2023年12月15日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」1章3〜11節 偽りの信仰と正しい信仰(その2)

 偽りの信仰と正しい信仰(その2)

「テモテへの第一の手紙」1章3〜11節

 

 

「わたしのこの命令は、

清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。」

(「テモテへの第一の手紙」1章5節、口語訳)

 

ギリシア語原文に忠実に訳す場合、

この文の主語は「命令の目標は」になります。

これは勧告や奨励や指導ではなく、

キリスト信仰者全員が守らなければならない命令なのです。

 

「わたしたちが知っているとおり、

律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章8節、口語訳)

 

律法には神様の御意思にかなった使用目的があります

(「ローマの信徒への手紙」8章12、16節)。

ですから、律法を本来の使用目的以外のために用いることは誤りです。

律法は人に救いを与える道ではありません。


ルター派の教義は律法の三つの使用法について次のように述べています。

 

1)社会的な使用法 

律法は社会における悪と不義を抑制する働きをする

(「ローマの信徒への手紙」13章1〜10節) 


2)霊的な使用法 

律法は人間に自らの罪深さを気づかせるように追い込み、

神様の恵みのみによって救われる必要があることを確信させる

(「ガラテアの信徒への手紙」3章22節)


3)第三の使用法

律法は神様の御意思に従うように

キリスト信仰者にも奨励を与える

(「ローマの信徒への手紙」8章4節)

 

「すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、

不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、

神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、

人を殺す者、不品行な者、男色をする者、誘かいする者、

偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、

そのために定められていることを認むべきである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章9〜10節、口語訳)

 

上掲の箇所でパウロは律法を破る11の具体例を挙げています。

それらは十戒にかかわっています

(特に第一戒、第四戒、第五戒、第六戒、第八戒)。


たとえすべての罪に対して赦しが与えられる可能性があるとしても、

「それゆえ何を行ってもかまわないのだ」といった考え方は

決して許されるものではありません。

このことについて上記の一覧表は私たちに注意を喚起し勧告しています。

 

聖書では同性間の性的関係を重大な罪に定めています

(「レビ記」18章22節、20章13節、

「ローマの信徒への手紙」1章26〜27節、

「コリントの信徒への第一の手紙」6章9節)。


近年ではこの点を曖昧にしたり抹消したりする様々な試みがありましたが、

聖書の翻訳の分野に限って言えば、

そのような試みは今までことごとく失敗してきました。

聖書に明確に書いてあることを

翻訳者が勝手になかったことにはさすがにできないからです。

 

「健全な教」は神様の律法に従うことと

矛盾することなくきれいに調和しています。

キリストは律法を廃するためにではなく

成就するためにこの世に来られたのです

(「マタイによる福音書」5章17節)。

また「テモテへの第一の手紙」1章8節にも

律法は本来の使用目的にしたがって用いられるかぎり良いものである

と述べられています。


キリストは恵みによって救いをもたらし、

律法の要求する義が実現しました

(「ローマの信徒への手紙」8章3〜4節)。

 

「これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところであって、

わたしはこの福音をゆだねられているのである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章11節、口語訳)

 

「健全な教」はとりわけ福音とも緊密なつながりがあります。

福音はパウロが神様からいただいたものでした。

「健全な教」とは福音に沿って生きることです。

「福音」とは人間が理性で習得できる哲学や思考体系などではなく、

神様からの啓示そのものです。

 

パウロは福音のメッセージだけではなく、

それを異邦人たちに宣べ伝える使命神様からいただきました

(「コリントの信徒への第一の手紙」9章17節、

「ガラテアの信徒への手紙」2章7節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章4節、

「テモテへの第二の手紙」1章12〜14節)。


テモテはパウロからは福音を伝えられました。

テモテがこの福音をさらに他の人々にも宣べ伝えていくようにと

パウロは指示しています(「テモテへの第二の手紙」2章2節)。

2023年12月12日火曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」1章3〜11節 偽りの信仰と正しい信仰(その1)

