2011年9月30日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 1章9~20節 復活の主の顕現(その2)

   
復活の主の顕現 1章9~20節(その2)

ヨハネは大きな声を聴きました。
その声を彼はラッパの音にたとえています。
声は、ヨハネがまもなく目にすることになる内容を
書き取って小アジア地方の七つの教会に送るように、と命じます。
声が聞こえるほうへとヨハネは振り向きます。
そして、かつてダニエルが見たのと同じような幻を目にします
(「ダニエル書」7章9~14節)。
それは、七つの金の燭台とそれらの間を通る「人の子」に似たお方でした。
燭台は(20節で言われているように)、
前に列挙した七つの教会のことをあらわしています。
燭台は全部で七つ(完全な数字)あるため、
それらはまたキリストの教会全体、
地上のすべての各個教会をあらわしています。
この幻には大いなるメッセージが託されています。
すなわち、イエス様は御自分の教会の只中におられ、
御自分に属する人々がいるところを歩まれ、
苦難の時にも彼らを見捨てない、ということです。
  
ヨハネは燭台の間を歩む人の子のようなお方の様子を
説明するのに困難を感じているようです。
それゆえ、彼はシンボル(象徴)を用いて説明を試みています。
第一印象はキリストの強烈な輝きです。
ヨハネは光沢のあるウール、雪、火、白熱した青銅、太陽について語ります。
イエス様の偉大さはその声からもわかります。
エーゲ海の波がパトモス島の浜辺の岩に打ち砕かれるときのすさまじい音
と同じような何かが、復活の主の声にはありました。
イエス様は手に七つの星を持ち、口には鋭い剣がありました。
口から両刃の剣が突き出ているイエス様の姿がどのようなものであったか、
私たちは無理に詮索しようとは思いません。
ここで用いられている言葉はシンボルに満ちている、
と言うに留めておきましょう。
おそらく「剣」は神様の御言葉をあらわしています
(「エフェソの信徒への手紙」6章17節、「ヘブライの信徒への手紙」4章12節)。
この剣は人間が作り上げた障害物をものともせずに、
あらゆるところへと入り込んで行きます。
  

2011年9月28日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 1章9~20節 復活の主の顕現(その1)

  
復活の主の顕現 1章9~20節(その1)
 
パトモスはエーゲ海に浮かぶ島であり、
エフェソからみて南西約100キロメートルのところに位置しています。
ローマ人たちはこの小さい島を流刑地として利用していました。
ドミティアヌス帝の時代(西暦81~96年に在位)に、
クリスチャンはひどい迫害にあいました。
自分を神として崇めるようにという皇帝の要求を、
クリスチャンはとうてい受け入れることができなかったのです。
この時期の迫害の中で、ヨハネはパトモス島に追放され、
そこで「ヨハネの黙示録」が生まれました。
神様は、それ自体は悪いことさえも
御自分に属する人々のために「善用」なさいます。
迫害と追放がなかったならば、
「ヨハネの黙示録」が書かれることはなかったでしょう。
 
普通なら人間には見る機会がまったくないようなことを、
神様はヨハネにお見せになりました。
ヨハネは、御霊が彼をすっかり支配した、と語っています。
それは「トランス状態」、すなわち、
人間があたかも自分自身の外側に出て、
神様の特別な呼びかけに感応する状態のことを指しています。
このようなことを体験した聖書の登場人物は、ヨハネだけではありません。
旧約聖書の多くの預言者たち、また、
パウロ(「コリントの信徒への第二の手紙」12章)や
ペテロ(「使徒の働き」10章)も同様なことを体験しています。
 
「主の日」とは日曜日のことです。
それは、教会ができて間もない頃に
クリスチャンがユダヤ人の安息日(土曜日)の代わりに選んだ聖日です。
日曜日にイエス様は死者の中からよみがえりました。
それゆえ、まさにこの日を主の聖なる日と定めたのです。
 
  

2011年9月26日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 1章4~8節 諸教会への挨拶(その4)

  
諸教会への挨拶 1章4~8節(その4)
    
