2010年11月30日火曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第4回目の質問

「コリントの信徒への第一の手紙」 第4回目の質問

パウロはコリントの教会の争いの調停を続けています。
今彼は、自分自身の立場について説明し始めました。
パウロは主の使徒であると同時にコリントの教会の設立者でもあるので、コリントの信徒たちは彼の特別な地位を認めなければならない、ということです。

1)現代のクリスチャンは他の人々をあまりにも性急に裁いてしまう傾向がありますか。
また、「裁く」とはどういう意味でしょうか。

2)「書かれていることを超えない」(4章6節)とはどういう意味でしょうか。
どのようにすれば、私たちはこの指示にしたがうことができるでしょうか。

3)いわゆる「成功のための神学」(Theology for Success) は、極端な場合には、「クリスチャンである人は病気にも貧乏にもならない」、と教えています。
そして、「もしも神様がクリスチャンを富や健康によって祝福しないならば、その人の信仰生活には何か問題がある」、というように言われます。
こうした考え方にはどのような根拠を提示できるか、まず皆で一緒に考えてみてください。
それから、そうした「根拠」を8~13節と照らし合わせて、評価してみてください。

4)あなたは、「何の困難もなくキリストもいらない「自立した生活」を送りたい」、という誘惑に駆られたことがありますか。

5)パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」で、自分の権威のために戦っているのでしょうか、それとも自分の立場のために戦っているのでしょうか。

6)誰のキリスト教教育についてあなたは責任を負っていますか。
あなたはパウロのように、そのことに自分の全存在を賭ける用意ができていますか。

2010年11月26日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」4章14~21節(その2) 

  
コリントの教会の使徒、パウロ 4章14~21節(その2)
  
「コリントの信徒への第一の手紙」4章は、パウロがコリントの信徒たちの間に秩序を回復させようとするやり方についての興味深いドキュメントであるだけではありません。
主の使徒は私たち信徒の間にも秩序を取り戻させようとしているのです。
つまりこれは、私たちにとって非常に身近な意味をもっています。
主の使徒に対して声を張り上げて反対するのは、なにもコリントの信徒たちにだけ当てはまる罪ではありません。
他の土地でも、何時でも、パウロや他の使徒たちの言葉を真面目に受け取らなかった人々がいたものです。
現代に生きる私たちの間にも、「パウロは時として過ちを犯すふつうの人間にすぎず、彼の意見には一人の人間が理解した分の価値しかないのだ」、と考えている人たちがいます。
もちろんパウロは罪人でしたし、不完全な人間でもありました。
にもかかわらず、彼や他の主の使徒たちは自分たちの名前によってメッセージを伝えたわけではありません。
パウロはテサロニケの信徒たちに対して次のように書いています、
「これらのことのゆえに私たちが神様に絶えず感謝しているのは、あなたがたは、私たちから神様の御言葉を聴いたときに、それを人間たちの言葉としてではなく、真実通りに、神様の御言葉として受け入れてくれた、ということです。
そして、この神様の御言葉は、信じているあなたがたのうちで働きかけているのです」
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章13節)。
神様は私たちに人間を通して語りかけてくださいました。
まさにこのようにして、神様は私たちに御自分の御言葉を与えてくださったのです。
不完全な人間の言葉は、彼らを遣わした方の言葉、神様御自身の御言葉です。
それゆえ、たとえばイエス様の言葉とパウロの言葉とを互いに対置させるのは間違っています。
両方共、私たちに語られた神様の御言葉なのですから。
主御自身がそれを保証されておりますし、先ほど引用した箇所からもわかるように、主は御言葉が私たちの中で働きかけるようになさっています。
ここで私たちは人間の意見にではなく、聖書の御言葉にしたがっているのです。
「ルーテル教会信条集」は聖書の御言葉について次のように述べています、
「私たちは、次のことを信じ、教え、告白します。
すべての教えと教師とを調べて評価する際に唯一の原則と規範となるのは、預言的かつ使徒的な旧新約聖書のみである、ということです。
「あなたの御言葉は私の足のともしび、私の道の光です」(「詩篇」119篇105節)
と書いてある通りです。
また、
「たとえ私たちであれ、天からの御使いであれ、私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えるなら、その人は呪われるように」
(「ガラテアの信徒への手紙」1章8節)
とパウロが言っている通りです。」
   
