フィンランド・ルーテル福音協会は1900年以来日本にルター派の宣教師を派遣し続けてきました。このブログでは、この宣教師団体の聖書や信仰生活に関する教えをフィンランド語から日本語に翻訳して紹介します。(夏は不定期更新になります)。
2010年3月1日月曜日
「エフェソの信徒への手紙」第2回目の質問
第2回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第2章
自分の力によって神様に信頼するようになる人はひとりもいません。私たちは霊的に死んだ者です。しかし、神様はキリストにあって異邦人もユダヤ人も同じように「活きた者」としてくださいました。そして、キリストが成し遂げてくださった救いのみわざの中で、彼らを分け隔てている壁を取り除いてくださいました。教会において神様は両者をひとつの「神様の家族」とし、「神様の神殿」としてくださいました。そこでは誰でも「神様の家」として一緒に結びつくことができるのです。
1)第2章の最初の節はエフェソの信徒たちの過去についてどのようなことを語っていますか。彼らの状況はこの手紙が書かれた時点ではどのようなものでしたか。彼らが変わったのはどうしてだったのでしょうか。その理由をが考えてみてください。なぜエフェソの信徒たちは自分で自分を「活きた者(クリスチャン)」とはできなかったのでしょうか。
2)第2章によれば、神様が私たちを「活きた者」となさいます。それはどのように起こるのでしょう。あなたがたの場合には、それはどのように実現しましたか。神様が私たちを「活きた者」としてくださったことを思い出して、私たちは神様に感謝してきたでしょうか。
3)クリスチャンの心が冷えたり、あやふやになるときに、その人はどんなことを考えるべきなのでしょうか。そのようなときにもその人は自分をやはりクリスチャンとみなすことができるのでしょうか。
4)「エフェソの信徒への手紙」はクリスチャンとキリストをはっきり区別して語ることができません。なぜなら、洗礼が両者をひとつにしているからです。このことは私たちにはなじみのないことに感じられるでしょうか。洗礼について私たちは十分に話し合っているでしょうか。ここでは(幼児洗礼を否定している)再洗礼派のことを意味しているわけではありません。
5)「エフェソの信徒への手紙」は教会を神殿建築に比較しています。この神殿が使徒や預言者の敷いた礎石の上に建てられている、というのは、どういう意味でしょうか。「隅のかしら石」とはどのような石ですか。教会は礎石からずれて移動することができるでしょうか。もしもそれが可能ならば、どのようにしてそれは起こるのでしょう。