イエス様はこの世の最も偉大な人々のことをも支配なさっており、
栄光と権威とはこのお方のみに帰されるべきである、
とヨハネは言っています。
すなわち、イエス様は王様でもあるわけです。
「フィリピの信徒への手紙」は同じことについてこう語っています、
「神様はこの方(イエス様)を高く引き上げ、
すべての名にまさる名をこの方に賜りました。
それはイエス様の御名によって、
天上のもの、地上のもの、地下のもの、あらゆるものが
(御前に)ひざまずくようになるためです」
(「フィリピの信徒への手紙」2章9~10節)。
  
イエス様は雲に乗って天へ昇られました。
神様の天使たちは、
イエス様がいつかこれと同じように戻って来られる、
という約束を残しました(「使徒の働き」1章11節)。
それが実現する時、皆がイエス様を見ます。
イエス様を殺した者もまたイエス様を見ることになります。
死者はよみがえり、
「王の中の王」に戦いを挑んだ者たちは途方もない苦痛を受けます。
そして、彼らは自分が「天と地の主」に反抗していたことに気づきます。
  
神様は御自身について「アルファでありオメガである」と言われます。
「ヨハネの黙示録」はもともとギリシア語で書かれました。
ギリシア語のアルファベットの最初の文字はアルファ、最後の文字はオメガです。
すなわち、
神様は御自分があらゆるものの初めであり終わりである、
と言っておられるのです。
万物は神様から発しており、いつかは神様へと収束します。
神様は全能であり、大いなる知恵によって定められたとおりに、
初めから終わりまで世界の歴史を導かれます。
  

2011年9月23日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 1章4~8節 諸教会への挨拶(その3)

  
諸教会への挨拶 1章4~8節(その3)
 
  
それから、ヨハネは、
イエス様が私たちのために何をしてくださったのか、
私たちに思い起こさせます。
イエス様はその血によって、私たちを罪と罰から解放してくださいました。
すなわち、イエス様は
全世界の罪のために、御自身を犠牲として捧げられた祭司なのです。
この犠牲の力によって、イエス様に属する者皆が祭司となりました。
旧約の時代には、祭司のみが神様の御前に出ることができました。
さらに彼らの中でも大祭司のみが
「至聖所」と呼ばれる、神様がお住まいになっていると信じられていた部屋
に入っていくことができました。
ところが新約の時代である今では、
大祭司だけがもっていたこの特権は私たち皆のものでもあります。
神様の御許への道は開かれています。
イエス様が私たちのために開いてくださったからです。
しかしこれは、教会にはもはや牧師が要らない、という意味ではありません。
新約聖書は、
教会の牧会という職務を果たすために任命された人々
について指示を与えています。
このように神様は、御心にかなう秩序が教会で実現し、
教会が「恵みの手段」(神様の御言葉とサクラメント(聖礼典))によって
養われ培われるように、お定めになったのです。
 

2011年9月21日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 1章4~8節 諸教会への挨拶(その2)

  
諸教会への挨拶 1章4~8節(その2)
 
神様はモーセに
「私はある」(「ヤハヴェ」、「出エジプト記」3章14節)
という御名を啓示されました。
ヨハネは、
「今おられ、かつておられ、やがて来られる」
お方からの恵みと平和があるように、
と書いています。
あたかもここでヨハネは神様の御名の奥義を解き明かして、
神様の御名のもつ意味について語っているかのようです。
神様は「かつておられた」ので、すべて存在するものの太初です。
神様は「やがて来られる」ので、この世をいつか終わらせるお方でもあります。
神様に関するこのヨハネの言及は、
過去と現在と未来とが不思議な仕方で共在している永遠の中で
神様は活きておられることを、私たちに思い起こさせます。
 
4節の「七つの霊」とは、聖霊様のことを意味しているのでしょう。
「イザヤ書」11章は来るべきメシアについて語り、
神様の七つの霊の性質があきらかにされています(「イザヤ書」11章2節)。
つまり、「七つの霊」は聖霊様の性質を表現したものであるのかもしれません。
もうひとつ可能な解釈は、
七つの霊と七つの教会について語ることを通して、
聖霊様がすべての教会に臨在しておられることを教えている、
というものです。
言い換えれば、
神様の御霊をいただかないままで放置されている教会は一つもない、
ということです。
 
