2018年12月21日金曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 3章1〜6節 朽ちることのない美しさ(その2)

3章1〜6節 朽ちることのない美しさ(その2)


ここでふたつのポイントをとりあげることにします。

キリスト教会が誕生して以来、
上に述べた「妻に対する指示」に従おうとするあまり、
女性信徒から装飾品など外面的な美を取り上げるような
行き過ぎも実行されたことがあります。

しかしそのようなことをしてみたところで、
女性信徒の内面の美しさは少しも増しはしませんでした。

現代のイスラム教の例を見てもわかるように、
強制的な命令によって女性の頭部を被り物で覆うようにさせることは
たしかに可能です。
しかしそれによって外面的な事象に人間の関心が向くのをなくすことは、
やはり不可能なのです。

問題の根はもっとずっと深いところにあるからです。

現代においては、
人々の関心が嫌になるほどまでに外面的なことがらに集中する一方で、
内面的なことがらは軽視されてしまう傾向があります。
今の若者たちは健全な環境の中で育っているとは言えません。
彼らは多くの支えを必要としているのです。

もうひとつのポイントは、今述べたことよりもはるかに深刻です。

多くの人にとって「ペテロの第一の手紙」の教えは
現代人である自分とはあまり関わりがない、とか、
内容が古すぎると感じられるものであるかもしれません。
しかしそれも、
この手紙の背景にある当時の状況と似た環境の中に自分自身が置かれてみると、
状況はまったくちがってきます。

このような環境は
多くのフィンランド人キリスト信仰者(多くの場合は妻のほう)にとっては
辛い現実です。
すなわち、自分の配偶者(多くの場合は夫のほう)が
神様の御国を無視した生き方をしており、永遠の滅びへの道を歩んでいる、
という現実です。

このような場合にはどうすればよいのでしょうか。

聖書の与える指示は明確です。
それは、愛と奉仕と祈りをもって、
自分の配偶者(多くの場合は夫のほう)が神様の御国の中に入れる道を
少しでも滑らかなものにしなさい、というものです。

この問題は多くの家庭において、
長期にわたる治療が不可欠であるほどの深い傷になっています。

しかし、現実がどれほど辛いものであっても、
この点においても奇跡を行う力のある活ける神様が
私たちと共におらえることを忘れてはいけません。

2018年12月14日金曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 3章1〜6節 朽ちることのない美しさ(その1)

 「ペテロの第一の手紙」第3章 

苦しみと希望

第2章の後半部において「家訓」とも称される奨励の部が始まりました。
ここには、様々な立場や環境の下で暮らしている
「キリストに所属する人々」を対象とする様々な指示が与えられています。
第2章で私たちは
僕(しもべ)の立場にある人々への奨励の内容と意味を検討しました。
以下では、
女性に対する奨励の内容をまず吟味し、
その次に男性に対する奨励の内容を学ぶことにします。


3章1〜6節 朽ちることのない美しさ(その1)

1〜6節は「妻」に対する指示の内容を述べています。
すでに見た通り「僕」(奴隷)に対する指示は
実のところすべてのキリスト信仰者の生活態度に関するものでしたが、
妻に対する指示の場合についてもこれと同様に考えることができます。
ペテロはここでも人の立ち居振る舞いのもつ大切な意味を強調します。
言葉だけでは人の心を動かせない場合もありますが、
模範的な態度のもたらす影響力は大きいからです。

「木はそれぞれ、その実でわかる。
いばらからいちじくを取ることはないし、
野ばらからぶどうを摘むこともない。」
(「ルカによる福音書」6章44節、口語訳)

イエス様のこのたとえの通りに、
キリスト信仰者ではない人々は私たちキリスト信仰者のことを、
私たちの言葉ではなく私たちの行いに注目して批判的に判断する場合が
多いのではないでしょうか。

そして、このことは家庭において特に顕著にあらわれます。
妻がキリスト教を信じるようになった結果として、
夫に対する彼女の態度が以前と比べて冷淡になるどころか
それとは逆に優しく愛に満ちたものになるならば、
夫もキリスト信仰者になりやすい環境が整えられていくことでしょう。

3〜4節において、使徒ペテロは
女性が美しく着飾ること自体を禁じているのではありません。
美的外観よりも決して朽ちない真の美のほうを大切にするように、
と奨励しているのです。
謙虚さに彩られた美しさを代表する例として、
ペテロはアブラハムの妻サラをあげています。

