2010年11月23日火曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」4章8~13節 

王と道化師 4章8~13節

パウロはコリントの信徒たちを痛烈な皮肉をもって次のように批判しています、
「コリントの信徒たちは「神様に所属する強大な民」という妬ましいような高みにのし上がっています。彼らは王や裁判官のようなお偉方になってしまいました。キリストの十字架によって、彼らは世間から愚か者とはみなされなかったし、敬われる彼らの立場を誰も怪しんだりはしません」。
ところが、使徒たちはまったく違う待遇を受けました。
手紙の最初の挨拶の後、今ようやくはじめて、パウロはこのメッセージを自分自身に当てはめました、
「神様は御自分の使徒たちを多くの苦しみを受ける最悪の立場へと低められました。彼らは家もなく窮乏の中でどうにか暮らしてきました。彼らは馬鹿にされ迫害され悪く言われます。神様は使徒たちを皆からつばきを受ける「世のゴミ溜め」になさいました。一方、コリントの信徒たちは、あらゆる点でうまくことが運んでおり、彼らは権威を誇る大人物になっています」。
パウロの皮肉は切れば血が出るほど鋭く、また文章としても最上のレヴェルのものです。
しかし、彼はたんに揶揄で終わらせようとはしていません。
「コリントの信徒たちの恵みの賜物は、それ自体としてはすばらしいものだ」、とパウロは考えています。
問題なのは、彼らがそれについて栄光を神様に帰さなかった、という点でした。
使徒パウロはすでにここで、とりわけ「コリントの信徒への第二の手紙」の最も中心的なテーマ、私たちルター派にとって決して捨てることができない大切なことを扱っています。
すなわち、神様の力はこの世では人間的な能力とか輝きとして目に見えるようには現れない、ということです。
この世の時には、神様は御自分の力を弱さの中に隠されます。
神様はなかんずくキリストの人生において、このようになさいました。
キリストは光り輝く宮廷の中にではなく、貧しく片隅に追いやられた者として、お生まれになりました。
キリストの贖いのみわざは栄光の道ではなく、キリストは御自分を常に可能なかぎり低められました。
そしてそれは十字架上の恥辱に至るまで続きました。
教会が設立される時が来て、神様はこの世の超一流の哲学者たちではなく、学のない漁師たちを教会形成のために選ばれました。
パウロは神様の御心を実現するために働くことを許されましたが、すでにその召命の時に、「これから多くの苦しみを味わうことになる」、と神様から言い渡されています(「使徒の働き」9章16節)。
そして、終わりまでその通りになりました。
「十字架の神学」の核心は、
「神様はこの世では栄光を隠され、神様の力はそれとは全く逆の「弱さ」の中に現れる」、
ということです。
それに対して「栄光の神学」は、神様の目に見える力、強いクリスチャン、大説教者などを偏愛します。
しかし、パウロにとってそれはまったく疎遠な教えでした。