2012年3月30日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 11章15~19節 権能を手にされる神様

 
権能を手にされる神様 111519
  
 
第七の天使がラッパを吹き、
この世界の時間(あるいは時間の世界)は終わりを告げます。
御自分の全能を公に示された神様が天国で賛美を受けられます。
神様は今でも全能ですが、
終わりの日に、皆の目の前で、
「すべての権能」を御自分のものとされます。
それは、あらゆる悪の終焉を意味します。
そして、神様が支配なさる永遠の世界が始まります。
しかしその前に、最後の裁きが来ます。
18節はそれについて語っています。
神様に属する人々には「褒美」が待っています。
とはいえ、その褒美は、
人々に各々その行いに従って与えられるものではありません。
皆が同じ褒美をいただきます。
すなわち、
イエス様が私たちのために「購入」してくださった永遠の命を、
神様に属する人々は最後の日にいただく、
ということです。
最後の裁きには、もうひとつの選択肢があります。
すなわち、
この褒美をもらえない者たちは、
苦しみが永遠につづく滅びの世界に入る
ということです。
この宣告は、神様に属さない人々にあてはまります。
 

2012年3月28日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 11章3~14節 二人の証人(その3)

  
二人の証人 11314節(その3)
  
 
7節では、深淵から上ってくる獣が
二人の証人に対して戦いを挑んで勝ち、彼らを殺します。
「獣」は悪魔の使いをあらわし、
獣が神様の証人を殺す場所である「都市」は
悪魔の王国をあらわしています。
もしも「二人の証人」が神様の教会を意味しているのであれば、
ヨハネは今、
悪魔が教会を激しく攻撃し、
それに勝利するかのように見える状況の描写に
接していることになります。
キリストの再臨の直前、
イエス様に従う人々のグループは
打ちのめされ敗北したような有様になる、
ということなのでしょう。
ところが、それから奇跡が起こります。
死者が生き返り、教会は死者の中からよみがえり、
光り輝く天国の神様の御許へと召されていきます。
悪魔が戦いに勝ったようには見えても、
その実、最後の言葉を口にするのは神様なのです。
神様は御自分に属する人々に勝利を与え、
それとは逆に、
すでに勝利したかに見える悪魔には敗北を与えられます。  
  
近年、私たちは「ヨハネの黙示録」がここで語っていることを、
ある程度まで実際に体験してきました。
東ヨーロッパの国々では教会が瓦礫と化し、
そこではキリストの教会はもうすぐ死ぬかのように見えました。
ところが、奇跡が起こりました。
悪魔の勝利は見かけだけのものでした。
共産主義は崩壊し、
教会は、それがすでに滅ぼされたと思った場所で、
思いがけなくも成長し始め、また、新たに生まれてきています。
  
10節は、神様の証人が死ぬのを見て人々が喜ぶ様を描いています。
神様の御言葉は人々の心に怒りも生み出します。
人々は、
罪の中で生きているときにその罪について叱られたり、
滅びへ向かって歩んでいるときにそれを注意されたり、
また、イエス様なしでは誰も天国には入れない、
という話をされたりすると、傷つきます。
不義の世に神様の御言葉を語りかけ
人々の心を傷つける者たちが死ぬと、
世は喜びます。
これで邪魔立てなしに不義の生活を送れると、
世は思い込んでいるわけです。
 
 

2012年3月26日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 11章3~14節 二人の証人(その2)


二人の証人 11314節(その2)
   
