2009年4月30日木曜日

マルコによる福音書について 11章15~19節

神殿をきよめるイエス様 11章15~19節

イチジクの木をのろったあとすぐに、皆の注目を集める出来事が起きました。ユダヤ人たちには信仰生活の中心として唯一無二の神殿がエルサレムにありました。過ぎ越しのお祝いの時期には、数え切れないほどの人々が神様にささげものをし、ある種のお金のみによって支払うことが許されていた神殿税を払いました。つまり、そのお祝いの間には、おびただしい数の犠牲のための動物や大量の両替のためのお金が必要でした。このお祝いの機会を利用して短期間に金儲けをしようとたくらむ大勢の者が、店を開きました。神殿の光景を目にしたイエス様は、両替所の机をひっくり返し、商人を追い出し、主の宮への敬いの態度を要求なさいました。熱心に見える礼拝も人間の目で見た場合にのみ「よい行い」であったにすぎませんでした。神様の目から見ると、預言者たちが幾度も注意を喚起してきた慰めのない状況が、ここでも繰り返されていたのです。すなわち、神様の宮は強盗どもの巣窟にされてしまったのでした。イエス様のここでの活動は、神殿を悪用した偽善的な礼拝を批判してきた旧約の預言者たちを思い起こさせます。イエス様の神殿のきよめのときに、まだ他にも何か実現していたことがあります。そこでは、マラキ書にある預言の御言葉が実現していたのでした。すなわち、「突然、あなたがたが探している主と、あなたがたが慕っている契約の天使が神殿に来ます。見なさい。この方は来られます、と万軍の主は言われます。しかし、誰が主の到来の日に耐えられるでしょうか。主が現れるときに揺らがない者がいるでしょうか。主は金細工職人の火のようであり、洗濯人の石鹸のようなお方だからです。主は座って、銀を溶かし、混ぜ物を取り除きます。主はレビの息子たちを精練し、彼らを精練された金や銀のように、きれいにしてくださいます。それから、彼らは「義とされたもの」として、主にささげものをもってきます。」(マラキ書の3章を読んでください)。今や、神様御自身が御自分の民に評価を下す「日」が来たのです。この瞬間は、神様の民にとって、混ぜ物の入った金や銀に対して金細工職人が行うのと同じくらい厳しいものとなることが、予告されています。金細工職人は、炉に火を起こし、容赦なく純金とその他の混ぜ物を互いに乖離させます。職人が満足するのは、純粋さで輝いている金のみです。それと同様に、神様に受け入れていただけるのは、純粋な信仰と純粋な義のみです。それを神殿で見出さなかったイエス様は、神殿をきよめ、大祭司たちを驚愕させたのでした。

2009年4月28日火曜日

マルコによる福音書について 11章12~14節

よくない休憩所 11章12~14節

イエス様がエルサレムにロバに乗って入城された時刻は、すでにおそい夕方になっていたため、その日にはそれ以上劇的なことは起きませんでした。その次の日は、朝早くから衝撃的な出来事の連続でした。イチジクの木の奇妙な事件はこの日に起きました。それはイエス様がエルサレムで行った唯一の奇跡であり、イエス様が何かを呪われた唯一のケースでもありました。もうひとつ奇妙なのは、イエス様は、ベタニヤでの宿泊所だったと思われるライ病人シモンの家(14章3節)を出てきたばかりなのに、もうお腹がすいてたまらなかった、という点です。しかし、この出来事で一番奇妙なのは、イエス様が木からイチジクの実を過ぎ越しのお祝いの時期である春にさがそうとなさった、ということです。春には、前の秋になった実などが残っているはずはなかったからです。イチジクの実は早くても6月頃に熟します。暖かな冬のあとに、木に実が残っていて、ようやく春になってから熟する、ということはありえました。しかし、聖書の伝えるこの事件は非常に奇妙です。マルコによる福音書にもはっきりと「イチジクの季節ではなかった」と書いてあります。私たちは弟子たちと同様に、イエス様の振る舞いと、イエス様が木に対して言われた厳しい裁きとに、ただ驚くほかなさそうです。

2009年4月20日月曜日

マルコによる福音書について 11章1~11節

ダヴィデの子に、ホサナ!

