2011年12月21日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 6章3~4節 第二の封印

  
第二の封印 634
   
 
第二の封印が解かれると、
赤い馬とそれに乗っている者が飛び出します。
この馬に乗っている者には戦争を起こす力が与えられました。
人類の歴史は、
この赤い馬が世界をせわしなく動き回ってきたことを
証明するものです。
新たな征服者があらわれる度に、
それと共に新たな戦争が始まります。
実際に、戦争は今まで絶えることがありませんでした。
何世紀にもわたって
よりいっそうむごたらしく血に塗れた戦争が
行われるようになってきました。
人間の懸命な努力にもかかわらず、
永続的な平和を得るには至りませんでした。
残念ながら、
それはこれからも変わりません。
なぜなら、
この世は罪に堕落した世界だからです。

2011年12月20日火曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 6章1~2節 第一の封印

 
ヨハネの黙示録6
  
 
第一の封印 612
  
 
イエス様は手に取られた巻物を開け始め、
封印を一つずつ解いていかれます。
それぞれの封印が解ける度ごとに、ヨハネは幻を見ます。
今、ヨハネは預言者として語っているので、
象徴的な言葉を用いているのです。
ですから、あまりにも詳細な意味の詮索は避けるのが賢明です。
おそらくヨハネも
自分が見たことの全部については理解できなかったことでしょう。
封印の幻は、
この世とその出来事を一般的に描写するためのものではないかと思われます。
封印の幻は、
罪に堕落した世界で生きていくとはどういうことか、
語っているのです。
   
第一の封印が解かれると、
四つの生き物のうちの一つが「来なさい」と言います。
ヨハネは白い馬とそれに乗っている者が出てくるのを見ました。
その者は冠を被った勝利者として描かれています。
これは福音が世界を征服する様子を描いている、
と説明されることがあります。
そうかもしれません。
しかし、より真実に近いと思われるのは、
人間の歴史の中で幾たびも登場した世界征服者の一群が描かれている、
というものです。
彼らは戦いに勝ち、
彼らの王国は次の勝利者が現れるまで、
しばらくの間は権勢を振るいました。
「ヨハネの黙示録」の続きの部分に、
人々がさまざまな災いで苦しむ様が描かれている、
ということもこの解釈を支持します。
災いというのは、しばしば、
誰かが侵略戦争を仕掛けた結果生じるものです。
戦争の偉い指揮官たちは白い馬に乗りました。
それゆえ、ここでも白い馬に乗っている者が出てくるのです。
  

2011年12月14日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第4回目の終わりのメッセージ


終わりのメッセージ

全聖徒の日の輝き

 
死んだ人たちのことを覚えて、彼らのお墓に行き、
ロウソクを11月の暗い夕べにともすのはよい習慣です。
  
全聖徒の日の意味はそれだけではありません。
希望の輝きに満ちた日なのです。
晩秋ではなく最高に輝かしい春なのであり、
死ではなく新しい命なのです。
  
これは、約束された全き遺産、新しい全き命のことであり、
とりわけ、
この惨めな世の中や秋と不完全さと罪の只中における
主の輝きのことである、と私は言いたいです。
この輝きは恵みの輝きであり、
この完全さは自分では何も持っていない私たちに
与えられているものです。
この輝きは何も聖なるものを持っていない私たちに
プレゼントされている聖さなのです。
   
もはや泣く必要がない新しい命が遥かかなたで私たちを待っている、
そして私たちは遠く隔てたこの世からそれを見ようとしているようなものだ、
と言われたりもします。
  
それはある意味で本当です。しかし、
「救い主なるお方は私たちの只中に住んでおられる」、
と私たちクリスチャンは宣べ伝えることができます。
私たち罪人はまさに罪人として、
イエス様の十字架の死によって、
聖なる洗礼を通して
神様に結びつくことを許された存在、
いわば聖なる罪人なのです。
そして、これが信仰の核心です。
これが罪の赦しの輝きなのです。
  
すべてはすでに今イエス様の中にあります。
これが希望の基です。
この基から全聖徒の日は輝きを帯びるのです。
神様の子供の集まりである家族、
信仰の中ですでに死んだ人々とこの世でまだ生きている人々とからなる家族は、
今すでにひとつなのです。
天と地がひとつとなっているように。
   
