2011年10月31日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第2回目の質問(2章)

第2回目の集まりのために 


「ヨハネの黙示録」2章


今回扱う箇所は、
エフェソとスミルナとペルガモンとテアテラの諸教会に宛てられた手紙を含んでいます。
それらの手紙の中でイエス様は、
まちがった教えとそれを喧伝する偽教師たちとに気をつけるように教会に警告なさり、
また、迫害の最中にあっても信仰に留まるように教会を励ましておられます。
天国の道はただひとつです。
さまざまな困難に負けないでその道を歩んでいくようにと、イエス様は忠告されます。


質問

1)正しい教えの大切さが軽んじられることがしばしばあります。
エフェソの教会への手紙はこのことについて何を教えてくれますか。
正しい教えと、その教えに留まることとは、どうして大切なのでしょうか。

2)イエス様はエフェソの教会が初めの頃の行いに戻るように勧めておられます。
その「行い」とは、
誕生間もない頃の教会がもっていた熱心さのことを意味していると思われます。
こうした熱心さを信仰生活の中で保つためにはどうすればよいのでしょう。
正しい熱心さと間違った熱心さとのちがいは何でしょう。
信仰についてどのような結論を導き出すべきなのでしょうか
(信仰がエフェソの教会にとらせた行動に関する説明を参照してください)。

3)スミルナの教会は貧しいのに、富んでいました(2章9節)。
これはどういう意味でしょうか。
私たち自身や私たちの教会についてもそれと同じことが言えるでしょうか。
教会の真の富とは何でしょうか。

4)あなたはイエス様のゆえに迫害に耐える覚悟がありますか。
初期のクリスチャンに迫害に耐える力を与えたのは、一体何だったと思いますか。
私たちは迫害を受けているでしょうか。
迫害に耐える上で助けとなるのは何ですか。

5)ペルガモンの教会は、偶像礼拝を行わないように、と警告を受けています。
今日でも偶像礼拝が存在しますか。
どこで、どのようにして、それは行われていますか。
それは私たちを誘惑してきますか。
クリスチャンは偶像礼拝から離れていなければならない、
というのは具体的にはどういう意味ですか。

6)ペルガモンの教会宛ての手紙で、
イエス様は偶像礼拝をサタン礼拝と同一視しています
(2章13節の「悪魔の座」という表現に注目してください)。
他宗教(例えば、イスラム教、仏教、モルモン教、諸国民の元々の宗教など)は
サタン礼拝なのでしょうか。
あなたの見方を(聖書に基づいて)説明してください。
「コリントの信徒への第一の手紙」10章19~21節を読んでください。

7)偽教師はイゼベルのように非常に霊的な雰囲気の持ち主かもしれません。
偽教師を通して不思議な現象が起こる場合もあります。
正しい教えと間違った教えをどうやって見分けたらよいのでしょうか。
教会には今も偽教師たちがいるでしょうか。
それは誰でしょうか。
イエス様がテアテラの教会のクリスチャンに与えられた指示に従って、
私たちは行動しているでしょうか。
これらの指示に従うとは、具体的にはどういうことなのでしょうか。

2011年10月27日木曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 2章18~29節 テアテラの教会への手紙(その2) 

 
テアテラの教会への手紙 2章18~29節(その2) 
  
 
イエス様は偽教師に「悔い改めのための猶予期間」をお与えになりました。
しかし、もはやその期間は終わろうとしています。
もしも彼女が悔い改めなければ、彼女を待ちうけているのは裁きです。
この裁きは、彼女の「愛人や子供たち」にも及びます。
彼らはおそらく偽教師の弟子たちのことを指しています。
 
イゼベルが「女の」預言者であったことが問題だったのではありません。
パウロは、
もしも神様が預言をくださる場合には、女の人が教会の集まりで預言してもよい、
と教えています(「コリントの信徒への第一の手紙」11章4~5節を参照してください)。
問題なのは、
イゼベルが神様の御名によって不信仰な行いを教えたことでした。
つまり、彼女は偽預言者だったわけで、
本来ならテアテラの教会はそれに気づいて
彼女を教会から追い出すべきだったのです。
   