マルコによる福音書11章


王が御自分の都に来られる 11章1~11節

イエス様がエルサレムに到着される様子を読むときに、復習しておきましょう。イエス様の活動の中心はエルサレムから遠く離れたガリラヤでした。このガリラヤからイエス様の評判がパレスティナのあちこちに広がっていったのです。今イエス様は弟子たちと共に過ぎ越しのお祝いに参加するためにエルサレムに来られました。状況は非常に緊張したものとなっていきます。大規模な過ぎ越しのお祝いは、エルサレムが真の意味での大都市に発展したことを物語っています。ユダヤ人たちは、神様が御自分の民をエジプトでの隷属状態から解放してくださったことを覚えるために、世界のあちこちから聖なる都へとやってきました。このお祝いでの「イエス様の役割」は何でしょうか。答えを長く待つ必要はありません。預言者ザカリヤは、「いつか王がロバに乗ってエルサレムへやってくる」と予言しました(ザカリヤ書9章9節)。
この予言は、「来るべき王はへりくだったお方で、高貴な騎馬ではなく庶民が物を運ぶために用いる動物(ロバ)に乗って、御自分の民のもとに来られる」と言っています。イエス様はロバを用意させ、それに乗って聖なる都に入って行かれました。「シオンの娘」はこの(イエス様の行動の)メッセージの意味を理解しました。神様が約束してくださった「へりくだった義なる王様」が今まさに都に来ようとしているのです。ダヴィデの王国を再建することについて、はるか昔からある約束が、今やついに実現しようとしていました。それゆえ、イエス様は王様のような歓迎を受けました(列王記下9章11~13節)。歓声をあげる群集は、イエス様がキリストであり約束された来るべき王であることを告白しました。イエス様は御自分が何をなさっているか、知っておられました。今、隠されていた権威がここで具体的な形となってあらわれたのです。ここにおられるのは、聖書全体が約束している来るべきキリストなのです!

2009年4月17日金曜日

マルコによる福音書 第10回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

いろいろなものをたくさんもっている人が神様の御国に入るのは、なんとむずかしいことでしょうか。自分の力で救われる人はだれもいません。これは原罪(生まれながらの罪)がひきおこした傷に由来するものです。このせいで、私たちは知らず知らずのうちに神様よりも被造物のほうにしがみついて生きています。
人は、喜んで信頼をよせることができる対象として「神」を必要としています。人は本当の神様か、あるいは偶像をもっています。私たちが自ずと神様よりも神様のあたえてくださっている「賜物」(才能とか財産とか)に頼るとき、人の力で救われることはありえません。神様が御手によって事を正しい方向へと運んでくださらなければならないからです。神様はまったくはじめから人の心を御自分のほうへと向けさせ頼るようになさらなければならないのです。それによって、人が、「私には神様からのよい賜物がたくさんある。けれども、それらのものが私にとってあまりにも大切なものになって、そこから喜びをさがすようなことにはならないように、私は気をつけなければならない。私はそれを神様が許してくださる限りは、神様の栄光になるように、自分自身の必要を満たすために、また隣人を助けるために用いたいと思う。しかし、もしも神様がお許しにならない場合には、私は(自分にふりかかる)危機と恥を耐え忍ぶし、(賜物をあたえてくださった)創造主をなくすよりも神様からの賜物を失うほうをむしろ選ぶつもりだ。」と言えるようになるためです。
聖霊様は「私たちを新しく生む」というみわざをなさっています。そうでなければ、すべてはまったくだめになってしまうことでしょう。

マルティン・ルター (「神様の子供たちに与えるマナ」)

2009年4月15日水曜日

マルコによる福音書について 第10回目の質問

第10回目の集まりのために

マルコによる福音書10章

イエス様はエルサレムへと向けて旅立たれます。そして、旅の途中で民を教えられ、奇跡を行われます。

1)イエス様は、「離婚の後で新たに結婚することは神様の御心に反することである」と、はっきりと誤解する余地のない形で、言われています(10章11~12節)。
イエス様がこう言われる根拠は何でしょうか。このことは私たちにとってどのような意味をもっているでしょうか。「家族」というものは、私たちの間でどのように位置づけられていますか。

2)イエス様に従っている人たちの間では、女性の地位はどのようなものでしたか。また、それは初期の教会においてはどうでしたか。

3)子どもが人からプレゼントをどう受け取るか、気がついたことがありますか。子どもはどのように神様の御国を受け入れるのでしょうか。それは、どのような点で「模範的」なのでしょうか。

4)イエス様はある男の人に対して、その持ち物を全部売り払い、御自分に従うようにと要求なさいました(10章17~22節)。
イエス様はこの男の人に対してなさったのと同じようなやり方で、すべての人を召されましたか。イエス様は皆から一律に同じこと(持ち物を全部売り払うなど)を要求されましたか。こうした要求は私たちにとってどのような意味をもっていますか。

5)多くのアフリカのクリスチャンは、たとえば10章17~22節に語られている話のゆえに、アメリカやヨーロッパのクリスチャンの生き方をクリスチャンにはまったくふさわしくないものとみなしています。このような意見には根拠がありますか。誰が金持ちで、誰が貧しいのでしょうか。どのような場合、富は私たちにとって危険なものとなりますか。ヤコブの手紙5章1~11節を読んでください!

