた。人間の内にあるこの神的要素は、知識によってふたたびめざめ、至高の精神的世界にある元の場所にかえることができるとする。(・・・)グノーシス主義の本質は二元論である。それは、人間をまどわせ抑圧する邪悪な世界から、人間の内にある魂を解放しなければならないという思想である。 」(http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761564139/content.html)

2010年5月24日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 5章1~5節 その2

      
5章1~5節 神様に倣う者たち!その2
       
実は、今取り扱っている考えの中には、なぜ多くの他宗教を代表する人物や無神論者がイエス様について驚くほど美しく語ることができるのか、という疑問への答えがあります。
イエス様は多くの人にとって模範となっている、というわけです。
しかし、私たちにとってイエス様は、まず第一に「賜物」であり、それから次に「模範」でもあるのです。
      
ふたつの罪が聖書では絶えず大問題として取り上げられています。
それらは、性に関する罪と、貪欲に関する罪です。性に関する罪とは、結婚生活の外部でのあらゆる性的関係です(ギリシア語で「ポルネイア」と言います)。
また、性に関係するみだらな話も罪です。
        
はじめに驚くべきことは、聖書の御言葉にもかかわらず、同棲やその他の結婚の外部での性的関係がクリスチャンの間でも一般に広まってきて、教会の職員の中にさえもそのようなことを行う者がいる、ということです。
それに加えて、クリスチャンはひとりひとり、性に関わる自分の話の内容を見つめなおしてみるべきです。
         
もうひとつ私たちにとって重大なことは、貪欲は絶対的に罪として裁かれるということです。
貪欲は偶像礼拝と呼ばれています。
そして、貪欲な者は永遠の命にあずかることができない、と言われています。
            

2010年5月21日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 5章1~5節 その1

5章1~5節 神様に倣う者たち!その1
   
直訳すれば、1節でパウロは「神様を倣う者になりなさい」と言っています。
これはとても含蓄のある表現です。
見たこともない神様を人はどのように模範とすることができるのか、などと今深刻に考えるのは意味がありません。
ここでは、目に見えない神様の偉大さを模範とすることが問題なのではありません。
新約聖書のほかの箇所ではしばしば、キリストは「キリストのもの」にとって従うべき模範である、という指示があらわれます。
たとえば、ヨハネによる福音書13章、フィリピの信徒への手紙2章などです。
         
しかし、「キリストを模範として生きる」とはどういう意味でしょうか。
キリスト教会の歴史の中では、アッシジのフランシスコのように、自分の財産を捨て、本気でキリストを模範として生きようとした人たちがいました。
ところが、今「エフェソの信徒への手紙」で紹介されている教えは、それとはまったく異なるものです。
4章32節から5章の2節までの箇所が、このことをはっきり示してくれます。
           
「互いに役立とうとする、同情心あふれる者となり、神様がキリストにあってあなたがたを赦してくださったように、あなたがたも互いに赦し合いなさい。
こうして、あなたがたは、神様に愛されている子供として、神様に倣う者になりなさい。
また、愛のうちを歩みなさい。
キリストもあなたがたを愛してくださって、私たちのために御自身を神様へのかぐわしい香りの捧げ物、また、犠牲として捧げられたのです。」
(「エフェソの信徒への手紙4章32節~5章2節」)
          
たとえば、「キリストに従って荒野に向かう」という考えは、すばらしいものに感じられるかもしれませんが、ここで言われているのは、まったく別のことです。
つまり、「キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも隣人を愛さなければならない」ということを通して、「主キリストに従う」ということです。
(神様の)愛から愛が生まれます。
2節は、旧約聖書の犠牲の捧げ物に関する用語を用いながら、キリストの犠牲の捧げ物の意味を説明しています。
         

2010年5月19日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 5章

     
花嫁が受け取る手紙
        

エフェソの信徒への手紙 第5章
          
神様を賛美する美しい「エフェソの信徒への手紙」は、前回扱った第4章で、クリスチャンの生き方についての指示を与えています。
この指示の部分は手紙の終わりまで続きます。先を読めば読むほど、それに応じて指示はしだいに細かくなっていきます。
このように、道は、神様の愛に驚くことから、日常生活へと向かっていきます。
この順序をはっきりと心に入れておかなければなりません。
    
まずはじめに神様の恵みと愛が来ます。
それから、それらが人の心をつかんだ後で、
その結果として、
クリスチャンにふさわしい生活、すなわち聖化がはじまるのです。

2010年5月17日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 第4回目の終わりのメッセージ 

第4回目の集まりのためのおわりのメッセージ

「あなたがたの名前が天に記されていることを喜びなさい。」(ルカによる福音書10章20節)
       
キリストはこの御言葉を、神様の力によって今キリストを信じている私たちに対しても、言われています。
私たちの主御自身が、私たちの名前が天に記されていることを喜ぶようにと、私たちに命じておられるのです。
私たちの名前がどこに記されているか、私たちは知っています。
紙でも本でもなく石にでもありません。
そうではなく、私たちの大祭司、イエス様の心に記されているのです。
「出エジプト記」28章29節を読んでみてください。
私たちにとって、これは喜ばしいことではないでしょうか。
もちろん、そうです!
       
確かにこの世では、私たちには多くの嘆きと苦しみがあります。
この世では、罪と自分の惨めな状態とが私たちの心を圧迫してきます。
この世では、律法が私たちをおびやかし、恐れさせます。
この世では、知者や聖者が私たちを異端であると非難し、あざけります。
この世では、しばしば悪魔が私たちを選り分け、試み、窮地に追いやります。
さらには、死と地獄も私たちを飲み込もうと襲ってきます。
しかし、私たちのもとで、「あなた、小さい群れよ、恐れてはいけない!」と、すでに天にのぼられ今御父の右にお座りになっている私たちの主、永遠の大祭司、イエス様が叫んでおられます。
         
イエス様はこう言われます。
      
「恐れてはいけない。あなたがたの名前が天に記されていることを喜びなさい。
私はあなたがたを自分の手に記しました。
あなたがたは私の心の中にいます。
だから、私はあなたがたを永久に忘れることはありません」。
        
これが私たちの大祭司、私たちの羊飼いが話しかけてくださる声です。
この声を私たちは知っており(ヨハネによる福音書10章)、これに従い、信頼しています。
        
確かにこの世では、安全なことは何もなく、私たちの主、羊飼い、大祭司はすでに私たちを忘れ見捨ててしまったかのように感じられることがしばしばあります。
        
イザヤ書の49章14節を読んでみてください。
この世と天では状況がまったく異なっています。
天では、私たちはよい安全な場所、私たちの大祭司の忠実な心の中にいます。
誰が私たちをそこから閉め出したり奪い去ることができるというのでしょうか。
         
「誰も彼らを私の手から奪い去ることはできません!」と、私たちの主御自身が叫んでおられます(ヨハネによる福音書10章28節)。
ましてや、キリストの心から私たちを奪い去ることなど誰にもできはしません!
ここには疑いの余地などありません。
なぜなら、私たちは愛するキリストの心に記されているからです。
キリストを信じており、キリストにあずかるように洗礼を受けている私たち皆がそうなのです。
私たちは皆、同じ心の中にいます。
それゆえ、私たちは互いに分け隔てられてはおらず、自分で自分を分け隔てるべきでもありません。そうではなく、キリストの愛によって信仰の兄弟姉妹として互いに愛し合うようにひとつとなるべきなのです。
         
聖霊様が私たちに忠告しておられるように、私たちは信仰を保つように互いに支え合いましょう。
キリストがまずはじめに私たちに示してくださり、また今も示しつづけてくださっているように、私たちもまた、お互いに愛とよい行いを示すように、努力しようではありませんか。
        
(F.G.ヘドベルグ 「命の言葉」より)
       

2010年5月7日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」第4回目の質問

       
第4回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第4章
    
唯一なる神様を信じる者たちは心が一つでなければなりません。
クリスチャンはどのような神様をもっているか、彼らの生活の中で見えてこなければなりません。
それによって、他の人も信じるようになるためです。
          