 偽りの信仰と正しい信仰(その1)

「テモテへの第一の手紙」1章3〜11節

 

「わたしがマケドニヤに向かって出発する際、頼んでおいたように、

あなたはエペソにとどまっていて、ある人々に、違った教を説くことをせず、

作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。

そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく、

むしろ論議を引き起させるだけのものである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章3〜4節、口語訳)

 

いつもならば、パウロの手紙では

はじめのあいさつの後に感謝と祈りが続きます

(「コリントの信徒への第一の手紙」1章4〜9節、

「エフェソの信徒への手紙」1章3〜14節、

「コロサイの信徒への手紙」1章3〜8節)。

しかしこの手紙ではそうではありません。

 

パウロはテモテをエフェソに残しマケドニヤへの旅を続けました(1章3節)。

「テモテへの第一の手紙」は

マケドニヤからエフェソに送られたものと思われます。

「使徒言行録」はパウロのこの旅について何も記していません。

しかしこの旅はルカが「使徒言行録」で描いた出来事以後のことなので

当然とも言えます。

 

テモテの使命は

エフェソの教会に入り込んだ偽りの教えが蔓延するのを阻止することでした。

 

エフェソの教会の内部から偽教師たちが現れることを

パウロはすでに5年ほど前から予言していました

(「使徒言行録」20章29〜31節)。


正しい福音はひとつしかなく、

その福音から逸脱することは偽りの教えにすり替わることを意味します

(例えば「コリントの信徒への第二の手紙」11章1〜4節、

「ガラテアの信徒への手紙」1章6節、

「テモテへの第一の手紙」4章1〜8節、6章3〜5、20、21節、

「テトスへの手紙」1章13〜16節)。

 

エフェソの教会にあらわれた異端がどのようなものであったか

正確には知られていません。

牧会書簡の中で言及されている

異端のいくつかの特徴についてはすでに述べました。

おそらくこの異端はグノーシス主義か、

その萌芽のようなものだったのではないかと思われます。

この異端は隠された知識(ギリシア語で「グノーシス」)の重要性を強調し、

この知識の力を借りることで

物質世界の呪縛から脱して諸霊の世界に上昇できると喧伝しました。

また系図を読み取ることで霊界を探ろうとしました。

 

エフェソの教会はわずか8年ほど前に設立されたばかりでした

(「使徒言行録」19章1節〜20章1節)。

パウロがエフェソの教会で2年ほどかけて正しい福音を教えたにもかかわらず

(「使徒言行録」19章10節)、

パウロたちがエフェソを出発するとまもなく異端が入り込んできたのです。

 

神様が福音の御業を行われるところでは

魂の敵(すなわち悪魔)も破壊の仕業を開始します。

異端と戦う最も効果的なやりかたは正しい教えを宣べ伝えることです

(1章8節)。

 

「異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。」

(「テトスへの手紙」3章10節、口語訳)

 

この「テトスへの手紙」の箇所については

「異端者は退けなさい」という部分だけを取り出して

強調されることがしばしば見受けられます。


しかしこの箇所には

「一、二度、訓戒を加えた上で」という但し書きがついている点も

見逃すべきではありません。


神様は異端に陥ったキリスト信仰者たちのことも

救いたいと望んでおられるのです!

2023年12月1日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」1章1〜2節 はじめのあいさつ 

 はじめのあいさつ

「テモテへの第一の手紙」1章1〜2節

 

「わたしたちの救主なる神と、

わたしたちの望みであるキリスト・イエスとの任命による

キリスト・イエスの使徒パウロから、」

(「テモテへの第一の手紙」1章1節、口語訳)

 

いつものとおりパウロは自分のことを「神様の使徒」として紹介しています。

パウロがこのような自己紹介をしていないのは次の三通の手紙でだけです

(「フィリピの信徒への手紙」、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」、

「テサロニケの信徒への第二の手紙」)。

これらの手紙には二人以上の差出人の名が記されています。


「使徒」とは神様が権能を授けて派遣なさった福音宣教者のことです。

 