6)イエス様は28~31節で「御自分に属する者たち」に対して非常に多くのことを約束してくださっています。
イエス様はあなたがたに対してもこの約束を守ってくださいましたか。あなたがたは神様の御国のゆえに、失ったものよりも多くのものをいただきましたか。それとも、逆でしょうか。「キリストと共に歩めば「陽だまり」(この世的な順風など)の日々が始まるよ」などと人々に約束するために、この聖書の箇所を用いてもよいものでしょうか。

7)イエス様の3度目の受難告知(10章32~34節)では、イエス様が弟子たちに先立って進んでいかれる様子が注目を引きます。
これはどんなことについての「しるし」なのでしょうか。

8)ゼベダイの子ヤコブやヨハネは、後にどうなりましたか。

9)イエス様の時代のパレスティナでは、目の見えない物乞いの人の生活はどのようなものでしたか。

10)バルテマイは、神様が与えてくださったチャンスをちゃんと利用する大切さを教えてくれる「模範」になっています。彼は何年間も目の見えないままで座っていたくはありませんでした。そして、「もう少し大きな声で助けを呼ぶべきではないか」と考えたのです。彼には短いチャンスの時しかありませんでしたが、彼はそれを正確に用いることができました。
私たちは彼からどんなことを学ぶべきでしょうか。

2009年4月14日火曜日

マルコによる福音書について 10章46~52節

目の見えない乞食 10章46~52節

イエス様がこの世で生きておられた当時のユダヤ社会では、目の見えない人の立場は惨めなものでした。もしも親戚がその人の世話をしないならば、その人は物乞いをして自分で生計を立てていかなければなりませんでした。それも、そんなことができる間の話です。その人を待ち受けているのは、深刻さを増していく悲惨さであり、しまいには孤独な死でした。これがバルテマイの生活の状態でもありました。彼は群集がイエス様とともに動いていくのを耳にして、自分の人生の転換期が来たことを知りました。彼は命がけでイエス様に助けを求めました。彼には「黙れ」という声がかけられましたが、彼はこの唯一のチャンスにしがみついて、群集の言うことなどには耳も貸しませんでした。イエス様はバルテマイの叫びを聞き、彼を助けてくださいました。バルテマイの人生は「御言葉の一撃」でまったく変わりました。バルテマイの癒しもまた、イエス様の受難の告知に結びついています。それは8章22~26節で語られているのと同じような出来事です。キリストの受難の傍らでは、目の見える者たちは目が見えず、目が見えない者たちは目が見えるのです。

2009年4月8日水曜日

マルコによる福音書について 10章35~45節

ゼベダイの息子たち 10章35~45節

イエス様は12人の弟子たちを(使徒として)選ばれました。12という数にはあきらかに象徴的な意味があります。すなわち、これらの男たちはイスラエルの12部族に対応し、新しい神様の御国を代表するように選ばれているのです。この神様の御国を弟子たちは待ち望んでいました。とりわけ、彼らが「イエス様こそ(旧約)聖書で約束されているキリストである」と確信するにおよんでは、なおさらのことでした。来るべき神様の御国での「大臣職」をすでにこの段階で弟子たちが自分自身にわりあてるような真似をするのは、ある意味で自然な成り行きでした。このような「大臣ごっこ」にヤコブとヨハネというゼベダイの二人の息子たちも参加していました。こうして、前にもすでにあったパターンがここでも繰り返されることになります。イエス様が来るべき受難について話されると、すぐその後でイエス様の弟子たちの無理解が明るみになります。イエス様とヤコブとヨハネの話し合いからは、イエス様が彼らと親しく身近な間柄であったことがわかります。まず、イエス様は彼らに、御自分のゆえに苦しみを受ける用意ができているか、お尋ねになりました。この後で、彼らが本当にイエス様のゆえに苦しみに遭うことが告げられます。それからようやく、イエス様は、御国のさまざまな要職を御自分で分けたりはせずに、父なる神様御自身がお決めになるのにゆだねるおつもりであることが、明かされます。ヤコブについて、このイエス様の予言はほどなく、エルサレムでの使徒会議(使徒の働き12章2節以下)が開催される前に現実のものとなります。ヤコブとヨハネのお願いを耳にし、その結果弟子たちの間で生じた怒りを目にして、イエス様は弟子たちに、「神様の御国の支配」に関する教えをもう一度復習させることにしました。この世の支配者たちは民を権力でねじ伏せていばっているが、神様の御国ではこうではない。一番えらくなりたい者は皆の僕になりなさい。そして、イエス様は直接御自分を模範として示されました。イエス様は、周りから仕えられるためにではなく、仕えて御自分の命を皆のためのあがないとして与えるために来られたのです。イエス様の使命は、「御自分を犠牲としてささげ、この世全体のために御自分の血をささげ、罪人を「神様のもの」とするためにあがなう」ことでした。このキリストの愛はイエス様に従う者皆にとって、模範でありつづけています。