テアテラのクリスチャン全員がイゼベルの弟子になりさがったわけではありません。
イエス様は彼らに、
「彼らがもっているもの」、すなわち、使徒たちが教えた信仰生活
に留まるよう、助言なさいます。
おそらくイゼベルの弟子たちは、
他の人々が知らないような奥義を自分たちだけが学んだ、
と自慢していたのでしょう。
そして、イゼベルから教わった「神の奥義」なるものを吹聴したのでしょう。
この類の奥義が実はどこから由来するものか、イエス様は教えられます。
それは神様からではなく、神様の敵、サタンからのものです。
偽教師に従わなかった人々に、イエス様は豊かな約束を与えられます。
すなわち、彼らには諸国民を支配する権威が授けられるのです。
パウロもまた同じことを書き留めています。
すなわち、クリスチャンは皆、主と共に、この世を裁くことになるのです
(「コリントの信徒への第一の手紙」6章2~3節)。
これがどういう意味か、私たちには詳しく語られていません。
しかし、最後の裁きの時には、
裁き主が共におられる側のグループに入れていただくほうが、よいに決まっています。
「ヨハネの黙示録」2章28節の「明けの明星」は金星を指しています。
それは皇帝に捧げられた星でした。
イエス様が御自分に属する人々に明けの明星を与えると約束されています。
それは、いつか彼らが世の支配者、皇帝になる、ということを示唆しています。
そして、この約束はすでに26節で与えられています。
  

2011年10月24日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 2章18~29節 テアテラの教会への手紙(その1) 

 
テアテラの教会への手紙 2章18~29節(その1)
 
 
テアテラは職人の都市としてよく知られていました。
「使徒の働き」には、リュディアという名の女の人が登場します。
彼女は紫布の商人で、テアテラ出身でした(「使徒の働き」16章14節)。
 
テアテラの教会ではひとつのことを除けばすべてが順調であったように見えます。
教会が福音についていっそう熱心になってきたのは、よいことです。
「最近、教会が初めの頃よりも多くのことを行っている」、
というのはそういう意味なのでしょう。
教会の問題点は、「イゼベル」と呼ばれる女でした。
これは彼女の本当の名ではないかもしれませんが、その本質をよくあらわしています。
私たちは旧約聖書によって、「イゼベル」というアハブ王の悪妻のことを知っています
(「列王記」上16章31節)。
今ここで話題にされている女は偽教師であり、
その教えによってテアテラの教会員たちを間違った道に引き入れました。
イゼベルが彼らのところに持ち込んだ「不品行」は、
通常の意味での不品行とは限りません。
旧約聖書は、イスラエルの民が「姦淫」を行い堕落した、と語りますが、
多くの場合それは偶像礼拝を意味しています。
イスラエルの民は神様の民であり、神様に忠実でありつづけるべき存在でした。
そして、異教の神々を礼拝することは姦淫を行うことに等しかったのです。
20節の「不品行をさせる」というのは、これと同じことを意味しているのでしょう。
この節の終わりの「偶像に捧げられた肉を食べさせる」という言葉も、
それを裏付けるものです。
要するに、
イゼベルがテアテラ教会のクリスチャンたちを偶像の神殿に連れて行き、
犠牲の式で偶像に捧げられた肉を食べさせたのでしょう。
このような儀式に参加することは偶像礼拝です。
また、こうした儀式には、
神様が第六戒で禁じていることが行われる場合もあったことでしょう。
つまり、「不品行」は、言葉の本来の意味での姦淫でもあった可能性があります。
  

2011年10月21日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 2章12~17節 ペルガモンの教会への手紙(その2) 

 
ペルガモンの教会への手紙 2章12~17節(その2)
 
 
イエス様は「隠されたマナ」を「勝利を得る者」に与えると約束なさっています。
イエス様のこの御言葉は、
偶像の神殿に行って肉を食べることに大きな誘惑を感じている人々に
向けられたものでしょう。
神殿での宴会よりもはるかによい祝宴が、天国では待っています。
偶像に捧げられた食事よりもずっとおいしい食事を、天国ではいただけます。
天国の祝宴に参加できるためには、
イエス様への忠実を貫き、悪魔の礼拝所を遠く迂回しなければなりません。
 
古典時代には、入場券として石が用いられることがありました。
17節にある「白い石」というのは、このような目的のための石だと思われます。
白い石を得た者は、天国への入場券をもっているわけです。
誰の名が石に書き込まれているのかは、わかりません。
神様の御名なのか、あるいは天国に入れたその人の名なのか。
天国に入れた人は自分の救いを他の人に譲ることができません。
天国への門の通交切符である石には、
その石の持ち主の名前が記されているのではないでしょうか。
救いとは、個人的なことがらなのですから。
 

