2013年3月25日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 7章53節~8章11節 イエス様と姦淫の女



イエス様と姦淫の女 753節~811

 
これは、人々の心を打つ特別に美しい箇所です。
イエス様は罪人の友である、というメッセージを伝えています。
この出来事はエルサレムで起きたと考えられます。
あるいは、
イエス様のこの世での人生の終わりに近い頃のことだったかもしれません。
そう考えて、この出来事から、
いっそう緊張した雰囲気を感じ取ることも可能でしょう。
  
この出来事には、
他の三つの福音書が伝える
「皇帝への税金」をめぐる議論と似た面があります。
イエス様がどう答えようとも、必ず罠にはまる仕掛けになっていたのです。
モーセの律法に忠実であることと、
罪人たちの友になることとを、
互いに結びつけて両立させるのは、不可能だったからです。
律法に忠実を貫き、姦淫をした女を殺すか(「申命記」222224節)、
あるいは、その女の罪を大目に見て、モーセの律法を否定するか、
そのどちらかを選ばなければなりませんでした。
  
イエス様はどうなさるでしょう。
イエス様は
この状況をすっかり掌握して、自由に振る舞われました。
そして、地面に何かお書きになりながら、
この仕組まれた劇的な状況が、
時間の経過とともに
本来の目的からはずれていくようになさいました。
イエス様は、
しつこく返答を迫る者たちを相手にせずに、
静かで穏やかなたたずまいを保たれました。
イエス様の一言によって、
今度は彼らが決断に迫られることになりました。
まず高齢で律法の知識に富む者たちが、
それから他の者たちが、
その場にいるのにいたたまれなくなり、何処へと姿を消しました。
最後にその場に残ったのは、
姦淫の罪を犯した女だけでした。
イエス様は彼女に罪の赦しを宣言し、
これからは悔い改めた者にふさわしい新しい生活を始めるように、
と彼女を送り出しました。
 
 

2013年3月22日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 8章31~59節 アブラハムの子孫か、悪魔の子孫か?(その2)


  
アブラハムの子孫か、悪魔の子孫か? 83159節(その2)
 
 
「ヨハネによる福音書」が書かれた時代にも、
こうした言葉には現実の重みがありました。
当時もキリスト信仰者は、
神様の民がイエス様を拒む
という状況の中で生活していたからです。
その時にも神様の民は、
自分たちがアブラハムの子孫であることを
持ち出したのはまちがいありません。
人が神様の民の一員であることには、
どのような益があったのでしょうか。
今ここで扱っている箇所は、この質問に明確に答えてくれます。
もしも人がキリストを拒むなら、
その人が選ばれた民の一員であることには、
何の益もないのです。


 
「ヨハネによる福音書」が伝える証は、
パウロの証と一致しています。
パウロは「イザヤ書」を引用しつつ、こう書きます、
「たとえイスラエルの民の数が海の砂粒ほど多いとしても、
彼らの中から救われるのは、ごく一部の生き残りです」
(「ローマの信徒への手紙」927節)。

  
話し合いの始めの部分では、
イエス様は御自分を信じるユダヤ人たちに話しかけ、
御自分が本当はどのようなお方か、教えました。
ところが、
ユダヤ人たちはこの教えを否定し、
イエス様を殺そうとしました。
そして、彼らは、
イエス様を信じることにも殺すことにも失敗しました。
(受け入れるにしろ、否定するにしろ)
イエス様を「しっかりとらえること」は、
彼らにとって容易ではなかったのです。

 

2013年3月20日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック  8章31~59節 アブラハムの子孫か、悪魔の子孫か?(その1)


  
アブラハムの子孫か、悪魔の子孫か? 83159節(その1)
  
 
イエス様がこの世に来られた後、
イスラエルの民の立場がどのようなものになったか
を考える時に、
これから取り上げる箇所は決定的な意味を持っています。
イエス様はユダヤ人たちに話されます。
「ユダヤ人」という言葉は、「ヨハネによる福音書」では、
「イエス様を拒んだユダヤ人」のことを
指していることがしばしばあります。
しかしここでは、イエス様は
御自分のことを信じるユダヤ人たちに対して
語りかけておられます。
ここでの話し合いは、一切をまったく新しい光のもとに照らし出します。
  
