2011年4月29日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」13章1~3節 

 
圧倒的な愛 13章1~3節 
   
古典時代には、さまざまな「徳」を適切に序列化することをテーマとした書物がたくさんありました。
そして、最上位に置かれた徳が賛美の対象となり、それに対して他の徳は軽んじられる傾向がありました。
「コリントの信徒への第一の手紙」13章は、形式的にはこのような「徳の一覧表」の体裁をとっています。
とりわけこの箇所では、愛が他のあらゆる徳よりも上位に置かれています。
コリントの教会の抱えていた問題に合わせて、パウロは愛を特に御霊の賜物と比較しています。
 
「人間と天使の言葉で話すこと」というのは、コリントの教会で高く評価されていた「異言で話すこと」をさしています。
異言と天使の言葉との共通性は、「コリントの信徒への第二の手紙」12章4節からみてとれます。
異言で話すこと自体には何の価値もありません。
人は、その技能をどれほど磨き上げたとしても、相変わらず「死んだ楽器」に過ぎません。
預言についても同じことが言えます。
たとえ預言が人間にすべての秘密を明かすとしても、たとえ人が考えられうる一切合財の知識を蓄えたとしても、また、たとえ人がどれほど偉大な信仰の持ち主であったとしても、愛がなければ、すべてはまったくむなしいものです。
誰かが自分の財産を丸ごと貧しい人たちの食べ物として分配したとしても、それ自体には何の意味もありません。
殉教者のなかには、自分の体を焼かれるために渡した者がいました(たとえば、「ダニエル書」3章をみてください)。
しかし、愛がなければ、そんなことをしても無益です。この箇所の最後の部分は次のようにも訳せます、「たとえ私が自分のことを誇るために、自分の体を渡したとしても」(つまり「焼くために」のところを「誇るために」と訳することもできるのです)。
ともあれ、愛がなければ、これらすべて見事な成果は、取るに足りない無価値なものです。
それら自体には内在的な価値などはありません。それらの行動の背景に、キリストを私たちのために十字架の道へと赴かせたのと同一の愛が伴う場合にのみ、賜物は有益なものとなるのです。
  

2011年4月26日火曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」13章 私たちの愛か、キリストの愛か 

   
私たちの愛か、キリストの愛か
  
もうひとつのキーポイントは、この箇所での「愛」という言葉で、パウロは何あるいは誰をさしているのか、ということです。
「彼はここでキリストについて語っている」、というのが通説です。
もっとも、彼はこの個所で一度もイエス様のお名前を挙げてはいません。
ということは、彼はやはり「コリントの信徒たちの愛」について語っているのでしょうか。

「愛」と訳せるギリシア語の言葉はたくさんあります。
それらの言葉には各々明確に異なる意味があります。
ここで用いられている「アガペー」という言葉は、「無私の愛」を意味しており、高価なものを愛でる心などとは異なります。
この箇所の「愛」の意味の問題に取り組む時、このことを考慮するべきです。
この言葉は、新約聖書ではよく用いられていますが、他の文献では比較的使用頻度が低い単語です。
 
パウロがここで語っているのが、キリストについてなのか、それとも私たちの愛についてなのか、一概に決定することはできません。
この問題は、いくらひねりを加えてみたり知恵をしぼってみても、解決しません。
私たち自身のクリスチャンとしての生活により深く分け入っていく必要があるのです。
そこにこそ、この章が語っている「愛の場所」があります。
「クリスチャンの愛」とは、キリストが私たちの心に住まわれ、私たちの隣人にお仕えなさることにほかなりません。
そのとき、ゴルゴタの十字架で公になった愛は、私たちの生活の中でも具体的なかたちをとるようになります。
 

2011年4月20日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」13章 位置の問題

   
13章の位置の問題
  
多くの研究者は、「今の13章は元々とは違う場所に置かれている」、と考えています。
12章でも14章でも、パウロは恵みの賜物について語っています。
それに基づき彼らは、「13章はパウロの死後にこれらの章の間に配置されたのだ」、と主張します。
また、「おそらくパウロは12章と14章との間に、彼自身かあるいは誰か他の人が以前に書いたものを配置したのだ」、と考える研究者もいます。
一方では、「この13章は私たちの聖書の中でまさに本来の正しい場所に位置しており、パウロがこの「コリントの信徒への第一の手紙」のために書いた箇所にほかならない」、と考える研究者も大勢います。
 
