2010年6月21日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 6章5~9節 その1

   
6章5~9節 本当に「奴隷」だったのでしょうか。その1
  

私たちの社会とパウロの時代の世界との間の顕著な違いのひとつに「奴隷制」があります。
私たちにとって奴隷の立場を理解するのは困難です。
それは、仕えることになる主人がどのような人かによって、よくもなるし、耐え難いことにもなります。
ローマ人の法律では、奴隷は家族の主人の法的な権力の下にありました。
すなわち、奴隷がどのような扱いを受けているかについて、外部の人間には誰も何も口出しすることができなかったということです。
主人が正しいと思うやり方に応じて、奴隷は、厳しすぎる処罰の対象となったり、殺されたりすることもありました。
主人の多くは、常識はずれの厳しさによってではなく、当時の慣習に沿ったやり方に従って、奴隷に対して接していました。
こうした「慣習」には、たとえば異性同士あるいは同性同士による性的な利用が含まれることもありました。
これも、いつも強制的であったというわけではありません。
奴隷の生活はたいそう平和で問題もないケースもありました。
すべてはどのような主人かによって決まるのでした。

クリスチャンの奴隷は新約聖書ではしばしば指示を受けています。
「奴隷制」という制度自体は一度も疑問に付されてはいません。
もっとも、一般的にも嫌悪されていた人買い商人は、「テモテへの第1の手紙」1章10節によれば、公然と罪の生活を送っているとされており、「奴隷制」が神様の設定なさった制度であるとは、一度も言われてはいないのですが。
そのかわり、制度は内から新しくされます。
神様の目には、奴隷は自由人であり、自由人は奴隷なのです。
人間の価値はその人のやっていることに基づいて決められるのではなく、神様のはたらきによって決まるのです。
この箇所のポイントは、制度としての「奴隷制」にあるのではなく、「自由人か奴隷か」という人間の間の相違は教会に人が集うときに取り除かれるのだ、という点です。

2010年6月18日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 6章1~4節

 
         
完全武装

エフェソの信徒への手紙 第6章

この第6章では第5章にはじまる「家訓」が続きます。今回指示を受けるのは、まず子供と父親であり、それから奴隷と主人です。
 
6章1~4節 第四戒を大切にするために
  
子供たちが行うべきことを彼らに勧めるときに、「エフェソの信徒への手紙」は単純な指示を与え、第四戒を引用します。
主がイスラエルの民に与えてくださった土地への言及(出エジプト記20章12節にはあります)は、今回の引用では省かれています。
このように、第四戒は小アジアの異邦人にも放牧の民であるヘブライ人にも同じようによくあてはまる形で提示されています。
         
この第四戒はもともとは、小さい子供が言うことを聞かないで親の手を焼かせることを禁じていたわけではなく、大人になった子供が年老いた親の面倒を見ることを勧めるものだった、ということを思い起こしておくべきでしょう。
しかし、「エフェソの信徒への手紙」のこの箇所は、あきらかに、家庭にいるまだ若い子供と彼らの生き方について語っています。
         
興味深く今でもなおとりわけ有益な指示は、父親は子供を激しく怒らせることなく彼らを教育しなければならない、ということです。
聖書学のユッカ・トゥレーン教授がコメンタリーで説明しているように、この指示ももともとは非常に具体的な教育方法のあらわれでした。
すなわち、クリスチャンは自分の子供をごみために投げ込んだりはしてはいけなかったのです。
異邦人たちは実際にそういったこともしていました。
父親の義務は、まずもって、子供を家で育て、彼らが心身ともに健康に生活できるように配慮することであり、そしてそのあとで、しつけとか教育とかの話になるのです。
「あなたがたの子供たちを大人になるまで育て、主の御心に従ってしつけ、諭しなさい」ということです。
        
このように、クリスチャンの子供の教育では、十分に厳しいしつけがなされなければなりません。
しかし、子供の中に怒りが生まれるほどしつけが厳しすぎてもいけません。
私たちはどうすればこの指示に従うことができるのでしょうか。
クリスチャンにふさわしい子供の教育のあり方について、十分に話し合う必要があるでしょう。