多くの人の考えによれば、聖書に対する上述のような信条告白は、自分を縛り上げて奴隷にするようなものです。
しかし、ここではまったく違う見方をするべきなのです。
私たちは罪人です。
そして、自分自身に頼って行動するかぎり、地獄への旅を続けているのです。
ところが今、神様の御言葉は、キリストの血のゆえに罪の赦しと天国とを私たちに約束しています。
決して裏切らない神様の御言葉が私たちに「本当にそうなる」と保証してくれないならば、いったい誰がこのようなことを信じる勇気をもてるというのでしょうか。
神様は約束なさったことを取り消したりはなさいません。
それゆえ、弱く不完全な信仰者は、神様のみわざと御言葉に「避けどころ」を求めることができるのです。
  

「コリントの信徒への第一の手紙」4章14~21節(その1) 

    
コリントの教会の使徒、パウロ 4章14~21節(その1)
  
神様が御自分の宣教者たちを低くされ苦境に立たせるやり方を説明した後で、パウロは再びコリントの信徒たちの方へと向きを変えます。
コリントの信徒たちは主の使徒(この場合にはパウロ)を軽んじる権利が彼らにはあるかのように思い込んでいました。
多くの者はコリントの教会におけるパウロの権威を認めていませんでした。
コリントの教会では他の多くの教師や使徒が影響を及ぼしていたのは言うまでもありません。
   
ここでパウロは彼の主張にはどのような根拠があるかを明かします。
たとえコリントの信徒たちにキリストにある一万人の養育者がいたとしても、彼らにはキリストにあってただおひとりの御父がいます。
パウロは教会の設立者でした。
彼がコリントに福音を伝えたのです。
このことに基づけば、彼は少なくともコリントの信徒たちに対しては使徒でした。
パウロにとって、自分が他の使徒たちと同列の使徒の一人として認められるだけでは、十分ではありませんでした。
コリントの信徒たちにとって彼は、教会全体の責任を負う「第一の使徒」でした。
この責任を彼は他の者に譲り渡すつもりはありません。
それゆえ彼は、自分に与えられている責任と権威を堅く守り抜きます。
教会の側はこのことを認めるべきなのです。
しかし、皆が喜んでそれを認めないのは明らかで、中にはいやいやながらそれを認める者もでてきます。
コリントの教会を訪れるときに、パウロは教会内部を徹底的に調査する予定でした。
パウロと教会員たちとの出会いがうれしい再会となるか、それとも厳しい懲罰の時となるかは、教会員たち自身にかかっています。
   
手紙でパウロがどのようにコリントの信徒たちに接しているかを見るのはためになります。
彼の最大の懸案は、教会から自分の権威を否定された彼がそこで牧会するのは不可能になってしまっている、ということでした。
このことをはじめの章で口にするほど、パウロは愚かではありません。
まず彼は、キリストの福音について、また説教者の使命と責任について、事細かに説明します。
この後で彼は、使徒の苦境を目にしているコリントの信徒たちに訴えかけ、自分の側に喜んで立つ人々を皆、自分の方へと引き寄せます。
彼の側に立つのを喜ばない者に対しては、彼は、それ自体は好ましくないやり方や、厳しい言葉遣いによって、自分の方へ引き寄せようとしています。
このようにパウロは、非常に優れた魂のカウンセラーであり、また手紙の書き手でもありました。
彼は心の激昂を長い間我慢します。
それから、抑制しつつも、心中にあることを激しく表現しています。
使徒は、教会を異端教師たちの餌食にされたままではおかない、と堅く決意したのです。
それゆえ、彼は戦います。
自身の栄誉のためではなく、神様が彼に与えられた使命のゆえに。
  