私たちもまたよい行いをするべきです。
その際、行いの結果として生じる新しい状況に恐れをなしてはいけません。

2018年12月10日月曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 2章18〜25節 僕としてのキリスト信仰者

2章18〜25節 僕としてのキリスト信仰者

キリストへの信仰を告白することが
それほど大きな困難を招かない場合が多い現代の世界とは異なり、
ペテロのこの手紙が書かれた当時の状況はたいへん厳しいものでした。
とりわけ過酷な立場に置かれたのは
キリスト信仰者となった僕(しもべ)たちでした。
彼らの主人がキリスト教を心から憎み、
キリスト信仰者である僕に過酷な労働を強いる場合もありました。
そして、悪事を働いたわけでもないのに
キリスト信仰者が懲罰を受けることがしばしば起きました。

このような場合には、いったいどうするべきなのでしょうか。
これに対して、ペテロは「キリストの模範」を提示します。

私たちの愛する主は自らの栄光にしがみつくことがありませんでした。
イエス・キリストは罪も責められる点もまったくないお方でした。
それにもかかわらず、
御自分を責める者たちを逆に責め返すことはなく、
怒ることも脅すこともなさらず、
御自分にかかわる一切のことを父なる神様にお委ねになりました。
このようにしてイエス様は全世界の罪を肩代わりし、
私たち皆に模範を示してくださったのです。

ですから、
「キリストに属する者たち」もまた、
イエス様の模範と同じような態度をとるべきなのです。
そして、
それ相応の理由から当然の苦しみを受けるのではなく、
まったく理由もないのに苦しみを受けるほうがよりよいことである、
と考えるべきなのです。

今まで見てきたように、
ペテロの手紙が奨励している内容はたいへん厳しいものです。
はたして私たちにはそれを主の御言葉として受け入れる力があるのでしょうか。
ここで基本事項を復習しておくことにしましょう。
すなわち、
他のすべてのことについてと同様に、このことに関しても、
上に述べてきた力は神様からのみいただけるものなのです。

私たち人間がするべきことは、キリストとその愛を見つめることです。
このキリストの愛こそが私たちのうちに変化をもたらします。
このような変化は私たち自身の力では決して実現できません。
この力あるキリストの愛の影響を受けて、
もしかしたら私たちは自分が傷つけられたことや害を受けたことを
忘れることができるようになるかもしれません。

皆さんはどう思われますか。

2018年12月5日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 2章13〜17節 キリスト信仰者とこの世の権威

2章13〜17節 キリスト信仰者とこの世の権威

キリスト信仰者は「この世の権威」に対して服従しなければなりません。

このことをパウロは「ローマの信徒への手紙」の第13章で
ごく手短に教えています。
ペテロは、やはりパウロ同様の簡潔さをもって、
これを自明のこととみなしています。

「主のゆえに従いなさい」
(「ペテロの第一の手紙」2章13節、口語訳)、
とペテロは言い、

「彼(この世の権威のこと、訳者注)は、
あなたに益を与えるための神の僕なのである」
(「ローマの信徒への手紙」13章4節、口語訳)、
とパウロは言っています。

この世における秩序と権威は、
言葉では言い尽くせないほど大いなる、
神様からいただいた賜物なのです。

この世の権威は、
「神様の僕」である自らの立場のことを忘れてしまう場合には、
神様から罰を受けます。

しかし、キリスト信仰者は
この世の権威に対して反乱を企ててはなりません。
「使徒言行録」(5章29節)にあるように、
神様の御言葉に反して行動するように
キリスト信仰者に対して要求することは、
この世の権威がしてはならないことです。

しかし、もしもそのような事態が起こる場合には、
私たちキリスト信仰者は、
「人間に従うよりは、神に従うべきである」
(「使徒言行録」5章29節、口語訳)、という原則に従うことになります。

初期のキリスト教会が一様に、
この世の権威に対して服従するように教えていたことを、
私たちは知っています。

今でもキリスト教徒への迫害は起きているし、
自分が住んでいる国の状況にもよりますが、
現代のキリスト教信徒の多くはこの教えに関して、
乗り越えるのが困難な問題に遭遇する機会はあまりないかもしれません。

