2022年8月29日月曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 富は「雇用人」としては優秀だが「主人」としては悪質である

 信仰は危険や困難に打ち勝つ

「ヤコブの手紙」5章

 

 

富は「雇用人」としては優秀だが「主人」としては悪質である

「ヤコブの手紙」5章1〜6節

 

これから扱う箇所は

経済的に豊かな社会に生きている私たちが

心に銘記すべき厳しい警告を含んでいます。

この警告は、

私たちの所有財産が私たちの生活において本来占めるべき位置と

実際に占有している位置とにかかわりがあります。

 

旧約聖書の預言者たちは富裕な者たちを幾度となく繰り返し叱責してきました。

このことについて彼らの中でもとりわけ厳しい宣教をしたのは

預言者アモスであったと思われます(例えば「アモス書」4章1〜11節)。


経済的な豊かさのもつ危険についてはイエス様も度々警告なさっていました。

これが「ヤコブの手紙」5章の背景にあることは容易に読み取れます。

イエス様の教えの例を以下に引用します。

 

「あなたがたは自分のために、

虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、

宝をたくわえてはならない。

むしろ自分のため、

虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、

宝をたくわえなさい。

あなたの宝のある所には、心もあるからである。」

(「マタイによる福音書」6章19〜21節、口語訳)

 

富には特に危険な側面があります。

富の所有者がその富に縛り付けられてしまうという点です。

人間は自分の持っている富の虜になり、

富のおかげで自分は快適な生活を送れるのだと思い込みがちなのです。

経済的に余裕のある人間はあまりにも快適な生活を送っているうちに、

ともすると「自分もいつかは死ぬ」という厳然たる事実を

忘れたくなるのではないでしょうか。

例えば、次に引用する「ルカによる福音書」の箇所でのイエス様の教えは

このことにかかわりがあります。

 

「それから人々にむかって言われた、

「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。

たといたくさんの物を持っていても、

人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。

そこで一つの譬を語られた、

「ある金持の畑が豊作であった。

そこで彼は心の中で、

『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』

と思いめぐらして言った、

『こうしよう。

わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、

そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。

そして自分の魂に言おう。

たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。

さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。

すると神が彼に言われた、

『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。

そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。

自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。」

(「ルカによる福音書」12章15〜21節、口語訳)

 

十分すぎるほどの富を所有していることに安心し切った金持に対して

神様が「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。」

と言っておられることに注目しましょう。


この世の富はそれを所有している人間たちに対して、

あたかも彼らが富のおかげで永遠に生き続けられるかのような錯覚を

いともたやすく抱かせるものなのです。

そのような幻想にとらわれた人間は

「天の御国に入る」という目標を見失い、

「地獄に落ちないような生き方をする」

という目的も軽視するようになります。

富裕な者にとっての天国とはこの世の中にある見せかけの天国です。

しかし、それに引きずられて人生を終えてしまった者をあの世で待っているのは

真の地獄です。

 

「金銀はさびている。

そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、

あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。

あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。」

(「ヤコブの手紙」5章3節、口語訳)

 

金銀はさびないことをヤコブは知らなかったのでしょうか。

そうかもしれません。

しかし、ヤコブは「さびること」という表現によって

「さびつくこと」を意味していたとも言えるでしょう。

「さびつく」というのは実際に使用されないままになっている状態のことです。

裕福な者の所有する金銀は使用されずに金庫に放置されているうちに

さびついてしまったのです。

金銀は金庫に保管しておくべきではなく、

むしろ貧しい人々を助けたり友を得たりするためなどに

大いに活用していくべきだったのです。

この世の富(すなわち「不正の富」)について聖書は次のように教えています。

 

「またあなたがたに言うが、

不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。

そうすれば、富が無くなった場合、

あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。」

(「ルカによる福音書」16章9節、口語訳)

 

金持の衣服にも金銀と同じようなことが起きました。

着られることもなく放置されていた衣服は

いつしか虫に喰われてしまっていたのです(「ヤコブの手紙」5章2節)。

そうなってしまう前に

余剰の衣服を服がなくて困っている人たちに分配するべきだったのです

(「マタイによる福音書」25章36、43節)。

 

「見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、

支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。

そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。」

(「ヤコブの手紙」5章4節、口語訳)

 

この節は、

金持が労働者たちに正当な賃金を支払っていないことを批判しています。

これは労働者たちに対する搾取あるいは略奪行為です。

当時も今も人が富を築き上げようとするときには

人間の強欲さがあらわになります。

ここでいう「強欲さ」とは、

本来ならば他の人のものであるはずのものを自分のものにしてしまいたい

という欲望のことです。

 