  
56節は難解な箇所です。
「証人たちの口から発する火」とは、
「天が閉じる」とは、
「水が血に変わる」とは、
どういう意味でしょうか。
天が閉じることについては、
周知のように、旧約聖書にも似たような記述があります。
預言者エリヤが言葉を発すると、
その通りに、天からは雨が降らなくなりました
(「列王記上」171節)。
神様はいつか二人の僕をこの世に遣わして、
エリヤと同じような奇跡を起こさせる権威を
彼らにお与えになるのかもしれません。
あるいは、
56節は象徴的な話であって、
キリストの教会がもっている権威を指している、
とも考えることができます。
イエス様は、天を開いたり閉じたりする権威を
御自分に属する人々にお与えになりました、
「あなたが地上で縛ることは、天でも縛られており、
あなたが地上で解くことは、天でも解かれています」
(「マタイによる福音書」1619節)。
キリストの教会が拒絶されたり、攻撃されたりするところでは、
神様の怒りが下るのを待つことになります
(「マタイによる福音書」101415節)。
おそらく、証人たちの敵を呑む込む火とは、
このことをあらわしているのでしょう。
  

2012年3月23日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 11章3~14節 二人の証人(その1)

  
二人の証人 11314節(その1)

ヨハネは声が二人の証人について話すのを聴きます。
「ゼカリヤ書」には、これと関係する箇所があります(「ゼカリヤ書」4章)。
これらの証人は誰なのでしょうか。
彼らは、終わりの時に神様の御言葉を宣べ伝え、
人々を悔い改めへと招く神様の僕なのかもしれません。
一方で、この幻はいつか未来の出来事を描いているのではなく、
すでに起きたことについて語っている、という解釈も提示されています。
それによると、この二人の証人とは、
ローマで神様の御言葉を宣べ伝え、
そこで同じ日に、ネロ帝の迫害によって殺されたペテロとパウロのことだ、
というのです。
この説明によれば、証人たちが生き返ることは、
ペテロやパウロの魂が天国の神様の御許に入ることを意味します。
しかし、これらの証人が
ある特定の二人の証人を指しているものとは限りません。
この章の冒頭にでてくる「神殿」は
キリストの教会を意味していると思われます。
この二人の証人もまた、
この世で実際に活動している神様の教会についての
イメージである可能性もあります。
教会は神様の御言葉、また神様の裁きを宣べ伝えます。
そして、教会には
この世が高く評価するような栄誉も輝きもありません。
それゆえ、証人たちは
荒布を着た神様の僕として描れているわけです。
  
証人の人数は、
「二人の証人の証言は信頼に足る」
とする聖書の教えを指しているものと思われます(「申命記」1915節)。
もしも二人の証人がキリストの教会を描き出しているならば、
この証人の人数は、
福音が信頼できることを、
私たちに思い起こさせていることになります。
つまり、
キリストの教会が宣べ伝えているのは本当のことであり、
それゆえ信じるに値する、ということです。

2012年3月22日木曜日

「ヨハネに黙示録」ガイドブック 11章1~2節 神殿を測るヨハネ(その2)

  
神殿を測るヨハネ 1112節(その2)
   
 
ヨハネは神殿の外庭を測るのを禁じられます。
神様はその領域を守られない、ということです。
おそらくこれは、
キリストの教会の周縁部にいた人々のことを指しています。
クリスチャンの信仰に興味を持ち、
イエス様に対して好意的な態度を取るものの、
自分自身はイエス様への信仰を持たずに生活し、
教会にも属さないような人々がいます。
「神殿の外庭」はこのような人々のグループを意味しているのでしょう。
悪魔が教会を襲うとき、彼らはどうなるのでしょうか。
彼らは異教の諸国民に踏みにじられ、
そのような騒乱の中で、
彼らのイエス様やキリスト教に対する好感は消え失せてしまいます。
これについては、教会史の中に多数の実例を見出すことができます。
クリスチャンが迫害され始めると、
周囲の人々のイエス様とそれに従う人々へのそれまであった好感は、
瞬く間に忘れ去られてしまいました。
   