ヨハネは、父なる神様と聖霊様に加えて、
イエス・キリストからの恵みと平和があるように、
と書いています。
神様の三位一体性はここにも見られます。
イエス様には三つの職務がある、と古くから言われています。
イエス様は、預言者であり、祭司であり、王です。
これと同じことを「ヨハネの黙示録」はイエス様について教えています。

イエス様は「忠実な証人」です。
すなわち、預言者、教師、説教者なのです。
 

2011年9月19日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 1章4~8節 諸教会への挨拶(その1)

  
諸教会への挨拶 1章4~8節(その1)
  
パウロが手紙を諸教会に書き送ったのとおそらく同じようなやり方で、
ヨハネは「ヨハネの黙示録」を小アジアの七つの教会に書き送りました。
ヨハネの挨拶もまた、パウロの手紙のはじめの挨拶に似ています。
ヨハネは諸教会に恵みと平和があるように、と書いています。
4節では、ヨハネについては名前だけが記されており、
それ以上のことは語られていません。
これは、ヨハネが皆によく知られた人物であったため、
詳しい説明が要らなかった、ということを示しています。
またこれは、「ヨハネの黙示録」の書き手が
イエス様の弟子のヨハネであったことを裏付けるものです。
キリスト教会の保持してきた信頼のおける伝承によれば、
このヨハネは、まさに「ヨハネの黙示録」が書き送られた諸地方で、
約30年間ビショップ(教会の長)として活動していました。
  
後ほどその名前が列挙されることになる七つの教会は、
ローマ帝国の小アジアの属州内にあった諸教会の一部にすぎません。
何故これら七つの教会のみが取り上げられているのでしょうか。
名が挙げられている教会には、
他の諸教会にとっても参考になる事例がいろいろありました。
「ヨハネの黙示録」は、
七つの教会には他の諸教会の模範になるような美点がある、と語ります。
しかし一方では、
七つの教会で表面化したさまざまな罪についても言及しています。
そして、他の諸教会がそのような罪に陥らないように、と警告しています。
列挙されている七つの教会は、
他の諸教会も含めて教会生活一般がどのようなものになりうるか、
それらのよい点も悪い点も含めた包括的なイメージを提供しているわけです。
おそらくはそれゆえに、
「ヨハネの黙示録」はこれらの七つの教会についてのみ語っているのでしょう。
ちょうど「七つ」の教会の名が挙げられている理由は、
聖書で七は完全性を表す数だからでしょう。
つまり、七つの教会は、同時にキリストの教会全体、
およびすべての各個教会のことをも表している、ということです。
 
 

2011年9月16日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 1章1~3節(その2) 題名 

 
題名 1章1~3節(その2)
 
神様がヨハネに黙示をお与えになった目的は、
その黙示が記録保存されて、
神様の教会で読み上げられ聴かれるようになることでした。
黙示が与えられたのは、
人間の際限ない好奇心を満たすためではなく、
人々がその黙示の内容を信じ、
それに基づいて正しい判断を下すようになるためでした。
3節にある「守り抜く」というのは、そういう意味です。
「ヨハネによる黙示録」は、
イエス様の再臨の直前の時代に生きている人たちのためだけに
書かれたわけではありません。
この書物には、あらゆる時代のすべての人々に対するメッセージが込められています。
それゆえ、ヨハネは自分が見せていただいたことについての黙示を、
すべての人が読むように、と促しているのです。
 
「さいわいなる者」(ギリシア語で「マカリオス」)という言葉は、
新約聖書ではおもにふたつの意味をもっています。
ひとつは、天国への旅を続けている「救われた者」という意味です。
もうひとつは、「おめでとう」と言われるのにふさわしい人のことです。
この節では後者の意味に近いでしょう。
「おめでとう」と言われるのにふさわしい者とは、
「ヨハネの黙示録」を読み、聴き、その言っていることを信じる人のことです。
「時が迫っている」からこそ、そうなのです。
その「時」とは、キリストが再臨される時のことを意味しているのでしょう。
それはもうすぐです。
「ヨハネの黙示録」を読む人はこのことを知って、
キリストの再臨に備えるようになります。
このように行動する人に「おめでとう」と言うのは、ふさわしいことです。
 