経済的に不当な仕打ちを受けた労働者たちの叫び声は

「すでに万軍の主の耳に達している」のです。

これは、

不正を行っている者たちを裁くために神様が速やかに来てくださるように

という心からの叫びです。


次の「イザヤ書」の引用がこれと似た社会的状況について語るときに

「ヤコブの手紙」と同様の表現を用いているのは偶然ではないでしょう。

 

「万軍の主はわたしの耳に誓って言われた、

「必ずや多くの家は荒れすたれ、

大きな麗しい家も住む者がないようになる。」

(「イザヤ書」5章9節、口語訳)

 

「ヤコブ書」5章は経済的に豊かな社会に住んでいる人々にとって、

キリスト信仰者であるかどうかにはかかわりなく、

心に突き刺さる部分があるのではないでしょうか。


私たちの国や社会は経済的に豊かにはなりましたが、

これにはアフリカやアジアや南米などの貧しい国々を搾取することによって

実現したという側面もあるのではないでしょうか。


いわゆる先進国は発展途上国のエネルギー原料を

はたして正当な対価で買い取ってきたのでしょうか。


先進国の人々は自分たちだけが経済的な豊かさを享受し続けるために

発展途上国の人々を意図的に貧困状態へと放置してきたのではないでしょうか。


先進諸国が発展途上国と種々の共同開発事業を行なっているのは、

前者の後者に対する「良心の疚しさ」を和らげるためにすぎず、

後者を本気で援助する強い意思には欠けているのではないでしょうか。

 

このような疑問に加えて次のような問題も考えてみる価値はあるでしょう。


国民の生活を基本的な社会保障の制度によって守ろうとする

福祉国家の仕組みができたのが

他ならぬキリスト教の影響を受けた社会であったのはどうしてなのでしょうか。

2022年8月24日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 自信過剰のあやまち

自信過剰のあやまち

「ヤコブの手紙」4章13〜17節

 

ヤコブはこの箇所で「計画を立てること」を完全に否定しているように

見えるかもしれませんが、そうではありません。

ヤコブは計画を立てること自体は認めています。

それは次の15節にもはっきりあらわれています。

 

「むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、

わたしは生きながらえもし、

あの事この事もしよう」と言うべきである。」

(「ヤコブの手紙」4章15節、口語訳)

 

ここでヤコブが手紙の読者に強調したいのは、

計画を立てるときにも神様を忘れるべきではないということです。

あたかも神様など存在しないかのような態度で計画を立てるべきではありません。

このことをよく表しているキリスト教の古い標語があります。


「祈りなさい、そして、働きなさい!」


「あたかも自分の働きは何の助けにもならないかのように祈りなさい。

また、あたかも自分の祈りは何の助けにもならないかのように働きなさい。」

 

神様には人間の人生を左右する最終的な決定権があります。

旧約聖書にもイエス様の発言にも使徒パウロの手紙にも

このことを教えている箇所があります。

 

「あすのことを誇ってはならない、

一日のうちに何がおこるかを

知ることができないからだ。」

(「箴言」27章1節、口語訳)

 

「そこで一つの譬を語られた、

「ある金持の畑が豊作であった。

そこで彼は心の中で、

『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』

と思いめぐらして言った、

『こうしよう。

わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、

そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。

そして自分の魂に言おう。

たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。

さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。

すると神が彼に言われた、

『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。

そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。」

(「ルカによる福音書」12章16〜20節、口語訳)

 

「むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、

わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。」

(「ヨハネによる福音書」15章5節、口語訳)

 

「わたしは今、あなたがたに旅のついでに会うことは好まない。

もし主のお許しがあれば、しばらくあなたがたの所に滞在したいと望んでいる。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」16章7節、口語訳)

 

ヤコブの手紙はこのテーマについて次のように教えています。

人間は何年でも先の計画を立てることはできます(4章13節)。

にもかかわらず、実際には「あすのこともわからぬ身」なのです(4章14節)。

  

「ヤコブの手紙」4章15節でヤコブは、
神様が私たちに生きるのを許してくださっているからこそ
私たちは今こうして生きているという単純な事実を述べています。 

「ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。

このような高慢は、すべて悪である。」

(「ヤコブの手紙」4章16節、口語訳)

 

高慢はキリスト信仰者にはふさわしくありません。

旧約聖書も次のように警告しています。

 

「高ぶりは滅びにさきだち、

誇る心は倒れにさきだつ。」

(「箴言」16章18節、口語訳)

 

「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、

それは彼にとって罪である。」

(「ヤコブの手紙」4章17節、口語訳)

 

この節は

「自分なら罪のない状態に達することができる」と勘違いしている

すべての人間を徹底的に打ち砕きます。


私たちはたとえ悪い行いを避けることができたとしても、

神様が私たちに良い行いをする機会を与えてくださるときに

いつもそれを実行できるわけではありません。

 