2節にある「期間」(ここでは「四十二ヶ月」)は
「ヨハネの黙示録」には何度も出てきます
(例えば、「三年半」、「千二百六十日」、「一年、二年、半年」)。
これらの期間は常に悪魔の活動に結びついています。
これらの数字は、期間の長さを語っているというよりは、むしろ、
この期間に悪魔は暴動を起こすことが許されており、
悪魔の活動がどのくらい長く継続するかは神様がお定めになっている、
ということを語っているようです。
神様の定められた期間が終了するとき、
悪魔の攻撃は、たとえ悪魔自身はもっと続けようとしても、
止むことになります。
紀元前167164年の三年半の間、「ダニエル書」の預言通りに、
エルサレムの神殿は冒瀆されました(「ダニエル書」725節)。
この時に、異教徒である王が神殿に偶像を持ち込み、
それらを拝むように強制し、
神殿で豚を犠牲として捧げること(ユダヤ人にとってはおぞましい行為)
を命じました。
このことから、
「三つ半」という数字は、「ヨハネの黙示録」において、
「悪が特別なやり方で騒乱を巻き起こすのを許される期間」
をあらわすものとなったのでした。
 
  

2012年3月19日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 11章1~2節 神殿を測るヨハネ(その1)


ヨハネの黙示録11

神殿を測るヨハネ 1112節(その1)
  
 
ヨハネは杖を手に与えられ、神殿を測るように命じられました。
この命令は普通の意味での計測だけではなかったはずです。
それにはメッセージが含まれていました。
「ゼカリヤ書」には、都市エルサレムを測る幻が語られています
(「ゼカリヤ書」259節)。
「私はそれ(エルサレム)を取り囲む火の城壁となる」、
と幻の中で神様は約束されています。
神様は都市を守ると約束なさっているのです。
これと同じ考えが「ヨハネの黙示録」にもあるように見受けられます。
「神殿が測られる」というのは、言い換えれば、
神様は神殿を破壊から守る約束を与えておられる、
ということです。
神殿を測ることによって、
神殿は保護を受けための目印を付けられるのです。
「ヨハネの黙示録」の7章でも、
「神様は印を受けている者たちを、
世界を揺り動かす嵐の中で守ってくださる」、
と語られています。
  
それでは、神様が守られるこの「神殿」とはいったい何でしょうか。
それはエルサレムの神殿ではありえません。
ヘロデ大王の建てさせたこの壮麗な神殿は
「ヨハネの黙示録」が書かれた頃にはすでに破壊されていたからです。
イエス様が予言された通りに、
ローマ軍は西暦70年に神殿を粉砕し、地面にばら撒きました
(「マタイによる福音書」2412節など)。
あとに残されたのは「嘆きの壁」だけでした。
「神様の神殿、祭壇、およびそこでひざまずいている者たち」とは、
キリストの教会、この世における神様の民を意味しているのでしょう。
新約聖書の他の箇所でも神様の教会は「神様の神殿」と呼ばれています
(「コリントの信徒への第一の手紙」316節、
「エフェソの信徒への手紙」221節)。
1節に込められたメッセージは次のようなものでしょう、
「たとえ悪魔が力の限りを尽くして攻撃してきても、
キリストの教会は滅びません。
神様は教会が活き続けるようにしてくださいます」。
イエス様も同じ約束をしてくださっています、
「この岩の上に私は自分の教会を建てます。
ハデスの門もそれに打ち勝つことがありません」
(「マタイによる福音書」1618節)。
これはしかし、
に存在する各地の教会は死ぬことがないとか、
クリスチャンは決して信仰を捨てない、
という意味ではありません。
これについては、「ヨハネの黙示録」の最初の数章に、
そういうことが本当に起こりうる、
というさまざまな実例が記載されていることからもわかります。
しかし、
世界に広がるキリストの教会は全体としては死ぬことがありません。
イエス様が栄光に包まれて地上に再臨される時にも、
少なくともどこか世界の片隅には、
生き生きとしたキリスト教会が存在していることになります。
悪魔が教会全体を破壊することがないように、
神様は御自分に属する人々を守っておられるのです。
 
