2021年3月29日月曜日

「ヨナ書」ガイドブック  救われたことを神様に感謝するヨナ 2章2〜10節(その1)

 救われたことを神様に感謝するヨナ 2章2〜10節(その1)

 

神様が自分を救ってくださったことを知ったヨナは神様に感謝を捧げます。

「ヨナ書」の他の部分とは異なり、この箇所は詩の形で書かれています。

 

ところで、私たちもヨナと同じような経験をすることがあるでしょうか。

私たちもまた苦境や困難に巻き込まれてから

ようやく神様とその御心を探し求めるようになるのではないでしょうか。


このことはキリスト教会についてもあてはまります。

「キリスト教会はどのような逆境にも耐えることができるが、

順境の時代にだけは負けてしまう」などと言われることもあります。

 

4節でヨナは

自分が海に投げ込まれ、またそこから救い出されたのは、

神様の御心によるものであった」と信仰告白します。

この証は非常に重要です。


神様が自分のうちで働きかけておられることに気づいたとき、

ようやく人間は神様に自分自身をすっかりおゆだねすることができるようになります。


人間は「自分の力でなんとかできる」とか

「神以外の何か(たとえば偶然や運命など)が自分の人生を導いてくれる」などと

思い込んでいるかぎり、

神様に全幅の信頼を置こうとは考えないものです。

 

5節でヨナは「自分は神様の御前から追放された」と語ります。

ヘブライ語原文では「追放する」という動詞の受動的な意味をあらわす

ニファル態が用いられていますが、

旧約聖書においては、このような受動文の真の主語は

神様であられることがよく見られます。

神様の働きかけによって何か重要な出来事が起きた際に、

神聖なる神様の御名を明示しないで記述する場合には受動態が用いられるのです。

 

ヨナはある意味では正しかったものの、

別の意味ではまちがっていたとも言えます。


自分から神様の御許から逃げ出したという点でヨナはまちがっていました。

神様がヨナのもとを去ったのではなく、その逆だったのですから。


しかし、人間は自らの行いによって神様と自分自身との間の関係を切り離すことができる

という点ではヨナは正しかったとも言えます。


人間は自分の行いについてはやはり自分で責任を負わなければなりません。

人間は神様から逃げ出すことはできます。

しかしその場合には、

その自らの行いのもたらす結果についても責任を問われることになるのです。

 

この同じ箇所では、すでに希望の視界も開けています。

「しかし、私はあなたの聖なる宮を見つめ続けることができるのです」

(「ヨナ書」2章5節後半をヘブライ語原文から私訳しました)とヨナは言っています。


全能なる神様は

「それ自体よくないこと」も「よいこと」に変えることが可能なお方です。

私たちの不従順でさえも結果的には祝福へと変えてくださる場合があるのです。


もちろんこのことは

「神はどうせよくないことも結局はいつも最善のことに変えてくれるだろうから、

神の御心を破ってもたいしたことではない」

といったまちがった考え方を正当化するものではありません。


最後の決定的なひとことを宣告する権利をお持ちなのは、おひとり神様だけなのです。

次の「ローマの信徒への手紙」の箇所を参照してください。

 

「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。

しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、

わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。

では、わたしたちは、なんと言おうか。

恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。

断じてそうではない。

罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。」

(「ローマの信徒への手紙」5章20節〜6章2節、口語訳)

2021年3月24日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック 譬え話なのか、歴史なのか

譬え話なのか、歴史なのか 

「ヨナが大きな魚に呑み込まれた」という記述から

「ヨナ書」の歴史的信憑性をめぐる議論が生じたのは無理もありません。

「普通に起こりうる出来事だけが実際に起こりうる」という立場をとれば、

奇跡は決して起こらないことになるからです。

奇跡というものは通常の生活の中では決して起こり得ないものだからです。

 

しかし「神様は全能なお方である」ということを議論の出発点とする場合には、

ヨナを大きな魚に呑み込ませることも、

逆に、ヨナに大きな魚を呑み込ませることさえも、

全能なる神様には何ら難しいことではなくなるはずです。

 

