2020年1月29日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 言い訳は何もせずに 「詩篇」51篇1〜7節(その2)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

言い訳は何もせずに 「詩篇」51篇1〜7節(その2)

次にわかるのは「罪が本質的にどのようなものであるか」ということです。
ただたんに私たちが思いや言葉や行いによって神様に反対することだけが
罪なのではありません。
これらのこともすべて罪であるのは言うまでもありません。
しかし、罪とはこれらのことよりもさらに重大な事態なのです。
これに関連するルターの言葉を以下に引用します。

「もしも罪について正しく教えたいと思うのなら、
罪や、神様をないがしろにしたありとあらゆる悪い行いが
いったいどこから生じて来るのかを知るために、
罪そのものをよりいっそう深く観察しなければなりません。
「行いによる罪」についての考察だけでは十分ではありません。
「罪とは何か」を知らないという誤りのせいで
「恵みとは何か」というもうひとつの大切なことがらも理解できなくなる
という誤りが生じます。
その結果として、
聖書の教師は死や神様の怒りや裁きを恐れて怯えている人々の良心を
どうにも慰めることができずに途方にくれて無力感にとらわれるのです。」
(マルティン・ルター)

私たちは自分自身の心のうちに住んでいる罪と、
私たちが実際に行う個々の罪との間に
一線を引いて区別する訓練をするべきです。
罪とは、私たちのうちに巣食っている破壊し尽くす力のことです。
これを自分の内部から抜き去ることは
私たち人間にはどのようにしてもできません。
もしも神様が助けてくださらないなら、私たちはまったく無力です。
この罪は「原罪」と呼ばれます。
そして、私たちは原罪についてのきわめて明瞭な教えを
まさしくこの「詩篇」の箇所に見いだすことができます。
この原罪の教義によれば、生まれたばかりの人間は
そこにまだ何も書かれていない真新しい板(タブラ・ラサ)などではありません。
人間は皆いわば「神様に対して背を向けて」生まれてくるのです。
人間は生まれた時点ですでに罪と神様の裁きの下に置かれています。
理性に頼って物事を考える傾向のある人間は、
キリスト信仰者であるかないかにはかかわりなく、
このような教えを受け入れようとはしないでしょう。
しかし、明瞭な聖書の御言葉がすべての正しい信仰の源泉である
と信じる人にとってはこれは否定しようがない事実なのです。

2020年1月22日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 言い訳は何もせずに 「詩篇」51篇1〜7節(その1)


「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

言い訳は何もせずに 「詩篇」51篇1〜7節(その1)

詩篇朗唱者の包み隠さぬ悲嘆の叫びは何千年もの間、
多くの人々の心にも響きわたりました。
詩人は神様の御前において、
主の神聖なる御意思に従わなかった自らの罪の負債に縛られています。
詩人は神様の厳しい裁きを受けるのが当然であるような
罪を犯してしまったのです。

確かに直接的に見れば、詩人は人間を相手に罪を犯しました。
ところが本質的には、彼は聖なる神様に対して罪を犯したことになるのです。

この「詩篇」に関連するダヴィデの罪について言えば、
彼は隣り人にかかわる第五戒と第六戒を破ったのみならず、
神様にかかわる第一、二、三戒も破ったことになります。

「十戒」をよく知らない人のために、以下に全文を引用しておきます。

神様の十戒

第一戒 あなたは、私のほかに他の神々をもってはならない。
第二戒 あなたは、神様の御名をみだりに唱えてはならない。  
第三戒 あなたは、安息日を聖としなければならない。
第四戒 あなたは、父と母を敬わなければならない。
第五戒 あなたは、殺してはならない。
第六戒 あなたは、姦淫してはならない。
第七戒 あなたは、盗んではならない。
第八戒 あなたは、あなたの隣り人に対して偽りの証を言ってはならない。
第九戒 あなたは、あなたの隣り人の家を欲してはならない。
第十戒 あなたは、隣り人の妻、男の使用人、女の使用人、家畜、
また彼のものを欲してはならない。
(マルティン・ルター「大教理問答書」序文(ドイツ語版)より)

詩篇朗唱者はまったく自己弁護を試みません。
彼の罪は偶発的な事件ではありませんでした。
このことは、彼が生まれながらに罪深い存在であること、
そればかりか、罪深い一族から生まれたことをも示しています。

また、この「詩篇」をユダの民の視点からみてみると、
捕囚へと至る過程がはっきりと浮かび上がってきます。
神様から繰り返し警告を受けていたにもかかわらず、
彼らは「十戒」に違反する罪深い態度を改めようとはしませんでした。
その結果として国は滅び、民全体は捕囚の身となったのです。


「この「詩篇」には最も重要なキリスト教信仰の教義が扱われている」
というマルティン・ルターの発言は大いに頷けるものです。

「罪は究極的には常に神様への反抗として立ち現れる」
ということがまずわかります。

ダヴィデは自分の忠実な部下であるウリヤの妻バト・シェバと密かに姦淫し、
それを隠蔽するために策を弄した挙句、
ウリヤを戦地で敵の手によって間接的に殺害させました。
この点で、ダヴィデは隣り人に対して重大な罪を犯しました
(第五戒および第六戒にかかわる罪)。

しかしそれと同時に、
ほかでもなく神様の御名そのものが人々の間で侮辱されることになったのです
(第一戒から第三戒までにかかわる罪)。

なぜなら、神様はダヴィデを「御自分のもの」として特別に選び出し、
彼に大いなる祝福の約束を与えてくださったからです。
しかも、ダヴィデは偉大な宗教改革者として民衆の前に登場した王
(神様から油注がれて聖別された者)でもあったからです。

ところが、今やダヴィデも民全体も共に、
信仰をまったく捨てたのに等しい状態に陥ってしまいました。

これほどまでに事態が深刻化した理由は
「神様のもの」であるはずの者たちが罪を犯したからに他なりません。