 

2012年3月16日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 10章5~11節 巻物を食べるヨハネ

  
巻物を食べるヨハネ 10511
  
 
天使は手を天に向けて上げ、
時が終わろうとしている、と確言します。
それは、
第六のラッパの後、もはや神様は裁きの始まる時を延期なさらない、
という意味です。
第七のラッパが鳴る時、
イエス様は再臨され、この世の時は終わり、
神様は裁きを実行なさいます。
その時、
聖書の言っていたことが本当だったことを、皆が目の当たりにします。
今聖書を嘲笑している人々は、その時にはもう笑えなくなります。
神様の御使いたちは天地の主から人々にメッセージを伝えていたことを、
全員がはっきり理解します。
  
再び天から声が響き、ヨハネは特別な指令を受けます。
天使の手にしている巻物を食べなければならない、というのです。
旧約聖書には、似たようなケースが二つ記されています。
エレミヤは神様の御言葉をむしゃむしゃ食べました
(「エレミヤ書」1516節)。
エゼキエルもまたヨハネと同じ指令を受けました
(「エゼキエル書」289節、313節)。
ヨハネが実際に巻物を食べたとしても、別におかしくはありません。
パピルスを食べるのは前例のないことではなかったからです。
巻物を食べる行為には、より深い意味があったにちがいありません。
神様の御言葉が書かれた巻物をヨハネが食べるのは、
神様のメッセージが彼の内に取り込まれ、
彼自身の一部となったことを示しています。
  
今や神様の御言葉はヨハネの中にあります。
それゆえ、彼はそれについて黙してはおれません。
ヨハネには、
この巻物ははじめ口には甘く、次に腹には苦く感じられました。
これは、神様の御言葉がどのようなものか、よく表しています。
神様の御言葉は蜜のようです。
それはとても美味しく、読むのは愉しいものです。
しかし、神様の御言葉には別の一面があります。
嫌に感じられる面です。
御言葉は、私たちが聴きたくないようなことも語ります。
しかも、
その教えを他の人々に語らなければならないという使命は、
もはや喜びでも何でもありません。
とりわけ神様の裁きについて人々に話すのは難しく、
むしろ、何でもよいから何か他のことをやりたくなるほどです。
ヨハネもまた、彼の話を人々が聞きたがらないことをよく知っていました。
にもかからわず、彼は自分が目にし耳にしたことを公に伝えました。
人々を喜ばせるような内容ではなかったにせよ、
メッセージは神様から受けたものであり、
彼はそれを語るほかなかったのです。

2012年3月14日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 10章1~4節 秘密のメッセージ

  
ヨハネの黙示録10
  
秘密のメッセージ 1014
   
  
ヨハネは強い天使を見ます。
ヨハネがイエス様について以前語った(「ヨハネの黙示録」11216節)
容姿と似通っているこの天使は、
しかし、イエス様御自身ではありません。
この御使いは主に似ているのです。
この天使の片方の足が海の上に、もう片方の足が地の上にある、
ヨハネは語ります。
これは、
天使が波打ち際に立っていた、
という意味ではありません。
天使は、
その左足が地上に右足が水中にあるほど、非常に大きかった、
という意味です。
おそらくこの幻にはまた、より深いメッセージがあります。
聖書では、「海」は「死」をあらわしている場合があります
(「ヨハネの黙示録」211節を参照してください)。
「地」は
私たちが実際目にしている「創造された世界」を
意味しているのでしょう。
もしもそうであれば、
地と海の上に立っている天使の幻は、
「この天使がお仕えしている神様は、
創造された世界を支配しておられ、
死もまた神様の支配下にある」、
というメッセージを伝えていることになります。
  
