2013年7月31日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第12回目の質問(12章)



「ヨハネによる福音書」12章

12回目の質問

イエス様はベタニヤで油を注がれます。
そして、エルサレムへの入城のさいに大歓迎を受けます。
しかし、それは受苦の道への転換点でもありました。
イエス様が人々を公けに教える活動はここで終わります。

1)マリアはイエス様の足に香油を注ぎかけます
(「マルコによる福音書」1438節も読んでみてください)。
300デナリとはどのぐらいの金額だったのでしょうか。

2)マリアの行いにはどのような意味がありましたか。

3)イエス様はエルサレムにロバに乗って入城されます。
「ゼカリヤ書」9917節を読んでください。
人々はイエス様がエルサレムに来られたことをどのように理解しましたか。
どのような指導者を彼らは待望していたのでしょうか。
12節で、なぜ人々は「ホサナ」と叫んだのでしょうか。

4)2022節で、
ある数人のギリシア人がイエス様に会おうとしてやってきます。
四つの福音書は、
どのような状況(箇所)でイエス様が異邦人とお会いになった、
と記していますか。

5)「マルコによる福音書」143241節は、
ゲッセマネでのイエス様の祈りの戦いを報告しています。
「ヨハネによる福音書」はそれについて直接には語っていませんが、
「ヨハネによる福音書」122336節は、
このゲッセマネの出来事を背景として読むときに、
どのようなことを語っているのでしょうか。

6)3536節において、
イエス様は「光」という言葉で何をあらわしていますか。

7)この章のおわりで、
イエス様は公けに教えるのを終えられました。
「ヨハネによる福音書」がここで記している
イエス様のここまでのみわざをまとめてみるとき、
あなたがたはどのような印象を受けますか(3750節)。

8)4243節には、
イエス様を信じつつもそれを公けに告白する勇気がなかった
指導者の人々のことが描かれています。
この問題は、あなたがたにも身に覚えがあることですか。
 
9)なぜイエス様の奇跡の数々(「しるし」)は
人々を信仰に導かなかったのでしょうか。
現代ではどうでしょうか。

2013年7月29日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 12章37~50節 「光は暗闇の中で輝いているのに、暗闇はそれを理解しませんでした」



「光は暗闇の中で輝いているのに、暗闇はそれを理解しませんでした」
123750

 
この章のおわりは、
受苦の一連の出来事が始まる前までの、
イエス様のこの世における活動の概要をまとめたもの
とみることができます。
「ヨハネによる福音書」の冒頭のロゴス賛歌が今や完全に実現したのです。
イエス様はこの「世の光」でしたが、
暗闇の支配下にある人々には
この光を受け入れる用意ができていませんでした。
こうして、「イザヤ書」(531節、6910節)の預言が成就しました。
神様は御自分の民をかたくなにし、霊的な意味で盲目にしたので、
彼らはキリストの栄光を見ることができなくなりました。
まさにこの盲目さのゆえに、
イエス様は十字架にかけられることになったのです。
もちろん、キリストの栄光を理解した人たちもいましたし、
その中には支配者層の人々さえ含まれていました。
しかし、彼らは臆し、
無実の人に下される有罪判決を阻止すべく
行動に移る勇気がありませんでした。

この章の最後の数節は、
大勢の聴衆に向けたイエス様の最後の語りかけでした。
それはまた、皆への強い嘆願でもありました。
イエス様は天の御父様が遣わされた世の光であり、
罪人たちの唯一の救い主です。
イエス様と結びつくことが、
罪人である人間が永遠の滅びを免れるための唯一可能な道なのです。
イエス様を裁き主とみなす必要はありません。
神様の真理が各人を裁くからです。
そのかわり、イエス様は
罪や死や悪魔から罪人を解放する救い主として、かけがえのないお方です。
人間にとって、神様の栄光の中に入る道は、
この道をおいて他には存在しないからです。