1)どうして「エフェソの信徒への手紙」はクリスチャンの生き方について、第1章ではなく、ようやく第4章になってから語り始めるのでしょうか。
     
2)この章は教会の職制に就いているクリスチャンについても、また平信徒のクリスチャンについても、語っています。
    
a) 11節によれば、どうして私たちクリスチャンに、教会におけるさまざまな職制が与えられているのでしょうか。
教会の職員は何のために必要ですか。
また、どのように彼らを支えることができるでしょうか。
           
b) 教会の職員が今行っている仕事のうち、職員以外の平信徒でも同じように実行できる仕事は何でしょうか。
私たち一般の会員は宗教的なサービスを消費する「お客」などではなく、「キリストのもの」であり、キリストを代表する者です。
教会で私たちはどうすればよりよく活動できるのでしょうか。
泳ぐのを学ぶためには、泳ぐしかありません。
やってみもせずに、このことを学ぶことができるでしょうか。
         
3)自由な考え方をするグループや異端のグループ(エホバの証人やモルモン教徒など)では、会員一人一人がゆきとどいた「教育」を受けます。
彼らと話し合う機会があった人に尋ねますが、あなたがたは、どのように彼らに対して受け答えすることができましたか。
どうすれば、私たちはよりよく対応できる活動的なクリスチャンになれるのでしょうか。
            
4)17~19節によれば、異邦人たちの生き方には基本的に欠けているものがあります。
それは何ですか。
         
5)良心が麻痺しないようにするためには、どうすればよいのでしょう。
麻痺してしまった良心にふたたび感覚を取り戻させるためには、どうすればよいですか。
          
6)私たちは互いに諭し合うことを遠慮していますか。
神様の御言葉がクリスチャンを支配している、ということは私たちにとって自明ではないのでしょうか。

2010年5月5日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章25~32節 

新しい生き方のための指針 4章25~32節

ようやく具体的な指針を明示する時が来ました。
実は、それらについてはとくに説明する必要がありません。
これらの指針の内容は、ユダヤ人たちにとってはさほど目新しいものではない、というのが多くの研究者の意見です。
この箇所は倫理的に自明なことを取り扱っている、とみなす人もいるほどです。
それはその通りだろうし、あとやるべきなのは、これらの戒めに実際に従いながら生きることです。
実はそのときに、真の困難がはじまるのです。
いくつかの細部にここでふれておくのは、意味があるでしょう。
      
26節は「怒ること」を容認しているわけではありません。
「怒りなさい。しかし、罪を犯してはなりません」というのが、この箇所の直訳です。
この御言葉の背景にある詩篇4篇5節は説明が難しい箇所です。
その考えは意図的に意表をつくような謎を秘めています。
「罪をおかさずに、いったい誰が怒ることができると言うのだろうか」という意味ではないでしょうか。クムランのユダヤ人グループの中には、(信仰の)兄弟に対して怒ることは禁じられていました。
とりわけ、イエス様は「隣人に怒ることは隣人愛でもなんでもない」ということを示してくださいました(マタイによる福音書5章22節以降)。
クムランで仙人のような生活を送っていた者たちが自分の怒りの感情を否定したといって、それが、純正な愛をもたらしたとは限りません。
それはちょうど、現代のクリスチャンが自分の怒りをみせかけの義人の「衣装」で包み隠しているのと同じようなものです。
ここで基本的な問題であるのは、「私たちは自分の怒りのかわりに、純正な愛を必要としている」ということです。
このことを考えるとき、せめて「太陽が沈んでもまだ怒りつづけることがない」ように、私たちは努力するべきではないでしょうか。
そうすれば、悪魔が私たちの内向した怒りの根につけこんで、それを拡大して大災害を生むような隙をつかれたりはしません。
聖書のこれらの御言葉は、クリスチャンの間でも絶えず破られています。
最悪の場合には、その怒りを誇示することさえあります。
         
もうひとつここで取り上げたいのは、クリスチャンの言葉がいかに重い意味を持っているか、ということです。
私たちが互いに対してどのように話しているかは、どうでもよいようなことではないのです。 
私たちは、まさに言葉によって人をひどく傷つけ、神様の民がかつて落ち込んだのと同じ罪をおかしてしまいます。
すなわち、聖霊様を嘆き悲しませることになるのです(イザヤ書63章10節)。
聖霊様は敏感な霊であり、うそをついたり、悪口を言ったり、争いを巻き起こしたりするところには、滞在されることを好まれない、ということを覚えておくべきでしょう。
     

2010年5月3日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章17~24節

   
  
古い人と新しい人 4章17~24節
       
パウロは、クリスチャンにふさわしい生き方について語るとき、その具体的な指示を与える前に、彼の他の手紙でもくりかえし書かれているような基本的なパターンを、まずここでも復習しています。
それを彼は、短く美しく表現しています。
「古い人」と「新しい人」という一組の言葉がその教えの基本にあります。
これらの言葉は「肉」と「霊」という言葉でほとんど置き換えることができます。
これからわかるのは、クリスチャンの生き方の背景には、救いについての教えがあるということです。それゆえ、パウロは、まず異邦人たちの希望のない状態について語ることからはじめているのです。
      
異邦人は、どれほど自分の力に頼ってみても、依然として神様の怒りの下にあり、希望なく生きています。
「ローマの信徒への手紙」の第1章のように、パウロは、いかに異邦人が活きておられる神様に対して背を向け、心をかたくなにし、こうして罪の深い泥沼に沈んでしまったか、について語ります。
これが私たちの「古い人」あるいは「肉」と呼ばれるものであり、つまり、私たちが自身の力に頼ってキリストなしに神様の御前に出ている状態です。
神様の救いのみわざは、私たちを死者の中から復活させ、新しい命へと生み、私たちの中に「新しい人」あるいは「霊」を与えてくれました。
それは、私たちが神様の子供になった、ということを意味しています。
         
今パウロは教えます。
クリスチャンの生活はこの基本のパターンを実行するために絶えず努力していくことにほかなりません。
私たちの使命は、脱ぎ去り、また、着ることです。
自分の「古い人」と「肉の行い」を脱ぎ去り、「新しい人」と「霊のみわざ」を着ることです。
これは、キリストに日々まじめに従いつづけることであり、自分自身の肉を殺しつづけることでもあります。
あるいは、ルターの言い方を借りるなら、古い人を聖なる洗礼の水の中で日々溺死させることです。これとまったく同じ教えが「コロサイの信徒への手紙」にも登場します。
「ローマの信徒への手紙」の第6章にもそれと似た教えがあります。
    
    

2010年4月30日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章7~16節 その2

    
   
4章7~16節 賜物を用いることについて その2
    
    
教会がキリストのからだであり、教会には御霊の賜物が与えられていることを、パウロはしばしば語っています。
今ここでパウロが強調しているのは、「クリスチャンひとりひとりが、キリストのからだの肢体として、御霊の賜物と自分の奉仕の使命をどのようにいただくか」ということではなく、「キリストは教会にある種の職制をお与えになり、この職制を通じて、神様がキリストのからだである会員ひとりひとりを、積極的な愛の奉仕へと整えてくださる」という点です。
     
パウロが挙げている職制のうち、使徒と預言者の職制は一回的なものです。
私たちは今自分の仲間の中から使徒や預言者を選び出したりはしません。
聖書に書かれている彼らの教えに従うことで、私たちには十分なのです。
それに対して、福音伝道者、牧師、教師は、私たちの時代にも存在している職制に対応しています。
もっとも、教会の職制について考えるときには、職制の名称ばかりではなく内容にも注目していくべきでしょう。
「エフェソの信徒への手紙」のこの箇所は、教会の職制がとても大切な問題であることを示しています。
ルター派の基本信条であるアウグスブルク信仰告白第5条が、教会の職制を、人々に信仰を得させるために神様が設定なさったものと規定しているのは、理由のないことではありません。

2010年4月28日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章7~16節 その1

 
 
4章7~16節 賜物を用いることについて その1
    
ここでパウロは詩篇68篇29節を引用しています。
キリストはこの地上に下ってこられました。
その後で、すべての天よりも高いところにある御座にお着きになりました。
そして、人々に御霊の賜物を分け与えてくださっています。
           
