2022年4月27日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 信仰は見えないままでは終わらない 「ヤコブの手紙」2章14〜26節(その1)

 信仰は見えないままでは終わらない

「ヤコブの手紙」2章14〜26節(その1)

 

これから取り扱うのは

「ヤコブの手紙」をめぐって激しく議論されてきた箇所です。

ここでヤコブが戦っているのはパウロ本人とではなく

パウロをめぐる誤解とである

と多くの研究者は考えています。

それと同じように

パウロも自分の神学に対する人々の誤解を正さなければなりませんでした。

それらの誤解の中には

意図的なものもあれば錯覚によって生じたものもありました。

このことは次に引用するパウロの手紙のいろいろな箇所からも読み取れます。

 

「しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、

わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、

キリストは罪に仕える者なのであろうか。

断じてそうではない。」

(「ガラテアの信徒への手紙」2章17節、口語訳)

 

「むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」

(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。

彼らが罰せられるのは当然である。」

(「ローマの信徒への手紙」2章17節、口語訳)

 

「では、わたしたちは、なんと言おうか。

恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。

断じてそうではない。

罪に対して死んだわたしたちが、

どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。」

(「ローマの信徒への手紙」6章1〜2節、口語訳)

 

「ヤコブの手紙」が誤解を受けて問題視されたのは、

ヤコブが「行い」と「信仰」という二つの最も重要な神学用語を

例えばパウロが「ローマの信徒への手紙」3〜4章で用いたのとは

異なる意味で用いたからでもあるでしょう。

 

パウロにとって、

何によって人は救われるのかという根拠を問うた時に

「信仰」と「行い」とは対極的に位置付けられるはずのものでした。

「行い」とは人が救われるために必要な前提条件なのか、

それとも人が救われた結果生じてくるものなのか、

というのがこの問題の核心です。

 

それに対してヤコブは、

人が信仰に入った後にどのようなことがそれに続いて起きてくるか

について述べています。

「信仰」は信じるようになった人に具体的な影響を及ぼすものなのか、

それとも何の影響ももたらさないのか、

という問題であるとも言えるでしょう。

2022年4月6日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 結び目の強度は一番弱い箇所で決まる「ヤコブの手紙」2章10〜13節(その3)

結び目の強度は一番弱い箇所で決まる

「ヤコブの手紙」2章10〜13節(その3)

 

様々な被造物や事柄に対して奴隷のように振り回されないかぎりにおいて、

人は自由な存在でありえます。

真なる自由は神様の御意思のうちにのみ見出されます。

人は神様の御意思のうちにおいてこそ

自分に本当にふさわしい場所を見つけることができるからです。

 

「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。

あわれみは、さばきにうち勝つ。」

(「ヤコブの手紙」2章13節、口語訳)

 

実際に私たちの拠り所となっているのが罪の赦しの恵みであるのか、

あるいは一般的な公正さなのかは私たちの行いからわかります。

これがヤコブの指摘していることです。

 

最後の裁きの時に神様に対して

「神様、どうか私を憐れんでください!」と言うのと

「神様、どうか私に対して公正であってください!」と言うのとでは

大きなちがいがあります。

 

私たちのうちの誰ひとりとして

全ての律法の要求を完全に満たすことはできません。

それゆえ、私たちが律法を通して救われようとする試みはうまくいかないのです。

私たちに残されているのは恵みの道だけです。

しかし、もしも私たちが本当に恵みの道を歩んでいるのなら、

私たちは互いに対して憐み深い態度を示すようになるはずです。

このことについては

憐みに欠けた僕に関するイエス様のたとえを参照してください

(「マタイによる福音書」18章21〜35節)。

またイエス様は有名な山上の垂訓においても次のように教えておられます。

 

「あわれみ深い人たちは、さいわいである、

彼らはあわれみを受けるであろう。」

(「マタイによる福音書」5章7節、口語訳)

 

ところが、もしも互いに対して憐みに欠けた態度を取るならば、

神様が私たちに憐み深く接してくださることを期待するべきではありません。

 

「律法による救いの道」は

私たちが天まで登り詰めていくために全身を預ける

「鎖の輪」にたとえることができるでしょう。

たとえ鎖の大部分がどれほど良質で頑丈であっても、

いくつかの質の悪い鎖がちぎれてしまうなら、

私たちはどうしようもなく下へ下へとひたすら落ちていくほかありません。

とはいえいったいどこに落ちていくのでしょうか。

神様の恵みの中になのでしょうか。

それとも孤独な戦いを再開する場所になのでしょうか。