2015年2月27日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 7章14〜25節 この罪深き、聖なる者!(その1)


この罪深き、聖なる者! 71425節(その1) 

この箇所が第7章の核心です。
パウロはここで誰について話しているのか、
ということをめぐって多くの議論が戦わされてきました。
それらの議論は大きく二つに分けられます。
パウロがここで意味しているのは、
「まだ神様の方に向き直る以前の段階にいる非キリスト信仰者のことだ」
という考え方と、
「キリスト信仰者のことだ」
という考え方です。

パウロは、
「キリスト信仰者は罪深い者であると同時に聖なる者でもある」、
と言いたいのでしょうか、
それとも、
「キリスト信仰者は罪のない状態でよい生活を送ることができる」、
と言いたいのでしょうか。
この問題は、決定的な重要性を帯びています。

教会の歴史で指導的な役割を果たした教会教父たちの多くは、
「この箇所は非キリスト信仰者について語っている」、
と理解しました。
こうした理解を共有する教会には、
たとえばローマ•カトリック教会がありましたし、
また、信仰者の聖化(信仰者が具体的に聖なる者となっていく過程のこと)
を重視する多くのプロテスタント教会もそうでした。
「神様に自分を委ねたはずの人間が相変わらず罪深い存在でありえようか」、
と彼らは考えます。
聖書学者の大多数もこの立場を支持しています。


しかし、アウグスティヌスなど数人の教会教父たちは、
それとは異なる立場を取りました。
そして、これは後にルターの神学の礎ともなりました。
すなわち、
「パウロはこの箇所で、
ほかでもない自分自身の罪深さを嘆くキリスト信仰者について語っている」、
という見方です。
ルター派の神学はこの立場を取っています。

この問題の一番大事な論点は、
ここでの対象がキリスト信仰者か、それとも非キリスト信仰者か、
ということです。
それに比べると、
ここでの対象がパウロ自身のことなのか、
それともキリスト教徒一般のことなのか、
ということは、さほど重要ではありません。

2015年2月13日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 7章7〜13節 それでは、律法は悪いものなのでしょうか


それでは、律法は悪いものなのでしょうか 7713


ここでパウロは、彼の話を聞く人がしがちであろうと思われる
反論をあらかじめ取り上げています。
パウロが言うように人は律法から離れるべきであるのなら、
律法は悪いものだということになるのでしょうか。
もしも律法が悪いものだとすれば、
それならどうして神様は
そもそも人間に苦しみをもたらす律法などをお与えになったのか、
という問題です。
モーセの律法も神様からいただいたものだったからです。

パウロはこの反論を厳然と否定します。
彼は「断じてそうではない」という強い表現によって、
神様を侮蔑するこの反論の姿勢をはっきり拒みました。
律法は素晴らしいものであり善いものです。
もしも律法に従うなら、すべてはうまく行きます。
律法自体には何の落ち度もありません。
神様が人間に律法をお与えになったことも、決して間違いではありません。
律法は善いもので、神様も善い方です。
しかし、人間は善い者ではありません。
落ち度は、律法に従うことができない人間の側にあるのです。

人間は、
神様の定めてくださったあらゆる善い正しい規則に目を向けるとき、
自分自身の罪深さも見ざるをえなくなります。
神様のすべての戒めを守ることは、人間にはどうやっても不可能です。
聖なる者たらんと努力を重ねれば重ねるほど、
それに応じて、
律法は努力を続けるその人の罪深さをより明瞭に示してきます。
いつまで経っても人間は、
神様が意図された「本来の人間の姿」とはかけ離れた状態のままなのです。
律法が私たちに示してくれることは、
すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている
(「ローマの信徒への手紙」323節)、
という御言葉に集約できるでしょう。


律法は悪いものではなく、善いものなのです。
問題はそれを守ることができない私たち人間の側にあります。
こうして、それ自体は善いものである律法が
私たち人間に死をもたらすことになってしまったのです。
ところが、それと同時に神様の御旨も実現することになりました。
それは、
律法のおかげで私たちは自分が罪深い存在であることが
ようやくわかるようになった、
ということです。

2015年2月6日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 7章1〜6節 律法から離れなさい(その3)

律法から離れなさい 716節(その3

ここで、「ガラテアの信徒への手紙」
2章の終わりの箇所を取り上げることにしましょう。
パウロは同じテーマについて、そこでより詳しく述べているからです。
それによれば、
私たちはキリストと共にゴルゴタの十字架に磔にされています。
キリストが死者の中からよみがえらされた時、
私たちもまたよみがえらされたのです。

パウロは前回扱った「ローマの信徒への手紙」6章で、
私たちは洗礼を通してキリストと生死を共にするようになる、
と語りました。
洗礼の恵みは私たちに全く新しい生き方を伝えてくれました。
それはキリストと結びついて生きることです。
新しい生き方には全く新しい律法が適用されます。
神様の御旨にどれほどよく従ったか、
私たちが尋問を受けることはもうありません。
「神様の子ども」という資格を
自分のよい行いによって獲得するための努力ももういりません。
私たちは賜物としてそれをいただいているからです。


すると、次のように誤解する人もいるかもしれません、
「これは好都合だ。
私は律法に対して死んでおり自由になっているのだから、
自分のやりたいようにやればよいことになる。
何をやろうがもう罪ではないのだから」。

しかし、新しい生き方をする人は決してこのようには考えません。
パウロが念を押しているのはまさにこの点です。
律法との不幸な結婚生活の中で、
人間は罪を行い、死に至る実を結びました。
しかし、今や私たちは自由の身にされて、
以前とは全く異なる生き方をするようになり、
「御霊による新しい状態の中で」(6節)神様に仕えているのです。