2010年10月8日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」1章26~30節 

  
さまざまな信徒がいる教会の宝 1章26~30節
   
コリントの教会の例を見ると、「人間的な理性は神様の知恵を受け入れない」というパウロの言葉が本当だとわかります。
権力者、哲学者、貴族などが大勢連れ立ってキリストの御許に集まってくるようなことはありませんでした。教会員の大半は貧しく学のない人たちでした。
こうすることで神様は、世が高く評価するすべてのものを恥じ入らせたのです。
世が軽蔑してきたタイプの人々が、キリストの中に自分たちの宝と知恵を見出したのでした。
こうしてまた、エレミヤに語らせた、「誇る者は、私を知っていることと、私が何を望んでいるかを知っていることを、誇りとしなさい」(「エレミヤ書」9章24節をまとめた)という神様の御言葉が成就したのでした。
  
ここでパウロの言葉に注目するべきでしょう。「この方(イエス・キリスト)は神様により私たちにとって知恵、義、聖、贖いとなられました」(1章30節)。
この短い御言葉の中に、純粋で素晴らしい福音が隠されています。
キリストは神様の与えてくださった賜物を拒まない人たちにとって「知恵」です。
またキリストは人々にとって「義」となられました。
ルターはまさにこれに関連して「自分のものではない義」(ラテン語でjustitia aliena(ユースティティア アリエーナ)と言います)という言葉を用いているわけです。
この言葉の意味は、「神様の御前において罪人を守ってくれるのは、その罪人自身の聖と完全さではなく、キリストの聖と完全さである」、ということです。
「キリストが私たちにとって聖となられた」とパウロが言うとき、人間自身の「聖化」、つまり、「よりよい存在になることの大切さ」を強調するキリスト教のグループに対して、かなりの平手打ちを食わせていることになります。
私たちの唯一の避けどころは、「キリストが私たちの聖でもあってくださっている」、ということです。
「贖い」について語るとき、まずまちがいなくパウロの念頭にあったのは、「奴隷を買い取って自由にする」、ということでした。
誰かが奴隷を買い取って自由にするのとまったく同じように、キリストは私たちを御自分のために御自分の血で買い取ってくださいました。
このイメージが未来のことも指し示しているのは確かです。
すなわち、最終的な贖いは最後の裁きの時に行われる、ということです。
この裁きの座で、私たち罪人はキリストのゆえに神様の怒りから救い出されるのです。

このようにパウロは手紙を「愛する問題児の教会」に書き始めました。
彼は問題を回避せず、すぐ手紙のはじめに取り上げています。
この手紙でパウロは、コリントの信徒たちの頭を撫でるような真似をまったくしていません。
にもかかわらずパウロは、教会の信徒たちのことを「神様に愛されている聖なる者」である、と言い切っています。
このことについて、私たちにはきっとたくさん考えてみるべきことがあるでしょう。