問題を解く鍵となるのは、12章の最後の箇所です。
これは12章と13章とを結び付けています。
今扱おうとしているこの13章は、手紙の他の部分と内容的に逸脱してはいないのです。
ここで愛が話題になるのは、パウロが時にはコリントの信徒間の争い以外のことについて話したいと思ったからではありません。
愛のテーマを扱っている理由は、まさにこれがコリントの教会の難問だったからです。
コリントの教会では各々が自分自身の恵みの賜物を用いて、それをとりわけ大事にしていました。
クリスチャンの生活は大きな賜物を駆使することにほかならない、と考えられていたからです。
しかし、これは的の外れた考え方です。
あらゆることの基底であり出発点であるべきなのは、愛です。
それをコリントの教会は忘れていました。
その結果、人々は恵みの賜物を誤ったやり方で自己中心的に用いるようになったのです。
また、そこから教会員同士の諍いも生まれたのです。
13章では、コリントの信徒たちの問題と彼ら特有の罪の傾向について常に注意が向けられています。
それゆえ、この箇所がコリントの信徒たちに向けられたパウロの筆によるものであることを信じない理由はなにもありません。
要するに、13章は前後の章と関連させて読まれるべきものだ、ということです。
  

2011年4月18日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」13章 愛の雅歌 

  
愛の雅歌
 
「コリントの信徒への第一の手紙」13章

 
  
使徒パウロがこれまで書き残したもののうちで最も偉大なのは、「コリントの信徒への第一の手紙」の13章である、と多くの人は考えています。
この章はもっともな理由から「愛の雅歌」と呼ばれています。
人間が書き記した書物の中でも、この章は高い地位を占めています。
その偉大さと荘厳さは、ほかの多くの宗教においても認められています。
この章は、私たちクリスチャンが誇りとすべき高価な真珠です。
それと同時に、この章はすべてのクリスチャンを恥じ入らせるものでもあります。
なぜなら、私たちはこの珠玉の教えに従って生活してはいないからです。
  

2011年4月15日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第10回目の終わりのメッセージ

  
終わりのメッセージ
  
たくさん富があるところでは、その管理をするのは骨の折れる厄介な仕事になります。
社会が経済的に豊かであればあるほど、金銭の流通を管理する仕事はより微細にわたることになります。
 
貧しい者は、すべてをより単純なやり方で済ませることができます。
  
これは霊的な生活においても当てはまります。
人が自分で何かを決めようとする場合、救いの道は曲がりくねったものとなります。
これは周囲にいる人たちにも悪影響を与えます。
上からああしろこうしろと要求されると、人の気持ちは落ち込みます。
イエス様は律法学者たちについて、「彼らは他の人々の上に運ぶのが難しいひどい重荷を背負わせている」、と指摘なさいました。

しかし、もしも何もなければ、ことは単純になります。
そのときには信仰生活を整える困難さはなくなります。

「働き、疲れている人は皆、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」、
とイエス様は言われています。
ここに単純な信仰があります。
私には何もないので私にすべてを与えてくださったイエス様の守りの中で休むことができます。
  
ここにあなたは何も付け加える必要はありません。
   
(ラウリ・コスケンニエミ 「今日私と共にいてください」)

2011年4月13日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第10回目の質問

  
「コリントの信徒への第一の手紙」 第10回目の質問
  
パウロはコリントの信徒たちに、教会がキリストの身体であることを、思い出させます。
人は教会に洗礼を通してつながります。
聖霊様が人々に分けてくださる「恵みの賜物」とは関係なく、「キリストという身体」の構成員は皆一様に必要とされており、互いに平等な存在なのです。
  