2010年11月23日火曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」4章8~13節 

王と道化師 4章8~13節

パウロはコリントの信徒たちを痛烈な皮肉をもって次のように批判しています、
「コリントの信徒たちは「神様に所属する強大な民」という妬ましいような高みにのし上がっています。彼らは王や裁判官のようなお偉方になってしまいました。キリストの十字架によって、彼らは世間から愚か者とはみなされなかったし、敬われる彼らの立場を誰も怪しんだりはしません」。
ところが、使徒たちはまったく違う待遇を受けました。
手紙の最初の挨拶の後、今ようやくはじめて、パウロはこのメッセージを自分自身に当てはめました、
「神様は御自分の使徒たちを多くの苦しみを受ける最悪の立場へと低められました。彼らは家もなく窮乏の中でどうにか暮らしてきました。彼らは馬鹿にされ迫害され悪く言われます。神様は使徒たちを皆からつばきを受ける「世のゴミ溜め」になさいました。一方、コリントの信徒たちは、あらゆる点でうまくことが運んでおり、彼らは権威を誇る大人物になっています」。
パウロの皮肉は切れば血が出るほど鋭く、また文章としても最上のレヴェルのものです。
しかし、彼はたんに揶揄で終わらせようとはしていません。
「コリントの信徒たちの恵みの賜物は、それ自体としてはすばらしいものだ」、とパウロは考えています。
問題なのは、彼らがそれについて栄光を神様に帰さなかった、という点でした。
使徒パウロはすでにここで、とりわけ「コリントの信徒への第二の手紙」の最も中心的なテーマ、私たちルター派にとって決して捨てることができない大切なことを扱っています。
すなわち、神様の力はこの世では人間的な能力とか輝きとして目に見えるようには現れない、ということです。
この世の時には、神様は御自分の力を弱さの中に隠されます。
神様はなかんずくキリストの人生において、このようになさいました。
キリストは光り輝く宮廷の中にではなく、貧しく片隅に追いやられた者として、お生まれになりました。
キリストの贖いのみわざは栄光の道ではなく、キリストは御自分を常に可能なかぎり低められました。
そしてそれは十字架上の恥辱に至るまで続きました。
教会が設立される時が来て、神様はこの世の超一流の哲学者たちではなく、学のない漁師たちを教会形成のために選ばれました。
パウロは神様の御心を実現するために働くことを許されましたが、すでにその召命の時に、「これから多くの苦しみを味わうことになる」、と神様から言い渡されています(「使徒の働き」9章16節)。
そして、終わりまでその通りになりました。
「十字架の神学」の核心は、
「神様はこの世では栄光を隠され、神様の力はそれとは全く逆の「弱さ」の中に現れる」、
ということです。
それに対して「栄光の神学」は、神様の目に見える力、強いクリスチャン、大説教者などを偏愛します。
しかし、パウロにとってそれはまったく疎遠な教えでした。

「コリントの信徒への第一の手紙」4章6~7節 

アポロとパウロの例 4章6~7節

「私はあなたがたのためにこのことを自分とアポロにあてはめてきました。
それはあなたがたが私たちのことから教訓を得るためでした」(6節)。
パウロの考えは明瞭です。
前の箇所でパウロは、コリントの信徒たちに御言葉の説教者の使命を具体的に説明するために、自分とアポロを例として引き合いに出しました。
パウロもアポロも神様の僕であり、おひとり神様から裁きを受ける立場にあります。
問題になったのは、コリントの信徒たちがあまりにも性急に、自身の言葉に重きを置く「裁判官」として振舞いはじめた、ということです。
「コリントの信徒たちはいったいどこからこのような権威を得たのか」、とパウロは厳しく問いただします。
実のところ彼らは、裁判官の役を演じる権利がないにもかかわらず、その職務を遂行しようとしていたのです。
彼らが得たものは何であれ、すべて神様からの賜物としていただいたものでした。
しかしコリントの信徒たちには、それを理由にして他人よりも上に自身の立場を持ち上げる権利はなかったのです。