(ラウリ コスケンニエミ 「私と共にいてください」)

2011年12月12日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第4回目の質問(4~5章)

   
4回目の集まりのために
  
「ヨハネの黙示録」45
  
 
ヨハネは天国を訪れ、天国での礼拝を見届けました。
そして、天国の不思議な様を描きました。
これが4章の内容です。
天国にはまた封印されている巻物がありました。
イエス様がそれを手に受け取られると、
天国の住人たちはイエス様にひれ伏しました。
  
質問

1)ヨハネは何を見ましたか。
それは天国についてどのようなことを語っていますか。
  
2)天国にいる者たちは休むことなく神様に仕えています。
私たちはそのようにしていますか。
私たちはどのように神様にお仕えできるでしょうか。
天国の描写は神様の偉大さを物語っています。
神様がどれほど大いなる方か、私たちは理解しているのでしょうか。
それを理解したなら、その結果どのようなことが起こるのでしょうか。
  
3)「神様は賛美と栄光と権威を受けるのにふさわしいお方です」、
と長老たちは言います。
それはどういう意味でしょうか。
栄光は神様に帰すべきことなのに、
私たちは栄光を自身のものだとみなす傾向があります。
それはどのような事柄に関してでしょうか。
  
4)イエス様は「ライオン」や「小羊」として描かれています。
これはイエス様について何を語っているでしょうか。
イエス様はどのようなお方なのでしょうか。
  
5)58節は「聖徒の祈り」すなわち、
私たちクリスチャンの祈りについて語っています。
祈る人にはどのようなことが約束されていますか
(該当箇所の説明を参照してください)。
そのことは私たちにもっとよく祈る力を与えてくれるでしょうか。
  
6)イエス様は神様ではない、とエホバの証人は言っています。
これに対し、5章は何と教えていますか。
  
7)イエス様は御自分の血によって人々を
あらゆる部族や民族や国民から買い取ってくださいました(59節)。
これはどういう意味でしょうか。
このことは当然ながら私たちに影響を与えるはずです。
それはどのような影響でしょうか。
  
8)「ヨハネの黙示録」は天使について多く語っています。
あなたは天使についてどのようなことを考えていますか。
あなたには天使に関する経験がありますか。
聖書は天使について何と言っていますか。
  

2011年12月9日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 5章5~14節 ほふられた小羊(その4)

   
ほふられた小羊 5章5~14節(その4)
  
  
天国の礼拝と小羊の讃美には実に多くの天使が参加しています。
その数の莫大さは、ヨハネが無数の天使を見たことを物語っています。
ヨハネが遥か遠くに眼を向けると、そこにもたくさんの天使がいました。
天国の他の住人たちと同様に、天使は小羊に讃美を捧げます。
小羊は感謝と栄光を受けるのにふさわしい方です。
  
小羊を讃美する者の群れはさらに増えていきます。
天国と地上と地下と海中の被造物一同がイエス様に感謝を捧げます。
これは、今すべての人がイエス様にひれ伏す、という意味ではありません。
このことは、ヨハネの時代に実現しなかったし、今もまだ実現していません。
ここで、パウロがこの箇所を理解する助けを与えてくれるでしょう。
「ローマの信徒への手紙」で彼は、
被造物世界がキリストの再臨の時を待ち望んでいる、
と書いています。
なぜなら、その時は、
被造物世界が罪の堕落によって世に持ち込まれた悪から解放される時からです
(「ローマの信徒への手紙」81923節)。
「ローマの信徒への手紙」にある「被造物世界」という言葉は、
わかりやすく言うと、ほぼ「自然」に相当するものです。
もしも被造物世界がキリストの再臨を待ち望んでいるのだとしたら、
それはキリストに感謝を捧げることができます。
なぜなら、万物はキリストを通して創造されたからです。
13節の、もうひとつの可能な解釈は次のようなものです。
ヨハネの視線は遥か未来に向かいます。
そして、イエス様が栄光の王として地上に戻って来られる日を見ます。
その時には、例外なく皆がイエス様を王として認め、
イエス様に栄光を帰することになります。
パウロは「フィリピの信徒への手紙」で
まさにこのことについて次のように書いています、
「それは、イエス様の御名によって、
天上、地上、地下の万物がひざをかがめ、
あらゆる舌(つまり、言葉を有する存在)が
「イエス・キリストは主である」と告白して、
栄光を父なる神様に帰するためです」(21011節)。
   