「エフェソの信徒への手紙」がここでキリストのからだと神様の賜物についてどのようなイメージを用いているか、注目してみましょう。
高みにのぼられたキリストの賜物とは、教会のさまざまな職制にほかなりません。
すなわち、使徒、預言者、福音伝道者、牧師、教師です。
これらの職制を通じて、キリスト御自身が教会とその会員ひとりひとりを世話してくださっています。
まさにこうして、キリストは信仰者ひとりひとりがキリストのからだを建てるようにしてくださいます。
この「からだ」は活きて働いている存在であり、どんどん成長していきます。
成熟するにいたって、このからだは、未成年者のあらゆる愚行を捨て去り、もはやいろいろな教えに振り回されることもなくなります。
こうして、からだは自分のかしらにしっかり結びつきます。
教会がキリストに結びつくことにより、その会員ひとりひとりが互いに結びつき、各々が自分の使命をしっかり果たし、こうして、からだが愛につつまれて成長を続けていきます。
      

2010年4月26日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章1~6節 その3

 
      
4章1~6節 その3
  
クリスチャンはひとつのからだの肢体となるべく洗礼を受けています。
それゆえ、クリスチャンはひとつのからだです。
それはちょうど、御霊や主や神様がおひとりであられるのと同じです。
「神様がおひとりであられる」ことを強調するとき、5~6節はユダヤ人の信仰に結びつきます。
この日々告白されてきた信仰とは、「イスラエルよ聴きなさい。主は私たちの神様であられます。主はおひとりです」(申命記6章4節)というものです。
             
私たちクリスチャンは三位一体なる神様しか知りません。
あらゆる時代に教会がそうしたように、パウロは神様の唯一性について語り、同じように聖霊様と御子についても語っています。
私たちは三位一体の奥義にひれ伏して、三位一体の神様に栄光を帰するべきなのであり、聖書よりも賢くなろうとしてはいけないのです。
私たちを聖なる神様の子供としてくれた、私たちの人生で受けた唯一の洗礼について、私たちが今日もまた感謝することができれば、どれほどよいことでしょうか。
   
エホバの証人は、家の前にやってきては三位一体論について議論をふっかけて、それをカトリック教会の捏造したものだと言い張ったりしますが、このようなエホバの証人の攻撃に対してすかさず徹底的な返答をすることができる人は、公に信仰告白するクリスチャンのうちでもあまりいないのではないでしょうか。
ここでは、「クリスチャンははじめから唯一の神様を信じて告白してきたこと」と、「それと同時に、神様について語っている詩篇を直接キリストにあてはめてきたこと」とを確認しておけば十分です。
例として、「エフェソの信徒への手紙」4章8節と「詩篇」68篇19節などをあげることができます。
また、「ヨハネの黙示録」では、御座に座っておられる神様と小羊とは理解を超えるほど親しい間柄です。
実のところ、どちらについて語られているのか、わかりかねる場合もあるほどです。

2010年4月22日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章1~6節 その2

                 
4章1~6節 その2
 
   
先を急ぐ前に、「エフェソの信徒への手紙」の構成に注目してみることにしましょう。
この構成順序はクリスチャンの信仰の内的な段階とも対応しています。
       
まずはじめに来るのが、「神様は私のために何をしてくださったか」ということです。
その後で、はじめのことがらの結果として続くのが、
「このような神様のあらゆる善性は、私の生活にどのような影響を与えるか」
ということです。
これは、神学的に言えば、
「義認と聖化とはどのような関係にあるか」
という問題です。
         
聖化は義認の原因ではありません。
言い換えれば、
人が義とされるのは、その人が聖となることに基づいているわけではありません。
それとは逆に、
聖化とは、義認の結果生じる直接的で自発的な働きです。
言い換えれば、
人は義とされると、すぐに自分からすすんで神様の御心にかなうことを行うようになるものだ、ということです。
                
神様の言いようもないほどに大きな愛をどれほど深く理解できるかに応じて、どのくらい私たちが神様を愛して、神様に仕え、捧げることができるか、が決まるのです。
まさにそのゆえに、教えの基本的なことがらを集中して学ぶのは、いつも教会にとってよいことなのです。
            
教えと生活を互いに正反対なものとして位置づけることはできません。
正しい教えによって生活は正しい方向に導かれます。
もしもそうならない場合には、教えをもう少し正確に確認してみる必要があります。
クリスチャンの生活は、その心にあることを示す尺度にすぎません。

2010年4月21日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章1~6節 その1

   
クリスチャンにふさわしい生活
   

エフェソの信徒への手紙 第4章
       
「エフェソの信徒への手紙」のはじめの3章は神様の奥義と福音の深さについて語っています。
第3章の最後の数節はこの第1部の儀式的な晴れやかさをともなった終結部となっています。
これからはじまる第2部で、「エフェソの信徒への手紙」は「クリスチャンにふさわしい生活」について語り始めます。
 
     
4章1~6節 その1
    
多くの手紙でパウロは、まず、キリストが私たちのためにしてくださったことについて幅広く語ります。
そして、その後で、このキリストのみわざが私たちの生活にあたえる影響についての話に移っていきます。
話題が最初のものから次のものに移る箇所は、しばしば祭典的な美を湛えており、そのおごそかさは他の箇所とはっきり区別されるほどです。
たとえば、「ローマの信徒への手紙」12章1~2節や「ガラテアの信徒への手紙」5章13節以降がそのような箇所です。
このようなテーマの移行が見られるのが、今扱っている1~6節なのです。
       
牢につながれた男がクリスチャンたちに、 「へりくだり優しく忍耐強く生活して、教会の一致が保たれるようにしなさい」、 とおごそかに諭しています。
今ここで与えられている倫理的な生活規定は、ほかでもない教会生活に関わるものです。
そして、誰も教会の一致を、間違った信仰や愛のない生活態度によって、汚してはならないのです。

2010年4月19日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 第3回目の終わりのメッセージ 

第3回目の集まりのためのおわりのメッセージ

「あなたがたは真理の御言葉、すなわちあなたがたの救いの福音を聴いたのです。」(「エフェソの信徒への手紙」1章13節より)

この言葉の意味を注意深く考えてください。
なぜなら、そこには私たちに、キリストにあずかるための唯一の道、唯一の手段が示されているからです。
ここで使徒がはっきりと言っているように、私たちは福音を聴くことによってキリストにあずかるようになります。
「ローマの信徒への手紙」でも、パウロは「信仰は聴くことから生まれ、しかし、聴くことはキリストの御言葉を通して実現します」(10章17節)と言っています。
今、キリストの御許に来て救いを理解したい人は、福音の御言葉を取り出して、どこからでも読みなさい。
それにより、聖霊様が御言葉を通して、その人が信仰にあってキリストを正しくしるようになるために、賜物によって光を与えてくださるからです。
   
そうしなければ、他のどのような仕事も戦いも努力もまったく無駄になります。
たとえ、血が出るほど自分を痛めつけたり、昼夜ひざまずいて祈り続けたり、荒れ野でひとりぼっちで暮らしたり、非常に粗末な身なりをしたところで、なんの役にも立ちません。
何をやってみたところで、もしも神様が福音の御言葉を聴かせることを通して、あなたを照らし、あなたがキリストをしるようにしてくださらないならば、あなたは良心の平和をえられず、キリストにあずかることも決してできません。
             
それゆえ、福音の御言葉は天地よりもはるかに価値のあるものなのです。
なぜなら、天地は、そこにある被造物すべてと力を合わせても、滅びゆく罪人のただひとりさえキリストの御許へと助け出すことができず、キリストにあずかるように導くこともできないからです。
ひとり聖霊様のみが、福音の御言葉を通してそれを行ってくださいます。
このように私たちにとって、この御言葉は本当に貴いものです!
私たちは、起きるときにも寝るときにも、道を歩くときにも座っているときにも、食べるときにも飲むときにも、この御言葉に学ぶべきです。
                 
ここで使徒は、「これはあなたがたの救いの福音です。それを聴くことであなたがたはキリストにあずかることができるようになりました」と言っています。
これはどういう意味でしょうか。
使徒パウロは数年前にエフェソの信徒たちに彼らの救いの福音を宣べ伝えました。
その福音とは、「神様が彼ら、のろわれた、神様に受け入れていただくのにふさわしくない罪人に、唯一の御子イエス・キリストにあって、さいわいな救いをすでに用意してくださっている」、というすばらしい、喜びに満ちたメッセージです。
          
またそれは、「罪の赦しと永遠の救いをいただくことは、今や、彼らが行ったよいわざに対する報酬としてではなく、キリストのゆえに神様の恵みのみにより、「彼らの所有するもの」となっている」、というメッセージでもあります。
          