「ヨナ書」の出来事が歴史的にも信頼できることを

ヨナの体験に類似する出来事によって証明しようとする試みがなされてきました。

その一例として

1891年にクジラを捕獲するために銛(もり)を打ち込もうとした漁師が

誤ってクジラに呑み込まれてしまった事件をあげることができます。

まもなく殺されたそのクジラの腹の中からは、

その漁師が意識不明の状態ながらも生きたまま見つかったのです。

もっともこの事件に関しては

「救助された男性の死後、彼の妻はこの事件そのものを否定した」

と主張する研究者もいます。

 

「ヨナ書」の歴史的信憑性を擁護するために、

これと同じような他のケースも提示されてきました。

しかしそれらはすべて、

事実を信仰心による想像で補ったものにすぎなかったともいえます。

 

これとは対極的な考え方の代表例としては

「ヨナは三日三晩「魚」という名の宿屋に宿泊していた」

という主張をあげることができます。

 

ヨナが大きな魚に呑み込まれた出来事がもつ

「ヨナ書」全体における意味を考えてみるとき、

「魚」という言葉は「ヨナ書」を通して二回だけ登場することに気付かされます

(2章1節、2章11節)。

また、「ヨナ書」を一つのまとまりとしてとらえると、

この出来事はその中心的なエピソードであるとはいえません。


ですから、ヨナの経験した一連の出来事すべての歴史的信憑性に

疑念を抱かせるようなエピソードが

あえて「ヨナ書」に加えられているのだとしたら、

それはかなり奇妙なことです。


なお、後の時代においては

「この出来事こそはそれ自体大変重要なメッセージをもっており、

私たちの心の琴線に一番触れる部分である」とみなされるようになりました。

 

結局のところ、私たちは次のような結論で満足するほかないでしょう。

すなわち、もしも全能なる神様がヨナを魚によって救い出そうと望まれたのなら、

そうなさることができるのは当然であったということです。

2021年3月17日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック ヨナを憐れんでくださる神様 2章1節

「ヨナ書」2章 ヨナのしるし

  

ヨナを憐れんでくださる神様 2章1節

 

いよいよヨナが海に投げ込まれることになったとき、

ヨナ自身も船乗りたちもヨナは溺死すると考えたことでしょう。

 

「そこで人々は主に呼ばわって言った、

「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。

また罪なき血を、われわれに帰しないでください。

主よ、これは御心に従って、なされた事だからです」。」

(「ヨナ書」1章14節)。

 

ところが、人には死しか見えないところに、神様は命を創ってくださいます。

そして、ヨナにもこの奇跡が起こりました。

 

海の嵐が引き起こしたのは神様の怒りではなく憐れみでした。

この嵐は神様に従わなかったヨナを懲らしめるためのものではありませんでした。

神様はヨナがニネヴェへの福音宣教の旅に出発することを望まれたからこそ

嵐を起こされたのです。

神様はニネヴェの人々にも憐れみを示されたかったのです。

 

私たちの人生においても、

あたかも神様が怒って私たちを懲らしめようとされている

と思えるような出来事が起きるかもしれません。

しかし、実際にはそれは神様の愛のあらわれなのです。

 

私たちは時として自分で立てた計画や希望にとらわれすぎるあまり、

それらと合わないことなら何であっても

「神様による懲らしめやいじめ」であるとさえ思い込んでしまうことがあります。

にもかかわらず、

私たちの意思が実現せず、その代わりに、

神様の御意志すなわち最善の御心が実現されるのは、

神様の愛のあらわれなのです。


たしかに私たちが望んでいたことは「よいこと」ではあったかもしれません。

しかし

「よいこと」が「最善のこと」の最悪の敵となってしまうのはよくあることです。

もしも「よいこと」で満足してしまうなら

「最善のこと」を達成する機会は永遠に失われてしまうからです。

ところが、

神様は私たちにはいつも「最善のこと」だけを与えることを望んでおられます。

神様が私たち人間の期待することをいつも実現してくださるとは限らないのは

こうした理由によるのです。

 

神様は私たち人間の期待することではなく、

御自分のお立てになった救いの計画を実現なさるということを

常に覚えておきましょう。

 

先にも書いたように、

ヨナが海に投げ込まれた出来事は

イエス様の十字架の死をあらかじめ示しているものでもあります。

イエス様が死なれたとき「すべては終わった」と弟子たちの誰もが思いました。

「イエス様は我々の期待や計画を実現しないまま死んでしまった」

と彼らは考えて失望し、すっかり落ち込みました。

たとえば、イエス様が十字架で死なれた後に

エマオへ向かったイエス様の二人の弟子たちの言葉からも

その落胆の深刻さが伝わってきます

(「ルカによる福音書」24章19〜24節)。

 

