2010年10月25日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」2章6~16節 

  
この世で一番美しい花、「福音」 2章6~16節
  
「この世の知者たちがキリストの福音を無視している」と語るとき、パウロはキリストの福音を恥じたりはしません。
それとは逆に、まさにこの箇所で、パウロは福音の素晴らしさを賛美しています。
福音は完全な真の知恵であり、偉大で尊いものなのです。
この世の知者たちは、まったく自分自身のせいで、この福音を学び知るようにはなりませんでした。
彼らが自分を知者と思い込んで福音を無視したとき、実は自分の愚かさのせいで、あらゆるもののうちで最も貴いものを失ってしまったのでした。
この世の権力者たちは実権を握っており、周囲から非常な敬意を受けています。
彼らの知恵は好意的に評価されます。
ところが、権力者も知者も一様に、自分自身の知恵の虚しさに気づくのです。
それとひきかえ、神様の隠された知恵、「キリストの血の福音」は、すでに天地創造の前から神様の御心の中にありました。
福音はこの世の中で秘密にされ隠されてきました。
栄光の主、キリスト御自身が十字架に磔にされたということは、人が神様の知恵を見ていないことを最も端的に示しています。
人々から高い評価を受ける者たちは、神様の知恵を無視します。
それとは逆に、神様を愛する者たちは、福音を通してキリストをいただいているのです。
それも、誰一人思いも及ばないほど深く。
  
もしも福音が人間の知恵では手に入れることができないものだとしたら、人はいったいどのようにして福音を知るようになるというのでしょうか。
もしも理性や本能によってはキリストについてのメッセージを受け入れることができないのだとしたら、誰もクリスチャンにはなれないのではないでしょうか。
もしも人間の知恵が福音を知る妨げとなっているのだとしたら、人間の愚かさによるならば神様の知恵が把握できる、ということなのでしょうか。
「一般的に人がクリスチャンになるのは、人間の知恵のためでも愚かさのためでもなく、神様なる聖霊様のみわざのおかげである」、とパウロは言っています。
神様の奥義は偉大です。
人間はそれを究めることができません。
人間というものについても、人が心の中でどのようなことを考えているか、知っているのは本人だけです。
このことは神様についてはなおのことよくあてはまります。
人間に対して神様は隠れたお方です。
しかし、御自分の御霊、聖霊様に対してはそうではありません。
人が神様の知恵を知るようになる唯一可能な方法は、聖霊様がその人をお招きになることです。
ちょうどこのことについてルターは、「小教理問答書」の聖霊様についての信仰告白の箇所で、次のように言っています、
「私は次のことを信じています。すなわち、私は自分の理性や力によっては私の主イエス・キリストを信じることができないし、その御許に行くこともできません。聖霊様が私を福音を通して招いてくださったのです。そして、私を御自分の賜物によって照らし、聖別し、正しい信仰の中に保ってくださったのです」。
聖霊様のみわざがなければ、キリストの十字架についてのメッセージは、人間には親しみがない難しく愚かしいものになってしまいます。
聖霊様がはたらいてくださるときに、人はキリストを愛するようになり、福音を神様からの慰めと感じられるようになります。
実はこれこそ、神様が人に何をプレゼントしてくださったか、人が心で知るための唯一の方法なのです。
   
福音は人間の知恵に基づいていません。
まさにそれゆえ、パウロも自分のメッセージを人間の知恵に基づいて説明しようとはしていません。
彼は御霊が教えてくださった御言葉によってキリストの十字架について語ります。
このメッセージは、内で聖霊様がはたらいておられる人の中に応答を生みます。
「自然のままの人間」、すなわち、ありのままの人間は福音を拒絶し、それをまったく愚かな教えとみなします。
「霊的な人間」、すなわち内で聖霊様がはたらいておられる人間の中には神様の福音への応答が生じます。
この応答を私たちは「信仰」と呼んでいます。
  
パウロは「天の高み」にそれとなく触れたこの箇所のしめくくりとして、「イザヤ書」(40章13節)を引用しています。
この箇所をパウロはヘブライ語の旧約聖書ではなく、「七十人訳」(ギリシア語でセプトゥアギンタといいます)と呼ばれるギリシア語の旧約聖書から引用しています。
ヘブライ語版が「主の御霊」について語っているのに対し、ギリシア語版は「主の御心」について語っています。
おそらくパウロは、「私たちは神様の御霊を所有している」というような主張を意識的に避けたのではないでしょうか。
それゆえパウロは、「主の御霊」についてではなく、「キリストの御心」について語っているのです。
ともあれこの箇所は、パウロがどのように旧約聖書を読んでいるかをよく示しています。
聖書の箇所が(父なる)神様について語っているようにみえる場合でも、パウロはそれを(御子なる)キリストを意味している箇所として捉えているのです。
神様の三位一体性の奥義はすでに旧約聖書の端々に見てとれる、ということです。
パウロは手紙の1~2章でキリストの福音と人間の知恵とについてとても深く語ってきました。
この箇所は彼の手紙の中でも卓越したもののひとつです。
    
まさにこれらの箇所は「異邦人の使徒」を、人間的に考えても非常にハイレヴェルな思想家とみなすように促します。
パウロは、彼の時代の哲学者たちと議論する際に、自分を恥じる必要がないほどの知性の持ち主でもあったのです。
多くの研究者は、「宗教を哲学的に考察するのがコリントの教会のクリスチャンの一部の趣味だったため、彼らのことを念頭においてパウロはこの箇所を書いた」、と仮定しています。
しかし私たちは、「こうしたことを確信をもって断言できるほどコリントの教会の状態について十分に知ってはいない」、ということを告白しなければなりません。
まさにこの難解で深遠な箇所でパウロがあらゆる人間的な知恵を否定しているのは、興味深いものがあります。
それにはもっともな理由がありそうです。
もしも学のない猟師が「人間の知恵には何の役にも立たない」と言ってみたところで、笑いものになるのが落ちでしょう。
同じことを学識豊かで俊英な「異邦人の使徒」が口にすれば、ちがう結果になる可能性があります。
パウロは、知識人たちの知恵の歪みを示すために、彼らのレヴェルまで上がります。
彼らの知恵の歪みはキリストの十字架を否定するところに端的に現れています。
信仰の核心にふれる問題を自分に正直に考えてみようとする人にとって、この知恵の歪みは容易に無視できないことです。
私たち人間が皆互いに独自の存在であるのは、神様の創造のみわざの豊かさの表れです。
天国のことを深く考えることを、避ける人もいれば、生きていくうえで欠かせないことだと思っている人もいます。
ともあれ、このような箇所が示しているのは、信仰の領域では神様が人間に与えてくださった知性を働かせる機会も十分にある、ということです。
そして、その最良の例が使徒パウロです。