2011年10月19日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 2章12~17節 ペルガモンの教会への手紙(その1) 

 
ペルガモンの教会への手紙 2章12~17節(その1)
  
ペルガモンはローマの支配層お気に入りの富裕な都市でした。
その最後の王アッタロスは市をローマ人たちに遺言によって委譲しました。
ローマ人たちはそのことを忘れませんでした。

ペルガモンには「サタンの玉座」が置いてありました。
それがどういう意味か、確実なことはわかりません。
可能性のある答えは次の二つでしょう。
ペルガモンにはありとあらゆる偶像のための祭壇がありました。
ことに有名だったのは癒しの神アスクレピオスの神殿と最高神ゼウスの祭壇でした。
偶像礼拝は悪魔を拝することです。
それゆえ、「サタンの玉座」は偶像礼拝の神殿にはうってつけの表現です。
もうひとつの可能な答えは皇帝崇拝です。
これもまた偶像礼拝であることには変わりありません。
ペルガモンは、皇帝崇拝のための神殿が最初に建てられた場所としても有名です。
まさにこの皇帝崇拝のゆえに、多くのクリスチャンは殺されたのでした。
その点で、
「サタンの玉座」は皇帝崇拝が行われる神殿を指すにはふさわしい名称といえるでしょう。
 
アンティパスという名のペルガモン教会の会員が殺害されました。
おそらくそれは、組織的な迫害の結果ではなかったでしょう。
もしもそのような迫害であったならば、犠牲者の数は一人には留まらなかったはずです。
このことを通して、
教会は、いかに世が彼らを憎んでいるか、思い知らされることになりました。
しかし、教会は信仰を捨てはしませんでした。
この点について、イエス様は感謝の意を表しています。
それに対し、
教会の中に「バラムの教えに従う」者たちがいることについては、批判なさっています。
バラムは旧約聖書に出てきます(「民数記」22~24章、31章)。
バラムの罪は、
イスラエルの人々をそそのかして偶像礼拝をさせ、
その際に不品行も行わせたことにあります。
イエス様は(偶像に)犠牲として捧げられた肉を食することを挙げておられます。
パウロはこの問題について
「ローマの信徒への手紙」(14章)や
「コリントの信徒への第一の手紙」(8~10節)で
詳しく説明しています。
おそらく、ペルガモンのクリスチャンたちは、
偶像の神殿で偶像に捧げられた肉を食べるよう、勧誘を受けていたのでしょう。
そのようなことを、パウロはすでに厳しく禁じていました。
偶像の神殿で礼拝に参加することは、悪魔を礼拝することです。
クリスチャンは、そういうことからはっきりと距離を置かなければなりません。
さらに、神殿では姦淫が行われました。
このことからも、教会の会員は遠く離れるべきなのです。
そのためには、神殿に行かないのが最善です。
バラムの追従者たちはおそらくとてもリベラルであり、
このような行為は別に悪くないと思い込んでいたのでしょう。
そして、
「クリスチャンは自分の肉体に対してはどんなことをやってもよいのだ、
肉体はクリスチャンの救われた魂とは何の関係もないからだ」、
などと考えていたのでしょう。
イエス様はこのような考え方を受け入れたりはなさいません。
「教会の中でこのような教えを広げる者たちを口の剣によって撃つ」、
とはっきり言われます。
バラムの信奉者に加えて、ニコライ教徒たちのことがふたたび取り上げられています。
これらふたつのグループが同じような考え方をしていたのかどうか、私たちは知りません。
しかし、イエス様の御言葉の大切なメッセージは明瞭です。
間違った教えや偽教師たちを教会の中で野放しにしておいてはならない、ということです。
     

2011年10月17日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 2章8~11節 スミルナの教会への手紙 

 
スミルナの教会への手紙 2章8~11節
 
スミルナはエフェソからみて北方約80キロメートルの地点にありました。
それは、エフェソと同等の競争力を有する主要な港湾都市でした。
西暦156年、この都市でクリスチャンを殺傷する迫害が起きました。
犠牲者の中にはスミルナ教会のビショップ、ポリュカルポスも含まれていました。
迫害者を前にして彼は、「私はイエス様に86年間お仕えしてきた」、と語りました。
おそらく彼は子供のときに洗礼を受け、それからずっと主に従ってきたのでしょう。
彼は死が目前に迫っても、イエス様を否認しませんでした。
「ヨハネの黙示録」が書かれた頃には、
ポリュカルポスがすでにスミルナの教会のビショップになっていた可能性があります。
 