しかし、たとえば、
国民の多数が福音ルーテル教会に所属しているフィンランドにおいてさえ、
キリスト教信徒が信仰にかかわる自己の良心を
清く保つことができないような職業もたしかに存在します。
人工妊娠中絶手術を施す義務を負わされている一部の専門医などがその例です。

とはいえ、キリスト教が迫害されている国を除けば、
神様に対する従順を貫くのか、それともこの世の権威に対して服従するのか、
そのどちらかを選択することが困った状況を生むケースは、
一般的にはそれほど多くないかもしれません。

それよりも、たとえば脱税などの不正によって、
この世の権威と神様との双方に対して険悪な状態になってしまうケースのほうが
実際にはしばしば見られるのではないでしょうか。

2018年11月28日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 2章11〜22節 この世におけるキリスト信仰者

2章11〜22節 この世におけるキリスト信仰者

ペテロは奨励の言葉を続けます。
この箇所のはじめの二節は一般的なことがらを扱っており、
なぜ皆にとってこのような奨励が重要なのか、
その主な理由を説明しています。

それは、
キリスト信仰者はこの世に出自をもつものではないため、
この世では常に不可避的に「寄留民」として過ごさなければならない、
ということです。

この視点の背景に、
神様の民が寄留民として荒野を歩み続けなければならなかった
イスラエルの過去の歴史があるのは確実です。

約束の地への旅の途上にある彼らに対して、
神様は固定された家屋を建てることを許可なさいませんでした。
神様が御民を「約束の地」に導き入れてくださるまで、
彼らは天幕で生活しなければならなかったのです。

それと同じように、
私たちキリスト信仰者も旅の途上にあります。
私たちは二つの世界の国民なのであり、
永遠の故郷へと向けて旅を続けています。

この旅において私たちは、
この世やこの世が提供する物事を貴重な唯一の宝物だと思い込んでいる
大勢の人々と絶えず衝突を繰り返していくことになります。

この点で、私たちは自らを常に検証し続ける必要に迫られます。
はたして私たちは自分がこの世に出自をもつ者ではないことを、
どれだけ意識して生活を送ってきたでしょうか。
それとも、
私たちはいつか神様の御前で自分のことを恥じることになるのでしょうか。

2018年11月23日金曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 祭司制と牧師職

 祭司制と牧師職

現代では「祭司制」と「牧師職」をめぐる論議は
すっかり混乱してしまっています。
神様の御言葉によれば、
教会にはキリスト信仰者全員による万人祭司制(1)と、
それとは別に存在する牧師職(2)という
ふたつの異なる役割が存在していることを、
私たちは今ふたたび学びなおす必要があります。

1)「万人祭司制」とは、洗礼を受けた人は祭司となる、という意味です。

神様の御国においては、
キリスト信仰者ひとりひとりに対してそれぞれ大切な使命が与えられています。
それを探し求めつつ、御言葉に対して従順にそれを実行していくことは、
キリスト信仰者に与えられた課題でもあります。

たとえば、あなたは子をもつ母親かもしれませんし、
あるいは自分の姉妹にとってただひとりの弟であるかもしれません。
また、あなたは職場で自分がキリスト信仰者であることを明言している
唯一の人間かもしれません。
あなたには歌の才能が与えられているかもしれません。
また、あなたの使命はキリスト教の良質な新聞や雑誌を
できるだけ多くの人に販売することかもしれません。

このように、神様の御国においてやるべき仕事は
御国の住人全員に対して十分にあるのです!

2)「牧師職」は、ルーテル教会信条集によれば、
神様が自ら設定なさった職種です。
この職については、たとえば
「ペテロの第一の手紙」の第5章や
「使徒言行録」の第20章で取り上げられています。

「牧師」(「エフェソの信徒への手紙」4章11節)、
「長老」(「ペテロの第一の手紙」5章1節)、
「監督者」(「使徒言行録」20章28節)など、
新約聖書で牧師を表す用語はいろいろありますが、
それらは内容的には同じものです。

神様はある特定の人を
その人が所属している教会の責任を担わせるために召命なさる、
ということです。

この牧師職は神様からの恵みの賜物です
(「ローマの信徒への手紙」12章7節)。
そして、この職を委ねられた者は、
とりわけ神様に対する忠実さを要求されます。

残念なことに、現代の私たちのルーテル教会においては
「万人祭司制」(キリスト信仰者全員に与えられた共通の責務)も
「牧師職」(特定のキリスト信仰者に委ねられた職業的責務)も
一様に軽視される傾向がみられます。
この点においても、私たちは各自悔い改める必要があります。