2011年9月14日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 1章1~3節(その1) 題名

「ヨハネの黙示録」1章
 
 
題名 1章1~3節(その1)

 
「ヨハネの黙示録」という題名は誤解を生みかねません。
黙示を受けたのはイエス様であって、ヨハネではないからです。
この書物のはじめの節に、
復活されたキリストが父なる神様から黙示を受けて、
それを伝えるためにヨハネに天使を遣わした、
と書いてあります。
これを「黙示の連鎖」と名づけることができるでしょう。
罪人である人間は
聖なる神様の直接の語りかけに耐えることができません。
イエス様は人間と神様の間をつなぐ仲介者です。
また、イエス様は「変圧器」のようなお方です。
神様の巨大な力を罪人である人間の許容量に合うように
変えてくださっているからです。
神様がお決めになったこととそれに基づき将来起こることについて
御自分の僕に伝えるために、イエス様は黙示を受けられたのです。
 
「ヨハネの黙示録」の書き手は自分のことを
「イエス様の僕(あるいは奴隷)」と呼んでいます。
パウロも自分を同じ名称で呼んでいます
(「フィリピの信徒への手紙」1章1節)。
このヨハネとはいったい誰なのか、私たちは序章で究明しようとしました。
断言はできませんが、
十二弟子の一人、使徒ヨハネその人であった可能性は大いにあります。
 
「ヨハネの黙示録」は、
ヨハネ自身の考えやこれから世界で起こることに関する想像
が記された書物ではありません。
それは2節からわかります。
ヨハネは神様から書くように言われたことを書き記しました。
それゆえ、彼は神様の御言葉とキリストの証について語るのです。
このことを念頭におくかぎり、
私たちは「ヨハネの黙示録」を正しく読んでいる、と言えます。
この本を通して私たちが取り組んでいるのは、
人間の精神が作り出したものではなく、
神様が私たちに語るべきだと思われたことがらだからです。
  

2011年9月12日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック あたかも抽象絵画のように

  
あたかも抽象絵画のように
  
「ヨハネの黙示録」のあらゆる細部を説明し尽くそう
と試みた人が大勢います。
この書物に登場する様々なイメージには
明確な意味を持った言葉がそれぞれ対応しており、
それを読者は見つけ出さなければならない、
と彼らは考えたのです。
例を挙げれば、
「獣」はある特定の歴史上の人物であり、
「バビロン」は地図の上に位置する都市のことであり、
「ハルマゲドンの戦い」は終わりの時に起きる破壊的な戦いだ、
というわけです。
しかし、「ヨハネの黙示録」がある種のイメージに
特定の場所や人物や出来事という意味付けだけを与えている
とは限りません。
むしろ、「獣」とは、
「獣」のもつ特徴を満たすあらゆる実在のもの
をあらわしているのではないでしょうか。
たとえば、意識的あるいは無意識的に悪魔に仕え、
神様を侮蔑し、神様に属する人々に向かって戦いを挑み、
神様の教会を滅ぼそうとしている思想や大国や支配者たちのことです。
「バビロン」が
最終的には滅ぼされることになる悪魔の帝国についてのイメージ
であるのは、まずまちがいありません。
また、「ハルマゲドンの戦い」は、
かならずしも核戦争のことではなく、
悪魔が神様に向かって行っている総力戦を
一般的に表現しているのでしょう。
 
「ヨハネの黙示録」には、
抽象絵画のようなものとみなせる部分があります。
抽象芸術の全部の細部は明示できないし、
また明示しようとしてもいけません。
部分的には理解されないまま、
絵画自体が芸術家から絵の鑑賞者へのメッセージを伝えているのです。
「ヨハネの黙示録」の中にも
明示しないことを前提として書かれている箇所があるのでしょう。
そのように部分的には理解不能な幻として、
それらの箇所は私たちに語りかけ、
この世における神様と悪魔との戦いの様子を描いているのです。
  