スミルナの教会のことをイエス様は一言も批判していません。
それは迫害を受けた貧しい教会ですが、実際には富んでいます。
ここでいう「貧しさ」とは、
迫害で教会がそのわずかばかりの持ち物さえも略奪されたことを指しているのでしょう。
ユダヤ人たちは異常な執拗さで教会を迫害しました。
イエス様は、「彼らは神様の民ではなく、サタンに属している」、
という厳しい裁きを宣告されます。
これはしかし、クリスチャンにユダヤ人を憎む口実を与えるものではありません
(この箇所はそのように説明されたこともあります)。
イエス様は、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」、
とお命じになりました(「マタイによる福音書」5章44節)。
しかし、イエス様のここでの御言葉は、
ユダヤ人は、イエス様を拒みつづけるかぎり、
いくら彼らが神様の選民の立場にあっても意味がないことを教えています。
イエス様は、ユダヤ人にとっても、他のどの国民にとっても、
天国への唯一の道なのです。

イエス様は教会に苦難の時代が来ることを明言されます。
その苦難は十日間続く、とされています。
その意味は、迫害の時期は短く、神様が許される期間だけ続く、ということです。
死の脅迫を受けても、イエス様への信仰を捨ててはいけないのです。
終わりまで主への忠実を守る人は、勝利の冠をいただきます。
そのような冠が当時の競技の勝利者には与えられました。
今ここで「冠」は、天国での永遠の命をいただくことと、
第二の死をまぬかれることを意味しています。
「第二の死」とは、ここでも、また「ヨハネの黙示録」の他の箇所でも、
「滅び」を意味しています。
教会は、イエス様を模範とするよう、忠告を受けます。
イエス様は殺されましたが、よみがえり、栄光に輝く天国に入られました(8節)。
そして、主を拒まない人なら誰にでも、それと同じことが起こるのです。

2011年10月14日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 2章1~7節 エフェソの教会への手紙(その2) 

 
エフェソの教会への手紙 2章1~7節(その2) 

エフェソの教会はイエス様から批判も受けています。
教会が初めの頃にもっていた愛から離れてしまったという点に関してです。
それゆえイエス様は、
教会がふたたび初めの頃の愛のわざを行うように勧告されます。
「使徒の働き」には、エフェソ市民がクリスチャンになった時に
どのような変化が起きたか、語られています。
魔術の書物を所有し魔術を行っていた人々は、
それらの本をかき集めて火をつけました。
燃えた書物の総額は銀貨五万にものぼりました(「使徒の働き」19章19節)。
銀貨は当時の大人の約一日分の労働賃金に相当しました。
ですから、実に莫大な金銭的価値をもつ書物が
大量にまとめて焼き捨てられたことになります。
人々は真剣にイエス様を信じ、それを実行に移しました。
信仰に入ったばかりの頃に見られたこの熱心さが、
いつしかエフェソの信徒たちから消えてしまっていたのでしょう。
彼らはもはや以前のようには本気で信仰しなくなっていました。
この点についてイエス様は教会を批判し、
誕生間もない頃の教会にあふれていた燃えるような信仰に立ち戻るようにと
勧告なさっているのです。
「もしも悔い改めなければ、
エフェソの教会を私に属する人々のグループからはずしますよ」、
とイエス様はきっぱり言われます。
そのようなことになったら、それこそ教会にとっては最悪の事態です。
イエス様に見捨てられた教会は必ず死にます。
イエス様は一方で、
イエス様の警告に聴き従う者は祝福を豊かにいただく、
という約束を与えておられます。
その人は天国に入って命の木から取って食べることができるようになります。
そして、その木から食べる者は決して死ぬことがありません(「創世記」3章22節)。
 

2011年10月12日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 2章1~7節 エフェソの教会への手紙(その1) 

  
ヨハネの黙示録2章
 
エフェソの教会への手紙 2章1~7節(その1)

 
七つの教会への手紙は「教会の天使たち」、すなわち、
教会の牧者たちに宛てられています(1章20節の説明を参照してください)。
これらの手紙のメッセージは各個教会また教会全体に向けられていることが、
手紙の内容からわかります。
  