ところが、神様はそのような弟子たちを驚愕させる奇跡を行われました。

十字架と墓はすべての終わりではなく、

それとは逆に、新しい時代の幕開けだったのです。

それと同じく、ヨナが海に投げ込まれたことも、

ヨナにとってすべての終わりではなく、

もともとの神様の御計画であった

ニネヴェへの福音伝道の旅の新たな始まりを意味していました。

 

2021年3月10日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック ヨナと船乗り 失敗に終わったヨナの逃亡の試み 1章4〜16節

ヨナと船乗り 失敗に終わったヨナの逃亡の試み 1章4〜16節

 

神様から逃げおおせるのは不可能であることをヨナは理解するべきでした。

「詩篇」139篇7〜10節、「アモス書」3章8節、

「エレミヤ書」20章9節などに書いてある通りです。

 

「わたしはどこへ行って、

あなたのみたまを離れましょうか。

わたしはどこへ行って、

あなたのみ前をのがれましょうか。

わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。

わたしが陰府に床を設けても、

あなたはそこにおられます。

わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、

あなたのみ手はその所でわたしを導き、

あなたの右のみ手はわたしをささえられます。」

(「詩篇」139篇7〜10節、口語訳)

 

ところが、神様から逃げようとする人々は今も後を絶ちません。

そして、この「逃亡劇」は一刻も早く終幕するに越したことはない

ということも変わっていません。

神様の指し示される正しい目的地に向けて舵を切ることが

私たちの人生の早い時期に行われる場合には、

不毛な放浪の期間もそれだけ短くなります。

 

人は皆、個別に神様と対面しなければならなくなる時が必ず来ます。

これは遅くとも最後の裁きの時には誰にでも起きることです。

しかし、神様との最初の出会いが最後の裁きの時になる場合には

残念ながらもはや手遅れです。

 

ヨナの乗った船を襲った嵐は、主なる神様によって引き起こされたものでした。

聖書ヘブライ語の構文では主語は動詞の後に位置するのが普通です。

ところが、この箇所のヘブライ語原文では「主」という単語が文頭に来ています。

これは主語を特に強調する表現です。

ほかならぬ神様が御自分の計画を実行に移されたのです(2節)。

このヨナのケースからもわかるように、

私たちが神様の御心に激しく反対しようとすればするほど、

それだけ厳しい手段を神様は用いなければならなくなります。

これは私たちが神様の御声に従うようにするためなのです。

「耳のある者は聞くがよい。」(「マタイによる福音書」11章15節)

とイエス様が言われているように、

私たちは「聞こえる耳」と「見える目」とを神様からいただけるように

切実に祈り求めなければなりません。

 

ここで私たちは驚かされます。

異邦人である船乗りがヨナのところにやって来て、

ヨナも自らの神に祈るようにと促したのです(6節)。

ちょうどヨナは神様から逃げようとしていたのに、

異邦人がヨナに神様に近づくよう命じているわけです。

このように神様は時には御自分のことを知らない人々

(例えば非信仰者)さえも用いて御心を実現なさる場合があるのです。

 

ヨナ自身はすでに知っていたある事実がくじを引くことで

船乗りたちの前で明るみになります(7節)。

自分が天と地と海を創造された神様に仕える身であることを

ヨナが告白したことによって、

この嵐がヨナのせいで起きたことがはっきりしました(9節)。

 

10節は私たちに大切なことを教えてくれます。

活ける神様への信仰をもっていない人々は、

自分では神様の御心に従うつもりがないにもかかわらず、

キリスト信仰者には神様の御心を行うことを当然のように要求してくるということです。

「キリスト信仰者は一番熱心に読まれている第五の福音書である」

などと言われたりもします。

 

ヨナは自らに死刑の宣告を下すことになりました(12節)。

船乗りたちはこの厳しすぎる裁きを喜んで受け入れることができず、

ヨナに同情し、なんとか彼を救い出そうと奮闘しますが、

どうにもなりませんでした(13節)。

 

