2010年11月26日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」4章14~21節(その2) 

  
コリントの教会の使徒、パウロ 4章14~21節(その2)
  
「コリントの信徒への第一の手紙」4章は、パウロがコリントの信徒たちの間に秩序を回復させようとするやり方についての興味深いドキュメントであるだけではありません。
主の使徒は私たち信徒の間にも秩序を取り戻させようとしているのです。
つまりこれは、私たちにとって非常に身近な意味をもっています。
主の使徒に対して声を張り上げて反対するのは、なにもコリントの信徒たちにだけ当てはまる罪ではありません。
他の土地でも、何時でも、パウロや他の使徒たちの言葉を真面目に受け取らなかった人々がいたものです。
現代に生きる私たちの間にも、「パウロは時として過ちを犯すふつうの人間にすぎず、彼の意見には一人の人間が理解した分の価値しかないのだ」、と考えている人たちがいます。
もちろんパウロは罪人でしたし、不完全な人間でもありました。
にもかかわらず、彼や他の主の使徒たちは自分たちの名前によってメッセージを伝えたわけではありません。
パウロはテサロニケの信徒たちに対して次のように書いています、
「これらのことのゆえに私たちが神様に絶えず感謝しているのは、あなたがたは、私たちから神様の御言葉を聴いたときに、それを人間たちの言葉としてではなく、真実通りに、神様の御言葉として受け入れてくれた、ということです。
そして、この神様の御言葉は、信じているあなたがたのうちで働きかけているのです」
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章13節)。
神様は私たちに人間を通して語りかけてくださいました。
まさにこのようにして、神様は私たちに御自分の御言葉を与えてくださったのです。
不完全な人間の言葉は、彼らを遣わした方の言葉、神様御自身の御言葉です。
それゆえ、たとえばイエス様の言葉とパウロの言葉とを互いに対置させるのは間違っています。
両方共、私たちに語られた神様の御言葉なのですから。
主御自身がそれを保証されておりますし、先ほど引用した箇所からもわかるように、主は御言葉が私たちの中で働きかけるようになさっています。
ここで私たちは人間の意見にではなく、聖書の御言葉にしたがっているのです。
「ルーテル教会信条集」は聖書の御言葉について次のように述べています、
「私たちは、次のことを信じ、教え、告白します。
すべての教えと教師とを調べて評価する際に唯一の原則と規範となるのは、預言的かつ使徒的な旧新約聖書のみである、ということです。
「あなたの御言葉は私の足のともしび、私の道の光です」(「詩篇」119篇105節)
と書いてある通りです。
また、
「たとえ私たちであれ、天からの御使いであれ、私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えるなら、その人は呪われるように」
(「ガラテアの信徒への手紙」1章8節)
とパウロが言っている通りです。」
   
多くの人の考えによれば、聖書に対する上述のような信条告白は、自分を縛り上げて奴隷にするようなものです。
しかし、ここではまったく違う見方をするべきなのです。
私たちは罪人です。
そして、自分自身に頼って行動するかぎり、地獄への旅を続けているのです。
ところが今、神様の御言葉は、キリストの血のゆえに罪の赦しと天国とを私たちに約束しています。
決して裏切らない神様の御言葉が私たちに「本当にそうなる」と保証してくれないならば、いったい誰がこのようなことを信じる勇気をもてるというのでしょうか。
神様は約束なさったことを取り消したりはなさいません。
それゆえ、弱く不完全な信仰者は、神様のみわざと御言葉に「避けどころ」を求めることができるのです。