エフェソは小アジアの最重要都市でした。
エフェソは地理的にみて要所に位置し、長い歴史を有し、
ローマ帝国の非常に重要な中心地のひとつでした。
エフェソの教会の始まりについては「使徒の働き」の19章に記述があります。
教会の設立者はパウロでした。
古い教会の伝承によれば、
使徒ヨハネ、テモテ、イエス様の母マリアがエフェソの教会に影響を与えました。
 
諸教会に送られた手紙には、まずはじめに手紙の真の差出人が紹介されています。
すでに前章の終わりでイエス様について語られていることがら
(1章9~20節の説明を参照してください)が、今ここでくりかえされます。
次に、教会の状態が描写されます。
そこでは、まずそのよい点について、
それからその問題点について触れられています。
エフェソの教会はイエス様からとてもほめられています。
それは迫害に屈せずに活きている教会でした。
特に教会が偽教師たちに活動の余地を与えなかったことを、
イエス様は教会に感謝しています。
偽教師たちはその正体を暴かれ、教会の外に追放されました。
偽教師に関しては、「ニコライ教徒」、すなわち、
ニコラオスの支持者が例として挙げられています。
彼らが誰であり、何を教えていたか、私たちは知りません。
わかるのは、
正しい教えと神様の御心にかなう生活をしっかりと守り抜くことを
イエス様は本当に大切にされていた、ということです。
そしてこのことは、他の諸教会に送られた手紙からもうかがえます。
  

2011年10月10日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第1回目の終わりのメッセージ

  
終わりのメッセージ
 
 
光の治療を受けた人々
    
4世紀に書かれたある書物には、
「クリスチャンはキリストの光の照射を受けた存在である」、
という記述があります。
このfosforatus(ラテン語で「光の照射を受けること」という意味です)
という表現は私たちにいろいろなことを考えさせます。
「それはちがう」と否定したくなる一方で、
「本当かな」という好奇心も起こります。
私たちが「光の照射を受けている存在」だというのでしょうか。
 
「光の照射を受けたクリスチャン」という言葉の意味しているものは、
私たちクリスチャンの信仰に合致しています。
世は暗闇であり、キリストは世の光です。
これはキリストだけではなく、キリストに属する人々にも当てはまります。
次の御言葉の通りです、
「あなたがたは世の光です」(「マタイによる福音書」5章14節)。
また、主はこうも言われています、
「あなたがたの光が人々の前で輝くように。
それは、彼らがあなたがたのよい行いを見て、
天におられるあなたがたの御父様を賛美するようになるためです」
(「マタイによる福音書」5章16節)。
「光に照射された人々」が一緒にいるおかげで、
人はなんとか生きていくことができる、
と言われているかのようです。
この人々は、共におられるキリストの光によって隅々まで照射されています。
彼らには反射鏡などはありません。
彼ら自身が主の反射鏡なのです。
彼らにはクリスマスの歌(フィンランドのルーテル教会の讃美歌381番)で
よく歌われる「救い、光の照射」があるとも言えます。
  
彼らはあまりにも無力なので、
キリストの光の治療を受けなければなりませんでした。
そして治療を受けた後では、
もはや彼らをこの世の中にそっと隠しておくことはできません。
 
彼らは今も実際に存在しています。
そして、神様を賛美しています!
彼ら光の照射を受けた人々は私たちの近くにも遠くにもいます。
今までもいたし、これからもいます。
 
というわけですから、光の子供たちよ、
自分があたかも昼間の中にいるかのように
旅を続けて行こうではありませんか。
明日という未来からは
天地創造の栄光の輝きが差し込んできています。
新しい創造をつかさどる主は、
疑いにとらわれやすい私たちに
勇気と忍耐を与えてくださいます。
  
レイノ ハッシネン (「明日から射してくる栄光」)
  

2011年10月7日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第1回目の質問(1章)

第1回目の集まりのために

「ヨハネの黙示録」1章

 

ヨハネは小アジアの七つの教会に挨拶を送り、
パトモス島で彼に何が起きたか、語ります。
彼は復活された主を目にし、
主から神様に属する人々に宛てられたメッセージを受け取りました。
この内容を伝える前に、まず彼は
イエス様がどのようなお姿として見えたか、説明します。
この描写はイエス様の偉大さを物語っており、
神様に属する人々を勇気づけるものでした。


質問

1)一般的に「ヨハネの黙示録」について話し合ってください。
この書物に対してあなたがたはどのような考えやイメージをもっていますか。
この書物についてどのような教えを受けたことがありますか。
「ヨハネの黙示録」が読まれ教えられる機会は、
多すぎるでしょうか、それとも少なすぎるでしょうか。

