2022年12月23日金曜日

あなたのあがない主は生きておられる(「ヨブ記」19章25節)

 あなたのあがない主は生きておられる

 

フィンランド語版著者

テーム・ハータヤ (フィンランド・ルーテル福音協会牧師)

日本語版翻訳・編集者

高木賢 (フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

 

聖書の引用箇所は口語訳によるものです。

日本語版では表現に多少の編集が施されています。

 

 

「ヨブ記」は苦難に巻き込まれた

ある人物の経験した信仰の戦いを活写しています。

人生の前半までヨブは輝かしい成功を収めていました。

しかし彼は突然そのすべてを奪い去られました。

子どもたち全員、自分の健康、親戚一同、友人たち、財産のすべてを

ヨブは失うことになったのです。

どうして神様は

あらゆる不幸がヨブの身の上に降りかかることを許されたのでしょうか。

 

人生の危機はヨブを信仰の危機へと陥れました。

なぜ神様はあらゆる不幸が自分の身の上に起きることを許されたのか

とヨブは問います。

彼がこのような疑問をもったのは少しも不思議ではありません。

危機の只中に放り込まれたことのある人なら

誰でもヨブと同じような疑問を抱かずにはいられないでしょう。

ヨブはあらゆる苦しみを受け、

耐え難い痛みを覚え、

数々の疑問にとらわれながらも、

あたかも暗闇の中を手探りするようにして神様のほうへと向き直り、

次のように信仰告白します。

 

「わたしは知る、

わたしをあがなう者は生きておられる、

後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」

(「ヨブ記」19章25節、口語訳)

 

この節には信仰にかかわる大切な三つの視点が含まれています。

 

第一に、ヨブは「わたしは知る」と言っています。

あなたもまたキリスト信仰者としてヨブと同じように言うことができるのです。

それはなぜでしょうか。

聖書が間違っていることは決してないからです。

聖書の教えていることは正しく、約束していることは必ず実現します。

それゆえ、あなたも聖書に全幅の信頼を寄せてよいのです。

 

ところでヨブは何を知っていたのでしょうか。

それは彼をあがなう主は生きておられるということでした。

これが上記のヨブの言葉に含まれている信仰への第二の視点です。

ヨブは神様が生きておられることを知っていたのです。

そしてあなたもヨブのように言うことができるのです。

あなたの神様であり、あなたのあがない主である

イエス・キリストは生きておられます。

イエス様は苦しみを受けて十字架で死なれました。

この出来事が起きたのはあなたの罪のためであり、

あなたに罪の赦しをもたらすためだったのです。

死んだイエス様が埋葬された墓は

その内側にイエス様を閉じ込めておくことができませんでした。

イエス様は死んでから三日目によみがえられ、

今も永遠に生きておられるのです!

 

信仰にかかわる第三の視点は、

神様がヨブの人生と同じようにあなたの人生も

しっかり導いてくださっていることを信頼しなさいということです。

ヨブは自分のあがない主が

最後の日の裁き主としてこの地の上に立たれることを知っています。

神様に不可能なことは何もありません。

ヨブはこのことを実際に自分で見ることができました。

最終的にヨブは主の御前にへりくだり、

主に対して反抗的だったそれまでの自分の態度を悔い改めました。

改心したヨブが祈ると神様は彼の人生をすっかり変えてくださいました。

ヨブは神様から助けをいただいたのです。

 

「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、

主はヨブの繁栄をもとにかえし、

そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」

(「ヨブ記」42章10節、口語訳)

 

あなたの人生には喜ばしいことも苦しいことも含まれていると思います。

しかしたとえ苦しさの最中にあったとしても、

あなたのあがない主が生きておられ最後の日の裁き主として立たれることを

どうか思い起こしてください。

自分の罪深さと理解の足りなさを神様に告白し、

不可能なことが何もない神様にどうか信頼してください。

おそらく神様はあなたの抱えている問題のすべてを

取り除いてはくださらないでしょう。

私たちは依然として罪が様々な問題を引き起こし続けている

この地上で生活しているからです。

ヨブも自分の死んだ子どもたちを

神様に生き返らせていただくことはできませんでした。

しかし裁き主としてあなたの人生に最終的な宣告を下すのは神様です。

あなたが主を信じて主の御許に逃げ込むとき、

主はあなたをしっかり受け止めて天の御国へと導いてくださいます。

 

 

 

 

 

2022年12月9日金曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 終わりの挨拶のないままに

「ヤコブの手紙」ガイドブック

 

終わりの挨拶のないままに

 

既出の5章19〜20節にて、

ヤコブは古典古代の手紙および新約聖書の手紙にはつきものの

終わりの言葉や挨拶を記さないまま唐突にこの手紙を閉じています。

それもあって「ヤコブの手紙」は

いわば序論付きの説教のようなものとみなされる場合もあります。

しかし例えば「ヨハネの第一の手紙」も

終わりの言葉や挨拶がないままで閉じられています。

古典古代における手紙の書き方の作法は絶対的なものではなく、

そこから逸脱した流儀で書かれることもありました。

「ヤコブの手紙」はそのような手紙でした。

しかし、まさにそれによって

最後の節がよりいっそう印象深いものになっていると思います。

 

 

(終わり)


フィンランド語版著者 パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)

日本語版翻訳・編集者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)


前回の掲載時に上記の箇所を加えるのを忘れていました。


次回からはまた別の聖書の手紙について取り上げることにします。