2011年12月7日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 5章5~14節 ほふられた小羊(その3)

 
ほふられた小羊 5514節(その3) 

  
  
8節には、
天国にいる者たちが金の器に入れて小羊の御前にたずさえて行く
「犠牲の香」が出てきます。
そして、これは聖徒たちの祈りだ、と言われています。
「聖徒」とは、天国にいる人々のことではなく、
この世で生きている「神様に属する人々」を指しています。
つまり、私たちの祈りは天国で聴かれているのです。
それらは、あたかも犠牲の香のように、
神様の御座のもとへと昇っていき、
天国での礼拝の一部分にさえなっています。
天国にいる者たちがイエス様の御前にひれ伏すとき、
彼らは金の器の中に私たちの祈りを運んで行きます。
そしてイエス様は、天国にいる者たちの賛美と共に、
それらの祈りを聴いてくださいます。
    
9節では、
四つの生き物と二十四人の長老とが「新しい歌」を歌います。
すでに旧約聖書の時代に、
大きな祝会のために新しい歌が作られる習慣がありました。
それはこの箇所にもあてはまります。
イエス様がその手に巻物を受け取るのは、大きなお祝いの時です。
そのために新しい歌が用意され、
大きなお祝いを飾るものとして歌われているのです。
  
歌のメッセージは、新奇なことではなく、
古来変わることのない福音を伝えています。
神様の小羊は、ほふられることにより、
国境や国民や民族や言葉を越えて、
神様のために民を買い取られたのでした。
この方はすべての人のために十字架で死なれました。
それに基づいて、
私たちクリスチャンは神様に属する者になっています。
私たちはキリストを王としていただく国民です。
また、私たちは神様の祭司でもあるので、
神様の御許に行くことが許されています。
旧約の神殿では、
神様の御前に出ることができたのは、祭司のみでした。
イエス様はこの権利を私たち皆に買い与えてくださいました。
  
10節では、
神様に属する人々が地上を支配することになる、
という約束が与えられています。
彼らが支配する「地」とは、
神様がいつか創造される「新しい地」を意味しているものと思われます(211節)。
イエス様も、「柔和な人々は地を受け継ぐ」、と約束されています。
「地」という言葉で、イエス様がこの世を意味していたとはとても思えません。
考えられるもうひとつの解釈は、
地を支配する約束が「千年王国」についてであるとするものです。
この「千年王国」については20章でより詳しく語られています。
 

2011年12月5日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 5章5~14節 ほふられた小羊(その2)

 
ほふられた小羊 5514節(その2)
  
 
イエス様が、
一方では「偉大な王」として、他方では「ほふられた小羊」として
描き出されていることには、深いメッセージが込められています。
キリストはあらゆる権能をお持ちで、
この方を前にしては、
最も偉大な人間でさえも取るに足らない存在にすぎません。
ところが、
イエス様はその偉大さを隠され、
普通の人として生まれて、
十字架への道を従容として歩まれました。
そして、
まったく無力な小羊がほふられるようにして、身をほふられました。
「王の中の王」はこの受難を受け入れてくださいました。
なぜなら、私たちを限りなく愛しておられたからです。
もしもイエス様が栄光に包まれてこの世に来られたのだとしたら、
この方の聖さは人類を滅ぼしてしまったことでしょう。
この方は、私たちを救うためにその偉大さを隠され、
「イザヤ書」の預言の通りに、小羊の立場にその身を置かれたのです。
「主は私たち皆の罪の負債をこの方の上に置かれました。
この方は虐げられ苦しめられましたが、口を開きませんでした。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また、毛を切る者の前で黙っている羊のように、
口を開きませんでした」
(「イザヤ書」5367節より)。
    
イエス様は巻物を御座にいます方の御手から受け取られました。
ちょうどその時、天国ではふたたび礼拝が始まりました。
天国にいる者たちは、小羊の御前にひれ伏し、歌い、この方を敬い賛美しました。
  