この福音を信じて受け入れた者は、神様の子供となる力もいただきました(ヨハネによる福音書1章12節)。
その人はすでに信仰にあって救われており、キリストのすべての報酬にもあずかっています。
               
(F.G.ヘドベルグ「命の言葉」より)

2010年4月12日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」 第3回目の質問

第3回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第3章

パウロの教えは、教会が保たれるための基礎です。この基礎をしっかり守るとき、私たちは天のお父様のみもとに安心して帰ることができます。

1)多くの人にとり、パウロは間違いをおかすただの人間にすぎません。
これに対し、教会はいつの時代も、とりわけ「エフェソの信徒への手紙」3章2~7節に基づいて、「唯一の使徒的な教会」を信じてきました。
もしも教会がこの信仰を変更しようとするなら、それは大変な危険を伴うことだと言わなければなりません。
今私たちの国の教会は、どのような危険にさらされているでしょうか。

2)パウロは牢獄からこの手紙を書いています。
他の点でもパウロは、「キリストに所属する者は苦しみと慰めとを経験する」という奥義をよく体現しています。
この奥義について私たちは十分話し合ってきたでしょうか。
それとも、私たちはただ自分たちの快適さと成功を求めてきただけなのでしょうか。
このことに関係するイエス様のどのような御言葉をあなたがたは覚えていますか。
  
3)手紙の書き手は「お父様の御前でひざまずきます」(14節)。
神様を父親として表すこの言葉は、比喩でしょうか、それとも事実でしょうか。
  
4)17節には、「キリストが「御自分のものたち」の心の中に住まわれる」ことを語っています。
これはどういう意味でしょうか。
「ペテロの第二の手紙」1章4節、「ヘブライの信徒への手紙」4章2節、「ガラテアの信徒への手紙」2章20節を参照してください。
これと同じことを語っている聖書の箇所を他にも見つけることができますか。
  
5)16節には、「聖霊様がクリスチャンを強めてくださる」ことについて書かれています。
聖霊様は、どのような手段を用いて、こうしてくださるのでしょうか。
  
6)手紙の書き手は、「キリストの愛があらゆる知識よりも上方にある」ことを強調するべきであると考えています。
それはどうしてでしょう。

2010年4月6日火曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章14~21節

  
天のお父様の子供たち 3章14~21節
  
ここで扱う14~21節は「エフェソの信徒への手紙」のはじめの部分をしめくくっています。そこには、教会のための祈りと、神様への賛美が含まれています。
 
「神様が父だというのはたんなる比喩的なイメージに過ぎない」と主張する人たちがいます。
「神様を別のやり方で表現することもできるはずだ」というわけです。
ところが、15節は、「神様とは、その本当のお姿が私たちの生活の中へ映し出されているお方であって、逆に私たちの生活が神様のイメージを決定しているわけではない」ということを語っています。神様の父親としての愛は、美しい比喩にとどまるものではありません。
神様は私たち人間の肉親としての父の遠い原型にあたるお方であり、肉の父について私たちのもっているイメージは、神様がどのようなお方であるか、思いをめぐらすときに役立ちます。
  
現代社会に大きな影響を与えているフェミニズムは、キリスト教の領域にも独自の価値観を持ち込んできています。
ある人たちは、神様を父と呼んだり男性形の代名詞で表すことを拒絶し、神様を表す男性形の言葉をすべてそれらと対応する女性形の言葉に置き換えて、新しい信仰告白をつくることさえしています。彼らは、「聖書は族長中心の社会で生まれたので、男性中心的な書物だ」と考えています。
ところが、聖書は神様の活動を繊細に「母の愛」に比較しています(たとえば、イザヤ書66章13節)。
とりわけここで大切なのは、私たちと神様との関係は私たちに啓示されていることがらに完全に依存しているということを、確認しておくことです。
神様について私たちがしっているのは、神様御自身が聖書で教えてくださったこと以外にはありません。
そして、聖書でイエス様は神様を父を呼んでおられます。
聖書とキリストを差し置いて神様のことを追求しようとするある種のフェミニズムの「天才的な試み」は、実のところ根拠のない想像の産物にすぎません。
今ここで取り扱っている手紙の箇所は、「神様の父親としての愛は私たちの生活のために与えられた模範だ」と言っています。
ところが、私たち肉としての父親は、自分の子供たちが神様に、愛する子供たちが優しいお父さんに接するように、近づこうとする気持ちをかえって踏みにじってきたのではないでしょうか。
本当に恥じ入るべきことです。
残念なことに、「神様も私たちの父親だというのか、自分の父親だけでもうんざりしているというのに!」と言う若者が多いのではないでしょうか。
  
人生で一番大切なのが「知識」だと考えている人たちのことを念頭において、「エフェソの信徒への手紙」は書かれています。
彼らの言う「知識」とは、普通の意味での理性的な知恵ではなく、超自然的なことがらに関する知識であり、暗闇と光の諸霊が互いにどのような関係にあるかについての知識でした。
このような「知識」を我が物とした人は他の人間よりも高い境地に達している、というわけです。
「エフェソの信徒への手紙」はこのような物の見方に、穏やかな態度を保ちつつ反対しています。「神様に満ちているもの」を人間にもたらすのは、知識などではなく、キリストの愛なのです。
私たちは、キリストの十字架とキリストの御言葉への従順に、すべての関心を集中するべきです。
こうして、私たちは光輝く恵みの流れのほとりに何度も繰り返し導かれ、自分たちの心の渇きを癒していただけるのです。
  
20~21節は神様への賛美です。これは教会の礼拝で古くから用いられてきた賛美だと考えられています。

2010年3月31日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章1~13節 その5

3章1~13節 「特別待遇」を受けた男 (その5) 

ここで扱っている箇所で私を戸惑わせ感動させるのは、パウロがキリストの奥義について語っているときの、輝きあふれるばかりの喜びです。

神様はパウロを福音の僕として召してくださいました。
それはパウロにとって、鞭で打たれることや、生命の危険に身をさらすことや、鎖につながれることや、しまいには死ぬことを意味していました。
パウロはカイザリヤの牢獄で二年間閉じ込められました。
二度の冬の間、獄舎の気温は氷点下になったことでしょう。
もともと病弱の身であったパウロは、鎖をつながれたまま、牢獄から直接支配者たちの前に引き出されたときには、もはや見るも哀れな姿だったことでしょう(「使徒の働き」25~26章)。
また、「エフェソの信徒への手紙」が書かれた頃には、獄中生活はすでにパウロの健康をひどく蝕んでいたことでしょう。
ところが、手紙の言葉の中にはうらみめいたところが少しもありません。
それどころか、パウロは自身に与えられた召しについて大喜びしています。
昔の世代の人々は神様の永遠の奥義について何もしらなかったけれども、神様はパウロをその奥義の僕として召してくださいました。
パウロは「特別待遇」を受けた、深い感謝の心に充ちた男です。

現代に生きる私たちは、どのような気持ちで、鎖につながれた使徒の喜びに満ちた言葉を読むのでしょう。
ともすると人は少しでも傷つけられると、それを決して忘れずにいつまでも根に持ちつづけているのではないではないでしょうか。
どうすれば私たちは「エフェソの信徒への手紙」が映し出している「姿勢」を自分のものとすることができるのでしょうか。
手紙をここまで読んできた私たちには、答えがわかっています。
パウロがしたように、神様の恵みと愛の無限の素晴らしさをより深く見つめていくときに、それは可能になるのです。
まさしくここに、「エフェソの信徒への手紙」がもつ力があります。
それゆえに、この手紙を読むときには、あるひとつのことがなににもまして大切になります。
すなわち、神様はあなたを愛しており、その愛はあなた自身が決して理解できないほどに大きなものだということです。

まず立ち止まって、このことがわかるようになりなさい。
それからどんなことが次に起きてくるか、それはまたそのときの問題です。
それについても、ちゃんと神様が示してくださいます。苦難も含めて。

2010年3月25日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章1~13節 その4

3章1~13節 「特別待遇」を受けた男 (その4) 

「エフェソの信徒への手紙」では初めてになりますが、今私たちは「教会の職務」について話すことにしましょう。
今回のテーマは「使徒職」です。
私たちの信仰と理解によれば一回的なものであり、ある意味では教会ではもはや続いていないものとして、この言葉を用いています。
私たちはもはや「新しい使徒たち」を選び出したりはしないし、欲してもいません。
神様が御自分と御心を全世界に告げるときに用いられた預言者たちと使徒たちがいれば、私たちには十分です。
私たちはこの原則を守りたいと思います。
まさにそれゆえに、教会は常に「使徒的」な教会なのですから。

