2009年8月28日金曜日

マルコによる福音書について 13章24~32節

キリストの再臨 13章24~27節

苦難の時の後、ようやく終末がきます。もう後戻りはできません。世界は震え、日は暗くなり、星は落ちます。イエス様が終末の大いなる裁き主として戻ってこられます。「人の子」という名前はダニエル書にでてきます(7章13~14節)。「人の子」は「御自分のもの」を集めて、決して揺るぐことのない王国を築かれます。この世の終わりに関係しているあらゆる騒乱は、この新しく喜ばしい時の生みの苦しみなのです。キリストが来られ、神様の御国が人々のただなかに見えるかたちで到来するときに、この生みの苦しみは終わります。そのとき、完全に新しい天と新しい地が創造されます。


しかし、それはいつでしょうか? 13章28~32節

何千年もの間、人々は、いつキリストがふたたび戻ってこられ、いつ世の終わりがくるのか、しろうとしてきました。ところが、主はこの疑問に答えてはくださいません。主は、御自分の再臨がいつであるか、人間も天使も誰一人しらないし、キリスト御自身さえもしらないこと、それをご存知なのは御父ただおひとりだけであることを、はっきりと告げておられます。私たちのやるべきことはふたつあります。まず、私たちはいつも準備ができていなければなりません。次に、私たちは実現していく神様の大いなるご計画にしたがっていかなければなりません。心構えをするときに大切なのは、キリストの再臨を忘れて準備を怠っているような瞬間が私たちの生活の中にあってはならない、ということです。それはちょうど家の主人がいつ帰ってくるか知らない門番のようなものです。門番は一瞬たりとも眠り込んではなりません。たえず完全に準備ができていなければなりません。それと同じようにしてイエス様のこともずっと待ち続けていなければなりません。なぜなら、イエス様はいつ何時戻ってこられてもおかしくないからです。「時のしるし」を追跡していくときには知恵と慎重さが必要とされます。よく見える目と神様の御言葉の理解があれば、世の終わりに先立って起きることがらに目が向くようになります。これらのしるしはしばしば重苦しく、希望を奪い去ってしまうようなものです。しかし、クリスチャンにとってそれらのしるしは長い間待ち望まれていた「春の訪れのしるし」なのです。新しい時、神様のすばらしい御国が到来しようとしています。それゆえ、どのような苦難もクリスチャンから希望を奪い取ることはできません。子供を出産するときも痛みと苦しみが伴います。にもかかわらず、子供が生まれることは皆から待ち望まれていることです。それとまったく同様に、神様の御国が世の終わりにねじりこむように到来するのは、多くのものをめちゃくちゃに引き裂くような激しい苦痛を伴う出来事です。しかし、私たちはそこに言葉では表せないほどの喜びと希望を見出します。このようにして、クリスチャンは主の再臨を待ち望むことを学びます。30節についてはすでに8章1節~9章1節の説明のときに取り扱いました。ここではごく短く一番大切なことについて復習することにしましょう。神様には御自分の「時」というものがあります。神様は私たちにどんなことでもなさる権威をおもちです。全能なる神様にとっては、御自分の計画をいちいち私たちに尋ねたりはせず自由に変更することももちろん可能です。私たちは大いなる主の御前にひれふし、主に栄光を帰したいと思います。

