2010年9月22日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」1章1~9節 

  
「コリントの信徒への第一の手紙」1章  
 
あいさつ 1章1~9節  
  
現代と同じく古典時代でも、手紙はある種の決まり文句にしたがって始められ、また終わりました。
単純なのは、「AがBにあいさつを送ります」、あるいは、「A、Bに」というパターンです。
ふつう手紙の終わりには、「お元気で」という短い言葉が添えられていました。
古典時代には、手紙はたとえば次のように始まります、「使徒および長老たちから、異教から改宗した信仰の兄弟たちに、あいさつを送ります」(「使徒の働き」15章23~29節)。
手紙の中でパウロは、このような決まり文句を部分的に採用し、そこに独自の新しい表現も盛り込んでいます。
今取り扱う「コリントの信徒への第一の手紙」でも、あいさつはふつうの手紙よりも長めです。
大胆にもパウロは、自分のことを「神様の御心によるキリストの使徒」と名づけています。
この手紙のもうひとりの差出人は、ソステネという人です。
彼はもしかすると、アカヤの総督ガリオが冷ややかに見守る中、ユダヤ人から暴行を受けたコリントのユダヤ人会堂(シナゴーグ)の前の責任者であった人かもしれません(「使徒の働き」18章)。
だとすると、パウロの以前の反対者(だったかもしれない)者がクリスチャンになり、今やパウロと一緒に仕事をしている、ということになります。
  
はじめのあいさつの中のいくつかの短い言葉は、大半の聖書の読者にはたやすく見過ごされてしまうようです。
パウロはこの手紙を「神様の教会」に宛てて書いています。
これは、「聖」なる人々、「キリスト・イエスが聖とされた」人々のことをさしています。
私たちは自分のことを「聖なる人」とはなかなか呼べないものです。
「それは言いすぎだ」、と私たちは考えるのです。
私たちはふつう自分のことを、まったくの悪人とも思いませんが、聖人だとも思えないのです。
パウロの言葉遣いは、「聖」とは何か、私たちに教えてくれます。
もちろんパウロは、コリントの教会がどのような群れであるか、よく知っていました。
彼らは互いに争い合い、ひどい罪の生活を送り、自分自身に与えられた恵みの賜物によって驕慢になっていました。
にもかかわらず、パウロはコリントの教会を、「聖」と、「聖別されたもの」と、呼んでいるのです。
それはなぜでしょうか。
聖には段階などはない、ということです。
人は、聖であるか、あるいは、聖でないか、のどちらかです。
もし人が聖でなければ、その人は神様の呪いの下にあります。
もし人が聖ならば、その人は神様の呪いの下にはいません。
教会の「聖」は教会員自身の聖ではなく、キリストが賜物として与えてくださった「聖」なのです。
  
手紙を書くときパウロは、はじめのあいさつの後、神様へ感謝を捧げます(「ローマの信徒への手紙」1章8~10節、「コリントの信徒への第二の手紙」1章3~4節、「フィリピの信徒への手紙」1章3~6節などを参照してください)。
今もパウロは自分のスタイルを変えず、コリントの信徒たちのゆえに神様に感謝しています。
この段階ではパウロは、教会の問題については何もふれず、知っていることをとりあえず脇に置いて、彼らを喜ばせることに専念します。
パウロは、コリントの信徒たちが手紙の始まりの部分ですぐに耳をふさいでしまうような事態を避け、彼らに言うべきことがらを彼らがおわりまでちゃんと聞くことができるよう、努力しています。
そのためにパウロは、礼儀正しく格調高く手紙を書き始め、教会に感謝しているのです。
とりわけ、パウロはコリントの教会の豊かさを強調します。
この教会の中には、他の教会よりも多くの特別な恵みの賜物があったからです。