人間は教会の中央総会で、たとえばキリスト教とイスラム教を混同するとか、やりたい放題のことをすることができます。
しかし、そんなことをしても彼らは真実を変更することなどできません。
せいぜい自分自身と彼らの教えの追従者に害を与える結果を招くことになるだけです。
この世で最後まで留まりつづけるのは、使徒たちと同じ信仰を保ちつづける教会のみなのです。

2010年3月22日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章1~13節 その3

  
3章1~13節 「特別待遇」を受けた男 (その3) 
  
神様はこの秘密に仕えたいと思う者を、願いどおり「秘密の僕」として召してくださいます。
この召しのさいには、人間的な力とか、どのぐらいしっかりしているか、とかいったことが求められたりはしません。
神様の召しがその召された人を他の人よりも高い地位に置くこともありません。
パウロは自身の人生の中で神様の力が働くのをはっきりと見たのです。
パウロには、「かつてキリストを侮蔑し神様の教会を迫害した」という暗い過去があります(コリントの信徒への第一の手紙15章9節)。
こうした過去をひきずりながら、彼はいつも福音の仕事をしていました。

こういうわけで、彼はいつでもへりくだったまま、ただ恵みのみに頼って仕事をするように整えられました。
こうした姿勢をとおしてのみ、私たちもまた福音伝道の仕事をすることが可能になります。
そして、恵みに頼ることによってのみ、私たちは、神様に対して忠実であろうとするときに私たちや教会全体にやってくるさまざまな障害に耐えつづけることができるのです。

2010年3月15日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章1~13節 その2

    
3章1~13節 「特別待遇」を受けた男 (その2)
    
いくつかのわずかな言葉によって「エフェソの信徒への手紙」は私たちに聖書全体の「鍵」を与えてくれます。
旧約聖書全体は、「イエス・キリスト」という未来を目標として進んでいきます。
旧約聖書の中には、旧約の時代の状況のみに関係していて、現代の私たちを束縛したりはしないようなことがらも含まれています。
たとえば、モーセの律法による犠牲をささげる儀式の規定などがそうです。
しかし、神様の大いなる救いの御計画こそが旧約聖書の核心なのです。
そして、この核心が、旧約聖書を私たちにとって言葉では表現できないほど大切なものとしています。
私たちが今生きている現代の多くの人間にとって、旧約聖書は親しみを感じる書物ではありません。しかし、「エフェソの信徒への手紙」を読んでいくときに、私たちはこのことを根本的に考えなおしてみることができます。
聖書全体、その非常に難解な箇所や旧約聖書の極めて暴力的な箇所さえも、実のところ、キリストの大いなる「和解のみわざ」[1]について語っているのです。
神様、どうか私たちがこの秘密を見て理解できるように、私たちの心の目を開いてください。
  
[1] 十字架の死によってキリストが人間の罪を一身に引き受けてくださったおかげで、罪深い私たち人間と、義で聖なる神様との間に「和解」がもたらされた、ということ。(訳者註)

2010年3月11日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章1~13節 その1

    
鎖につながれたしあわせな男
 

エフェソの信徒への手紙 第3章
 
はじめのふたつの章でパウロは読者を神様の恵みのみわざの秘密の中に導いていきました。
今回取り扱う第3章で、パウロは神様の大いなる御計画をおさらいしています。
とりわけ感動的なのは、無実の罪で鎖につながれた男が、自分の身の上をちっとも苦にしないで、熱心に喜んでこの手紙を書いている姿です。
 
 
3章1~13節 「特別待遇」を受けた男 (その1)

パウロは、はじめの節でつづり始めた文章を中断してもうひとつのことがらに移っていきます。
こうした書き方はパウロによく見られます。
パウロは手紙を力強く書きすすめているとき、書いていることがらに没頭しています。
ところが、新しいことがらが彼の心をとらえてしまいます。
彼の言葉は直接心から出てくるものです。
まさにそのゆえに、それらの言葉は私たちにとって愛するべきものになっています。
 
2~7節では、「福音は人間から出た教えではない」、ことが再び強調されています。
福音は、神様の御心によって世界を自分のものとするために動き回っているのです。
パウロも、熟慮を重ねた末に「福音宣教者」になったわけではありません。
神様は使徒や預言者たちに「秘密」をあきらかにしてくださいました。
そして、その秘密は神様の御意思の究めがたい深みの中に太初からあったものでした。
 
神様のもともとの御計画は、すべての人をキリストにおいてひとつの民として御許に招くことでした。
この計画は人間界における数え切れないほどの世代交代の中でずっと秘密にされたままでした。
神様は救いのみわざをある特定の民の只中で準備なさいました。
つまり、イスラエルだけが神様に属しており、他の民は外に追いやられていたのです。
神様の隠された御計画に基づいて、あらゆることはただひとつの時と、ひとつの大いなる出来事に結実していきます。
堕落した人間界全体は、キリストにあって、「神様のもの」としてあがないだされ、こうして、ユダヤ人も異邦人も一緒にキリストの教会を形成するようになる、という計画です。
 
このように、キリストのみわざはただひとつの民とか何人かの人々にだけに関わりのあるものではありません。
それは世界全体を包み込む広がりをもっています。
そして、その中には今聖書を学んでいる私たちも含まれています。
キリストのみわざが私たちにも関わりのあることだったという事実を、私たちが変更することはできません。
  
私たちができることは、キリストのあがないのみわざを敬うか、あるいは、それを自分には関係ないものとして否定し滅びの道を選ぶか、という二つのうちのどちらかしかありません。

2010年3月3日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 第2回目の終わりのメッセージ

  
  
第2回目の集まりのためのおわりのメッセージ
 
天のお父様、あなたは、
あなたの貧しく惨めな子である私を、
永遠の命をうけつぐために、
創造し、
貴いあなたの御子の血によってあがない、
あなたの聖霊様によって聖としてくださいました。

私は嘆きつつあなたに心から告白しますが、
人間的な盲目のゆえに、
私は、
このもっとも高価でまことに偉大な賜物である「永遠の命」が
どれほど大切なものか、
一度も理解したことがなかったのです。

永遠の命について、
それにふさわしいやり方で私は喜んだことがないし、
そのことを考えることによって、
慰めを受けることもありませんでした。
私は永遠の命を心の底から慕い求めたことも
ありはしませんでした。

残念ながら、
私の心はこの世的なことに向いていて、
世や、
目の欲求や、
肉の欲望や、
贅沢な生活の方を、
私はより多く愛してきました。

愛するお父様、
私のこの大きな罪と愚かさを赦してください。
私の心から、魂を汚しそれに反抗する、
世への愛着や、
はかない栄光への執着や、
肉的な欲望を、
根こそぎ抜き去ってください。

何のために
私がつくられ、
あがなわれ、
聖とされたか、
私が理解できるように助けてください。

私は、神様、
他の何よりもあなたを探し求め、
あなたのみを愛し、心から慕うために、
そうして、
あなたと永遠の命以外は何も望むことがないように、
また、
あなたより他のものを慕ったり願ったりしないように、
つくられ、
あがなわれ、
聖とされたのです。

ちょうど鹿が小川を慕うのと同じように、
私の魂もまたあなたを慕い求めるように、
私の中に
永遠の命への聖なる渇きを起こしてください。
いかなる苦労や圧迫や迫害や悲しみも
私をこの希望から引き離すことがないように、
助けてください。
なぜなら、私は、
私のあがない主が活きておられることをしっており、
この方に私がおいている希望は、
私を恥ずかしい目にあわせることなどは許さないからです。
どうか、あらゆる十字架と苦しみの中で、
永遠の命の希望が
私を慰め、喜ばせ、
そうして、
悲しみをみな和らげて取り除いてくださいますように。

ヨハン・アルント 「楽園の薬園」

2010年3月1日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」第2回目の質問

  
  
