2024年1月25日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」1章12〜17節 罪人たちのうちでも最大の罪人が恵みをいただいた

 罪人たちのうちでも最大の罪人が恵みをいただいた

「テモテへの第一の手紙」1章12〜17節

 

「わたしは、自分を強くして下さった

わたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。

主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章12節、口語訳)

 

ようやくこの箇所からパウロの感謝と祈りが始まります。

上節でパウロは神様が彼を使徒として召してくださったと述べています。

パウロ自身は別の生き方をしようとしていましたが、

神様はダマスコへ向かう途上の彼を

御自身の福音伝道のために召命なさったのです

(「使徒言行録」9章1〜6節)。

 

上掲の節にもあるように

パウロは神様から使命だけではなく

それを実行するための力もいただきました

(「フィリピの信徒への手紙」4章13節)。


福音伝道の仕事は常に神様の助けと力によってなされます。

人間の力によっては何の成果ももたらさないからです。

 

「わたしは以前には、

神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。

しかしわたしは、これらの事を、

信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、

あわれみをこうむったのである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章13節、口語訳)

 

かつてパウロはキリスト教会を滅ぼそうと試みました

(「使徒言行録」9章1節、22章4〜5節、26章9〜12節、

「ガラテアの信徒への手紙」1章13節)。


その時のパウロは

自分がいったい何をしているのかわかっていませんでした。

彼はキリスト信仰者たちを迫害することで

神様に仕えているつもりになっていましたが、

その実、神様に対して無謀な戦いをしかけていたのです。


十字架上でイエス様は

御自分を十字架につけた者たちのために祈られました。

彼らは自分が何をしているのかわからずにいたからです

(「ルカによる福音書」23章34節)。


人間は自分の知恵に頼り続けるかぎり

活ける神様を正しく知るようになるどころか、

むしろ神様に戦いを挑むことになります

(「使徒言行録」3章17節、17章30節も参照してください)。


神様の御意思にわざと反抗することは、

すでに旧約聖書でも、

無知のゆえに犯した罪よりも厳しい裁きを受けています

(「民数記」15章22〜31節)。


神様の御意思を故意に破ることは神様を侮蔑することです

(「使徒言行録」9章4節も参照してください)。

 

「その上、わたしたちの主の恵みが、

キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。」

(「テモテへの第一の手紙」1章14節、口語訳)

 

神様の恵みは人間の罪深さよりも常に大きいものです。

次の御言葉にあるように、恵みは常に罪を上回るからです。

 

「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。

しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、

わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。」

(「ローマの信徒への手紙」5章20〜21節)。

 

「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」

という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。

わたしは、その罪人のかしらなのである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章15節、口語訳)

 

「この言葉は確実である」(ギリシア語で「ピストス・ホ・ロゴス」)は

牧会書簡に典型的な言い回しであり、

全部で5回登場します

(「テモテへの第一の手紙」3章1節、4章9節、

「テモテへの第二の手紙」2章11節、「テトスへの手紙」3章8節)。


「テモテへの第一の手紙」4章9節では上記の1章15節の

「そのまま受けいれるに足るものである」というところまで同一です。

 

パウロは自分のことを「罪人のかしら」すなわち最大の罪人である

と言っていることは注目に値します。

彼は自分が「罪人のかしらであった」とは言わずに

罪人のかしらなのである」と言っています。

すなわち彼はこの手紙が執筆された時点でも

自分が依然として罪人のかしらであると告白したいのです。


私たちはこれをたんなる修辞的な表現とみなすべきなのでしょうか

(「コリントの信徒への第一の手紙」15章9節や

「エフェソの信徒への手紙」3章8節も参照してください)。


パウロは他の人々の罪の量の大小を

どのようにして知ることができるのでしょうか。


基本的に人間は自分の罪深さを他の人々と比較することができないし、

またそうすべきでもありません。

むしろ自分の罪深さは

神様の律法や御意思と比較することによって推し測るべきものです。

そうするとわかるように、

神様の御前で人は各々が最大の罪人なのです。


ここで、パウロが最大の罪人になったのは

キリストに従うようになってからであり、

悔い改める前の彼は自分が義人であり良い人間であると感じていた

という点に注目しましょう。

 

「しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、

キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、

そして、わたしが今後、

彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章16節、口語訳)

 

パウロの言葉には手紙の読者に慰めを与えるという意味もあります。

もしも神様が最大の罪人を憐れんでくださったのなら、

神様はもっと小さな罪人たちのことも(すなわち誰であろうと)

憐れんでくださることになるからです。


キリストは罪人たちの救い主です

(「マタイによる福音書」9章13節、「マルコによる福音書」2章17節、

「ヨハネの第一の手紙」3章5節)。


イエス様は次のように宣言しておられます。

 

「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、

罪人を招いて悔い改めさせるためである」。」

(「ルカによる福音書」5章32節、口語訳)

 

不信仰こそがすべての罪の根源であり、

人間を偽りの宗教性に陥れ、

神様の与えてくださった約束への不信を焚き付けます

(「ヨハネによる福音書」16章8〜9節、

「フィリピの信徒への手紙」3章2〜6節)。

 

「世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、

世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。」

(「テモテへの第一の手紙」1章17節、口語訳)

 

この節の讃美には当時の礼拝での祈りが引用されていると思われます

(6章15〜16節も参照してください)。

 

神様は私たちの目には見えません。

このことは、神様を模す様々な像を作ることが不可能であり、

実は神像の製作者たちが神様ならぬ偶像を崇拝していることについて

注意を喚起します(「イザヤ書」44章9〜20節)。


上掲の節は活ける真の神様は唯一の存在であることを教えているのです。

 

神様が可視的な存在ではないということは、

人間には神様そのものを見ることが決してできないという意味でもあります

(「出エジプト記」33章20節、「ヨハネによる福音書」1章18節、

「ヨハネの第一の手紙」4章12節)。