2018年11月16日金曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 2章1〜10節 キリスト信仰者は王族の祭司階級に属しています(その3)

2章1〜10節 キリスト信仰者は王族の祭司階級に属しています(その3)

前回引用したモーセが受けた御言葉は、
このペテロの手紙では、
民族的には異邦人すなわち非ユダヤ人によって構成された
キリスト信仰者の群れに宛てられたものとなっています。

ここで手紙の書き手は、
次に引用する旧約聖書の「ホセア書」2章23節に記されている
神様の約束に関する御言葉のことも
手紙の受け取り手たち自身にも当てはまるものとして書いています。

「わたしはわたしのために彼を地にまき、
あわれまれぬ者をあわれみ、
わたしの民でない者に向かって、
『あなたはわたしの民である』と言い、
彼は『あなたはわたしの神である』と言う」」
(「ホセア書」2章23節、口語訳)。

旧約聖書の預言書の一つである「ホセア書」は
新約聖書の他の箇所においても大切なメッセージを伝えています。
この書を通して神様は、
本来ならば「神の民」には属しえないはずの諸民族に語りかけ、
皆の予想を裏切るやりかたで、
「彼らもまた神の民である」と宣言なさいます
(「ホセア書」1〜2章)。

2018年11月9日金曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 2章1〜10節 キリスト信仰者は王族の祭司階級に属しています(その2)

2章1〜10節 キリスト信仰者は王族の祭司階級に属しています(その2)

この手紙の書き手はさらに話を進めます。
キリスト信仰者はたんに「神殿の石」であるにとどまらず、
それと同時に「神殿の祭司」でもあります。
しかも、
これはある特定の教会員たちだけに関わりがあることではなく、
神様の民全員について言われていることがらなのです。

この背景にはイスラエルの民に向けられた神様の語りかけがあります
(「出エジプト記」19章6節)。
この聖句のことはより詳しく研究する必要があります。

「「それで、もしあなたがたが、
まことにわたしの声に聞き従い、
わたしの契約を守るならば、
あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。
全地はわたしの所有だからである。
あなたがたはわたしに対して
祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」。
これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」
(「出エジプト記」19章5〜6節、口語訳)。

この語っている内容は、私たちがしっかりと学ぶべき大切な事柄です。
神様はひとつの民、イスラエルを御自分のために選び出されました。
しかし、
この選びによって神様が他のすべての諸国民を見捨てた、
という意味ではありません。

むしろ逆です。

イスラエルは諸国民の間で、
神様の善なる本質をすべての人に伝えていく
「祭司」としての役割を担うようになった、ということです。

このことは、
神様がアブラハムをお選びになった際に
「アブラハムを通してすべての諸国民が祝福を受けるようになる」
と告げてくださった出来事と内容的に共通するものです。

神様がひとつの民を選ばれたことは、
他の諸国民の犠牲による選択なのではなく、
むしろ、それら諸国民のためになる選択なのです。

2018年11月5日月曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 2章1〜10節 キリスト信仰者は王族の祭司階級に属しています(その1)


「ペテロの第一の手紙」第2章

「神様の民」に属しているのは誰でしょうか?

「ペテロの第一の手紙」はすでに第1章において、
私たちにこの手紙の特徴を伝えています。
この手紙には
素晴らしい「福音」とそれに続く「奨励」とが交互に記されているのです。
そして、この特徴は第2章でも続きます。


2章1〜10節 キリスト信仰者は王族の祭司階級に属しています(その1)

この章のはじめの2節は前に述べられた内容のまとめでもあります。

「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」
(1章24節、口語訳)。

これは本当です。
ですから、
キリスト信仰者は「小さい子ども」のようにならなければなりません。
生まれたばかりの乳児はただの水を瓶から飲むだけでは満足しません。
「混じり気のない本物の乳」以外のものだけでは満ち足りないのです。
本来、キリスト信仰者も
この「小さい子ども」とまったく同じような存在であるべきです。
私たちは神様の御言葉という「混じり気のない乳」以外のもので
満足するべきではありません。
もしも私たちに対して御言葉をねじ曲げた偽物が差し出される場合には、
教会全体が大声で異議を唱えるべきなのです。