2010年11月19日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」4章1~5節 

  
唯一の裁き主なる神様 4章1~5節

ここでパウロは自分の立場について話します。
パウロはコリントの教会の創始者でした。
彼がコリントを離れた後に、他の教師たちが教会を訪れ、力強い宣教によって教会員の心をつかみました。
パウロはコリントの信徒たちに、「このようなことはまったくかまわない」、と伝えます。
問題になったのは、パウロの使徒としての権威を無視しようとする動きが生まれてきたという状況の変化でした。
教会にはパウロの言うことにもはや耳を傾けようとはしないグループができていました。
彼らは、パウロがエルサレムの原始教会の偉大な使徒たちに肩を並べるような使徒である、とは認めませんでした。
しかし、パウロは自分の立場を守りぬきます。
これは自分を無意味に誇示する行為ではありません。
それは、神様がパウロに与えてくださった使命に忠実であろうとする態度でした。
神様御自身がパウロを異邦人の使徒として召してくださったのです。
それゆえ、使徒の言葉に従うべきかどうかということは、コリントの信徒たちが勝手に決めてよいことではないのです。
パウロは「キリストの命を受けた者」、「神様の選ばれた管理者」であり、まさにそこに、コリントの教会におけるパウロの立場は基づいています。
他の人からどう評価されるかということは、パウロにとってはどうでもよいことでした。
パウロは、与えられた使命をどのように遂行したかについて、他ならぬ神様の御前で裁きを受ける覚悟を決めています。
今パウロは、コリントの信徒たちが「本来神様に属すること」を「自分たちに属すること」であるかのように考えて、神様の「奥義の管理者」を裁き始めたりしないように、警告を発します。
いつか必ず神様が、御自分の僕たちも含めて、皆を裁かれる日がやってきます。
この日をパウロは、へりくだった心で、神様の裁きの下に自分をゆだねて、待ち望んでいます。
それに対してパウロは、コリントの信徒が裁きの権能を「自分や他の人々のもの」とみなしている態度を不適切であるとして完全に否定しています。
  

「コリントの信徒への第一の手紙」4章 パウロの職務

パウロの職務

「コリントの信徒への第一の手紙」4章

 
はじめの章でパウロは、コリントの教会の問題を取り上げました。
その問題とは、教会が幾人かの教師を中心とするグループに内部分裂していた、ということです。
この後でパウロは、あることを念頭に置きつつそれについては明かさないまま、福音が人間の教えではなく神様の教えであることを語り始めます。
福音は、神様の知恵であり、理性にとっては愚かしいことであるため、人間的な諍いとは何のかかわりもないのです。
この後でパウロは3章で、「御言葉の説教者は皆、神様の御前で自分の使命と責任があり、教会が彼らに関して争い合うべきではない」、ということを強調しました。
あちこち寄り道した末、ようやく今パウロは、教会内に騒乱を巻き起こした争いの解決に乗り出します。
その争いはパウロ自身にとっても大きな問題でした。
すなわち、コリントの信徒たちの全員が、パウロの使徒としての権威を認めているわけではなかったのです。
このことについてパウロは1章ではまったく触れませんでした。
やっと今になって、長い教理的な説明をした後で、彼はこの問題に着手しました。

「コリントの信徒への第一の手紙」第3回目の終わりのメッセージ

   
終わりのメッセージ
  
ある知り合いの家族が湖畔のサウナ付の小屋を買いました。
はじめはすべてが順調に見えました。
よい小屋で、美しい湖畔でした。
しかし、ほどなくして小屋の基盤が崩れてきました。
床は傾斜し、ドアは開けることができなくなりました。
高くつく嫌な修理が、早々にも必要になりました。
小屋を買った家族にとって、それは予想外の残念な出来事でした。
これは人生についても当てはまるイメージだと思います。
現代では「変化」が話題になることがしばしばあります。
  
社会が変わる、学校が変わる、人間が変わる。
変化について行かなければならない。
前に受けた教育を補充するか、あるいは新たな教育を受け直さなければならない。
物事も知識もどんどん古びていく。
時代の趨勢に取り残された者は負け組になる。
   
これはもちろん本当のことです。
しかし、変化を煽り立てる風潮にはどこか大げさなところがあります。
まるで変化することが自己目的にでもなっているかのようです。
こうした風潮は必要以上に変化を喧伝しすぎてはいないか、批判的に検討するべきでしょう。

とりわけ疑わしくまた苦々しく思われるのは、変わることがなく留まりつづけるはずのことさえも「古びた」とみなされる場合です。
「結婚や家庭というものさえもゴミ箱に投げ捨ててしまおう」、という風潮に対して、注意警報のベルが鳴り出しています。
その時にはすでに床は傾き、ドアはガタガタになり、基盤が揺るがされています。
全部が全部変化しなければならないものでしょうか。
他の全部が変化していく中で、変化しないまま留まりつづけるものは何もないのでしょうか。
まったくすべてが流れ去ってしまうわけではありません。
崩れない基底が存在します。
「神様の御言葉」は決して変わりません。
その上に人生という家を建てることができるし、「いつかまた新しい基盤を探さなければならない」、などと考える必要もありません。
「救い主の贖いのみわざ」は変わることなく立ちつづけています。
罪人に対して、揺るぐことのない恵みがあります。
それに基づくとき、信仰も変わらずに立ちつづけます。
基盤なしの信仰は何の価値もありません。
人生という建物を、その隅が沈下したりしないように、変わることなく留まりつづける基盤の上に建てていくことができるのです。
  