1)この章の中からどのような「恵みの賜物」を見つけますか。
  
2)私たちの教会では、異言で話したり預言したりするような特別な恵みの賜物が必要とされているでしょうか。
また、それらは私たちの間でも見られる現象でしょうか。
  
3)なぜ互いに異なる賜物が争いを生むのでしょうか。
 
4)私たちの教会の礼拝で恵みの賜物を用いることができるでしょうか。
あるいは、それらを用いるべきなのでしょうか。
  
5)私たちは他の人の前で劣等感に悩まされます。
この章はこの劣等感について何を言おうとしていますか。
私たちの教会のなかで、クリスチャンが他の人に対して劣等感をいだかないようにするためには、どうすればよいのでしょうか。
  
6)神様の御国の働きのためになるような賜物を、あなたは何かもっていますか。
  

2011年4月11日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」12章14~31節 

   
キリストの身体の働き方 12章14~31節
    
キリストの中へと洗礼を受けている人は皆、キリストの身体の構成員であり、一人一人にそれぞれ使命があります。
今パウロは、人の身体も同一の部分のみから構成されているわけではない、ということを指摘します。
「手もあれば足もある。耳もあれば鼻もある。それらにはすべて独自の役割があります。もしも人が足ばかりだったら、生きるのは難しいことでしょう。それゆえ、神様は人にちょうどよい数の身体の諸部分を与え、行うべきことをすべてちゃんと行えるようにしてくださったのです」、と。
これと同じことが教会にも言えます。
教会員にはそれぞれ役割があります。
私たちが皆互いに異なっているのは、大いなる豊かさの証拠です。
もしも私たちが皆同じようだったとしたら、私たちは何か大切なことをしないまま、あるいは見ないままになってしまったことでしょう。
人の身体では手が足に対して反抗してはならないのと同じように、キリストの教会でもクリスチャン同士が争い合ってはならないのです。
素晴らしい役割を果たしている人に対して、他の誰も劣等感を抱く必要はありません。
それと同様に、誰も他のクリスチャンを見下してはなりません。
たとえ人間的にはそうするのがどれほど当然に思える場合であっても、それはいけないことです。
神様の御前では、私たちは皆同一線上に並んでいる、神様の愛する子供なのです。
むしろ私たちはお互いの成功を共に喜び、不幸を共に悲しむ姿勢を学ぶべきです。
まさにこのような姿勢で、私たちは自分自身の体に対しても接しているわけですから。
目にゴミが入ると、足が人間を鏡の前に連れて行き、目からゴミを取り除くために手があらゆる手段を講じます。
教会でもこのように活動できるよう、努めるべきです。
 
神様が教会に、ある者たちを使徒として、またある者たちを預言者として、また他の者たちを教師として任命してくださったことは、神様の賜物にほかなりません。
  
さらに神様は、教会の職制の他にも様々な恵みの賜物を豊かに与えてくださいました。
これらの賜物を一人で全部もっているクリスチャンは誰もいないし、またその必要もありません。
皆が使徒である必要はないし、皆が異言を話す者であったり、預言者であったりする必要もありません。
私たちの救いの基礎は、恵みの賜物ではなく、キリストのみであり、その十字架のみなのです。
 
この最後に述べたことは徹底して強調されなければなりません。
私たちの時代には、霊の力と特別な恵みの賜物に人々は不思議がり驚いています。
このこと自体はよいのですが、そこにはしばしば、不健康な現象が付随しています。
なによりもまず問題なのは、特別な恵みの賜物をもっていないクリスチャンは、それをもっているクリスチャンに対して、劣等感をいだくようになることです。
また、特別な恵みの賜物をもっているクリスチャンは、神様の御霊の力を他のクリスチャンたちよりもよく知っているという理由から、知らず知らずのうちに彼らを見下すようになるでしょう。
ここで第一に強調するべきことは、救われるためにクリスチャンはどのような特別な恵みの賜物も必要としない、ということです。
キリストとその恵みで十分なのです。
私たちがキリストの教会に属しているのは、自分自身の優秀さのゆえではなく、私たちが受けた洗礼のゆえです。
  