「信仰」という言葉は、「ヨハネによる福音書」では、
さまざまな意味で用いられています。
ここでのユダヤ人たちの信仰は、とても表面的なものでした。
彼らは、
イエス様が神様の御子である、と告白しなかったし、
世の罪を取り除くお方、暗闇の中で生きている人々の唯一の光である
とも信じてはいませんでした。
ほどなくして、話し合いは大きな意見の相違を生み出しました。
自分たちがアブラハムの子孫であることに依拠して、
ユダヤ人たちはイエス様を拒絶しました。
神様がアブラハムにお与えになった約束の一切は自分たちだけのものだ、
と彼らは考えていたのです。
   
イエス様はこの主張をきっぱりと否定なさり、
「私に反対する者は、アブラハムの子孫ではなく、悪魔の子孫である」、
と断言されました。
アブラハムは、キリストがこの世にあらわれることを前もって目にし、
それを喜びました。
それに対して、
ユダヤ人たちはキリストを拒み、殺そうとしました。
キリストを拒み、
キリストが御父の御許から来られたことを信じないユダヤ人たちは、
アブラハムとは実際は何の関係もないのです。
 

2013年3月18日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 8章21~30節 「私はある」 イエス様の真のお姿


 
「私はある」 イエス様の真のお姿 82130
  
 
イエス様はこの世を去っていかれることについて話されます。
ところが、またしてもユダヤ人たちはイエス様の言葉を誤解します。
それは、
彼らがイエス様を侮っていたからではなく、
神様の光を見ることがまったくできなかったからです。
聴衆は、イエス様の教えの頂点とも言えるこの箇所を、
ユダヤ人同様、理解できませんでした。
ここで「ヨハネの福音書」は、他のどの箇所よりも明瞭に、
御父と御子とが一体であることを語っているのです。
  
旧約聖書の「出エジプト記」で、
モーセが驚いて神様の御名前を尋ねるシーンがあります。
その時、神様は次のようにお答えになりました、
「イスラエルの人々にこう言いなさい、
「私はある」という方が私をあなたがたのところに遣わされたのだ、と」
314節)。
そして、イエス様もこの箇所で、
御自分について翻訳が困難なこの御名前を用いておられます、
「「私はある」ということを信じないのなら、
あなたがたは自分の罪の中に死ぬことになります」
(「ヨハネによる福音書」824節後半)。
御父と御子が一体であることを理解しない者は、
罪のゆえに死に支配されます。
この一体性を理解する者は、
御子が世の光として御父の御許から来られたことを信仰告白し、
罪の赦しを見出します。
イエス様の本質を信仰告白する人もいれば、
それを見ないで否定する人もいます。
イエス様の「この世を去られること」と「挙げられること」とを
どのように受け止めるかも、
イエス様の本質を理解しているかどうかによってちがってきます。
キリストと神様の一体性を否定する人は、
「キリストがこの世を去られること」を、
神を侮辱する者の死として見るだけですし、
「キリストが挙げられること」を、
天下の極悪人が万人の侮辱を受けるべく十字架にかかることとして
とらえるにすぎません。
御父と御子の一体性を見るように神様から目を開いていただいた人は、
「イエス様がこの世を去ること」が、
御父の栄光の中に御子が入られることであると理解して、
イエス様の十字架を大いに誇るようになります。
 

2013年3月15日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 8章12~20節 ガリラヤから昇る光 


   
ガリラヤから昇る光 81220
  
 
ここで7章の終わりに戻りましょう。
そこではイエス様の反対者たちは、
「ガリラヤから預言者が現れるという予言はない」、
と言ってイエス様を拒みました。
しかし、彼らは非常に大切なメシア預言を見落としていました。
「イザヤ書」(823節)には、
周囲から軽んじられてきたゼブルンとナフタリの地が
大いなる栄光を見ることになる、
とあります。
この予言の後にすぐつづいているのが、
平和の君がその民を解放するために来られる、
というクリスマスの預言です。
「子が私たちに生まれ、男の子が私たちに与えられました。
権威はその肩にかかっています」(「イザヤ書」95節)。
  