すでに「テモテへの第一の手紙」の冒頭で

この手紙がたんなる個人宛の手紙ではなく

教会の職務に関する手紙であることが明らかにされています。

この手紙には

職務としてテモテ自身が遂行すべき事項や、

他の人々が遂行すべき事柄が書かれています。

 

パウロは神様を「救主」(すくいぬし)と呼んでいます。

「救い主」はギリシア語で「ソーテール」といい、

イエス様について用いられている一般的な名称です

(「エフェソの信徒への手紙」5章23節(「からだなる教会の救主」)、

「フィリピの信徒への手紙」3章20節(「救主、主イエス・キリスト」)、

「テモテへの第二の手紙」1章10節、

「テトスへの手紙」1章4節、3章6節)。

 

新約聖書で「望み」という言葉は決して曖昧な期待などではなく、

「神様は御自身が約束なさったことを確実に与えてくださる」

という堅く信頼することを意味しています。

例えば「ヘブライの信徒への手紙」11章1節には

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、

まだ見ていない事実を確認することである。」とあります。


 

「信仰によるわたしの真実な子テモテへ。

父なる神とわたしたちの主キリスト・イエスから、

恵みとあわれみと平安とが、あなたにあるように。」

(「テモテへの第一の手紙」1章2節、口語訳)

 

テモテはパウロにとって信仰的な意味での「我が子」でした。

テモテはパウロの伝道を通してキリスト信仰者になったからです。


パウロは自分の伝道を通してキリスト信仰者になった者たちを

自分の子と呼んでいます。

例えば次の引用箇所にあるように

「コリントの信徒への第一の手紙」4章15〜17節では

コリントの信徒たちのことをそのように呼んでいます。

 

「たといあなたがたに、

キリストにある養育掛が一万人あったとしても、

父が多くあるのではない。

キリスト・イエスにあって、

福音によりあなたがたを生んだのは、

わたしなのである。

そこで、あなたがたに勧める。

わたしにならう者となりなさい。

このことのために、

わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、

あなたがたの所につかわした。

彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、

わたしが至る所の教会で教えているとおりに、

あなたがたに思い起させてくれるであろう。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」4章15〜17節、口語訳)

 

この箇所の他にも例えば

「テモテへの第二の手紙」1章2節、2章1節ではテモテのことを、

「テトスへの手紙」1章4節ではテトスのことを、

「フィレモンへの手紙」10節ではオネシモのことをそう呼んでいます。

 

パウロはテモテに「恵みとあわれみと平安」があるように願っており、

「テモテへの第二の手紙」1章2節でも同様の挨拶をテモテに送っています。

パウロは手紙の受け取り手たちのために「恵みと平安」を願うことが多いです

(「ローマの信徒への手紙」1章7節、

「コリントの信徒への第一の手紙」1章3節、

「コリントの信徒への第二の手紙」1章2節、

「ガラテアの信徒への手紙」1章3節、

「エフェソの信徒への手紙」1章2節、

「フィリピの信徒への手紙」1章2節、

「コロサイの信徒への手紙」1章2節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章1節、

「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章2節)。


またパウロは「あわれみ」という言葉を

この「テモテへの第一の手紙」を含む牧会書簡以外の手紙でも用いています

(例えば「ローマの信徒への手紙」9章23節、

「ガラテアの信徒への手紙」6章16節)。

 

 

2023年11月24日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック テモテ

テモテ

 

テモテは新約聖書で24回その名が登場します。

そのうち6回は「使徒言行録」に出てきます。

 