第2回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第2章

自分の力によって神様に信頼するようになる人はひとりもいません。私たちは霊的に死んだ者です。しかし、神様はキリストにあって異邦人もユダヤ人も同じように「活きた者」としてくださいました。そして、キリストが成し遂げてくださった救いのみわざの中で、彼らを分け隔てている壁を取り除いてくださいました。教会において神様は両者をひとつの「神様の家族」とし、「神様の神殿」としてくださいました。そこでは誰でも「神様の家」として一緒に結びつくことができるのです。
 
1)第2章の最初の節はエフェソの信徒たちの過去についてどのようなことを語っていますか。彼らの状況はこの手紙が書かれた時点ではどのようなものでしたか。彼らが変わったのはどうしてだったのでしょうか。その理由をが考えてみてください。なぜエフェソの信徒たちは自分で自分を「活きた者(クリスチャン)」とはできなかったのでしょうか。
 
2)第2章によれば、神様が私たちを「活きた者」となさいます。それはどのように起こるのでしょう。あなたがたの場合には、それはどのように実現しましたか。神様が私たちを「活きた者」としてくださったことを思い出して、私たちは神様に感謝してきたでしょうか。
  
3)クリスチャンの心が冷えたり、あやふやになるときに、その人はどんなことを考えるべきなのでしょうか。そのようなときにもその人は自分をやはりクリスチャンとみなすことができるのでしょうか。
  
4)「エフェソの信徒への手紙」はクリスチャンとキリストをはっきり区別して語ることができません。なぜなら、洗礼が両者をひとつにしているからです。このことは私たちにはなじみのないことに感じられるでしょうか。洗礼について私たちは十分に話し合っているでしょうか。ここでは(幼児洗礼を否定している)再洗礼派のことを意味しているわけではありません。
   
5)「エフェソの信徒への手紙」は教会を神殿建築に比較しています。この神殿が使徒や預言者の敷いた礎石の上に建てられている、というのは、どういう意味でしょうか。「隅のかしら石」とはどのような石ですか。教会は礎石からずれて移動することができるでしょうか。もしもそれが可能ならば、どのようにしてそれは起こるのでしょう。

2010年2月19日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章11~22節その3


2章11~22節 しかし、彼らは異邦人でしょう?(その3)

「エフェソの信徒への手紙」の第2章は私にとって個人的にとても大切な聖書の箇所です。

「もしかしたら私は聖書全体をまったく誤解してきたのではないか」という疑問を、私は何年間にもわたって自分に投げかけてきました。
詩篇139篇の最後の数節がしばしば私の心の中にありました。
「神様、どうか私を探ってください。もしも私が間違っているなら、私を正しい道に導いてください」と。
そのようなときには、
私はよくこの「エフェソの信徒への手紙」の第2章を開いて、
「これを間違って理解するのは不可能だ」
と再度確認するのが常でした。

それは無条件で完全な恵みの章です。
本当にすばらしい章です。

ずっと後になって、
ユダヤ人と異邦人との間の区別に注目するようになったときに、
この章はさらに新しい深みを帯びたものとして私の心をとらえるようになりました。

この章を読んで、恵みの福音を深く学んでください。
これよりもよいものはこの世界にはないし、また、ありえませんから。

2010年2月18日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章11~22節その2

 
2章11~22節 しかし、彼らは異邦人でしょう?(その2)
 
「エフェソの信徒への手紙」第2章は私たちの目の前に非常に壮大な絵を描き出しています。
このように充実した内容にみちた章を解きほぐしていくのは、やりがいのある仕事です。

まず、教会について多くのゆたかなイメージが用いられていることに、私たちは気がつきます。
教会は神様の民であり、「新しい人」(15節)すなわち神様の家族であり、神様の建物です。
これらすべてのイメージは、神様の救いのみわざがどのようにして「神様のもの」である新しいグループを生み出してきたか、を目に見えるように描き出しています。

これからわかるように、教会は「エフェソの信徒への手紙」では肯定的な意味のみを担っています。昔も今もこれからも、教会をつくりあげることができるのは、神様以外の誰でもありません。
人々ができることといえば、教会を分裂させ腐敗させることぐらいです。

次に、キリストの教会がどのようにして預言者や使徒の基礎の上に築かれているか、見てみましょう。「ルーテル教会信条集」はこれについて次のように述べています。

「旧新約聖書の預言者と使徒の書物は、あらゆる教えと教師が吟味されるさいに用いられる、唯一の規則であり指針です。
「あなたの御言葉は私の足元を照らすランプであり、私の道を照らす光です」(詩篇119篇)
と書かれていますし、聖パウロも
「たとえ天の御使いが現れて(御言葉と)ちがうことを宣教したとしても、その天使はのろわれてしまうがよい」
と言っています。
他のどれほど有名な昔や今の教師の書いたものであれ、
それらを聖書と同等なものとみなしたりはせずに、
すべて聖書よりも下位に置かなければなりません。
それらは、
「どの場所でどのように預言者と使徒の教えが使徒たちの時代の後にも保存されていたか」
について語っている「証人」としてのみ用いなければなりません」(和協信条)。

聖書を通して私たちに話しておられるお方以外の何者をも、
私たちは神様としてしったり告白したりはしません。
預言者と使徒のメッセージが教会をつくり、維持します。
他のものはいつか燃え尽きてしまう「わら」にすぎません。
私たちに与えられているメッセージを勝手に変更する権利など、私たちにはありません。
私たちにできるのは、それをさらに先へ、次の世代へと伝えていくことだけです。
そして、神様の御言葉は真理であることをしっかり信じ続ける勇気を持つべきです。

2010年2月15日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章11~22節その1


2章11~22節 しかし、彼らは異邦人でしょう?(その1)

この章の終わりの部分の背景として、ユダヤ人と異邦人の間に存在していた「溝」を考えに入れておかなければなりません。

手紙の受け取り手たちは、以前は神様とはまったくかかわりがなく、神様の民からも隔てられ、希望もなく生きていました。
ところが、今やキリストの血が彼らを遠くから神様の近くへと連れてきました。
そして、神様の恵みにあずかり、神様の民の一員とされたのでした。

「エフェソの信徒への手紙」は見事なイメージを用いつつ(実は非常に多くのイメージを何重にも)、「神様の建物」について語っています。
神様はキリストにあって、ユダヤ人と異邦人を分け隔てている壁を取り去りました。
そうして、両者をひとつの神様の神殿としました。
この神殿は使徒や預言者(の伝えた神様のメッセージ)を基礎として建てられています。
その壁は洗礼を受けたユダヤ人と異邦人とから構成されており、隅のかしら石はキリスト御自身です。
私たちのよく知っている十字架の形は、テキストが語っている出来事を視覚化します。
すなわち、神様はキリストにあって、すべての人間との平和を築かれました。
十字架の縦の木は、天と地との間のつながりを示しています。
一方、神様はユダヤ人と異邦人を隔てる壁を取り除かれました。
十字架の横の木は、人々の間の新しいつながりを示しています。
こうして、異邦人はもはや他人や外国人ではなく、神様の家族の一員であり、神様の民となったのでした。

2010年2月10日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章1~10節

2章1~10節 昔と今

「エフェソの信徒への手紙」は、手紙の受け取り手の前の状態と後の状態を互いに反対のものとして位置づけています。
ここで問題になっているのは、彼らが皆、以前は人殺しや泥棒だったのに、今はまったく違う者になっている、ということではありません。
彼らの状態が神様の真理の光の中で、以前はどのように見え、また今はどのように見えるのか、という点がポイントです。

以前は、彼らは自分の罪の中に死んでいた者たちでした。
彼らは神様とはなれて暮らしており、サタンの支配下にありました(「エフェソの信徒への手紙」ではこれよりも優雅に表現されています)。
彼らの生活が彼らの心の中にあることをあきらかに示していました。
このように彼らは「怒りの子供たち」であり、最後の裁きと永遠の滅びを待つばかりの身でした。

実はパウロはここで、「ローマの信徒への手紙」第1章にあるのと同じことを描き出しているのです。「テサロニケの信徒への手紙」1章9~10節も同じことを、「異邦人は偶像を礼拝し、来るべき裁きを待っている」と鋭く簡潔に語っています。

「前」と「今」は激しく対立しています。
憐れみの心に満ちておられる神様は、その大いなる愛のゆえに私たちを愛してくださいました。
そして、私たちを死者の中から目覚めさせ、キリストと共に活きるようにしてくださいました。
また、私たちをただ恵みにより救い出し、キリストと共にいる天国の民としてくださいました。
このように、手紙の受け取り手は、私たちと同様に、
以前は自分たちの罪の中に死んで、神様から離れ去り、滅びへの旅路にありましたが、
今や、キリストのゆえに、彼らは新しい命へと目覚めさせられました。
そして、彼らは「神様のもの」となり、永遠の命へと旅立ったのです。

