2010年11月19日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第3回目の終わりのメッセージ

   
終わりのメッセージ
  
ある知り合いの家族が湖畔のサウナ付の小屋を買いました。
はじめはすべてが順調に見えました。
よい小屋で、美しい湖畔でした。
しかし、ほどなくして小屋の基盤が崩れてきました。
床は傾斜し、ドアは開けることができなくなりました。
高くつく嫌な修理が、早々にも必要になりました。
小屋を買った家族にとって、それは予想外の残念な出来事でした。
これは人生についても当てはまるイメージだと思います。
現代では「変化」が話題になることがしばしばあります。
  
社会が変わる、学校が変わる、人間が変わる。
変化について行かなければならない。
前に受けた教育を補充するか、あるいは新たな教育を受け直さなければならない。
物事も知識もどんどん古びていく。
時代の趨勢に取り残された者は負け組になる。
   
これはもちろん本当のことです。
しかし、変化を煽り立てる風潮にはどこか大げさなところがあります。
まるで変化することが自己目的にでもなっているかのようです。
こうした風潮は必要以上に変化を喧伝しすぎてはいないか、批判的に検討するべきでしょう。

とりわけ疑わしくまた苦々しく思われるのは、変わることがなく留まりつづけるはずのことさえも「古びた」とみなされる場合です。
「結婚や家庭というものさえもゴミ箱に投げ捨ててしまおう」、という風潮に対して、注意警報のベルが鳴り出しています。
その時にはすでに床は傾き、ドアはガタガタになり、基盤が揺るがされています。
全部が全部変化しなければならないものでしょうか。
他の全部が変化していく中で、変化しないまま留まりつづけるものは何もないのでしょうか。
まったくすべてが流れ去ってしまうわけではありません。
崩れない基底が存在します。
「神様の御言葉」は決して変わりません。
その上に人生という家を建てることができるし、「いつかまた新しい基盤を探さなければならない」、などと考える必要もありません。
「救い主の贖いのみわざ」は変わることなく立ちつづけています。
罪人に対して、揺るぐことのない恵みがあります。
それに基づくとき、信仰も変わらずに立ちつづけます。
基盤なしの信仰は何の価値もありません。
人生という建物を、その隅が沈下したりしないように、変わることなく留まりつづける基盤の上に建てていくことができるのです。
  
(ラウリ・コスケンニエミ 「私と今日共にいてください」)