2019年12月13日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 「詩篇」51篇


「詩篇」51篇

51:1
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、

51:2
これはダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの

51:3
神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。

51:4
わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。

51:5
わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

51:6
わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
あなたの前に悪い事を行いました。
それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

51:7
見よ、わたしは不義のなかに生れました。
わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。

51:8
見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。
それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。

51:9
ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。
わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。

51:10
わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。

51:11
み顔をわたしの罪から隠し、
わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。

51:12
神よ、わたしのために清い心をつくり、
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

51:13
わたしをみ前から捨てないでください。
あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。

51:14
あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。

51:15
そうすればわたしは、とがを犯した者にあなたの道を教え、
罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。

51:16
神よ、わが救の神よ、
血を流した罪からわたしを助け出してください。
わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。

51:17
主よ、わたしのくちびるを開いてください。
わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。

51:18
あなたはいけにえを好まれません。
たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。

51:19
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。

51:20
あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、
エルサレムの城壁を築きなおしてください。

51:21
その時あなたは義のいけにえと燔祭と、全き燔祭とを喜ばれるでしょう。
その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。

(口語訳)


最も有名な「詩篇」のひとつであり
「ざんげの詩篇」の中でも一番よく知られているこの「詩篇」51篇は
ふたつの視点から読むことができます。

第一の視点は、私たちキリスト信仰者にとってなじみのあるものです。
ひとりの人間が聖なる神様の御前で自らの罪の告白をする様子を
この「詩篇」から読み取る、というやり方です。

第二の視点は、この「詩篇」をしめくくる言葉が示唆しているように、
詩人はイスラエルの民全体の罪のことを嘆いており、
エルサレムが本来あるべき姿に戻ることを希求している、という読み方です。

第一の視点はこの「詩篇」を、1節の説明の通りに、
ダヴィデ(ダビデ)の人生で起きた具体的な事件に関連付けて理解します。
この「詩篇」の解き明かしのためにルターは何十ページも紙片を費やし、
その冒頭に 
「罪とは何か、それはどこに由来するか、
それはどのような害をもたらすか、
どうすればそれから解放されるのかについて教えている詩篇」
という表題をつけました。
「詩篇」を教える機会のある人は、
ルターの情熱がよく反映されている次の序文に自然な共感をもつことでしょう。

「私は次のことを正直に告白するほかありません。
この「詩篇」を通して語りかけておられる
高貴さに満ち溢れたお方である御霊のことを、
私はいまだに理解することもできないし、
そのお側に近づくこともできないのです。
それでも私は自分もあなたがたと同じく生徒となることで
私たち全員が生徒になり、一緒にこの「詩篇」を学び、
どのようにして聖霊様が私たちのうちに働きかけてくださるのか、
希望を持って待ち続けたいと思います。
そして、御霊が与えてくださることを私たちは感謝して受け取りたいと思います。
この「詩篇」の教えを学んで理解することは
私たち皆にとって必要不可欠です。
なぜなら、
この「詩篇」には私たちのキリスト教信仰における
最も重要な教義の内容が扱われているからです。」(マルティン・ルター)

次に、第二の視点を通して私たちは
イスラエルの歴史に関する基本事項を学び直すことができます。
解釈が難しい20〜21節は
きわめて具体的な歴史的状況に関連している可能性があります。
ユダの民は何百年間も神様の御意思に反抗し続けた挙句に、
紀元前586年にはついに国家としての独立を失い、神殿と王座も取り去られ、
強制的にバビロンへと連れ去られて捕囚の身となりました。
捕囚先の地において自らの罪深さをようやく自覚した民は
全能の神様に罪の赦しの恵みを祈り願いました。
神様はエルサレムの城壁を再び再建する力のあるお方であることを
ユダの民はバビロン捕囚の時においても理解していたからです。
確実ではないものの、おそらくこの20〜21節は
このような歴史的状況に関連しているのではないかと思われます。

2019年11月29日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様への叫び 「詩篇」38篇10〜23節(その2)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

神様への叫び 「詩篇」38篇10〜23節(その2)

宗教改革者マルティン・ルターは
彼の人生の決定的な転換期にあたる1514年に、
この「詩篇」に素晴らしい慰めを見出しました。
ルターは この「詩篇」を通じてキリストの苦しみの絶叫を聴き取り、
次のように書いています。