ベツレヘムでお生まれになるメシアのことについて触れた
「ヨハネによる福音書」は、
イエス様のたったひとつの御言葉によって、
ふたつの待望を結び合わせました。
メシアはベツレヘムとガリラヤからあらわれるはずだ、
という待望です。
まったく同様にして「ヨハネによる福音書」は、
イエス様のペルソナのふたつの側面[1]を結び付けました。
人々はイエス様が人としてお生まれになったことを知っていました。
これは、メシアの誕生については誰も知らないはずだ、
という予想とはずれていました。
人々はイエス様の神様としての出自を知らなかったし、
それを認めて告白することもありませんでした。
人々は御父を知らなかったので、
御子のことも知ることができませんでした。
彼らは御子を憎み、
神様が遣わされた光をかき消すために機会を窺っていました。
ここでまた「ヨハネによる福音書」の冒頭の「ロゴス賛歌」に戻りましょう、
「そして、光は暗闇の中で輝いています。
しかし、暗闇は光を我が物とすることができませんでした」(15節)。
 

[1] イエス様は、まったき神であり、かつ、まったき人であることです(訳者註)。

2013年3月13日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 8章1~11節の出自について


  
ガリラヤから昇る世の光
  
「ヨハネによる福音書」8
  
8111節の出自について
   
 
「ヨハネによる福音書」8章は、
多くのキリスト信仰者にとって特別な思いのある出来事によって始まります。
イエス様が罪の女を憐れんでくださったこの出来事については、
まず聖書の写本の問題を取り上げる必要があります。
   
古典時代のテキストはすべて、
たとえばキケロの演説やパウロの手紙なども、
私たちの時代にまで写本として保存されてきたものです。
印刷技術ができる以前には、
福音書を自分のものとするための唯一の方法は、
写本を手で書き写したコピーを入手することでした。
そして、コピーがオリジナルのテキストとまったく同一であったケースは
ごくまれでした。
コピーを作る時に一つの文字や一文が抜け落ちてしまったり、
まちがった場所に書き写されることもあったでしょう。
写本をコピーする人が、
写本の端に書き込まれていた註を本文の中に組み入れたり、
暗記していることがらを自分の文脈理解に基づいて
テキストに付け加えることもあったでしょう。
こうして難解な言葉や箇所に補足説明が加えられることもあったでしょう。
キケロやパウロが書き残したオリジナルのテキストを
再構成しようと試みる古典研究者は、
写本を相互に比較して本来のテキストの形を再構成するという、
興味深く手ごわい問題に取り組んでいます。
これは古典文献学において強靭な専門的知識が要求される仕事です。
研究対象が新約聖書である場合には、
さらに原語聖書の深い知識も必要です。
こういったあらゆる困難を越えてようやく、
例えば
新約聖書の原語のオリジナルテキストの文献批判的な版が構成されます。
この版では、ほとんどの場合にはほぼ確実と言ってよい確率で、
オリジナルのテキストと何百年も後から加筆された部分とが
互いに分別されています。
  
このようにしてできた写本が何百何千もあるということは、
キリスト教会はあやふやな基盤の上に成り立っている、
ということになるのでしょうか。
それはまったくちがいます。
私たちの信仰にとって決定的に重要なことは、
何一つとして写本間の相違によって疑問に付されてはいません。
ただし、
本来の新約聖書には入っていなかったと思われる、
皆に愛されてきた大切な箇所がふたつあります。
そのうちのひとつは「マルコによる福音書」16920節で、
他の福音書などで記述されている
イエス様の復活に関する出来事と一致する内容になっています。
もうひとつの箇所が、これから取り上げる
「ヨハネによる福音書」753節~811節です。
   
この箇所は、
新約聖書より何百年も後から書かれたものではありません。
それは古くからある福音書伝承に基づいています。
このテキストについては、
すでに西暦約130年頃ヒエラポリスのビショップが言及しています。
エウセビオスはそれを新約聖書の外典である
「ヘブライ人の福音書」の中に位置づけています。
この箇所は、おそらく非常に古くからある福音書の一部でしたが、
ただ私たちの手元に残された福音書には含まれていなかったのでしょう。
「ヨハネによる福音書」の流れをよりスムーズに追っていくために、
この箇所はこの章の最後で扱うことにしましょう。
  

2013年3月11日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第7回目の質問(7章)


  
「ヨハネによる福音書」7
  
7回目の質問
  
 
イエス様は仮庵の祭に出かけられ、
そこで公けに人々の前に姿をあらわされます。
  
1)仮庵の祭とはどのような祭でしたか。
なぜこの祭が祝われたのでしょうか。
  
2)イエス様の御兄弟とその他の御家族親戚について、
私たちは何を知っていますか。
  
3)イエス様は、「自分は仮庵の祭には出かけて行かない」、
と御兄弟に言われましたが、結局は祭に参加されました。
なぜこのようになさったのでしょうか。
  
4)21節でイエス様は、「ひとつのわざ」を行った、とおっしゃっています。
そしてその後で、安息日に行われる割礼についての話題に移られます。
イエス様がここで言及なさっているこの「割礼」とは何ですか。
なぜイエス様は割礼についての話をはじめられたのでしょうか。
  
