2010年12月13日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」5章1~5節(その2) 

   
コリントの教会の姦淫の問題 5章1~5節(その2)
   
パウロの「処方箋」は厳しいものでした。
今、彼はコリントの信徒たちと話し合ったりはしません。
彼らを問いただしたりもしません。
彼は裁きを下しています。
残された仕事は、それを厳粛に宣言することだけでした。
  
パウロが教会を訪れたとき、教会の総会が開かれます。
そこで主の教会は「公に罪の生活を送っている者」を教会から排除する式を行います。
  
「その男は悪魔に引渡し、彼の肉体が滅びるようにしなければなりません。
そうするのは、彼の霊が主の日に救い出されるためなのです」
(「コリントの信徒への第一の手紙」5章5節)。
  
この御言葉もまた謎めいています。
その人は、教会の外部に追い出され、もはや教会の権利や宝にあずかることができなくなります。
その人はクリスチャンではなくなり、誰もその人のことをクリスチャンとみなすこともなくなります。
当時の教会にはこの世の裁判においても有効であるような公式の判決を下す権利がまったくありませんでした。
それゆえ、モーセの律法による懲罰である「石打の死刑」や、パウロの時代のユダヤ人たちが好んで用いた「鞭打ちの刑」は執行不可能だったのです。
   
ここでは特にある点に注目する必要があります。
パウロは「躓いた教会員たち」の最善を考慮しているだけではないのだ、ということです。
彼は教会員たちのレヴェルを引き上げることを目指しているのではありません。
この罪を犯した人間の霊が「最後の日」に救われることを目的として、すべては執り行われているのです。
研究者たちは5節の正確な意味をつかみあぐねています。
まさかパウロは、教会から除名される人間の上に肉体的な衰弱、たとえば病気を招来しようとしているのではないでしょう。
また、この節で霊と肉体との非常に深い区別を提示しているのでもないでしょう。
「罪人の肉」、「古いアダム」はクリスチャンの中で死んで、キリストの御霊に場所を譲らなければなりません。
それゆえ、クリスチャンが自分自身を律して神様を探し求めるようになるために、厳しい手段を取るのもやむをえないことなのです。
   
現代に生きる教養人である我々クリスチャンにとって、パウロのやり方にはついていけないところがあります。
パウロなら今の私たちの教会の中に倫理的な罪過を多く見出だすだろう、ということは誰にも否定できない事実でしょう。
教会の中にさえ、同棲している人々がたくさんいます。
離婚や婚外性交もあっという間に一般化してしまいました。
もしも私たちの教会の中の誰かが、わずかばかりであれパウロと同じようなやり方で行動しはじめるならば、雑誌などのメディアや世間の意見は一斉に大喜びしてこの事件に飛びついてこう言うことでしょう、
「こんなに愛に欠けた残酷な牧師が教会にいてよいものか。
人は自分の頭で考えて好きなように行動するのは当然だ。
彼らは自分の人生について神の前で責任をとらなければならないのだから、教会の職員である牧師が他人の生き方に関してあれこれ口出しする筋合いなどはないのだ」。
私たち自身もこのような考えに慣れてしまっています。
しかし、このような話を聞いても、パウロならまったく理解を示さなかったことでしょう。人々が知らず知らずに地獄に向かって転げ落ちていくのを見過ごすのも、「愛」ということになるのでしょうか。
  
数年前に交通安全の責任者が踏切事故についての懸念を表明したことがありました。
テレビではこのテーマにスポットをあてたキャンペーンが展開されました。
そこでは、車が列車の下敷きになる際の様子をさまざまな車で試していました。
得られた結論によれば、列車との衝突を避けるためには、列車が来るときにレールの上にいてはいけない、ということです。
神様の怒りと裁きはこの列車のようなものです。
それを避ける唯一の方法は、キリストの十字架のみわざの守りの中に生き、神様の警告の御声に聴き従うことです。
  

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