「これは、私たちの罪のせいで苦しみの只中に放り込まれた
私たちの贖い主の叫びであり嘆きです。
キリストは私たちの身代わりとして呪いと罪になり
(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節、
「コリントの信徒への第二の手紙」5章21節)、
私たちの罪をその身に担ってくださいました
(「イザヤ書」53章12節)。

キリスト御自身がこの「詩篇」で語っておられ、
父なる神様に対して私たちの代わりに私たちの罪を告白し、
御自分に対して罪の赦しを願い求めています。
すなわち、
キリストにおいて、キリストを通して、
私たちにも罪の赦しを求めておられるのです。

それゆえ、
この「詩篇」の言葉によって祈ることを通して
何らかの霊的な糧を得たいと望む者は、
自分自身において祈るべきではなく、キリストにおいて祈るべきです。
それと同時に、
キリストがこの「詩篇」のように祈っておられるのを聴き取るべきなのです。

さらにまた、
祈る者は自分の心をキリストの心と結びつけ、
キリストと共に「アーメン」と言わなければなりません。

キリストは私たちのために洗礼を聖なる礼典としてくださいました。
キリストは私たちのために洗礼を受けることを望まれました。
それとまったく同様にして、
キリストはまた私たちのために罪を告白してくださったのです。

教父アウグスティヌスによれば、
キリストと全キリスト教会は、
花嫁と花婿がそうであるようにひとつの身体です。
ですから、
彼らにひとつの同じ体と頭があるように
彼らにはひとつの同じ言葉があるということは、
はたして不思議なことでしょうか。」
(マルティン・ルター)

2019年11月22日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様への叫び 「詩篇」38篇10〜23節(その1)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

「詩篇」38篇


神様への叫び 「詩篇」38篇10〜23節(その1)

人は様々な苦しみを受けるものですが、
多くの人が最も苦しめられるのは「孤独」ではないでしょうか。
この孤独の問題について詩人はここで語り始めます。

敵が詩人に襲いかかってきました。
詩人自身の罪がそれを誘引した面もあるでしょう 
敵からの集中攻撃を受けている詩人を目の当たりにして、
詩人の友人たちは彼から離れ始めました。
敵どもは詩人を包囲していますが、
これは神様の許可があったからできたことです。
眼前の敵に対して詩人にはなすすべがありません。
彼にできることは神様に助けを叫び求めて祈ることです。
そのようにして彼は唯一の安全な「避難所」に身を隠します。

この詩人が結局どうなったのか「詩篇」は語っていません。
神様が自分を救ってくれることを詩人が確信していたかどうかも、
この「詩篇」からは伝わってきません。
しかし
「神様はあらゆるものを超越した大いなるお方である」
という事実だけははっきりと伝わってきます。

困難な状況が現出するのを許されたのが神様御自身なのだとすれば、
やはり神様だけが詩人を苦境から救い出す力を有しておられることにもなります。
だからこそ、
人は神様の御前で心から祈り叫ぶことができるのだし、
また神様から本当に助けをいただけることを確信できるのです。

2019年11月15日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 「詩篇」38篇1〜9節(その3)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について


神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 
「詩篇」38篇1〜9節(その3)

さらに「成功の神学」の信奉者たちは、
主の使徒たちが嘲られ侮蔑され鞭打たれる聖書の箇所をも
素通りするほかありません。
このような神学によってはまったく理解することができないこと、
すなわちこの神学がまったく聖書的ではないことを
ひときわ鮮やかに示す聖書の箇所は
「ヨブ記」のとりわけ以下に引用する21章でしょう。


なにゆえ悪しき人が生きながらえ、老齢に達し、かつ力強くなるのか。
その子らは彼らの前に堅く立ち、その子孫もその目の前に堅く立つ。
その家は安らかで、恐れがなく、神のつえは彼らの上に臨むことがない。
その雄牛は種を与えて、誤ることなく、
その雌牛は子を産んで、そこなうことがない。
彼らはその小さい者どもを群れのように連れ出し、その子らは舞い踊る。
彼らは手鼓と琴に合わせて歌い、笛の音によって楽しみ、
その日をさいわいに過ごし、安らかに陰府にくだる。
彼らは神に言う、
『われわれを離れよ、われわれはあなたの道を知ることを好まない。
全能者は何者なので、われわれはこれに仕えねばならないのか。
われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。
見よ、彼らの繁栄は彼らの手にあるではないか。
悪人の計りごとは、わたしの遠く及ぶ所でない。」
(「ヨブ記」21章7〜16節、口語訳)