(ラウリ・コスケンニエミ 「私と今日共にいてください」)
  

2010年11月15日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第3回目の質問

「コリントの信徒への第一の手紙」第3回目の質問

パウロはコリントの教会の諍いの調停を続けます。
そして、それぞれ別の説教者を中心としてさまざまなグループに分かれている教会の状態を指摘します。
神様はすべての「御言葉の説教者」を教会のために与えてくださいました。
そして教会は神様のみに属しています。
それゆえ、働き人は皆それぞれ神様の御前で責任を負っています。
コリントの信徒たちは(特定の)人間を誇るのではなくて、神様を誇りとするべきなのです。

1)「ミルクを飲ませる」と言うとき、パウロはどのような教えを意味しているのでしょうか。
本文の説明を参照してください。

2)あなたの教会は信仰のことについて基本的なことをわかりやすく教えていると、あなたは思いますか。

3)あなたは、どのような集まりに、まだ信じてはいない友人を喜んで連れて行きたいと思いますか。

4)体験豊かなクリスチャンが「ミルク療法」の必要に迫られることがあるでしょうか。

5)本当の意味で「ミルク」をたくさん消費していたのはマルティン・ルター博士です。
彼は毎日「教理問答書」を復習していました。
彼は十戒とその説明、主の祈りとサクラメント(洗礼と聖餐)とを研究し続けました。
私たちはこうした彼の態度からどのようなことを学べるでしょうか。
あなたが一番最近「教理問答書」を読んだのはいつですか。

6)14~15節は煉獄について語っているのでしょうか。
煉獄というのは、カトリック教会の教えによれば、人が死んだ後に天国に入る前に自分を清めるために行かなければならない場所のことです。
本文の説明を参照してください。

7)今回取り上げた「コリントの信徒への第一の手紙」3章は、「牧者たち」に、つまり私たちの牧師たちにどのような責任を与えていますか。
あなたは自分の教会の牧師を支えるために、どのようなことをしましたか、またこれから何ができるでしょうか。

2010年11月12日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」3章18~23節 

  
3章18~23節
  
この箇所でパウロは、それまで述べてきたことをまとめる方向へと少しずつ進み始めます。
このまとめを彼は最終的には4章で行います。
コリントの教会の信徒間の派閥争いがまったく不要で愚かなことであることを、パウロは強調しています。
こうした諍いの背景にあるのは、自分を他の人よりも賢いとみなして尊大に振舞いたいという人間の欲望です。
パウロは2章で扱ったテーマに戻ります。
福音は人間的な知恵に基づく教えではありません。
自分を賢いと思う者は愚かになりなさい。
そして、キリストにあって知恵を自分のものとしなさい。
人間のせいで神様の教会の中で争いごとを生むべきではありません。
パウロ、アポロ、ケファ(ペテロのこと)は皆、神様が御自分の「畑」の世話をするために与えてくださった働き人なのです。
すべてはコリントの信徒たちの最善を考えてなされています。
それはちょうど、神様がコリントの信徒たちに用いきれないほど豊かな賜物を分け与えてくださっているのと同じです。
神様に甘やかされているからといって、誰も「教会は自分のものだ」などと思い込む誘惑に陥ってはなりません。
教会は「キリストのもの」であり、コリントの信徒たちはキリストの御名によって洗礼を受けたのです。
さらに教会はキリストを通して「神様のもの」なのです。
それゆえ、教会員は主のみに栄光を帰さなければなりません。
   

