2014年4月30日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 3章1〜8節 ユダヤ人であることには神様との関係において益がないのでしょうか 


ユダヤ人であることには神様との関係において益がないのでしょうか 
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3章のはじめでは、パウロはまだユダヤ人についての話を続けています。
このテーマは911章でより詳しく扱われます。

ユダヤ人がその罪のゆえに神様の怒りの下にあるという事態は、
神様が御民イスラエルの間で活動されたことがまったく無駄だった、
という意味になるのでしょうか。

ここでパウロは深い考えを提示します。

人々が悪い者だからといって、
神様の働きがそれによって間違ったものになるわけではない、
ということです。
それどころか、
人間の悪さがひたすら神様の栄光を明らかにすることになります。
神様の側には落ち度がまったくなかったにもかかわらず、
ユダヤ人は間違ったやり方を選んでしまったのです。
それゆえ、
ただおひとり神様のみが聖なる方であり、人間は悪い者だ、
という真実があとに残されるばかりです。
私たちの罪でさえも、神様の栄光を明らかにすることになるのです。

とはいえ、 
神様は罪を結局よい方向へと変えてくださるとか、
罪を通して神様は栄光をお受けになる、
などと人々が考えて、わざと罪を行ったりしないように、
パウロは警告しています。
このように自分の罪を正当化するために都合の良い考え方をする者は、
神様の正義の裁きによって罰を受けることになります。

2014年4月25日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 3章について


「ローマの信徒への手紙」3章について


「ローマの信徒への手紙」は聖書の至宝です。
そして、この手紙の最も重要な章は、今回取り扱う第3章です。

パウロは最初の2章で、 
神様の御前では人間のどのような能力も意味をなさないことを、
根底から明らかにしました。

彼は第一に、異邦人が神様の怒りの下にあり、
罪深い生活にがんじがらめにされていることを示しました。

次に、ユダヤ人に矛先を向け、
律法を知っているはずの彼らもまた、
神様の御前では彼ら自身の罪の罰を受けるべき存在であることを示しました。

パウロが人間一般についてこのように語る時、
きっと私たちもまた、同じ批判を受ける立場にあると感じることでしょう。
神様から注意を受ける必要がないほど自分はよい人間である、
と言い張ることなど、私たちにはできません。

しかし、今度の3章では、
パウロは今までずっと目指して来たことがらを取り上げます。
すなわち、
私たちの罪を帳消しにしてくださったキリストについての福音です。
まさにこの教えを通して、パウロは、
教会の歴史を通じて、数知れない人々にとって、
敬愛すべき教師となりました。

キリスト教伝道の名の下に、
内容が曖昧か全然だめなものが大々的に喧伝されています。
しかし、「ローマの信徒への手紙」を読む時に、
私たちは純粋な福音に触れることができるのです。


2014年4月14日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(2章)

  
終わりのメッセージ(2章
   
裁きの宣告から逃げて
  
 
誰であれ私たちは、神様をないがしろにして生きてきた、
という裁きの宣告を受けるのが当然の存在です。

「私たちは誰からも指図を受けたくない。
私は誰に対しても負債を支払う義務がない。
私は自分自身の主人である。
私は民主主義の時代の子であり、社会の最高決定者だ。

神がいないので、裁きの宣告もない。
絶対的な命令もない。
規範は人間が作り出したものだ。
だから、私はすべてを相対的なものと宣言する。
戦争や、政治的な権力争いや、税金をごまかすことや、
その他の経済的な搾取や、離婚や、過度の飲酒に比べたら、
私のやった間違いなどは些細なものだ。
私の人生の歩みにはほとんど汚点がなかったとさえ言える。

もしも神が存在するとすれば、 
たとえば心理療法とか、
一人前の国民を育てることといった、
人をいたわって世話をする活動が、
神にあてがわれた仕事ということになるだろう。
「かしこより来たりて、生きる者と死にたる者とを裁きたまわん」、
という使徒信条にある言葉は、
人間の思い込みによるものにちがいない。」

私たち人間の生き方の主な目標は、
神様を端っこへと追いやるか、
あるいは、生活の中から完全に閉め出すことです。
神様を無視しようという誘惑は非常に大きく、
これは私たちキリスト信仰者の場合でも変わりません。

神様から自立するために御許から逃げ出すことについて、
聖書の啓示は、はっきり否定的な態度を取り、
「私は主、あなたの神である」、と宣言します。
これは、歴史全体を貫く、冷徹な裁きの宣告です。
毎日曜日の朝に、人々が自ら礼拝という裁きの場に集う有様は、
この世では最も珍しい眺めと言えるでしょう。

でも、本当に彼らは自発的にそうするのでしょうか。

もちろん、それは自発的なことではありません。
礼拝に通う人たちは、
遅かれ早かれ主に捕らえられた者、
今捕らえられている者だけです。
今も相変わらず人々は、
逃走を試み、実際に逃走し、
またその足跡を消し去ろうとしています。
それでも、
とうとう息を切らして、一休みするために立ち止まる時、
私たちは、憐れみの主が私たちを招いてくださる御声を耳にするのです。

耳を疑うかもしれませんが、
本当にこれは、あなたがその御許から逃げ出したのと同じ神様なのです。
しかし、逃避行を続ける中で、
私は神様のみわざを行うことができましょうか。
神様をないがしろにする、
この馬鹿げた傲慢な独立心をいい加減捨てて、
主の御国で主の臣下として生きる道を、
今から歩むことにしたら、どうでしょうか。


レイノ ハッシネン 「輝く明日」

2014年4月11日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 第2回目の質問


2回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」2


「ローマの信徒への手紙」1章で、パウロは、
異邦人(非ユダヤ人)が
神様から離れて生活している罪深い存在であることを示しました。
この2章では、 
ユダヤ人もまた、
神様の御前で、罪の負債を抱える存在であることを、彼は示します。
ユダヤ人たちは神様の御旨を知っていながら、
それに従わなかったのです。
このユダヤ人の罪深さのせいで、
異邦人たちの間で、
神様の尊い御名が蔑まれる事態を招いてしまいました。

1)この章でパウロは、ユダヤ人について厳しい言葉を述べています。
その一方、他の手紙では、
真の教会こそが神様の新しいイスラエルである、と語っています
(「ガラテアの信徒への手紙」616節)。
このことは、今扱っている章の内容を、
私たちキリスト信仰者が深く考えるようにと促します。
はたして、新しいイスラエルは、
それまでのイスラエルよりもよい存在なのでしょうか。

a)一般の人々のほうがキリスト信仰者よりも
はるかに公正で親切である、という話を
あなたは聞いたことがありますか。
私たちキリスト信仰者よりも一般の人々のほうが、
他人の悪口をあまり言わないかもしれないし、
手際よく人助けするかもしれないし、
他人に対して寛容かもしれません。
いったいどこから、このような評判が出てくるのでしょうか。


b)神様の御旨を知っているだけでは不十分である、
とパウロは言います。
御旨には実際に従わなければならないからです。
もしそうでないなら、
神様の御国に属するはずの人々による不適切な振る舞いのせいで、
神様の聖なる御名が
この世の人々によって蔑まれる結果を招くことになるからです。
私たちにとって、これは自分にも当てはまっていますか。