多くの現代人にとっても、神様の下される裁きは厳しすぎると感じられます。

それゆえに、裁きそのものを人間にとってもっと喜ばしいものに変えようとします。

しかし、こうした試みは結局のところ徒労に終わります。

 

とうとう船乗りたちも神様の御心に従うしかなくなりました。

神様が望まれたのは船の難破ではなく、ヨナがニネヴェに向けて出発することでした。

こうしてヨナは海に投げ込まれました。

 

私たちはここでヨナの出来事とイエス様の御業との間に共通点と相違点を見いだします。

イエス様は十字架で犠牲の死を遂げられました。

それは人類を救うために必要な神様の御業だったのです。

ヨナは船が救われるために自らが犠牲となりました。

イエス様が苦しみを受けられたのは御自分の罪のためではありませんでした。

それに対して、ヨナの場合は神様の御心に従わなかったために海に放り込まれたのです。

 

なぜヨナは船乗りたちの生命を救おうとしたのでしょうか。

なぜ彼らが滅ぶままに放っておかなかったのでしょうか。

このことについては、ガイドブックの終わりで

「なぜヨナがニネヴェの人々を憐れもうとしなかったのか」

という問題を考えるときにふたたび取り上げることにしましょう。

 

はたして船乗りたちの信仰はその後も保たれたのか、

それとも危険が去った後に忘れ去られてしまう一時的なものであったのかは、

はっきり書かれていません。

 

さて、海に放り込まれたヨナはどうなったのでしょうか?

2021年3月3日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック 預言者の召命を受けるヨナ 1章1〜3節(その2)

 預言者の召命を受けるヨナ 1章1〜3節(その2)

「列王記下」14章25節には

「アミッタイの子、ヨナ」についての記述があります。

ヨナはガリラヤのナザレから北東5kmほどに位置する

ガト・ヘフェル(口語訳ではガテヘペル)出身です。

この近くにはメシェドという名の村があり、

ユダヤの伝承によればヨナはこの地に葬られたとされています。

ヨナはイスラエル王ヤラベアム二世の治世に活動しました。

彼の同時代の預言者には、

イスラエル王国ではホセアやアモス、ユダ王国ではイザヤやミカがいました。

 

「ユダの王ヨアシの子アマジヤの第十五年に、

イスラエルの王ヨアシの子ヤラべアムが

サマリヤで王となって四十一年の間、世を治めた。

彼は主の目の前に悪を行い、

イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤラベアムの罪を離れなかった。

彼はハマテの入口からアラバの海まで、イスラエルの領域を回復した。

イスラエルの神、主がガテヘペルのアミッタイの子である、

そのしもべ預言者ヨナによって言われた言葉のとおりである。

主はイスラエルの悩みの非常に激しいのを見られた。

そこにはつながれた者も、自由な者もいなくなり、

またイスラエルを助ける者もいなかった。

しかし主はイスラエルの名を天が下から消し去ろうとは言われなかった。

そして彼らをヨアシの子ヤラベアムの手によって救われた。」

(「列王記下」14章23〜27節、口語訳)

 

ヨナはニネヴェに行きたくありませんでした。

それで、東方のニネヴェとは逆の方角に位置する西方のヨッパに向けて出発しました。

 

なぜヨナはニネヴェに行きたくなかったのでしょうか。

「ヨナ書」4章2節でヨナは、

イスラエルの敵でもあった異邦人たちに悔い改めの宣教を伝えたくなかった、

とその理由を正直に打ち明けています。

 

「(ヨナは)主に祈って言った、

「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。

それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。

なぜなら、わたしは

あなたが恵み深い神、あわれみあり、

怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、

知っていたからです。」

(「ヨナ書」4章2節、口語訳)

 

ヨナが逃げようとしたもうひとつの理由は「恐れ」でしょう。

「神様の厳しい裁きを宣告する外国人がいったいどのようなひどい目にあうか、

わかったものではない」という恐怖心がヨナにあったのではないでしょうか。

アッシリア人は残酷なことで悪名高い民族だったからです。

 

ヨッパは現在のヤッファあたりに位置する自然の良港でした。

タルシシは現在のスペイン南部、大西洋に面する地域にあったという説もあります。

ともあれ、ヨナは

できるかぎりニネヴェから離れたはるか西方の地へと逃げて行こうとしたのです。