聖書の他の箇所においてもしばしば見受けられる粛然とした態度で、
手紙の奨励の部がはじまります。
キリストは「隅の親石」です。
たしかに、はじめにキリストは捨てられました。
しかし、それから後になって、
キリストこそが「神様の御国」という建築物全体を支える
中心部であることが理解されるようになりました。

このようにして
「キリストの教会」についてのイメージが具体的に形作られていきます。
このイメージによれば、
キリスト信仰者は各人が「一個の石」として
神様の建築物の一部分を構成しています。

「神様の建築物とその一部分としてのキリスト信仰者」という同じイメージは
「エフェソの信徒への手紙」の第2章にも登場します。
「神様の宮」の一部分にさせていただくのは、
人間にとってこの上ない光栄です。

2018年10月31日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 1章13〜25節 結論へ!(その7)

1章13〜25節 結論へ(その7)

ペテロを通して新約聖書に記された御言葉は、
キリスト教信仰の核心に触れる感動的なメッセージです。
それはまた宗教改革者マルティン・ルターの
「小教理問答書」での「使徒信条」の説明の背景にもなっています。
この教えはキリスト信仰者ひとりひとりに日々の生活の指針を与えてくれます。

「主は、
(罪に)敗北し永遠の滅びの宣告を受けた人間である私を、
金銀によってではなく、
御自身の聖なる尊い血、
罪なくして受けた苦しみ、
および死によって、
あらゆる罪と死と悪魔の力とから救い出し、
獲得し、勝ち取ってくださったことを、
私は信じます。

それは、
主が死からよみがえり、
永遠(の世界)において支配しておられるのと同様にして、
私が主に帰属する者となり、
私も御国において主の御許で活きて、
永遠の義の中で罪のない祝福された者として
主に仕えるようになるためです。
これは確かに本当のことです」

(ルター「小教理問答書」の使徒信条の説明より。
ドイツ語版から高木が訳出)

2018年10月22日月曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 1章13〜25節 結論へ!(その6)


1章13〜25節 結論へ!(その6)

「あがない」という言葉は
新約聖書において極めて重要なキーワードになりました。
たとえば、次の一連の聖句を見てください。

「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。
神はその民を顧みてこれをあがない、
わたしたちのために救の角を僕ダビデの家にお立てになった」
(「ルカによる福音書」1章68〜69節、口語訳)。

「どうか、あなたがた自身に気をつけ、
また、すべての群れに気をくばっていただきたい。
聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、
あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」
(「使徒言行録」20章28節、口語訳)。

「彼らは、価なしに、神の恵みにより、
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」
(「ローマの信徒への手紙」3章24節、口語訳)。

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、
わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。
聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節、口語訳)

「わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、
その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである」
(「エフェソの信徒への手紙」1章7節、口語訳)

「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、
手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、
かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、
一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章11〜12節、口語訳)。

2018年10月3日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 1章13〜25節 結論へ!(その5)

 1章13〜25節 結論へ!(その5)

ここでもう一度、第一章の教えに立ち戻ることにしましょう。
ペテロは「キリスト信仰者が聖なる者にふさわしい生き方をするように」
と奨励するさいに、次のことを思い起こすように促します。

「あなたがたのよく知っているとおり、
あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、
銀や金のような朽ちる物によったのではなく、
きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」
(1章18〜19節、口語訳)。

新約聖書に登場する「あがない」という言葉には
元々いくつもの意味が含まれていました。
このことに関連して、
旧約聖書は当時の世界の多様な側面を生き生きと私たちに開示してくれます。

困窮した家族は自分の土地さえも失ってしまう場合がありました。
しかし、いずれその土地を「あがなって」買い戻すことも可能でした。
旧約聖書の「ルツ記」にその例が記されています。

奴隷も「あがなわれる」ことがありました。
すなわち、
奴隷を自由の身にするために買い取ることができたのです。

神様はダヴィデを死から「あがなって」くださいました。
すなわち、
避けがたく見えた破滅の事態から救い出してくださったのです。

それと同様にして、
神様はイスラエルの民をエジプトから「あがない」だされました。
「出エジプト記」に記されているこの出来事の背景には、
犠牲の小羊の血が罪を帳消しにし、
人々をその罪から解放するために「あがなった」という事実がありました。

また、「詩篇」130篇8節には
「主はイスラエルをそのもろもろの不義からあがなわれます」(口語訳)
とあります。