2019年8月26日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様は祈りを聴いてくださいます 詩篇6篇9〜11節

 神様は祈りを聴いてくださいます 詩篇6篇9〜11節

この「詩篇」の終わりには
「善なるお方である神様がきっと助けてくださる」
という驚くほど安らかな信頼感が表明されています。

詩篇朗唱者は困難の只中にあって
ただひたすら苦しみ続けているだけではありません。
彼は「神様のもの」となっており、
また神様に信頼する人間でもあります。

人が罪と痛みのゆえに非常に苦しめられる様子と、
心安らかに神様の恵みに信頼を寄せる姿勢とが
同一の「詩篇」の中に収められていることになります。

実はこれは多くの「詩篇」に共通する特質でもあります。
マルティン・ルターはこの特質について
「ここでは真の教師が信仰の基本について教えてくださっている」
という言葉で表現しました。

苦しみと罪、そして喜びと助けとは、
キリスト信仰者の生活の中でも常に並行して現れる現象なのです。

2019年8月12日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 苦しみの洪水の中で 詩篇6篇1〜8節(その2)

苦しみの洪水の中で 詩篇6篇1〜8節(その2)


「詩篇」を理解するために
私たちはどのような学び方をするべきなのでしょうか。

一つの学び方は、
テキストに書かれている内容をまず可能な限り字面通りかつ具体的に理解し、
その後で他の解釈を当てはめる可能性を探ってみる、というやり方です。

「敵」と「苦しみ」はここでは単純にそれ自体を表しています。
敵と苦しみからの解放は、死からの救いと平和な生活を意味しています。

もしも肉体的な痛みと苦しみが
「詩篇」で非常に具体的な事象を意味しているのなら、
「罪」もまた具体的な事象を指していることになります。

「罪とは概念的なものにすぎない無害なものである」といったイメージは
現代の私たちの間ではごく普通に見受けられるものですが、
旧約聖書における「罪」についての理解はそれとはまったく異なります。

それによれば、
罪は決してたんに概念的な無害なものではなく、
きわめて日常的な事象です。

罪はその結果としてこの世的な苦しみをもたらし、
それと共に、
罪を犯した人間自身をもその苦しみの中に引きずり込んでいきます。

さらに、人間と神様との関係において
罪はよりいっそう具体的な様相を呈するようになります。
すなわち、人間の罪(の重荷)はその人を神様から引き離してしまうのです。
このことについて「イザヤ書」を次のように言っています。

「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。
その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。
またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。
あなたがたの手は血で汚れ、
あなたがたの指は不義で汚れ、
あなたがたのくちびるは偽りを語り、
あなたがたの舌は悪をささやく。」
(「イザヤ書」59章1〜3節、口語訳)

人は聖なる神様と顔を向かい合わせるとき、自らの罪を思い起こして
「主よ、どうか怒りによって私のことを病気や敵の手に渡さないでください」
と祈ることでしょう。

してみると、
「個人の嘆きの詩篇」のうちの大多数は
本来の意味での「ざんげの詩篇」であるとも言えるでしょう。

このように考えてみると、
「詩篇」を内容的に分類した場合に
「ざんげの詩篇」と見なせる「詩篇」の数は
この聖書講座で扱う七つよりもはるかに多いことになります。