2015年9月25日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 9章6〜29節 神様は御心のままに人を選抜なさいます(その2)

神様は御心のままに人を選抜なさいます 9629(その2)


私たちはパウロのようには
造り主に対してなかなか頭を下げようとはしません。

なぜ神様は人々の石のように堅い心を粉砕する力を、
私たちの福音伝道に与えてくださらないのでしょうか。

どうして私の子どもたちや、配偶者や、友人たちは
福音に興味を示さないのでしょうか。

彼らのために神様に祈りをささげるのを、
私たちは決してやめてはいけません。
私たちは神様の比類なき偉大さを素直に認めて告白するべきなのです。
被造物は造り主に対して反抗するべきではありません。

パウロは、
エレミヤが陶器職人たちの仕事ぶりを観察するために
彼らの仕事場に連れて行かれた旧約聖書の出来事を記します。
職人が自分の作った器に納得できない場合、
その器は再び粘土にされます。
どうしてそのようなことをするのか、
陶器職人は誰にも弁解する必要がありません。

陶器職人が自分の作った器に対してもっているのと同じ権利を、
神様は私たち人間に対してもっています。
パウロがこの章などで扱っている内容の意味を考える上で、
この視点は忘れてはならない大前提です。
私たちが人生を通してそれを学び習得していくのは
決して容易なことではありません。

しかし、
神様が義しい唯一のお方であり、人が皆罪深い存在である、
という真実は変わることがないのです。

2015年9月18日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 9章6〜29節 神様は御心のままに人を選抜なさいます(その1)


神様は御心のままに人を選抜なさいます 9629節(その1)


この箇所でパウロがまず一番強調する点は、
神様は人間のはるか上におられる方だ、という認識です。
ここで私たちは、
純粋にユダヤ的な旧約聖書の信仰と、
色あせた希薄な西欧のキリスト教信仰との間の違いを目にします。

自分の抱えている苦しみがたとえどれほど深いものであったとしても、
パウロは王であられる神様の権能の領域に
足を踏み入れようとはしませんでした。
神様は御心のままご自由に、人を救いへと選ぶことができるのです。
この神様のやりかたに対する批判を、パウロは徹底して否定します。
神様は憐れもうとなさる人を憐れみ、
かたくなにしようとする人をかたくなになさるからです。
神様が誰かを選び、また誰かを選ばない、というやりかたについて、
旧約聖書はいくつかの実例を挙げています。
たとえば神様はイサクを選び、イスマエルを選びませんでした。
またヤコブを選んで、エサウを選ばれませんでした。
とりわけエジプトのファラオは、
かたくなになった人間として今日でも通用する代表例です。
神様がファラオをかたくなにされたのは、
イスラエルの奴隷状態からの救済が、
人間の行いによるものではなく神様の御業によるものであることを、
明示するためでした。
このようにして今もなお神様は、
イスラエルの一部を「聖なる民」として選抜なさっています。
神様はおひとりでこの「選抜」を行われました。

すべての人が救いへと招かれているのは、たしかです。
ところが実際に主の御許に来たのは、ごく少数の人々だけでした。
この奥義を前にして、パウロは深く頭を垂れます。

2015年9月11日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 9章1〜5節 福音を拒むユダヤ人

福音を拒むユダヤ人 915


まずパウロはユダヤ人をめぐる問題を提示します。
福音伝道は、異邦人の間では成果を挙げましたが
ユダヤ人の間では順調な広がりを見せませんでした。
パウロにとってこれは辛いことでした。
モーセは、
不平ばかり言っている民の代わりに自分が見捨てられるように
と神様に願い出たことがあります。
パウロもそれと同じことをここで願いますが、実現しませんでした。

神の御子イエス•キリストが十字架で流された血によって、
全世界のすべての人間(そこにはユダヤ人も全員含まれます)の
すべての罪を身代わりに引き受けて、
義なる神様の御前でその罪の罰をすべて受けてくださった、
という福音は、
神様の御国に属する民であるユダヤ人にとって受け入れがたいものでした。

この状況は今日に至るまで変わってはいません。
ユダヤ人伝道は許可されている範囲で行われてはいますが、
それでも一年の間にごく少数のユダヤ人が
キリストを信じるようになるのがやっとという状態です。
これほど徹底して福音を拒絶する態度は、他の民族では見られない現象です。

2015年9月7日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 9〜11章 教会とユダヤ人

教会とユダヤ人

「ローマの信徒への手紙」911


今回取り上げる911章は、私たちに大問題を突きつけます。
ここでパウロは
自分もその一員であるユダヤ民族の行く末について述べているからです。
彼はイスラエルが福音を拒絶する有様を、
心を痛めながら実際に自分の目で体験しました。
これはなんとも奇妙な状況でした。

罪深い存在である人間を救うために、
神様は天地創造の時以来、
目に見える形で人間の歴史に関わり続けてこられました。
神様は御言葉を通して、
御自分についてユダヤの民に啓示して救いの約束をお授けになりました。
にもかかわらず、
ユダヤの民の大多数はキリスト教会に加わろうとはせず、
教会の外部に留まりました。

これが「異邦人の使徒」であるパウロにとってどれほど辛いことであったか、
9章の始めの言葉からも感じ取ることができます。

パウロの親戚や友人たちは、彼の伝える福音に注意を払いませんでした。
現在でも多くのキリスト信仰者は、
自分の親戚や友人に関して、パウロと同じように、
なぜ彼らは福音を受け入れないのか、問わずにはいられません。

神様が罪深い存在である人間を救われる出来事は、
人類の歴史の中で今この瞬間も起きているし、またこれからも起こります。

歴史におけるイスラエル民族のもつ意味に関しては、
私たちの生きている現代においても様々に相反する意見が述べられています。

911章でパウロはこれらの問題を、
感嘆するほかない鮮やかなやり方でじっくりと掘り下げていきます。
この難問に真正面から取り組んだ彼は、
最も深く暗い場所に、神様の最も偉大な善き御心を見出します。