2009年4月6日月曜日

マルコによる福音書について 10章28~34節

弟子たちに用意されている報酬 10章28~31節

マルコによる福音書は、弟子たちの「受ける分」についてのイエス様の御言葉を伝えています。多くの人たちは、主に従う中で、多くのものを捨てなければならなくなりました。イエス様がおそばに召された人たちはとりわけ厳しい目に遭いました。さらに悪いことに、来るべき迫害さえもが予告されています。しかし、イエス様は御自分に属する者たちに、すでにこの世の時において「豊かな人生」を、さらに、来るべき時には「永遠の命」をも約束してくださっています。ただし、この約束には、「人は神様の御国の宝を、それと気付かないうちにいともたやすく失ってしまうものである」という警告が伴っています。


3度目の受難の予告 10章32~34節

イエス様が来るべき御受難について弟子たちに告げられたのは、これで3度目です。今回の内容は前の2回よりも詳細になっています。神様はイエス様を大祭司や律法学者たちの手に渡される、というのです。イエス様は(最高会議で)死を宣告され、異邦人たちに(ローマ人たちに)引き渡されます。この受難告知には、弟子たちの先に立ってエルサレムへと向かって進まれるイエス様の揺るぎのない決意も語られています。苦難と死が待ち受けているのを知りつつもそれらへ向けて歩んでいかれる、このイエス様の姿勢は弟子たちの間に困惑と恐れを呼び起こします。お父様が御子にお与えになった「道」を、イエス様は一歩たりとも踏み外したりはなさいませんでした。この「道」はまた聖書にあらかじめ示されていた道でもありました。

2009年4月3日金曜日

マルコによる福音書について 10章17~27節

富の危険 10章17~27節

イエス様は数え切れないほどの人たちを教え、きっと何千人もの人たちと個人的に話し合われたことでしょう。聖書は、イエス様がどのようにしてひとりの人を弟子として召されるかについて、何度か語っています。今の箇所でこのような召しを受けることになる男の人が登場します。彼は、人生のもっとも大切な質問に対してイエス様から答えを得ようとしました。イエス様のはじめの答えは基本的な答えでした。しかし、男はそれには満足しませんでした。イエス様の次の答えは彼にとって爆弾のようなものでした。彼はその答えを聞いて、もはやイエス様と話し合う気をなくしてしまいました。イエス様は金持ちの男に、「持ち物を全部売り払って貧しい人たちに分け与え、こうして天に富を積んで、それから私に従いなさい」と命じられたのです。しかし、男には、すべてをイエス様にゆだねて自分の人生のあり方をまったく変えてしまうような信仰はありませんでした。それで、彼はイエス様のみもとを立ち去りました。お金は懐にかかえたまま、その実、ひどく困窮して。今回のイエス様の召しは「うつろな耳」に響いたのでした。この出来事には、富の危険についてのイエス様の深刻な警告が含まれています。金持ちが神様の御国に入るのは、非常に難しい、というか、はっきり言えば、不可能なことなのです。お金が人を縛りつけ、連れ去ってしまいます。弟子たちは天の門の狭さに驚きます。救いはまさしく神様のみわざとしてのみ可能なのであって、人自身の行いによっては無理なのです。

2009年4月1日水曜日

マルコによる福音書について 10章13~16節

子どもたちを祝福なさるイエス様 10章13~16節

イエス様が子どもを祝福なさるこの箇所(「子どもの福音」)はよく知られ、人々に愛されている箇所です。ユダヤ人たちは、律法遵守の義務を成人に対してだけ負わせました。このことに基づいて、弟子たちは、「子どもたちはイエス様の教えを受けるにはまだ幼すぎる」と考えたのでした。ところが、イエス様は違う教え方をなさいます。子どもは大人と比べて未熟な存在などではなく、逆に、大人が「模範」とすべき存在なのです!人は神様の御国を子どものように受け入れなければなりません。神様に認めていただけるのは、大人や、いろいろなことがよくできる者ではなく、子供たちなのです。ところが、人々は「子どもたちが神様にお仕えすることなどはまだとうていできはしない」などと思い込んでいたのでした。このことは、より広大な(救いの歴史の)全体の中にあらわれる特徴のひとつです。すなわち、福音によれば、「終末が近づいている時」には、この世の価値観は他の場合に関しても転倒してしまいます。たとえば、金持ちは傍らへ斥けられ、貧乏人は受け入れられます。「立派な人」は捨てられ、収税人や娼婦が神様の御国の中に入っていきます。同じように、とても賢い大人たちはここで、イエス様が子どもを正しい信仰者の模範として置かれるさまを、その傍らから眺めることになりました。