「コリントの信徒への第一の手紙」3章10~17節 

  
説教者の使命 3章10~17節
  
パウロはここでも比喩を用いています。
教会は「神様の建物」です。
コリントに到着した後、パウロは「建築家」になって、建物にしっかりとした土台を置きました。
そして、神様のもうひとりの働き人、つまり誰か他の説教者がパウロの置いた礎石の上に建築工事を続けました。
しかし建物自体は、「パウロのもの」でも「もう一人の建築家のもの」でもなく、「神様のもの」でした。
パウロはコリントで、「自分が置いた礎石とはちがう礎石の上に誰も教会を建てたりしないように」、と厳しく警告しています。
そのパウロの置いた礎石とは、「キリストとその十字架の死」でした。
これこそが、揺らぐことのない唯一の基底なのです。
この基底の上に、働き人は皆それぞれ、さまざまな建築材料を利用しつつ技量のかぎりを尽くして教会を築いていくことができます。
その建物がちゃんとした耐久性をもっているかどうか、最後の裁きの時に火によって試されます。
裁きの日に、ある説教者の働きが実は無価値であったことが明るみになる場合もあるかもしれません。
言い換えれば、その説教者が労苦して築き上げた建物、たとえばコリントの教会、が裁きの時に燃えて灰となり誰も救われない、などという事態にもなりかねないのです。
ただし、神様の働き人がキリストという岩の上に教会を建てた場合には、建て方がどんなに下手であったとしても、彼自身は救われます。
とはいえ彼は、あたかも火の中をくぐりぬけるようにして、何ももたずに神様の御国に入っていくことになります。
この箇所は(カトリックの教えでいう)煉獄について語っているわけではありません。
またこの箇所は平信徒一般についてではなく、牧者についてのみ語っています。
牧者とは、神様の教会について責任をゆだねられている人のことです。
しかし、こうしたちょっとびっくりするような(聖書の提供する)イメージをここで確認しておくのは、牧師だけではなく、すべてのクリスチャンにとっても有益です。
最後の日に(神様の)裁きは「神様の部屋」、すなわち教会から始まります。
その時、建物が持ちこたえるかどうか、明らかになります。
パウロの言葉に、コリントの教会の教師たちへの、うっすらとヴェールに包まれた警告を見て取るべきでしょう。

パウロはさらにもうひとつの警告の言葉を発しています。
彼がコリントに建てたのは、ありきたりの建物ではなく、そこに主の御霊がお住まいになっている「神様の神殿」でした。
「神様の神殿は聖なる不可侵の場所であり、誰もそれを滅ぼし去ることができない」、と旧約聖書は何度も強調しています(「詩篇」125、129、132篇)。
もしも今誰かがコリントの教会を訪れて、教会が正しい教えから離れるように仕向けるならば、悪い結果を生みます。
もしも誰かが神様の神殿を破壊するならば、神様はその人を滅ぼします。
この章全体からわかるのは、クリスチャン全員が有している「霊的な牧師としての資格」に加えて、それとは別に「牧師職」というものが存在するということです。
牧者(教会の牧師)は教会の責任者であり、彼が教会で行ってきたことについても責任を負っています。
  

「コリントの信徒への第一の手紙」3章5~9節 

説教者の意味 3章5~9節

コリントの教会では、教会員のうち誰がどの説教者の肩を持つか、言い争っていました。
とりわけアポロの力強い説教(「使徒の働き」18章を参照してください)は多くの信徒を魅了したようです。
しかしパウロは、「コリントの信徒たちが人物に応じてさまざまなグループに分かれてしまうようではいけません」、と言います。
使徒一同は神様のみわざに携わっている同僚であり、(福音を蒔き育てる)「畑」は「神様のもの」であり、コリントの信徒たちは「神様の建物」であることをパウロは強調します(9節)。
畑も働く人も「神様のもの」なのですから、人物に応じてさまざまな派閥に分かれるのはまったく意味がないのです。
パウロはコリントの教会を設立しました。
つまり、植えたわけです。
アポロは教会の世話をしました。
つまり芽に水を上げたのです。
しかし、すべての背後には神様がおられ、成長させてくださったのでした。
アポロもパウロも自分の仕事に応じて神様から「報酬」を得ます。
つまり、「皆がそれぞれ自分の仕事に責任をもてばよい」ということです。
御言葉を説教する者たちは皆、神様の同じみわざに携わっています。
ところが一方ではパウロは、「神様の御前で彼らは「共同責任」を問われることになる」、とは言ってはいません。