この二項対立の中に、パウロの神学の核心がすべて短く描き出されています。
ここでは、その対立関係を際立たせて理解するのが大切です。
全世界はひとつの深く暗い罪の吹き溜まりであり、そこには一筋の光も差し込むことはありませんでした。
ところが、神様は、キリストを私たちの罪のために死なせ、また、死者の中からよみがえらせることによって、すべてを変えてくださいました。
ここにこそキリスト教の信仰の心があるのです。

こうして、神様の救いのみわざは人間界にまったく新しい状況をもたらしました。
「前」と「今」という二項対立は、人々の生活の変化にではなく、ただ神様の恵みに基づいていることがらです。
「私たちが神様の子供である」ということは、私たちの生活に多くの変化をもたらします。
しかし、それはここで扱っていることとは別のことがらであり、それについては後で触れることにします。
今ここで大切なのは、
それ(クリスチャンの生活の変化)を神様の恵みのみわざと混同しないことです。
神学的に言えば、聖化と義認とを混同してはならない、ということです。

2010年2月8日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章その4

行き止まり?


パウロの宣教した福音は、皆が驚くような実を結びました。小アジアや大陸沿岸のギリシアのあちこちには、パウロが開拓伝道した教会がありました。教会員はモーセの律法に従って割礼を受けるべきだ、と主張する教師がこれらの教会に現れたときに、激しい衝突が起きました。こうした戦いの中で生まれたのが、ガラテアの信徒への手紙であり、ローマの信徒への手紙です。キリストとその死のみが唯一の救いの理由であることを、パウロは最後まで確固として主張しつづけました。この論争を解消するために、パウロはしまいにはエルサレムに出発しました。そして、彼は捕らえられました。


エフェソの信徒への手紙では?

「エフェソの信徒への手紙」においては、激しい論争はすでに過去のものとなっています。神様の救いのみわざと、その理解を超えた奇跡全体を、調和と美を保ちつつ提示する時が熟したのです。まさしくこの第2章で、ユダヤ人と異邦人との関係が話題として取り上げられます。この手紙の受け取り手の大部分は異邦人として生まれた人たちでした。今、私たちは「エフェソの信徒への手紙」の教えの核心にいるのです。

2010年2月3日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章その3



異邦人伝道のはじまり

キリストが御自分の弟子たちを被造物すべてに福音を宣べ伝えるために世界中に派遣されたとき、当然ながらこの派遣命令は「異邦人への伝道」も意味していました。
しかし、どのようにしてでしょうか?

注意深い読者は、「使徒の働き」が、ユダヤ人と異邦人の間に古くからある境界線を越えることがいかに難しかったかについて語っていることにはっきり気がつくことでしょう。

意思に反しつつも、聖霊様に促されて、使徒たちは福音をまずはじめにサマリア人に伝える勇気を得ました(使徒の働き第8章)。
そして、それから最初の異邦人たちに洗礼を授けることができました(使徒の働き第10~11章)。

アンティオキアの教会に派遣されたパウロとバルナバは、すでに最初の宣教旅行で福音を伝えていきました。その福音によれば、異邦人たちはモーセの律法に従うことを要求されません。また彼らには割礼を施す必要もありません。ナザレのイエス様は御許に異邦人もお招きになっているのです。

エルサレムにいたクリスチャンの中には、「信じて洗礼を受けた異邦人はまだ真のクリスチャンではない」、と考える人たちがいました。そこから激しい論争が巻き起こりました。
彼らの意見によれば、そのような異邦人もまたモーセの律法を遵守して、そのしるしとして割礼を受けるべきだ、ということになります。
この問題を解決するために、エルサレムでは使徒の会議が開かれました。
会議の雰囲気は熱気を帯びていました。
この会議について、パウロ(ガラテアの信徒への手紙第2章)とルカ(使徒の働き第15章)は互いに少し異なった形で報告しています。
この会議では以下のことが決められました。
モーセの律法に従うことはユダヤ人にとっても異邦人にとっても「救いの道」ではないこと、
(モーセの律法はもともと異邦人に対して与えられたものではないため)異邦人はモーセの律法から自由であること、
異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンとの共同生活をある種の規定によってある程度まで容易なものにすること(「使徒の働き」による)、
パウロはどこであれ異邦人クリスチャンの間で、エルサレムの初代教会の貧しい人たちのために、愛の献金を集める責任を受け持つこと、
です。

2010年2月1日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章その2



ユダヤ人と異邦人

「エフェソの信徒への手紙」第2章を読む上で欠かせない背景知識は、
当時の世界にあったユダヤ人と異邦人との間の区別です。

私たち現代人にとって、この問題を理解するのは容易ではありません。
私たちにはこれについて日常での経験が欠けているからです。この問題は、私たちが聖書を理解するのをもっとも妨げている問題のうちのひとつだと、私は思っています。
とりわけ、「ローマの信徒への手紙」と「ガラテアの信徒への手紙」、それともちろん「エフェソの信徒への手紙」を理解しようとするときに、この問題が関係してきます。

誰が異邦人か、という問題の核心は次のようにまとめることができます。
神様は約束をアブラハムとその子孫にお与えになり、イスラエルを御自分の民に選ばれました。
たしかにすでに旧約聖書が、
神様はこのように人間界全体に近づき、
イスラエルの民を諸国民の祭司のような存在とし、
アブラハムにおいて世のすべての諸国民を祝福することを望まれていることを、
私たちに思い起こさせてくれています。

にもかかわらず、ユダヤ人と異邦人との区別は明瞭で厳密なものでした。
ユダヤ人たちは真の神様を礼拝し、モーセの律法を所有していました。
それに対して、他のすべての諸国民は道を見失い、偶像を礼拝していたのです。

当時の日常生活は実際にそのとおりであったことを証明しています。
ユダヤ人たちは自分の居住区に住むのを常としていました。
そして、異邦人のもとを訪れたり、彼らと共に食事をしたり、彼らと婚姻関係を結んだり、彼らと同じ宗教的な行事を行ったり、彼らと同じ神様を礼拝したりはしませんでした。

もちろん、周囲の環境に多かれ少なかれ溶け込んでいったユダヤ人たちも中にはいました。
しかし、神様を畏れるユダヤ人にとっては、
異邦人から分離することは、命のかかったことがらだったのです。

2010年1月27日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章その1

第2回

神様の唯一の建物

エフェソの信徒への手紙 第2章

聖書の多くの章は、順を追って節ごとに調べていけば、一番よく意味がわかります。
しかし、いくつかの章についてはそうではありません。読み始める前に、その章について十分に時間をかけてある程度は背景知識を手に入れた方がよい場合があるのです。
こうした作業の後で、聖書の御言葉の意味がおのずとあきらかになります。
「エフェソの信徒への手紙」第2章は、まさにこのような章です。
もちろん、この章の意味は、信仰者にとって、背景知識がなくても、わりとたやすく把握できるものでした。ところが、背景知識があれば、このすばらしい章のさらに新しい広がりが見えてくるのです。

私は前回のはじめに、「エフェソの信徒への手紙」は「教会の手紙」であり、この手紙の中では「教会」という言葉は肯定的な意味でのみ用いられている、と述べました。
この章を読むときには、私たちはまず、今現実にあるキリスト教会の分裂状態と教会間の緊張関係をすべて心から追い出さなければなりません。たとえば、聖公会に由来する「高教会派と低教会派といった区分」[1]をひとまず忘れることにしてみましょう。
教会の分裂状態を修復することは、行政的な決定により教会間の境目を取り除いてみてもうまくいくものではありません。
そのためには、福音とサクラメントについて一致した理解を見出すことこそが大切なのです。
しかし、ここではまず、「エフェソの信徒への手紙」が言っていることを見てみることにしましょう。

[1] 聖公会では、「高教会派」はカトリック的であり、それとは正反対に、「低教会派」はメソジスト的です。

2010年1月22日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」 第1回目の終わりのメッセージ

第1回目の集まりのためのおわりのメッセージ

天のお父様、あなたは、
あなたの貧しく惨めな子である私が永遠の命を受け継ぐために、
私を創造し、貴いあなたの御子の血によってあがない、
あなたの聖霊様によって聖としてくださいました。