2010年6月17日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 第5回目の終わりのメッセージ 

第5回目の集まりのためのおわりのメッセージ

キリストの教会の聖さの基であり始点となっているのは、キリストが教会を愛しておられ、教会のために身代わりに死んでくださった、ということです。
使徒はこう言っています、「キリストは教会を愛し、御自分を教会のために犠牲としてささげられました。それは、キリストが教会を聖とするためです」。
      
しかし、どのようにして主キリストは教会を、御自分の貴い犠牲によって確保した聖さにあずかるようにしてくださるのでしょうか。
        
答え。洗礼と御言葉を通してです。
   
なぜなら、使徒はこう付け加えているからです、「主は教会を、御言葉の中で、水の洗いによってきれいにし、聖となさります」(「エフェソの信徒への手紙」5章26節)。
洗礼を受け、御言葉を信じる者たちは、本当にきれいで聖いのです。
      
たとえ彼らが、この世や自分自身の目には、誤りやすく弱い者のように見える場合であっても、そうなのです。
これは本当に、ごくつまらない清さや聖さなどではありません。
たとえそれが理性や偽善者の目にはまったくそうは見えない場合でも、そうなのです。
神様の御子キリスト御自身が清くなさった教会は、神様とすべての天使たちの御前では本当に清いにちがいありません。
たとえ悪魔やこの世や盲目の理性が、教会の中に、清さではなく、汚ればかり見出す場合であっても、そうなのです。
      
キリストが、すべてを犠牲として捧げ、神様と人とを完全に和解させ、すべてを成し遂げてくださる愛を通して、私たちに確保してくださったこの聖さ、聖なる洗礼と御言葉を通して教会があずかれるようにしてくださったこの聖さが、どれほど偉大で特別なものか、ということを示すために使徒は次のように語っています、「それは、しみも、しわも、その類のものが一切なく、清くて傷のない教会を、栄光に満ちたものとして御自分の御前に立てるためです」(27節)。
        
しかし、キリストが十字架の死と復活の報酬として確保してくださったもの、洗礼において与えてくださったもの、御言葉を通して私たちに約束してくださったもの、は信仰によって受け入れられ、用いられるべきものです。
さもなければ、それらすべては、失われた賜物のままになってしまいます。
         
キリストを信じている私たちは神様の恵みと愛と好意をいただいている、と今私たちは確かに知っています。
なぜなら、「そうなのです」と、主御自身の使徒がここで告げているからです。
理性や感情にはそうではないように見えたとしても、それが何だと言うのでしょうか。
御言葉は、私たちが見たり理解したり感じたりするあらゆることよりも確実なものです。
御言葉は神様から発しており、それがうそをついたりだましたりすることはありえません。
        
この御言葉に私たちは信頼します。
       
(F.G.ヘドベルグ 「命のことば」)

2010年6月2日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」 第5回目の質問

第5回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第5章

洗礼において、私たちは、異邦人の命とはまったく異なる「新しい命」をいただきました。
それは、クリスチャンの生活の中にあらわれてきます。

1)この章の最初の部分には、悪い行いについての長いリストがあります。
これらのうちで、私たちの時代でも問題になっていることはどれでしょうか。

2)クリスチャンは、この世の人々とまったく同じような態度で、自分の財産を取り扱っているケースがしばしばあります。
貪欲が私たちの生活を蝕んではいませんか。

3)「エフェソの信徒への手紙」5章22~33節は、夫と妻の関係についてどのようなイメージを描き出していますか。
私たちはそれを受け入れることができますか。
このような聖書の指示は、「古びてしまう」ことがありうるでしょうか。

4)この章は「奴隷と主人」について語っています。
どのようにすれば、この箇所を現代にあてはめることができるでしょうか。

5)「教会がキリストの花嫁である」ことを語っている聖書の箇所を探してみてください。