この書物にはまた、
おそらく今の私たちにはわからない箇所も含まれています。
いつか将来、世界が変わったときに、
私たちはそれらの箇所を理解するようになるかもしれません。
あるいは、今は想像もつかない出来事を
いつか私たちは目にすることになるかもしれません。
数百年前の読者にとって
「海の死」を描く幻は理解不能に感じられたことでしょう。
しかし今日では、
海全体が本当に死滅する場合がありうることを私たちは知っています。
さらに時がたってこれから起きる出来事を見るようになれば、
「ヨハネの黙示録」の理解が進むだろうし、
どの部分が比喩でどの幻がそのまま実現するか、
確定できるようになるかもしれません。
こうした理由からも、
「ヨハネの黙示録」の難解な箇所への最終的な説明を留保するのが
賢明な態度であると言えるでしょう。
  
この書物を読むときには、聖霊様の助けが必要になります。
聖霊様は聖書の最高の釈義者です。
聖書は神様の御言葉なのですから、
神様御自身が一番上手にその意味を明らかにしてくださるのは、
言わば当然です。
それゆえ、私たちは
聖霊様を先生としてお迎えして、祈りつつ、
多くの難解な箇所を内包する「ヨハネの黙示録」を
読みはじめたいと思います。

2011年9月9日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 数字について

 
数字について
 
どのような時間的スケジュールにしたがってこの世の歴史が進んでいくか、
近い将来に何が起きるか、
いつイエス様が帰って来られるか、
「ヨハネの黙示録」に基づいて様々な細かい計算が試みられてきました。
この書物にはそれらの計算の元になっている「数字」が載っています。
しかし、それらの数字のうちの多くは象徴的なものであり、
ある特定の数量を表すものではないと思われます。
数字は何かほかのことを語っている場合が多いようです。
たとえば、
「三と半」(11章9節)は時間の長さをあらわすものではないでしょう。
それはむしろ、時の「質」を示しています。
それは悪魔が悪いことをいろいろと行うことができる時です。
数の計算が難しいもうひとつの理由は、
「ヨハネの黙示録」は時間と空間を軽々と飛び越えるので、
何がはじめに起きてその後に何が続くかを決定するのがしばしば困難だ、
ということです。
イエス様もこう言われています、
「御父様が御自分の権能によって定めておられる
時間(クロノス)や時(カイロス)のことは、
あなたがたの知る限りではありません」
(「使徒の働き」1章7節)、
「その日やその瞬間については御父様の他には誰も知りません。
天の御使いも御子も知らないのです」
(「マルコによる福音書」13章32節)。
イエス様の言われた御言葉は
「ヨハネの黙示録」が書かれた以後の時代にも
変わることなく有効でありつづけています。
 

2011年9月7日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 何回も実現する幻

 
何回も実現する幻
 
「ヨハネの黙示録」の描写を、
その解釈者の時代にあてはめて考えるケースがしばしばあります。
「ヨハネに示された幻は今まさに私たちの目の前で実現しようとしている」、
というのです。
もちろん、「ヨハネの黙示録」が
今起きつつある出来事について語っているというのは、
ありえないことではありません。
しかしここで注意すべきなのは、
この書物の内容を現代のことがらにあてはめるとき
誤った解釈がなされる危険が大きいということです。
こうした誤解の例は数限りなくあります。
それゆえ、「ヨハネの黙示録」を読むときには慎重な態度を取り、
「絶対に確実だ」と断定するような解釈は多くの場合避けたほうがよいです。
 
「ヨハネの黙示録」の幻は歴史を通じて何度も実現してきたように見えます。
ローマ帝国はこの書物が当時「野獣」という言葉で表現していたものに相当します。
同じことはヒトラーのドイツや、ソ連にも言えます。
「ヨハネの黙示録」の幻が私たちの時代に最終的に実現するのか、
それともいつか未来に成就するのか、
私たちは知ることができません。
それゆえ、この書物を説明しようとするときには慎重を期さなければなりません。
   