神様をないがしろにする人々の「ランプ」が暗闇の中に立ち消えることは、
この世で頻繁に見られる現象ではありません。
神様を拒む富裕層が、
あたかも口に砂利をつっこまれるような屈辱的な体験をすることは
まず起こらないといってよいでしょう。
それどころかまったく逆に、
彼らは普通なら不満の全く出ないような大成功を
この世で収めることがよくあります。

少なくとも一部のキリスト教徒にとって
「成功の神学」はとても魅力的な教えに映るようです。
しかし、これは
神様の真理とはまったく関わりのない反キリスト教的な教えなので、
断じて許容するべきではありません。

主は、御自分に従うよう御許に招かれる人々に対して、
成功や健康を保証してはくださいません。
その代わりに主は、
十字架と辛苦とを私たちに差し出され、
御言葉に書かれてある通りのことを行われます。
しかしまた、
主のみがキリスト信仰者たちに真の命を与えてくださるお方でもあるのです。

2019年11月8日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様は罰を下すことがあるのでしょうか?「詩篇」38篇1〜9節(その2)

神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 「詩篇」38篇1〜9節(その2)
                                                            

「神様の罰」とはそもそもどういう意味なのか考えてみるのも時には大切です。

もしもあることがらが神様の罰なのだとしたら、
神様からはもう何も「よいこと」を期待するべきではない、
という結論になるのでしょうか。

神様の罰が何らかの意味で「よいこと」である場合ははたしてあるのでしょうか。
それとも、
神様の罰はいかなる場合にも例外なく常に「悪いこと」なのでしょうか。

この「詩篇」でも、また聖書の他の箇所においてもはっきり描かれていますが、
真なる神様は
罪には罰を下す一方で、
御心に従順な者には祝福を賜るお方です。

罪に対する罰の宣告については例えば
「マタイによる福音書」3章7節、
「ヘブライの信徒への手紙」3章11節、
「ヨハネの黙示録」6章16節などに見ることができます。

このことからどのような結論が導き出せるのでしょうか。
この世では、
粗雑な結論を性急に下したがる自称「聖書の教師」たちが
積極的に活動しています。
彼らのメッセージによれば、
金銭、健康、成功などは
「よい生活」を送った人間に対して神様が与えてくださる
「報酬」であるとされます。
ですから、
もしもそれらの要素があるキリスト教徒に欠けているならば、
それはその人のどこかに問題があるからである、ということにされます。
いわゆる「成功の神学」の信奉者たちはこのような調子で教えを垂れます。
最悪の場合には
「病気や貧困やあらゆる弱さには常に原因があるのだ」
と一方的に決めつけます。
「自分が神様に受け入れられている証拠として、
溢れるばかりに多様な賜物を与えられるほどの高みに達するまで
キリスト信仰者は自らの生活を改善していかなければならない」
といったメッセージを彼らは喧伝します。

しかしこれは、
実際に様々な苦痛に耐えている人々への同情心に欠ける冷淡な態度であり、
聖書の教えに従っているとはまったく言えません。
このような調子で聖書を理解していく者たちにとって、
キリストの受難の道を見つめることや、
御自分の民に対して十字架と苦難を与えるという主の約束に耳を傾けることは、
とうてい承服しがたいことなのです。

2019年10月30日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 「詩篇」38篇 神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 38篇1〜9節(その1)

「詩篇」38篇

38:1記念のためにうたったダビデの歌
38:2主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、
激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。
38:3あなたの矢がわたしに突き刺さり、
あなたの手がわたしの上にくだりました。
38:4あなたの怒りによって、
わたしの肉には全きところなく、
わたしの罪によって、
わたしの骨には健やかなところはありません。
38:5わたしの不義はわたしの頭を越え、
重荷のように重くて負うことができません。
38:6わたしの愚かによって、
わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。
38:7わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、
ひねもす悲しんで歩くのです。
38:8わたしの腰はことごとく焼け、
わたしの肉には全きところがありません。
38:9わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、
わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。
38:10主よ、わたしのすべての願いはあなたに知られ、
わたしの嘆きはあなたに隠れることはありません。
38:11わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、
わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。
38:12わが友、わがともがらは
わたしの災を見て離れて立ち、
わが親族もまた遠く離れて立っています。
38:13わたしのいのちを求める者はわなを設け、
わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、
ひねもす欺くことをはかるのです。
38:14しかしわたしは耳のきこえない人のように聞かず、
口のきけない人のように話しません。
38:15まことに、わたしは聞かない人のごとく、
議論を口にしない人のようです。
38:16しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。
わが神、主よ、
あなたこそわたしに答えられるのです。
38:17わたしは祈ります、「わが足のすべるとき、
わたしにむかって高ぶる彼らに
わたしのことによって喜ぶことを
ゆるさないでください」と。
38:18わたしは倒れるばかりになり、
わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。
38:19わたしは、みずから不義を言いあらわし、
わが罪のために悲しみます。
38:20ゆえなく、わたしに敵する者は強く、
偽ってわたしを憎む者は多いのです。
38:21悪をもって善に報いる者は、
わたしがよい事に従うがゆえに、わがあだとなります。
38:22主よ、わたしを捨てないでください。
わが神よ、わたしに遠ざからないでください。
38:23主、わが救よ、
すみやかにわたしをお助けください。
(口語訳)