旧約聖書で神様は次のように命じられました、
「私は主、あなたの神です。(中略)
あなたには他の神々があってはなりません。(中略)
それらにひれ伏したり、仕えたりしてはなりません」
(「出エジプト記」2025節)。
このように、
神様以外の何者に対してもひれ伏してはならないという戒めにもかかわらず、
天国にいる者たちはイエス様に対してひれ伏しました。
これは、イエス様が神様だからです。
聖書は、「三位一体」という術語は用いませんが、
神様の本質が御父と御子と御霊からなる三位一体であること
(「三位一体論」)を明瞭に意識していますし、そのように教えてもいます。
そして、この「ヨハネの黙示録」の箇所も神様の三位一体性をよく示しています。

2011年12月2日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 5章5~14節 ほふられた小羊(その1)

ほふられた小羊 5章5~14節(その1)


天使も人間も悪魔の手下も、
七つの封印で閉じられた巻物を開けることができませんでした。
それができるのは神様だけです。
神様の御座の周りにいた長老の中の一人は、
「ユダ族のライオン、ダヴィデの根の若枝である方」が
封印を解いて巻物を開くことができる、と示唆します。
「ユダ族のライオン」は、死の床でのヤコブの言葉に出てきます
(「創世記」49章9~10節)。
ヤコブの言葉は、神様の御子を預言するものでした。
この御子を神様はすでにこの世に遣わされることを決めておられました。
「ダヴィデの根の若枝」は、「イザヤ書」11章にある表現です。
ダヴィデの王族は、ちょうど倒された木のように、死んだように見えました。
しかし、
死んだ切り株からいつか新しい枝が生える、
すなわち、
ダヴィデよりもさらに偉大な新しい王がダヴィデの家系から生まれる、
という約束を、神様は与えてくださいました。
新約聖書は、
神様の御子がまさしくダヴィデの家系に人としてお生まれになった、
と語っています。
この「イザヤ書」の預言は実現しました。
イエス様は王の中の王、天と地の主です。
イエス様は人間や天使以上のお方です。
それゆえ、他の誰も行う資格がないこともなさることができます。

長老はイエス様の偉大さを言い表します。
ヨハネが視線を御座に向けたとき、
彼が見たのは大いなる勝利者ではなく、ほふられた小羊でした。
小羊には七つの角と七つの目がある、とヨハネは語ります。
「ヨハネの黙示録」で「角」は力と権威をあらわしています。
つまり、
ほふられているにもかかわらず、小羊には力と権威があるのです。
七つの目は神様の七つの霊である、と言われています。
「ヨハネの黙示録」の最初の章にも七つの霊が出てきます(1章4節)。
おそらくそれは、
すべての七つの教会に臨在し、
それゆえにキリストの教会全体に臨在しておられる、
神様の御霊を意味しています。
ここでも意味は同じだと思われます。
イエス様は聖霊様を全世界に派遣なさいました。
それゆえ、
神様の御霊はキリストに属する人々がいるところなら、
どこであろうと臨在されているのです。

2011年12月1日木曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 5章1~4節 七つの封印で封じられた巻物


 
ヨハネの黙示録5
  
七つの封印で封じられた巻物 514
  
 
ヨハネは全能者の右の手にある巻物に目を留めました。
普通、巻物には片面だけにテキストが書き込まれているものです。
ところが、この巻物はその両面がテキストで満たされていました。
ぎっしり内容が詰まっていたのです。
しかし、その巻物を読むのは不可能でした。
というのは、それは七つの封印で封じられており、
封印を解くにはそのための権限が必要だからです。
天使がその場にあらわれて、
巻物の封印を解く権限を持つにふさわしい立派な者が見つかるか、
と尋ねます。
しかし、そのような者は見つかりません。
天国の天使たちの中にも、
地上で生きている人間たちの中にも、
死者たちの中にも、
悪魔の手下たちの中にも。
この最後のグループについては、
「地の下」という表現が対応しています
912節とその説明を参照してください)。
御座のお方が手にもたれていたこの巻物には
何か大切なことが書き込まれています。
巻物を開ける者が見当たらないので、ヨハネは泣きます。
ヨハネも巻物の中身に興味を持っていたことでしょう。
しかし、ヨハネが泣いたのにはもっと深い理由があったと思われます。
神様に属する人々への大切なメッセージを含んだ巻物が
全能者の御手の中にある、ということを
ヨハネは理解していたのです。
巻物の封印が解けないかぎり、
神様の教会へのメッセージは伝達されないままです。
ですから、ヨハネが泣いたのもうなずけます。
  