私は嘆きつつあなたに心から告白しますが、
人間的な盲目のゆえに、私は
このもっとも高価で非常に大きな賜物である「永遠の命」がどれほど大切なものか、
一度も理解したことがなかったのです。

私は永遠の命について、
それに対する相応な思いをもって喜んだことがないし、
それを考えることを通して慰めを受けることもありませんでした。

私は永遠の命を心の底から慕い求めたこともなかったのです。
残念ながら、
私の心はこの世的な事柄に向いていて、
世や、目の欲求や、肉の欲望や、贅沢な生活の方を、
私はより多く愛してきました。

愛するお父様、
私のこの大きな罪と愚かさを赦してください。
私の心から、
魂を汚しそれに反抗する、世や儚い栄光への執着や、肉的な欲望を、
根こそぎ抜き去ってください。
何のために私がつくられ、あがなわれ、聖とされたか、
私が理解できるように助けてください。

私は、神様、他の何よりもあなたを探し求め、
あなたのみを愛し、心から慕うために、
そうして、
あなたと永遠の命以外の他は何も望むことがないように、
また、あなたより他のものを慕ったり願ったりしないように、
つくられ、あがなわれ、聖とされたのです。

ちょうど鹿が小川を望むのと同じように、
私の魂もまたあなたを慕い求めるように、
私の中に永遠の命への聖なる渇きを起こしてください。
いかなる苦労や圧迫や迫害や悲しみも、
私をこの希望から引き離すことがないように、
助けてください。

なぜなら、私は、
私のあがない主が活きておられることをしっており、
この方に私がおいている希望は、
私を恥ずかしい目にあわせることなどは許さないからです。

どうか、あらゆる十字架と苦しみの中で、
永遠の命の希望が私を慰め、喜ばせ、
そうして、悲しみをみな和らげて取り除いてくださいますように。

ヨハン・アルント 「楽園の薬園」

2010年1月20日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」 第1回目の質問



第1回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第1章


第1章では、神様が私たちを救い出すためにしてくださったことすべてについて、神様に感謝をささげています。キリストはその血によって、私たちの罪を取り除いてくださいました。

クリスチャンである人は、神様の子供であり、(御国の)相続者です。


1)洗礼を受けている人は、神様の子供です。

主の祈りの中で、私たちは自分たちのお父様として神様に話しかけます。

私たちが神様の子供であり、神様が私たちのお父様であることを、

私たちは忘れることが多く、感謝する心も消えてしまうようです。

どうすればよいのでしょう。

私たちは祈るときに神様に感謝することが少なすぎるのでしょうか。

今日私たちは何について感謝することができるでしょうか。

感謝の詩篇の中では、どのようなことについて感謝がささげられていますか(たとえば、詩篇98篇や104篇)。

「祈りの日記」をつける人もいます。あなたがたは同じようなことをしていますか。

どうして人は自分が神様の愛する子供であることをなかなか信じられないのでしょうか。


2)第1章のはじめの部分では、どのように神様がすべてを導いておられるか、

はっきりと語られています。

なぜ私たちは偶然や幸運や不運などについて口にするのでしょう。

神様の導きに頼りすぎたり、間違ったやり方で逃げ込むことがありうるでしょうか。


3)神様の計画なさったことが、どのようにあなた自身や身近にいる人たちの上に見えるかたちで実現しているか、語ることができますか。

あなたが教会に連なっているのは、どのようなことに基づいているのでしょうか。

どのようなことがらについて、神様が共にいて助けてくださることにもっともわかりやすく気がつくことができるでしょうか。


4)あなたは聖書の中から、自分の人生に適用できる具体的な指針を見つけましたか。

どの聖書の箇所があなたの心に触れ、あなたのそれまでの考え方を変えさせましたか。


「エフェソの信徒への手紙」1章15~23節は、教会員は神様の秘密と栄光についてごく一部のことしかしっていないことを、あきらかにしています。

この事実を考慮に入れることが私たちにはできるでしょうか。

それとも、私たちは神様をあまりにも矮小化してしまっているのでしょうか。

2010年1月15日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 1章15~23節(後半)

第1章の後半部では、「エフェソの信徒への手紙」に特徴的なことがらが取り上げられています。
パウロは、信仰者たちが神様をしることを学ぶように、待ち望んでいます。
これは私たちにいろいろなことを考えさせます。
牢獄の底から神様の愛を賛美する声が聞こえてきます。
手紙の著者は神様とその愛をしることを学んだ人です。
それゆえ、彼は苦い思いにとらわれることなく、熱心に、また我を忘れて、大いなる秘密をしるようにと手紙の読者をいざないます。
神様は、手紙の受け取り手に、彼ら自身が理解したことよりもさらに多くのことを分け与えようとしておられます。このことは私たちにどんなことを教えているでしょうか。

私たちクリスチャンも信仰生活において、落ち込んでいたり、怠けていたりするものです。
それというのも、神様の愛が広大であることや、私たちの希望が素晴らしいものであることを、私たちはほとんど気づかずに日々過ごしているからです。
まさにここに私たちの信仰生活と教会全体の重大な問題がある、と私はますます確信を深めてきました。
問題は、私たちが十分に努力していない、という点ではありません。
また、信仰を証するのが下手である、とか、現代世界の発展から取り残されてしまった、という意味でもありません。
さらには、私たちは感情を揺さぶるような強烈な体験をしなければならない、とか、新しい恵みの賜物を獲得しなければならない、とかいう意味でさえありません。
ここでのポイントは、「エフェソの信徒への手紙」が語っていること、すなわち、キリストの十字架が語っている「神様の圧倒的に大きな愛」のうち、ごくわずかの部分しか私たちはしってはいない、ということです。

「エフェソの信徒への手紙」の勉強を次のことから始めましょうか。
あなたには、あなたのままで、ただキリストの十字架と神様の愛のゆえに、御父がおられます。
これまであなたは御父の善性や偉大さや愛をあれこれ想像してみることしかできなかったのです。
要求、脅迫、条件ではなく、ひたすら神様の善性のみに注目しましょう。

もしもこれについて何かしらわかるなら、私たちは今「爆弾」のようなものを取り扱っているのだ、ということに気がつくでしょう。ヘドベルグがそれをしったとき、(現在のフィンランド福音ルーテル協会につながる)福音運動がはじまったのです。私たちもそれをしるならば、私たちの中にもリヴァイヴァル運動が生じるのは大いにありうることです。

2010年1月11日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 1章15~23節(前半)

1章15~23節 信仰者は神様を知ることを学ぶべきです。(前半)

このテキストは私たちをパウロと共に祈りの部屋へと連れて行きます。
パウロは教会のことを絶えず祈りに覚え、これらの教会がいただいた恵みについて感謝をささげています。それと共に、パウロは、教会が信仰の基礎をよりよくしることができるように、祈っています。
さあ、皆さん、気をつけて聴いてください。
今ここで問題になっているのは、「まったく神様をないがしろにして生きている人がキリストをしるようになる」、ということではないのです。
「信じるようになった人たちは神様の愛の偉大さをしることを学ばなければならない」、ということについてパウロは語っているのです。
つまり、「教会の中でさえ、神様の栄光と力について、ごくわずかの部分しかしられてはいなかった」、ということです。

19~23節によると、とてつもなく偉大な神様の救いのみわざが、私たちの信仰に影響を与えています。神様はキリストを死者の中からよみがえらせ、天にある御自分の右の座に高く挙げられました。キリストは今、御父と共に、あらゆる見えるものと見えないものとの主です。
それもたんにこの世の時だけではなく、来るべき時においてもそうなのです。

サタンはあるときイエス様にこれらすべてのうちのほんのわずかのものをあげるという約束によって、イエス様を試みようとしました(マタイによる福音書4章8~10節)。
今やサタンの権力は打ち砕かれました。
キリストがこの世を支配しておられることを、私たちは今すでに信仰によって見ることができます。
キリストは教会のかしらであり、私たちは皆、一緒にキリストの体を構成しています(このことには第5章のおわりで取り上げます)。
これらすべてを実現したのは、私たちに対する神様のよき御心です。
私たち自身の中にではなく、まさしくそこに、私たちの希望の礎があるのです。