5)27節でユダヤ人たちは、
「イエスがどこの出身か知っている」、と言います。
彼らは何を知っているつもりになっていたのでしょうか。
また、彼らは本当に知っていたのでしょうか。
  
6)イエス様を殺そうと思う者たちもいれば、
イエス様を信じる者たちもいました。
31節は、この後者の人々についてどのようなことを語っていますか。
なぜこのような人々のことを「信仰者」と呼ぶのでしょうか。
また、それはどういう意味でしょうか。
これは私たちにとってどのような意味をもっていますか。
  
7)3738節の箇所は、
聖書の翻訳によって意味がちがってくる場合があります。
どのような翻訳が可能でしょうか。
また、それぞれの翻訳の意味のちがいを考えてみてください。
  
8)40節で人々はイエス様について、
「この人はあの預言者にちがいない」、と言い合います。
この言葉は旧約聖書のどの箇所を指していますか。
  
9)ユダヤ人の聖書学者たちは52節で、
「ガリラヤからは預言者は出てこない」、と言います。
旧約聖書によれば、ガリラヤから昇ってくるのは何ですか。
  

2013年3月8日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 7章37~52節 渇いている者に命の水を!


 
渇いている者に命の水を! 73752
  
 
仮庵の祭は、その最終日に最高潮を迎えます。
その時に人々は普段以上に
「終わりの時」をめぐる多様な思いにとらわれたことでしょう。

ここで、活きた水に関する「ぜカリヤ書」の御言葉(148節)
を思い出しましょう。
祭における水の儀式の際には、
次の「イザヤ書」の御言葉が読まれたものと思われます、
「あなたがたは喜びをもって救いの井戸から水を汲むことができます」
123節)。
これが、イエス様が公けに話された内容の背景にあったことです。
「もしも渇いている人があれば、私のもとに来なさい。
私を信じる者はそれを飲みなさい。
(旧約)聖書にも言われているように、
その人の中から活きた水の流れがあふれ出すようになります」
(「ヨハネによる福音書」737節)。
イエス様は御自分を「活きた水の源」とみなしておられるのです。
この「活きた水」は聖霊様のことを指している、
「ヨハネによる福音書」は明確に告げています。
  
イエス様が「終わりの時に到来するはずのメシア」であるかどうかについて、
ユダヤ人たちが互いに意見を戦わせる様子を、
「ヨハネによる福音書」は実に見事に活写しています。
イエスは「例の預言者」なのか(「申命記」1818節)、
それともメシアなのか、
あるいはただのペテン師なのか。
「ルカによる福音書」や「マタイによる福音書」とは異なり、
イエス様がベツレヘムでお生まれになったことを
「ヨハネによる福音書」は明記していません。
イエス様の反対者たちは、
イエス様がベツレヘム出身ではなかったという「情報」に基づいて、
イエス様がメシアであることを否定しにかかります。
これは、開放的な魅力にあふれた「ヨハネによる福音書」が、
一方ではキリスト信仰者の間だけで密かに読まれることを
前提として書かれている点とも関係があるのかもしれません。
キリスト信仰者である「ヨハネによる福音書」の読者たちは、
上に挙げたユダヤ人の「情報」が間違いであることを
当然知っていたはずだからです。
  
この箇所の終わりには、興味深く重要な話し合いが出てきます。
ニコデモは、イエス様に反対するユダヤ人たちの態度に対して
「疑問」を呈し批判しました。
彼らがニコデモにどう答えたかは重要です。
当時のガリラヤはユダヤ人たちの蔑視の対象でした。
「ガリラヤ出身の預言者が現れる」という予言が存在しない以上、
イエスは偽メシアである、というのです。
この考え方に対して、イエス様は
812節以降での教え(「イエス様は世の光」)の中でお答えになります。
(旧約)聖書は、
ガリラヤ出身の預言者については沈黙しているとしても、
一方では、ガリラヤと光とを互いに結び付けて記述しているのです
(「イザヤ書」823節~96節)。