34節には、「七つの雷」が出てきます。
ここでヨハネには「詩篇」29篇が心に浮かんだのかもしれません。
この詩篇では、「主の御声」という言葉が七回くりかえされます。
すなわち、雷鳴は、ヨハネが聴いた神様の御声だったのでしょう。
ヨハネは全能者が語られることを書きとめようとして、
それを禁じられます。
ヨハネが耳にしたことを他の人々には話すべきではない、
と神様は何らかの理由で判断されたのです。
これと似たようなケースが「コリントの信徒への第二の手紙」にもあります。
パウロはパラダイスに行き、そこで
「人間が口にすることができず、口にしてもいけない言葉」を聴きます
(「コリントの信徒への第二の手紙」124節)。
神様は私たちにすべてを明らかに示されたわけではありません。
それゆえ、私たちは慎重であるべきです。
とりわけ、終わりの時や神様の御計画について話す場合にはなおさらです。
すべてについて語られているわけではないので、
多くの疑問は答えのないままにしておくのが最善なのです。
  
 

2012年3月12日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第6回目の終わりのメッセージ

 
終わりのメッセージ
  
お父さんが舵を取っている
  
 
船が嵐の中でひどく揺れているときに、
その船室では子供が安心して遊んでいます。
なぜなら、その子のお父さんが船の舵を取っているからです。
こういう古くからある話をあなたも聞いたことがあるかもしれません。
  
逆境の時、病気の時、さまざまな苦しみにあう時、
それらすべての試練を超えて、
「お父様が今もちゃんと舵を取っているから大丈夫だ」、
と考えるのはなかなか難しいものです。
私は自分で見たり経験したりすることにすっかり気を取られ、
息が詰まるような苦しさを味わいます。
  
しかし、私はいつでもこう信じることができます、
「舵を取っているのはお父様だし、
操縦席からは船室からよりも遠くがよく見える」、と。
   
 
ラウリ コスケンニエミ 「今日、私と共にいてください」
    

2012年3月9日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第6回目の質問(8~9章)

  
6回目の集まりのために
  
「ヨハネの黙示録」89
  
 
ヨハネはラッパを吹き鳴らす七人の天使を見ます。
ラッパが鳴るとき、
キリストの再臨の前にどのようなことが起こるか、
ヨハネに示されます。
悪魔が手下と共に前代未聞の凶暴さで襲いかかり、
夥しい悪事を働きます。
神様はそれをお許しになります。
このように神様は
厳しい手段をもって人類に語りかけ、
手遅れにならないうちに悔い改めるよう、
招いておられるのです。
 
  
質問

1)七つのラッパの幻はどういう意味でしょうか
86節から921節までの説明を参照してください)。
  
2)私たちはこの世界でたくさんの悪いことが起こるのを目にしています。
それを「神様からの語りかけ」とみなすことができますか。
厳しい語りかけによって人々は自分を見つめなおすことがありますか。
たとえば、ある人々が戦争や自然の汚染によって苦しんでいるのは、
他の人よりも彼らのほうが悪いからなのでしょうか。
   
3)「ヨハネの黙示録」の幻は恐ろしいものですか。
恐れを取り除いてくれるものは何でしょうか。
人々をおびえあがらせるために「ヨハネの黙示録」を使用するのは
正しいやり方ではありません。
にもかかわらず、
この書物が恐るべきことがらを語っているのはどうしてなのでしょうか。
  
4)悪魔の活動も神様が許可なさることがらのみに制限されています。
これは具体的にはどういう意味でしょうか。
そして、これは世界の出来事の中からも見て取れるでしょうか。
それはどのように見えますか。
  
5)いなごや騎馬隊は何をあらわしていますか。
どのような説明を聞いたことがありますか。
9719節の説明を参照してください。
  
6)神様が招いておられるのに、
なぜ人々は悔い改めて神様の御許に来ないのでしょうか。
「そうすると捨てたくないものを捨てなければならなくなるから」、
というのがその理由でしょうか。
どのようなことを捨てなければならなくなるのでしょうか。