キリスト教信仰に基づく道徳意識は

商売などの利益優先の経済活動には向いていないと主張されることがあります。

しかしこのような考え方には、

神様を「日曜日だけの主人」に押し込め、

自分を「月曜日から土曜日までの主人」とするような

人間の傲慢な態度があらわれています。


大きな成功を収めたあるフィンランド人実業家はテレビのインタビューで

「経済活動で成功するためには正直でなければならない」

と言ったことがあります。


私たちはともすると物事を思い込みで判断しがちです。

しかし、現実はそのような人間の勝手な想像とは異なっているものです。

全能なる神様はもちろん経済活動においても人間たちの主人の立場におられます。

2022年8月17日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック あなたがたは律法の上に立つ者ではない(その2)

あなたがたは律法の上に立つ者ではない(その2)

「ヤコブの手紙」4章11〜12節

 

ここで「誤った使い方が正しい使い方を妨げることがあってはならない」

という古い格言を思い起こしましょう。


もちろん神様の律法自体や律法を宣べ伝えることは

キリスト教の宣教において重要なものです。


律法の要求を真摯に受けとめずに福音を真に深く理解することはできません。

律法と福音は互いに深め合いその意味を明確にし合う関係にあるのです。

 

律法はすべての人間にかかわっていると聖書は教えています。

このことから、

すべての人間は律法を破っている罪深い存在であるという結論が出てきます。

使徒パウロも

「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」

(「ローマの信徒への手紙」3章23節、口語訳)と書いています。

 

同時に真の神様でもあり真の人間でもあるイエス様は唯一の例外ですが、

人間は誰一人、神様の律法の要求する内容を完全に満たすことはできません。


ですから「罪人であるあなたたち」という言い方ではなく

むしろ「罪人である私たち」という言い方を用いるべきなのです。


イザヤが預言者として神様に召されたときの出来事にも

このことはよく表現されています。

次の引用箇所での「わたし」とはイザヤのことです。

 

「ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、

その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。

その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。

その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、

二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。

その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。

その時わたしは言った、

「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。

わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、

わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。

この時セラピムのひとりが火ばしをもって、

祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、

わたしの口に触れて言った、

「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、

あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。」

(「イザヤ書」6章1〜7節、口語訳)

 

律法と福音は互いに異なるものです。

しかし、それらの明確な区別にこだわりすぎるのもよくありません。


例えば、私たちが神様の律法ばかりを宣教する場合には、

聴衆はそのような教えから憐み深い神様を見出すことはできないでしょう。

 

その一方で、神様の恵みはいわば「安物の恵み」であってもいけません。

イエス様は弟子たちに、

人々を罪から解放することと罪へと捕縛することという二つの職務を

行うようにお命じになりました。

 

「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、

行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。

もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。

もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。

それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、

すべてのことがらが確かめられるためである。

もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。

もし教会の言うことも聞かないなら、

その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。

よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、

あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。」

(「マタイによる福音書」18章15〜18節、口語訳)

 

神様が私たちの罪を赦してくださるのは、

そのおかげで私たちが平気でさらに罪を重ねていけるようにするため

ではありません。

使徒パウロも次のように書いています。

 

「では、わたしたちは、なんと言おうか。

恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。

断じてそうではない。

罪に対して死んだわたしたちが、

どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。」

(「ローマの信徒への手紙」6章1〜2節、口語訳)

 

このようにキリスト教会には、

自らの罪深さを悔い改めない人間を罪へと捕縛する職務もあるのです。


しかし残念ながら、このような考え方に対して

多くの現代人は強い違和感を持つようになっています。


人が他の人を罪へと捕縛したり、

少なくともそう考えたりするだけでも、

「他人を裁く冷たい人間」というレッテルを貼られてしまいます。


また「どうしても罪について言及せざるをえないときには、

罪の赦しを受けることと与えることとについてのみ話すべきである」

という意見も人間の罪深さに真摯に向き合おうとしない現代流の考え方です。

2022年8月15日月曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック あなたがたは律法の上に立つ者ではない(その1)

 あなたがたは律法の上に立つ者ではない

「ヤコブの手紙」4章11〜12節(その1)

 

「兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。

兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、

律法をそしり、律法をさばくやからである。

もしあなたが律法をさばくなら、

律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。

しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、

救うことも滅ぼすこともできるのである。

しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。」

(「ヤコブの手紙」4章11〜12節、口語訳)

 