2013年7月24日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 12章20~36節 死について語るイエス様(その2)


 
死について語るイエス様 122036節(その2)
  

2730節は、
ゲッセマネの園でのイエス様の祈りの戦いについて
「ヨハネによる福音書」が語っているものだ、とみなすことができます。
この箇所では、
死を直前にして震えつつも、御父から与えられた道から退かない
神様の御子が祈り戦っている様子が描写されているからです。
イエス様の受洗の出来事(「マルコによる福音書」1911節)も、
このシーンを読むときに思い浮かぶ箇所だと思われます。

もうひとつ想起されるのは、「マルコによる福音書」8章の
フィリポ・カイザリヤへ向かう道すがらでの出来事です。
そこでは、ペテロの立派な信仰告白を受けて、
イエス様は御自分の道がこれから十字架と受苦へと下降していくことを
明らかになさいました。
「マルコによる福音書」と同じく、「ヨハネによる福音書」にも、
この箇所にはイエス様から弟子たちへの忠告が記されています。
すなわち、イエス様に属する人々の道は十字架と苦しみが伴う道だが、
この道のみがキリストに従う唯一可能な道である、ということです。
この道を通してのみ、
私たちは天の父なる神様の御許へと行くことができます。

短い戦いの後で、イエス様の道が明示されました。
神様が戦いに加わって、悪魔を支配の座から引き落とします。
これは恐ろしい展開を経るものでした。
イエス様は「地から挙げられ」、十字架にかけられ、
人々皆の侮辱の対象となります。
しかし、これによって、
イエス様は人々を皆、御許へと引き寄せることになります。
各人の受ける裁きは、
その人が十字架にかけられた主との関係がどのようなものか
によって決定されます。
主の中に命があるので、
主との絆がなければ人は皆死ぬことになります。
たんなる好奇心から群がってきた不信仰な人々は、
イエス様に無理解な質問を投げかけます。
それはイエス様のこれからの戦いに黒い影を落とすものでした。

2013年7月22日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 12章20~36節 死について語るイエス様(その1)



死について語るイエス様 122036節(その1)

 
イエス様と話す機会を得ようとするギリシア人たちについて、
「ヨハネによる福音書」は丁寧に細かく報告しています。
彼らは正式に割礼を受けてユダヤ人となった人々ではなく、
いわゆる「神様を畏れる人々」、
つまりユダヤ人にはならないままでイスラエルの神様を敬う異邦人のことです。

この出来事には私たちの想像を超える大切なことがらが隠されています。
ユダヤ人は異邦人とは付き合う習慣がありませんでした。
ユダヤ人は、異邦人と一緒に食事をしなかったし、
必要に迫られないかぎりは異邦人とコンタクトを取ることもありませんでした。
福音書においても、イエス様が異邦人と話をするシーンは稀です
(「マルコによる福音書」726節)。
ところが今、数人のギリシア人がイエス様に会うためにやってきたのです。
結局、彼らはイエス様に会うことができなかったのですが、
それは彼らがユダヤ人ではなかったからではありません。
神様の大いなる御計画は今や大変な勢いで進み始めており、
人々が新たにイエス様にコンタクトを取る時間の余裕は、
もはやこの段階ではなくなっていたのです。
それゆえ、異邦人にとってのイエス様の真の重要性は、
イエス様の復活の後になってようやく明らかになったのでした。

これまでも「ヨハネによる福音書」において、
イエス様は「御自分の時」について何度も話してこられました
24節、76節)。
今やその「時」が来たのです。
人の子は栄光を受けますが、
この「栄光」はイエス様御自身も驚愕するほどの迫力です。
この栄光とは「一粒の麦の道」です。
それは、あらゆる防御を失って、死ぬことを意味していました。
イエス様のたとえについて多くを語らない「ヨハネによる福音書」においては、
この一粒の麦のたとえは、めずらしいものといえるでしょう。