2010年11月5日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」3章1~4節 

  
諍いの示していること
   
「コリントの信徒への第一の手紙」3章
   
パウロは1章のおわりと2章で、「キリストの福音は人間の教えではなく神様の教えである」、ということを語りました。
これから扱う箇所は、他から独立した部分ではなく、コリントの教会の内部の争いに対するパウロの返答でした。
今もパウロは返答を続け、それから再びコリントの状況に立ち戻って行きます。
そこでも彼はコリントの人々の諍いを取り上げます。
それと同時にパウロは、ごくふつうの「羊たち」の口元にも干草のかごを置きます。
3章のテキストは、それ以前の箇所よりもあきらかに単純なものです。
 
 
単純な食材の選択 3章1~4節
  
コリントに到着したとき、パウロは神様の奥義をすべて一遍に明らかにして見せたりはしませんでした。
彼は自分の「子供たち」を優しく世話し、乳を飲ませる「母親」のように振舞います。
生まれたばかりの赤ん坊は何でも食べてよいわけではありません。
そんなことをすればたいへんなことになります。
それゆえパウロも、コリントの信徒たちによく気を配り、基本的なことがらを何度もおさらいし、さっさと先へ進んでもっと深くて難しい問題を取り上げたりはしません。
神様の知恵をまるごと彼らに与えるのは、以前は無理だったし(ここでパウロは瞬く間にコリントの争いに話を戻します)、実は今でも無理なのです。
各々が教会での自分の教師たちをかついで派手に言い争っているところを見ると、コリントの信徒たちは信仰の問題についてあまり理解してはいなかったようです。
まったくもって彼らには、改めて「ミルク」を飲ませることから、すなわち基本の復習からはじめなければならないのでした。
ところが、彼らは自分自身がすでに「霊的」であるかのように思い込んでいたのです。
「霊的な人々」という言葉で、明らかにパウロはコリントの教会にたくさん現れていた「恵みの賜物」のことを指しています。
主の御霊の力によって生きていると思い込んでいる人々は、実際は「信仰生活の新入生」に過ぎなかったことが突然ばれてしまいました。
本来、彼らには「信仰生活のABC」を手取り足取り教える必要があったのです。
    

2010年11月4日木曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第2回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

私の神様、あなたは何なのでしょう。
私は尋ねます。
もしも主よ、あなたが私の神様でなければ。「私たちの主ではない主」とは、いかなるものでしょうか。
「私たちの神様ではない神」とは、いかなるものでしょうか。
最高で、最善で、最大で、全能で、最も憐れみ深く、最も義しく、最も隠されていて、にもかかわらず、あらゆるところに臨在しておられる、最も美しく、最も力強く、堅く立ち、と同時に決して人間の手には届かず、移り変わらず、にもかかわらず、すべてを変えるお方、あなたは、いまだかつて新しくあったことも古くあったこともなく、すべてを改めます。
しかしあなたは傲慢な者を、彼らがまったく気づかないうちに、しおれさせてしまいます。
あなたは常に影響力を持ち、いつもリラックスしていて、集めたり纏めたりしながらも、御自分では何も必要とはなさらず、支え、満たし、守り、創造し、養い、完全なものにし、探し求めながらも、御自身には何も欠けるところがありません!
あなたは愛し、しかも平安を失うことがありません。
あなたは激烈な行動に移られるときにも安らかであられます。
あなたは悔いたり、怒ったりなさいます。
ところが一方では、静謐さを保たれます。
あなたはすべてを変えますが、御自分は変わることがありません。
あなたは見つけたものを大切に取って置かれ、それを決して失くしません。
あなたは貧しいことが決してありませんでしたが、にもかかわらず、手に入れられたものを喜ばれます。
常に貪欲から自由であるあなたは、にもかかわらず、利子を要求されます。
あなたへの債務をどんどん増やすために、あなたは有り余るほど豊かに与えてくださいます。
しかし、「あなたのものではないもの」を何かもっている者が一人でもいるとでもいうのでしょうか。
誰に対しても債務を負うことなく、あなたは他の者たちの債務を支払ってくださいます。
何も失うことがないまま、あなたは債務を帳消しにしてくださいます。
あなたについて私たちは何を言うことができるのでしょうか、私の神様、私の命、私の聖なる救いよ。
にもかかわらず、あなたについて押し黙る人は哀れです。
あなたについて語る者たちでさえも口が聞けないに等しいのですから。

(アウグスティヌス 「告白」)