2)パトモス島を地図で探してください。
ヨハネはどうしてそこに行くことになったのでしょうか。

3)ヨハネは「ヨハネの黙示録」を受け入れた人のことを
「さいわいである」と言っています(3節)。
それは具体的にはどういう意味でしょうか。
「ヨハネの黙示録」を受け入れる場合には、それをどのように扱うべきでしょうか。

4)神様は全能である、というのはどういう意味でしょうか(8節)。
このことを信じるのは簡単でしょうか。

5)イエス様は御自分に属する者たちの間を歩まれます
(12~13節の説明を参照してください)。
それはどういう意味でしょうか。
それを感じることができますか。
それは私たちを慰めてくれますか。
なぜイエス様はここでそのように振舞われるのでしょうか。

6)ヨハネが目にしたイエス様はどのようなお姿でしたか。
それはイエス様について何を物語っていますか。
「イザヤ書」6章を読んでください。
この章と「ヨハネの黙示録」1章との間にはどのような共通点がありますか。

7)イエス様は教会の牧者たちを御手によって運んでおられます
(20節の説明を参照してください)。
なぜこうなさるのでしょうか。
牧者たちとは誰ですか。
教会の牧師が教会員を正しく導いていくために、あなたには何ができるでしょうか。

2011年10月5日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 1章9~20節 復活の主の顕現(その4)

 
復活の主の顕現 1章9~20節(その4)
   
1章の最後の節で、イエス様は
その御手の中にある七つの星の奥義をあきらかにしています。
星は七つの教会の天使をあらわしています。
天使は本来の意味での天使ではないでしょう。
旧約聖書が言及する「天使」という言葉(ヘブライ語で「使者」という意味)には、
神様の預言者(「ハガイ書」1章13節)とか、
神様の祭司(「マラキ書」2章7節)という意味があります。
 
今の場合もおそらくこの意味で「天使」という言葉が用いられているのでしょう。
つまり、天使は教会の牧者なのです。
次章から始まる教会書簡が「教会の天使」宛てになっていることも、
この見方の正しさを裏付けています。
それらのメッセージは諸教会の牧者たちに向けて書き送られているわけです。
 
イエス様は教会の牧者に対して特別の配慮をしてくださいます。
七つの星がイエス様の御手の中にある、
ということはそういう意味なのでしょう。
教会の牧者は、自分たちの功績によって
神様に属する人々の群れの中で特別な地位を獲得したわけではありません。
彼らに対して特別な配慮が払われるのは、
彼らにはきわめて大切な任務がゆだねられているからなのです。
彼らはキリストに属する人々の一群を天へと導いていく立場にあります。
もしも牧者が道を間違えれば、群れも迷ってしまいます。
教会の牧者もまた弱い人間です。
それで、彼らはイエス様の特別な世話を受ける必要があるのです。
群れが牧者に導かれて輝く天国の中へとたどり着くことができるように、
イエス様は牧者を御手の中に包んで、
できうるかぎりのことをしてくださいます。

2011年10月3日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 1章9~20節 復活の主の顕現(その3)

 
復活の主の顕現 1章9~20節(その3)
   
神様に属する者も罪人であることには変わりがありません。
それゆえ、ヨハネはキリストの輝きを前にして地に倒れ、
死んだような状態になります。
神様の聖さを前にして罪人にできることは他にはありません。
イエス様は、福音書の多くの出来事のときと同じように、
「恐れるな」、と話しかけられます。
イエス様は、真理と恵みと聖さと愛とに満ちています。
 
17節でイエス様は神様の本質に関するこれまでの言及を
御自分のことにもあてはめます。
御父と同様に、御子もまた
「初めと終わり」、すべての始まりとすべての終わりです。
「ヨハネの黙示録」は他の箇所でも神様の三位一体性について教えています。
イエス様は父なる神様と同じ本性をおもちなのです。
 
18節でイエス様は、御自分の偉大さと悪魔の矮小さについて語られます。
悪魔は実に取るに足りない存在であり、
自分の帝国に入る鍵さえ持っていません。
イエス様がその鍵を悪魔から取り上げたからです。
イエス様には人間を苦痛の絶えない地獄へと裁く権能があり、
また地獄に陥らないように人を救い出す権能もあります。
人と神様の間の裁き主は、
悪魔ではなく、イエス様なのです。