2010年2月18日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章11~22節その2

 
2章11~22節 しかし、彼らは異邦人でしょう?(その2)
 
「エフェソの信徒への手紙」第2章は私たちの目の前に非常に壮大な絵を描き出しています。
このように充実した内容にみちた章を解きほぐしていくのは、やりがいのある仕事です。

まず、教会について多くのゆたかなイメージが用いられていることに、私たちは気がつきます。
教会は神様の民であり、「新しい人」(15節)すなわち神様の家族であり、神様の建物です。
これらすべてのイメージは、神様の救いのみわざがどのようにして「神様のもの」である新しいグループを生み出してきたか、を目に見えるように描き出しています。

これからわかるように、教会は「エフェソの信徒への手紙」では肯定的な意味のみを担っています。昔も今もこれからも、教会をつくりあげることができるのは、神様以外の誰でもありません。
人々ができることといえば、教会を分裂させ腐敗させることぐらいです。

次に、キリストの教会がどのようにして預言者や使徒の基礎の上に築かれているか、見てみましょう。「ルーテル教会信条集」はこれについて次のように述べています。

「旧新約聖書の預言者と使徒の書物は、あらゆる教えと教師が吟味されるさいに用いられる、唯一の規則であり指針です。
「あなたの御言葉は私の足元を照らすランプであり、私の道を照らす光です」(詩篇119篇)
と書かれていますし、聖パウロも
「たとえ天の御使いが現れて(御言葉と)ちがうことを宣教したとしても、その天使はのろわれてしまうがよい」
と言っています。
他のどれほど有名な昔や今の教師の書いたものであれ、
それらを聖書と同等なものとみなしたりはせずに、
すべて聖書よりも下位に置かなければなりません。
それらは、
「どの場所でどのように預言者と使徒の教えが使徒たちの時代の後にも保存されていたか」
について語っている「証人」としてのみ用いなければなりません」(和協信条)。

聖書を通して私たちに話しておられるお方以外の何者をも、
私たちは神様としてしったり告白したりはしません。
預言者と使徒のメッセージが教会をつくり、維持します。
他のものはいつか燃え尽きてしまう「わら」にすぎません。
私たちに与えられているメッセージを勝手に変更する権利など、私たちにはありません。
私たちにできるのは、それをさらに先へ、次の世代へと伝えていくことだけです。
そして、神様の御言葉は真理であることをしっかり信じ続ける勇気を持つべきです。