2011年4月8日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」12章12~13節 

   
「キリストのもの」であるための基準 12章12~13節
    
今パウロは、「キリストのもの」である人々が主の身体をどのように構成しているかについて、実に驚くべきやり方で語り始めます。
この教えは多くの聖書の箇所に出てきます(たとえば、「ローマの信徒への手紙」12章、「エフェソの信徒への手紙」5章など)。
ここでいう「身体」とは、死体ではなく、生き生きと活動している体のことです。
クリスチャンひとりひとりがこの身体の構成員です。
クリスチャン全員が一丸となって行動するとき、この生きて活動しているもの(キリストの身体なる教会)は、この世の中で自分の使命を果たします。
キリストに属するための基準は、人間の能力や優秀さではなく、あるいはその人に与えられている賜物でもありません。
「キリストのもの」となり、この方の身体の構成員となるのは、聖なる洗礼においてです。
洗礼において、聖霊様は人間を、その人の民族的あるいは社会的な立場を一切無視して、キリストへと結びつけ、キリストの構成員としてくださいます。
ここにクリスチャン同士の平等性の基盤があります。
しかしこの平等性は、皆に同じ賜物と同じ使命が与えられている、という意味ではありません。
御霊が各人にそれぞれ違った賜物と使命を与えてくださっているのは確かです。
しかし、人は洗礼を通してキリストに結び付けられ「キリストのもの」となっている、という点では皆平等なのです。
それゆえ、教会では誰も他の人よりも自分が「劣っている」と感じる必要はないし、それとは逆に、「優れている」と思い上がってもいけないのです。
  

2011年4月6日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」12章4~11節 

 
  
多様な御霊の賜物 12章4~11節
    
「恵みの賜物」は多様であり、様々な人に与えられるものです。
それにもかかわらず、それらすべての背後には、神様の聖霊様がおられます。
この方は、ある人には信仰を、またある人には癒しの賜物を、またある人には預言する賜物を、またある人には異言の賜物を分け与えてくださいます。
御霊の賜物のなかには、奉仕の職も含まれています。
すべての賜物は教会の益となります。
この箇所は、「たとえ賜物は多種多様でも、それらはすべて神様から発しており、教会の最善を考えて与えられている」、ということをコリントの信徒たちが見て理解するために書かれています。
賜物のうちのどれも拒むべきではないし、それらを互いに争わせるべきでもありません。
  
パウロは説明を加えずに多くの「恵みの賜物」をリストアップしています。
コリントの信徒たちには周知のことだからです。
しかし、現代の私たちはよく知らないわけですから、この賜物のリストをざっと概観する必要があるでしょう。
8節における「知識」とは、明らかにコリントの信徒たちが重視した知恵と知識のことをさしています(1章1~4節を参照してください)。
「信仰」が恵みの賜物のリストのなかに入っているのは理由があります。
信仰もまた、人間の懸命な努力によって生み出されるものではなく、神様の賜物だからです。
「癒しの賜物」については説明を要しないでしょう。
「力あるわざ」とは、一般的に奇跡のことを指しています。
「預言」とは、人が神様から他の人々に伝えるためのメッセージを受け取ることです。
この賜物はもうひとつの「教える賜物」とは区別しなければなりません。
預言はカリスマ的な性格のものだからです。
「霊を見分ける恵みの賜物」とは、いつ悪霊が話しており、いつ聖霊様が話しているか、を区別できる能力のことであるのは明らかです。
「異言を話す賜物」は、人間が話す言葉ではないような特別な言葉によって、クリスチャンが神様に祈り、神様を賛美することを意味しています。
このような異言は他の人々皆にとっても、話している当人にとってさえも理解不可能なものです。
それを理解できるのは、「異言を解き明かす恵みの賜物」が与えられている人だけです。
このような人は、異言を話す人と他の人々との間の通訳者として働くことができます。
 
4~6節は、御父、御子、御霊としての神様の深遠性を探っています。
注目するべき内容です。
これらの節を読む人は、すべてが同じパターンで構成されていることに気づくことでしょう。
「御霊、主(イエス様のこと)、神様」が恵みの賜物の背後におられます。
新約聖書で「聖なる三位一体性」について直接教えている箇所は、それほど多くありません。
いくつかの箇所、たとえば洗礼命令(「マタイによる福音書」28章18~20節)には聖三位一体性が明瞭に示されています。
にもかかわらず、多くのことがらは「神様の奥義」として手付かずのまま残されています。
ともあれ、エホバの証人たちが言っていることとは異なり、聖三位一体性は完全な真理です。
それを否定する三位一体反対論者になる者は、クリスチャンではありません。