イエス様は「終わりの時」の出来事を子供の出産にたとえておられます
(「マタイによる福音書」24章8節)。
母親である人はこのたとえをよく理解することでしょう。
子供が生まれる前には「同じこと」が何度も繰り返されます。
陣痛が次から次へとおそってきます。
その間隔はしだいに短くなり、その痛みはひどくなっていきます。
そしてついに痛みが頂点に達した時、子供が生まれます。
このたとえは私たちが「ヨハネの黙示録」を理解するのを助けてくれます。
そこで語られている多くの出来事は何回も繰り返されます。
それらは歴史が進むにつれて次第に大規模になっていき、
まさに「最後の時」の直前にそれはかつてなかったほど悪い状態になります。
その後でイエス様は戻って来られ、悪をすべて終わらせてくださるのです。
  

2011年9月5日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 戦いについての描写

  
戦いについての描写
 
この世では神様と悪魔の間で戦いが繰り広げられているように見えます。
この戦いのありさまが「ヨハネの黙示録」の幻の中で描かれています。
この世の歴史が進むにつれ、戦いは激しさを増していきます。
そのため、世は前よりも一段と大きな揺さ振りを受け、
自然界は前よりも大規模に崩壊し、
地上での苦しみも深化拡大していきます。
神様との戦いでは、悪魔には手下がいます。
「ヨハネの黙示録」は「野獣」や「娼婦」について語ります。
それらは悪魔の手下どもをさしています。
それらの助けを借りて、神様の敵は神様とその民を攻撃します。
「ヨハネの黙示録」の中には
読者を怖がらせたり苦しくさせたりする要素がたくさん入っています。
多くの幻は実に恐ろしいものです。
人はどんどん死ぬし、自然は破壊されるし、血が飛び散ります。
この書物のこうした面を誤用して
人々を恐がらせるのに長けた「ヨハネの黙示録」の解釈者たちがいます。
しかし、「ヨハネの黙示録」の目的は
恐怖と苦悩を生み出すことではありません。
この書物は「悪の世界で生きていく」ということが
今もこれからもいったいどういうことなのか、
描き切っているだけなのです。
それと似たような恐怖や苦悩の描写は
週刊誌や歴史の本からも見つけることができます。
雑誌や歴史書とは異なり、
「ヨハネの黙示録」の目的は読者を勇気付けることにあります。
たとえ世界が悪に満ちていてぞっとするようなことが起こっても、
神様に属する人々は何も慌てなくてよいのです。
この世界は神様の御手の中にあり、
神様は御自分の民の面倒をちゃんと見てくださるからです。
このことを理解して神様への信頼を強めるために、
「ヨハネの黙示録」は私たちに与えられているのです。
   

2011年9月2日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 旧約聖書を読む大切さ

  
旧約聖書を読む大切さ
 
「ヨハネの黙示録」は旧約聖書と多くの点で関係しています。
旧約聖書の直接的な引用はありませんが、
この書物には
旧約聖書に由来する言葉の表現や描写や文章がたくさんあります。
もしも旧約聖書を知らなければ、
「ヨハネの黙示録」やその言葉遣いを理解するのは難しくなります。
それゆえ、旧約聖書の書物、とりわけ
「イザヤ書」、「エゼキエル書」、「ダニエル書」、「ぜカリヤ書」
を読むのは「ヨハネの黙示録」研究のために必須である、と言えます。
聖書研究会では、
翻訳者によって「ヨハネの黙示録」の各節の註に記されているであろう
旧約聖書の該当箇所を、
その前後の文脈も含めて調べることが好ましいです。
そうすることで、「ヨハネの黙示録」が理解しやすくなるからです。
   
他にも「ヨハネの黙示録」は旧約聖書と似ているところがあります。
旧約聖書の預言は、
メシアなるイエス様がこの地上でどのようなことを行い、
また、どのような目にあわれたか、
そのすべてを語ってはいません。
それと同様に、
「ヨハネの黙示録」もこの世界の未来について
すべてを語っているわけではありません。
あることがらについては語られていますが、
伏せられていることもたくさんあります。
「ヨハネの黙示録」の読者はこのことに満足すべきです。
しかし、この書物の解釈者は、
この程度では満足しない人がほとんどです。
彼らは「ヨハネの黙示録」から、
それが語っていないことについても、
あえて深読みしようとします。