2009年8月26日水曜日

マルコによる福音書について 13章14~23節

大いなる苦難 13章14~23節

暗闇がましていくなかで大いなる苦難の時がやってこようとしています。「時のしるし」として「荒らす憎むべきものがいてはならないところにあらわれる」というのです。その時がきたら、ユダヤにいる人々はすぐさま町々から逃げ出して、持ち物などには目もくれずに、道もない山々に避難しなければなりません。この苦難の時は、もしもそれが寒い冬に起こる場合には、とりわけ厳しいものになります。さらに悪いことに、偽キリストたちと偽預言者たちがあらわれて、大勢の人々を「奇跡」によって惑わします。キリストが選ばれた、主の警告をしっかりと心に留めた者たちのみが、こうした惑わしをまぬかれます。イエス様の御言葉はとても謎めいていますが、それは「終わりの時」にかかわる予言ではよくあることです。ヴェールがかぶさった力強い言葉を説明しようとするときには、自制と慎みが必要です。教会の歴史のなかでは、数え切れないほどの人々が聖書のこの箇所についても自分たちの説明の正しさに確信をもっていました。しかし、自分たちの生きた時代の政治的あるいは宗教的な潮流をむりやり聖書に押し付けた「解釈者たち」などを本当は誰も信じるべきではなかったことを、歴史は証明しています。というわけですから、ここで私たちは聖書の難しい箇所について何が言えるか、慎重に試みることにしましょう。イエス様の御言葉のなかには、まぎれもなく「世の終わり」や「西暦70年に実際に起こったエルサレムの崩壊」に関係している部分があります。これらのふたつの予言を別々に選り分けるのは、不可能ではないにせよ困難な作業です。ともかくも、エルサレムは包囲され非常な苦難の時にみまわれ、ついに都は瓦解したのでした。石が石の上に残されることもありませんでした。当時すでにひどい迫害を受けていたユダヤ人クリスチャンたちが、このときイスラエルの反乱計画から身を引き、山岳地方に避難したのは、ほぼ確実です。ユダヤ戦争の間には都市でも山々でも言いようもない厳しさが待ち受けていました。つまり、これらのイエス様の予言は少なくとも一度はすでに現実のものとなったのでした。「荒らす憎むべきもの」とは、旧約聖書的な表現で、ある特定のことをさしています。紀元前160年、シリア王アンティオコス・エピファネスが軍隊をエルサレムに入城させました。この王の要求にしたがって、聖なる神殿ではギリシア人たちの最高神ゼウスに犠牲をささげる儀式が始められました。この異邦的な犠牲の儀式、「荒らす憎むべきもの」、が活ける神様の神殿で行われたことは、ユダヤ人たちにすさまじい憤怒を生みました。彼らは自分たちよりもはるかに強大な敵に立ち向かって反旗を翻し、勝利を収めたのです。アンティオコス王は神殿での異教の儀式を取りやめることを余儀なくされ、神殿はすみやかに清められました。この出来事の詳細は旧約聖書外典「マカバイ記」に記されています。またダニエル書も「荒らす憎むべきもの」について二度ふれています(ダニエル書11章31節、12章11節)。これは、もともとは聖なる神殿での儀式をひどく汚す行為をさしていました。エルサレムが破壊されたとき、神殿も破壊されました。ローマ人はユダヤ人がどんな民族か知っていたので、神殿を汚した年にはユダヤ人たちに対してとくに激しく攻撃をしかけてきました。歴史家ヨセフスによれば、ちょうどこの頃、神殿に自分のことをメシアと名乗り民に救いを約束する男があらわれました。こうして、「荒らす憎むべきもの」にかかわるしるしと、偽キリストがあらわれるというキリストの予言とは実現したのでした。エルサレム滅亡のまさにその時に神殿は汚されました。異邦人たちが神殿に自分たちの最高神であるジュピター(つまりゼウス)を敬うためになだれこんだのです。このように、イエス様の御言葉とイエス様の時代の後まもなく起きた出来事との間には多くの具体的な関係が見出されます。これらすでに起こった歴史上の出来事が語っているのは、「荒らす憎むべきものというイエス様の御言葉は聖書に書いてあるとおりにはもはや繰り返されない」ということでしょうか。神様だけがご存知です。私たちの生きている現代、エルサレム神殿のあった場所はムスリム(イスラム教徒)たちの聖なる場所、岩のモスクになっています。多くのユダヤ人はそれが取り壊されて二千年ぶりに新しい神殿が建てられることを要求しています。しかしそれを実現することは、すべてのムスリムに対して公然と宣戦布告するのと同じことです。このように、神殿のある地域は世界中でも最悪の「爆薬庫」になっています。イエス様の御言葉は黙示の言葉にふさわしく説明が難しい、ヴェールに包まれたものです。しかし、もしも予言がひとつのまとまりとして実現するならば、その出来事は誰の目にも明らかになるでしょう。

2009年8月21日金曜日

マルコによる福音書について 13章1~13節

目を覚ましていなさい!

マルコによる福音書13章


ロバに乗ってエルサレムに来られてから死んで復活なさるまでの日々に、イエス様が何を教えてくださったか、また学ぶことにしましょう。福音書の頂点がまさにこれらの時期に位置しているため、私たちは今、御言葉の一語一語に注目して読み進める必要があります。今回の箇所(マルコによる福音書13章)でとても大きな位置を占めているのが、「来るべき滅び」についてのイエス様の予言です。この箇所をルカやマタイによる福音書の該当箇所とあわせて読むと、「どのように世界が終わるか」について、聖書でもまれにみるような詳細な説明がなされていることがわかります。


幸福な都? 13章1~2節

イエス様の時代のエルサレムは大都市でした。とりわけヘロデ王がつくらせた神殿は貧しいパレスチナの住民たちにとっては実に見ごたえのある光景でした。聖地に立つこの立派な神殿はとくにユダヤ人のお祝いのさいには皆から感嘆のまなざしを受けていました。ところが、イエス様の目には「幸福な都」とはちがうほかの光景が映っていました。すべては地に倒されて粉々になり、あとにはまったく何も残らない、という光景が。


「終わりの時」はどのように近づいてきますか? 13章3~13節

オリーブ山でイエス様は「終わりの時」について詳しく語られます。人間界はより輝かしい光へと向けて順調に歩んでいく、というわけにはいきません。それとは逆に、世界はそんどん陰惨な状態に沈み込んでいくように見えます。こうした状態に拍車をかけるのが、あたかも「正真正銘のキリスト」であるかのように人前にあらわれる「偽のキリストたち」です。多くの者は彼らを本物だと思い込んで間違った道にひきずりこまれていきます。戦争や地震や飢饉がおこり、「キリストのもの」である信仰者たちは法廷に引き出され、拷問を受けます。兄弟が兄弟を死に追いやり、父は子を死なせ、子は両親を死に渡します。怒りはますますどす黒く渦巻いていきます。そのようななかでも、神様の新しい時代が始まりつつあったのです。それは「産みの苦しみ」なしにはありえません。産みの苦しみの只中でキリスト御自身が「キリストのもの」である信仰者と共にいてくださり、導いてくださいます。そして、最後まで耐え忍ぶ者は救いにあずかります。