テモテはガラテヤのリステラ出身でした。

彼の父親はギリシア人であり、母親はユダヤ人キリスト信仰者でした。

おそらく彼はパウロが最初の伝道旅行でリステラに立ち寄った時に

パウロの伝えた福音の影響によってキリスト信仰者になったのだと思われます。

パウロのリステラでの出来事については

「使徒言行録」14章8〜23節に記されています。

またパウロはテモテを「信仰によるわたしの真実な子」と呼んでいます

(「テモテへの第一の手紙」1章2節)。

 

パウロは第二次伝道旅行の際にリステラを再訪し、

そこからテモテを伝道旅行に同行させました。

それ以来テモテはパウロがローマで最初に投獄される時にいたるまで

パウロの伝道団の一員であり続けたものと思われます

(「フィリピの信徒への手紙」2章20節、1章1節、

「コロサイの信徒への手紙」1章1節、

「フィレモンへの手紙」1節)。

 

かつて一緒に伝道していたパウロとバルナバが

別々に伝道旅行するようになっていたこともあり

(「使徒言行録」15章36〜41節)、

テモテはパウロにとって最も親しい同僚となりました

(「フィリピの信徒への手紙」2章19〜22節)。

 

パウロは律法に従いテモテに割礼を受けさせました。

これは厳格な律法遵守を主眼とするユダヤ人たちを

必要以上に刺激しないためであったと思われます。

ユダヤ人の母親を持つテモテはユダヤ人であるとみなされていたからです

(「使徒言行録」16章1〜4節)。

それとは対照的に、

ギリシア人であったテトスにパウロは割礼を受けさせませんでした

(「ガラテアの信徒への手紙」2章1〜4節)。

 

「テモテ」(ギリシア語で「ティモテオス」)には

「神様を敬う人」とか「神様の栄光」といった意味があります。

 

パウロはテモテを彼の代行者として

テサロニケに(「テサロニケの信徒への第一の手紙」3章1〜2、6節)、

コリントに(「コリントの信徒への第一の手紙」4章17節、16章10節)、

またフィリピに(「フィリピの信徒への手紙」2章19、23節)

派遣しています。

 

パウロの伝道団に加わった時、テモテはまだ若者でした。

およそ20歳前後だったのではないかと思われます。

しかしパウロからテモテへの手紙が書かれた頃には

35歳くらいにはなっていたでしょう。

「テモテへの第一の手紙」4章12節と

「テモテへの第二の手紙」2章22節を比べてみると

伝道の旅が長く続く間にテモテが歳を重ねていったことが読み取れます。

 

テモテは病気がちで(「テモテへの第一の手紙」5章23節)

また臆病でもあったようです。

パウロはテモテを励ましたり、その臆病さを叱咤したりしています

(「テモテへの第二の手紙」1章7〜8節、2章3節、4章5節)。

 

テモテの母ユニケも祖母ロイスもそろってキリスト信仰者でした

(「テモテへの第二の手紙」1章5節)。

 

「ヘブライの信徒への手紙」はテモテが獄舎から解放されたと記しています

(13章23節)。

しかしいつどこでテモテが投獄されていたのかはわかりません。

 

伝承によればテモテはエフェソの教会の最初のビショップ(教会長)となり、

97年に殉教の死を遂げています。

2023年11月15日水曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 異端の教え

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 

異端の教え

 

三通の牧会書簡のどれもが異端の教えに対する警告を発しています。

すでに述べたように、ここで問題となっている異端は

「グノーシス主義」と呼ばれる神秘的な知(ギリシア語で「グノーシス」)

強調する分派のことです。

 

牧会書簡で言及されている異端については

断片的なことしかわかっていませんが、

聖書の記述に基づいて以下その特徴を列挙してみます。

 

1)この異端の信者の大多数はもともとユダヤ人であったと思われる

(「テトスへの手紙」1章10節)


2)この異端ではモーセの律法が重要視されていた

「テモテへの第一の手紙」1章7節、「テトスへの手紙」3章9節)


3)この異端では神話や系図が中心的な役割を占めていた

(「テモテへの第一の手紙」1章4節、「テトスへの手紙」1章14節)