神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 38篇1〜9節(その1)

この「詩篇」には様々な危機の只中にある人間の姿が描かれています。
自らの罪のゆえにその人は神様と離れてしまいました。
友人たちは彼に背を向け、敵からの襲撃も受けています。
彼にとってとりわけ辛い悲しみをもたらしているのは、神様の怒りです。
詩人はきわめて具体的な苦しみを受けています。
心情的な苦悩のほかに肉体的な苦痛もまた詩人を苛んでいます。
詩人は自らの苦しみの原因を隠そうとはしません。
「神様は自分をその罪のゆえに罰しているのだ」と彼は考えます。

ここで私たちははっとします。

はたして神様は罰を下すお方なのでしょうか。
「不幸は自らの罪と神様の怒りによって生じる」
という憐れみに欠けた聖書解釈がこの「詩篇」にも表れているのでしょうか。
現代においても、人間の苦しみの原因に対して
このような冷淡な説明をもって事足れりとするべきなのでしょうか。
「私に降りかかった不幸は神様の怒りのあらわれなのでしょうか」
と苦しげに牧師に尋ねる人に対しても、
このような答え方をするべきなのでしょうか。
神様の恵みと愛はいったいどこに忘れられてしまったのでしょうか。

このような疑問が生じるのはいたって当然であり、
決して忘れてよいものではありません。
このことを踏まえた上でも、
詩人が神様の怒りの下で自らが受けた罰について
嘆き苦しんでいることにはやはり変わりがありません。

さきほどの数々の疑問に答えようとする場合、
表面的でおざなりな説明で済まされてしまうことがしばしばあります。
しかし、いざ真剣に取り組んでみると、
想像していたのとはちがって、
これが容易ならざる問題であることがわかってきます。

神様と本気で取り組み合うくらいの心構えが必要になるのです。

2019年10月22日火曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 他の人たちも学んでください! 「詩篇」32篇6〜11節



「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

他の人たちも学んでください! 「詩篇」32篇6〜11節

自らの体験について語った後で、
詩人はまず神様に感謝を捧げ、
その後に聴衆全員のほうに視線を向けます。

もしも重荷を嫌々運んでいる牛を鞭打つのと同じようにして
人を神様の御心にかなう道のほうに連れていかなければならないのだとすれば、
とても残念なことです。

すべての人間は、
この世で神様をひどくないがしろにした不信仰な生活を送った人も含めて、
最後の裁きの時が来ると神様の御前に引き出され、
自分の歩んだ人生について申し開きをしなければならなくなるからです。
ですから、
御心にかなう生き方をするほうが結局は人間にとって「楽な生き方」になります。

御心にかなう生き方とは、
公正な裁きをなさる義なる神様の御前にひれ伏して、
イエス様による罪の赦しの恵みだけが
罪深い自分を救い出してくれることを信じる生き方です。

ルターはこの「教えの詩篇」の内容を次のように要約しています。

「これは、罪とは何か、
人が罪から解放されるためにはどうするべきか、
神様の御前で人が義とされるためにはどうすべきなのか、
ということを教えています。
なぜなら、
理性は罪が何であるか知らないし、
よい行いをすれば罪を拭い去ることができると勝手に思い込んでいるからです。
ところがこの「詩篇」によれば、
キリスト信仰者も皆、罪深い存在なのであり、
聖人でも「さいわいな者」でもありません。
そうではあるものの、
彼らが神様の御前で自分たちが罪人であることを告白し、
自らの功績や行いによってではなく
恵みによってのみ神様の御前で義なる者と認めていただけることを知る場合に、
彼らは「聖なる者」や「さいわいなる者」とされるのです。」 
(マルティン・ルター)