七は聖書では聖なる数字です。
七は神的な完全性を表しています。
七つの封印は、巻物が聖なるものであることを示唆しています。
巻物には、
それを開くのにふさわしい者が天国にも地上にも地下にも見出せないほど、
神的な何かが含まれているのです。
 

2011年11月28日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 4章1~11節 天国訪問(その2)


 
天国訪問 4章1~11節(その2) 
 
 
宝石は不思議な色で光り輝きます。
それら宝石を(象徴として)用いて、
ヨハネは御座に着かれている天と地の主を描いています。
全能者の周りには24人の長老が白い衣を身にまとい、
金の冠を頭にかぶっていました。
彼らが誰なのか、私たちは知りません。
おそらく彼らは
神様の御座で特別な任務を受けている天使たちなのでしょう。
旧約の時代には、
イスラエルの民は
ヤコブの12人の男子に呼応して
12の部族に分かれていました。
新約の基盤は使徒的な信仰です。
そして、使徒は12人いました。
長老の人数は神様が結ばれた二つの契約を想起させます。
  
神様の御座の周りには、
体中が目だらけの四つの生き物がいました。
「エゼキエル書」1章には
これと似たような幻についての記述があります。
これらの生き物が何者か、
またしても確実なことは言えません。
おそらく天使ではないかと思われます。
生き物たちのもつ夥しい数の目は、
神様に対しては何も隠し立てできないこと
をあらわしているのでしょう。
生き物たちの目があらゆるところに向いているのと
ちょうど同じように、
神様はすべてをご覧になります。
全知全能の神様は、
すべてを見ておられ、
すべてを知っておられるのです。
  
後世のクリスチャンは四人の福音書記者を
ヨハネの見た生き物として表現しました。
マルコはライオン、ルカは雄牛、ヨハネは鷲、
マタイは人間の顔を持った生き物、としてです。
  
8節~11節で、ヨハネは天国での礼拝を描きます。
生き物たちは全能の神様に賛美を歌います。
「聖なるかな」という言葉が三回繰り返されます。
神様が三位一体のお方だからです。
御父に「聖なるかな」、
御子に「聖なるかな」、
御霊に「聖なるかな」、
というように。
天国での礼拝は神様の偉大さを力強く証しています。
天国の一群は全能者の御前にひれ伏し、
この方こそがすべての栄光を有される主なる神様です、
と告白します。
天国の民が絶え間なく礼拝を続けていることからもわかるとおり、
神様はまことに大いなるお方なのです。

2011年11月25日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 4章1~11節 天国訪問(その1)


  
ヨハネの黙示録4
   
天国訪問 4111節(その1)
  
 
4章は「ヨハネの黙示録」のターニングポイントです。
これまでは、地上で活動している教会についての話でした。
今、視線は天国とそこでの出来事に向けられます。
これまでは、復活されたイエス様がヨハネに直接話しかけられました。
ヨハネは4章の冒頭でラッパのような音を耳にします。
それはおそらく神様の御子の語りかけを意味しています
11011節を参照してください)。
この後でふたたびイエス様の声が響くのは、
(いくつかの例外を除けば)ようやく最終章になってからです。
そこにいたるまでは、
イエス様はヨハネに天使を通して語りかけられます。
119節でイエス様はヨハネに、
今の、そして、これから起きる出来事を
教えることを約束なさいました。
これまでの章では、
諸教会の当時の状態がヨハネに示されました。
これからの章では、
未来での出来事が明らかにされるのです。
  
ヨハネは恍惚状態になります(110節を参照してください)。
彼は輝きに包まれて天国に連れて行かれ、
そこでの不思議な出来事を目の当たりにします。
ヨハネは自分が見ていることをどう言い表すべきか、困惑します。
それで、彼は象徴を用いて語ることにします。
もちろん、それらの象徴は、
彼に示された出来事そのものというより、それに近似するものです。
もしもヨハネにとって、
自分が見たことを言葉によって表現するのが難しいのだとすれば、
ヨハネが実際に何を見て、象徴によって何を意味したのか、
解き明かすのは、
「ヨハネによる黙示録」を読む私たちにとっては、
さらに難しいことになります。
それについて何かしら言うことはできるでしょうが、
ここではむしろ、
光輝く天国についてのヨハネの描写に
感嘆するにとどめておきたいと思います。