フィンランド・ルーテル福音協会は1900年以来日本にルター派の宣教師を派遣し続けてきました。このブログでは、この宣教師団体の聖書や信仰生活に関する教えをフィンランド語から日本語に翻訳して紹介します。(夏は不定期更新になります)。
2010年1月20日水曜日
「エフェソの信徒への手紙」 第1回目の質問
第1回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第1章
第1章では、神様が私たちを救い出すためにしてくださったことすべてについて、神様に感謝をささげています。キリストはその血によって、私たちの罪を取り除いてくださいました。
クリスチャンである人は、神様の子供であり、(御国の)相続者です。
1)洗礼を受けている人は、神様の子供です。
主の祈りの中で、私たちは自分たちのお父様として神様に話しかけます。
私たちが神様の子供であり、神様が私たちのお父様であることを、
私たちは忘れることが多く、感謝する心も消えてしまうようです。
どうすればよいのでしょう。
私たちは祈るときに神様に感謝することが少なすぎるのでしょうか。
今日私たちは何について感謝することができるでしょうか。
感謝の詩篇の中では、どのようなことについて感謝がささげられていますか(たとえば、詩篇98篇や104篇)。
「祈りの日記」をつける人もいます。あなたがたは同じようなことをしていますか。
どうして人は自分が神様の愛する子供であることをなかなか信じられないのでしょうか。
2)第1章のはじめの部分では、どのように神様がすべてを導いておられるか、
はっきりと語られています。
なぜ私たちは偶然や幸運や不運などについて口にするのでしょう。
神様の導きに頼りすぎたり、間違ったやり方で逃げ込むことがありうるでしょうか。
3)神様の計画なさったことが、どのようにあなた自身や身近にいる人たちの上に見えるかたちで実現しているか、語ることができますか。
あなたが教会に連なっているのは、どのようなことに基づいているのでしょうか。
どのようなことがらについて、神様が共にいて助けてくださることにもっともわかりやすく気がつくことができるでしょうか。
4)あなたは聖書の中から、自分の人生に適用できる具体的な指針を見つけましたか。
どの聖書の箇所があなたの心に触れ、あなたのそれまでの考え方を変えさせましたか。
「エフェソの信徒への手紙」1章15~23節は、教会員は神様の秘密と栄光についてごく一部のことしかしっていないことを、あきらかにしています。
この事実を考慮に入れることが私たちにはできるでしょうか。
それとも、私たちは神様をあまりにも矮小化してしまっているのでしょうか。