2020年3月25日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 「詩篇」130篇


「詩篇」130篇

130:1
都もうでの歌
主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。

130:2
主よ、どうか、わが声を聞き、
あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。

130:3
主よ、あなたがもし、もろもろの不義に
目をとめられるならば、
主よ、だれが立つことができましょうか。

130:4
しかしあなたには、ゆるしがあるので、
人に恐れかしこまれるでしょう。

130:5
わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。
そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。

130:6
わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、
夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。

130:7
イスラエルよ、主によって望みをいだけ。
主には、いつくしみがあり、
また豊かなあがないがあるからです。

130:8
主はイスラエルを
そのもろもろの不義からあがなわれます。

(口語訳)


この「詩篇」は
ルター派の教会の礼拝の「罪の告白」の箇所などで使用されることがあるため、
普通の教会員にも比較的よく知られているものです。

この「詩篇」は学術的な詩篇研究においては
「旅の歌」というジャンルに分類されており、
もともとは聖地巡礼者たちがエルサレムでの祝祭に向けて旅をしている時や、
礼拝でシオンの山に登り神様の御前に出る時に歌われたものであった
推測されています。
ただし後者の解釈については今のところ十分な証拠はありません。
とはいえ「イザヤ書」30章29節には次のように記されています。

「あなたがたは、聖なる祭を守る夜のように歌をうたう。
また笛をならして主の山にきたり、
イスラエルの岩なる主にまみえる時のように心に喜ぶ。」
(口語訳)

この「詩篇」を元々の歴史的文脈の中に正確に位置付けるのは
容易な作業ではありません。
それでも、これを朗唱する現代人の私たちが、
神様の御前において自らの罪を告白した数千年前の詩篇朗唱者の心の動きを
たどるのはさほど難しいことではありません。

2020年3月18日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様は憐れんでくださいます 「詩篇」102篇13〜29節

 神様は憐れんでくださいます 「詩篇」102篇13〜29節

これまで見てきたように、
苦しみを扱うこの「詩篇」の箇所は三つの視点から解釈することができます。
これら三つの視点は、
希望について語っているこの「詩篇」102篇の終わりの部分にも
ある程度適用することができます。
これらの視点に共通しているのは「神様は全能なお方である」という理解です。

天と地はいつか消え去ります。
人間が着替えをするように、天地はいずれ何か別のものに変わります。
しかし、神様はいつまでも変わることがなく、
御自分の民を助けることがいつでもおできになります。
このようにして、個人の態度は嘆きから希望へと変化します。

この「詩篇」が語る希望は
自分が所属する国の民の繁栄と同一視されているようにも見えます。
しかしその一方で、この「詩篇」は数千年もの間、
「詩篇」の読者各人の信仰生活の観点からも解釈されてきました。

私たちが現代における「詩篇」の意義を考察する場合に
「詩篇」は自国民に関連付けて読み解かれる傾向があります。

異国の地における捕囚の民としての生活や、
自国民が虐げられている現状は、
神様がイスラエルの民にお与えになった「最後の一言」ではありませんでした。
この「詩篇」は現代の私たちにも関わりのある大切な希望のメッセージなのです。

主はその聖なる高き所から見おろし、
天から地を見られた。
これは捕われ人の嘆きを聞き、
死に定められた者を解き放ち、
人々がシオンで主のみ名をあらわし、
エルサレムでその誉をあらわすためです。
その時もろもろの民、もろもろの国は
ともに集まって、主に仕えるでしょう。
(「詩篇」102篇20〜23節、口語訳)

この「詩篇」によれば、
エルサレムが再建されて神様の偉大なる御業が宣べ伝えられる
「シオンの時」がとうとう訪れました。
諸々の国民や王たちは主の御名に跪いてしまうけれども、
主の民は故郷への帰還を許可される時がついに到来したのです。
詩篇朗唱者の子孫たちは代々「神様の都」に住めるようになりました。
この「詩篇」に記されている約束すべては数十年後に実現しました。
詩人の希望はむなしく終わることがありませんでした。

マルティン・ルターは
旧約時代に生きた「キリスト信仰者たち」が恵みを待望するさまを
本文から読み取りました。
彼の視点はこの「詩篇」の終結部には次のように適用することができます。

私たちには預言者たちや使徒たちを通して語りかけてくださる
唯一の神様がおられます。
恵みの道はただ一つです。
それは、キリストが私たちに開かれた道です。
キリストの御業はすでに旧約聖書において予告されており、
新約聖書において啓示されています。
旧約聖書におけるメシア(救世主)に関連する預言と一連の「詩篇」は
救いをキリスト(救世主)に直接結びつけています。
この「詩篇」も含めその他の多くの箇所は、
神様のかぎりない恵みを受け入れて、
いつかふたたび神様が「主の民」を敵どもから救ってくださることを
確信するようにと私たちを導いてくれます。
キリストが十字架の死と復活によって
罪と死と悪魔の力を粉砕なさったおかげで
この救いの御業はすでに成就されているのです。
そして、私たちはこのことを聖書から学び知ることができます。

2020年3月11日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 苦しむ者の受ける圧迫 「詩篇」102篇1〜12節(その2)

苦しむ者の受ける圧迫 「詩篇」102篇1〜12節(その2)

私たちにとって親近感が湧くであろう、この「詩篇」の理解の仕方は、
おそらく第二の視点によるものではないでしょうか。
これは
「神様の民全体としての罪の呵責と、周囲からの圧迫とがここでは語られている」
という解釈です。
罪と悪い行いをやめるように、
神様はそれまで何度も繰り返して御自分の民に警告してこられました。
ところが、民は耳を貸そうとはしなかったのです。

現代では「キリストのもの」である教会が
「神様の新しい民」を構成しています。
この民に対しては、使徒パウロを通して次のような警告が与えられています。

「もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、
あなたを惜しむようなことはないであろう。」
(「ローマの信徒への手紙」11章21節、口語訳)

旧約の民は神様から示された道から迷い出た結果として、
幾度も神様の厳しい怒りを受けることになりました。
それに対して、
新約の民には復活された主の警告が与えられています。
主は御自分の民の只中に「真夜中の盗人」のようにやって来られて
「神様の家」から裁きが始まるという警告です。

主は個々のキリスト教会に向けても警告を発しておられます。
神様が「教会の燭台をその教会から取り除く」
すなわち教会を全体として最終的に捨て去る場合がありうるという警告です。

これらの言葉は私たちにとってどのような意味をもっているのでしょうか。

キリスト教会につながっていながらも
神様の戒めに反した身勝手な生き方をすることが
何か当たり前のようになってはいませんか。
教会としても、またキリスト信仰者ひとりひとりの生活においても、
聖書の御言葉に反した行為がきわめて危険であることには変わりがありません。
しかし、このことがもはやはっきりと認識できなくなってきてはいませんか。
現代の教会やキリスト信仰者が
「ざんげ」の心のない自堕落な信仰生活を続けている場合には、
彼らが神様の怒りを招いてしまうのは当然ではないでしょうか。
教会全体も各教会員も皆が心を一つにして
罪を悔い御子を信じるべき時が今や来ているのではないでしょうか。

聖書の御言葉を一笑に付したり、
自分の判断で物事を進めたりするのは
「ルター派」の名にはまったく値しない態度です。