悪口を言うことはその場にいない他の人を貶すことです。


「陰口を言う者は律法を裁いている」

と指摘するヤコブは何が言いたいのでしょうか。


律法が人間関係に要求しているのは隣り人を愛することです

(「レビ記」19章18節、「マタイによる福音書」22章34〜40節)。


この隣人愛の律法に従おうとしない者は自分を律法よりも上位に置いています。

そのような人は

自分が人間関係の問題について律法以上によくわかっている

と主張していることになるからです。


また、律法に反対することは神様に反対することでもあります。

律法を捨てることは律法を授けてくださったお方を捨てることにもなるからです。

 

キリスト信仰者は隣り人を自分よりも下位に置くべきではありません。

それとは逆に、隣り人を持ち上げて支えるように努めるべきなのです。

 

しかしこれは、

私たちは隣り人に対して注意や否定的なことを一切言ってはいけない

という意味でしょうか。


私たちは万事について善意に解釈するべきなのでしょうか。


ここでヤコブが言いたいのはそのようなことではありません。

実際に私たちは自分や他の人たちの生き方を神様の律法の光に照らして

適切に評価することができますし、またそうすべきなのです。


ヤコブの第一の主張は、

私たちは自分に都合が良いように人々を評価してはいけない

ということです。


そして第二の主張は、

この評価がどのような意味でまたどのような目的で行われるものであるか

忘れないということです。


たしかに神様の律法は否定的な目的で使用することもできます。

例えば、他の人々の誤りや欠点を指摘するために律法を用いる場合です。


しかしまた、神様の律法は肯定的な目的のためにも用いることができます。

これは人々が自らの罪を悔い改めて神様から罪の赦しをいただくために

律法を使用する場合です。

 

キリスト教の宣教活動においても

神様の律法がまちがった目的のために使用されることが度々起こります。

上掲の例の他にも正しくない危険な宣教のやり方がいくつも考えられます。


例えば、牧師が聴衆に対して

「あなたたちは罪人である」と決めつけて説教をおしまいにしたり、

律法の要求にどう対処するべきかわからなくさせたりする場合などです。


いろいろな罪を「重大な罪」と「重大ではない罪」とに区別するのも

律法の危険な使い方です。

このような分類を試みるときには、

キリスト教から遠ざかった人の罪ばかりが重大視され、

教会につながっている人の罪は過小評価される傾向があるからです。

2022年8月4日木曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 神様の御意思の下にへりくだりなさい

  

神様の御意思の下にへりくだりなさい

「ヤコブの手紙」4章7〜10節

 

これから扱う箇所には実行不可能な要求ばかりが列挙されている

と感じる人もいるかもしれません。

4つの節の中には実に10個もの奨励が含まれているからです。

 

しかしヤコブの基本的な考え方によれば、

これらの奨励に従うこともまた

神様の恵みの力によってのみ実現できることになります(4章7節)。

 

「主のみまえにへりくだれ。

そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。」

(「ヤコブの手紙」4章10節、口語訳)

 

上掲の節にあるように、

主の御心に対してへりくだることは

人が真の信仰生活を送るために欠くことのできない出発点です。

イエス様も次のように言っておられます。

 

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、

自分を低くする者は高くされるであろう。」

(「ルカによる福音書」14章11節、口語訳)

 

例えば、スポーツの分野で最高の成績を収めるためには

全力で練習に打ち込むことが必要不可欠であると考えられています。

ところが、こと信仰生活に関していうと

人間の側ではいっさい何もしなくても

自ずと信仰者の「聖化」が実現していくはずである

と考える人たちが少なからずいます。


これはまことに奇妙なことです。


もちろん私たちは真の信仰生活を送れることが

聖霊様からの働きかけのおかげであることを忘れるべきではありません。

しかしその一方で、

信仰生活を健全な状態に保つために

「特定の手段」を神様が用意してくださっていることも忘れてはいけないのです。


それには「恵みの手段」と呼ばれる「聖書、洗礼、聖餐」に加えて、

祈りやキリスト信仰者の間の交わりなども含めることができるでしょう。

私たちはこれらの手段を信仰生活のために存分に役立たせることもできますし、

それとは反対に、

それらを長い間利用しないままになることも起こりえます。

例えば、

祈りもせず聖書も読まず教会の礼拝にも参加しない人が

真の信仰生活を送れなくなったとしても何の不思議もありません。

 

人が「神様によって義とされること」(義認)と

「真の信仰生活を送るようになること」(聖化)とは

次の点で互いに異なるものとして区別しなければなりません。


私たちが神様によって義と認められることに関して

私たち自身の行いはまったく影響を及ぼすことができません。


しかしそれとは対照的に、

私たちが真の信仰生活を送れるようになるかどうかは、

私たち自身が神様の御意思に対してへりくだるかどうかに左右されます。


要約すると「聖化」とは、

キリストを救い主として信じるようになった人間が

残りの全人生をかけて実現していく過程のことなのです。

ですから、

私たち人間が神様の御意思に反抗して「聖化」を妨げることも起こりうるのです。