4)この異端では禁欲主義が要求された

(「テモテへの第一の手紙」4章3節、

「テトスへの手紙」1章14〜15節)。

また結婚することさえ禁止された

(「テモテへの第一の手紙」4章3節)


5)この異端では「死者からの復活はすでに起きた」と主張された

(「テモテへの第二の手紙」2章18節)


6)この異端では神様の御国ではなく自己の利益が追求された

(「テモテへの第一の手紙」6章5節)

 

テモテとテトスはこの異端を

「わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教」

によって反駁しなければなりませんでした

(「テモテへの第一の手紙」6章3節)。

 

2023年11月2日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック パウロの第四次伝道旅行

パウロの第四次伝道旅行

 

教会教父エウセビオスはその主著「教会史」で

パウロがローマで釈放された後にイスパニヤを訪れたと記しています。

この記述と「ローマの信徒への手紙」15章24〜28節を

比較してみてください。

 

牧会書簡はパウロが再度東方を訪れたことを前提として書かれていますが、

聖書の他の箇所にはこのことについての言及がありません。

 

結局のところ、最初期の教会の出来事については

ごくわずかのことしかわかっていないのです。


パウロがクレタ島(口語訳では「クレテ」)を訪れたことについて

ルカは「使徒言行録」で何も言及していません。

パウロがクレタ島を短期間訪れたのは、

第二次伝道旅行の時にコリントからであったか、

あるいは第三次伝道旅行の時にエフェソからであったという可能性があります。


たとえかりに「テトスへの手紙」が

パウロの弟子の書いたものであったとしても、

この手紙はクレタ島にパウロの教えを受けた教会がすでに存在していたことを

前提としています。


私たちは聖書の時代の出来事のすべてを把握しているわけではありません。

それゆえ、例えばパウロのクレタ島訪問のように、

ある出来事について聖書の一箇所にしか記述がないからといって

その出来事が事実ではなかったかのように主張することはできないのです。

 

パウロがギリシアと小アジアを四度目に訪れた時の様子について

牧会書簡はどのように記述しているでしょうか。

 

1)パウロはローマでの投獄状態から約62年頃に釈放された。


2)パウロはイスパニヤに行った

(「ローマの信徒への手紙」15章24〜28節)。


3)そこからおそらくローマを通ってクレタ島へ行き

(「テトスへの手紙」1章5節)、テトスはそこに残った。


4)クレタ島からミレトス(口語訳では「ミレト」)へ向かった

(「テモテへの第二の手紙」4章20節)。


5)ミレトスからコロサイへ(「フィレモンへの手紙」22節)行った。


6)コロサイからエフェソへ(「テモテへの第一の手紙」1章3節)行き、

テモテはそこに残った。


7)エフェソからフィリピへ(「テモテへの第一の手紙」1章3節)行った。


8)フィリピからニコポリス(口語訳では「ニコポリ」)へ

(「テトスへの手紙」3章12節)行った。


9)最後にローマへ行った。

そこで67年か68年にパウロは剣で惨殺され殉教する。

パウロが捕まったのがすでに東方においてであったのか

それともローマに来てからであったのかについては

推測の域を出ない。

 

パウロが伝道旅行で立ち寄った場所の訪問順については

別の可能性も考えられます。

エフェソ、マケドニヤ、クレタ島、エフェソ、

ミレトス、トロアス、ニコポリスという順です。

 

「テモテへの第一の手紙」と「テトスへの手紙」は

60年代の中頃(63年〜66年頃)に書かれ、

「テモテへの第二の手紙」は

パウロがふたたびローマで投獄された時期(67年〜68年)に書かれました。

 

パウロは「テモテへの第一の手紙」を

おそらくマケドニヤで書いたものと思われます。

「テトスへの手紙」はエフェソかあるいはコリントで書かれました。

「テモテへの第二の手紙」はローマで執筆されました。