2007年12月31日月曜日

人には、自分で自分の命を消すことが許されているのでしょうか?

今私たちは「命の貴さ」をクリスチャンとして学びなおす必要があると思います。
今年一年もすべての命の源である神様と共に歩みましょう。



人には、自分で自分の命を消すことが許されているのでしょうか?

エルッキ・コスケンニエミ


自殺は、世界のさまざまな文化の中で、時代によって、いろいろなやり方で取り扱われてきました。自殺が「勇気に満ちた素晴らしい行い」とみなされたケースも多くあります。とりわけ紀元1世紀のローマでは、自らの手で命を絶つことは、「人間が自分の命について、自ら勇気ある選択を行い、それを変わりやすい運命の手に放棄したりはしなかった」ことを示すものとみなされました。

旧約聖書は自殺について4つのケースを挙げています。
1)士師記9章54節(アビメレク)
2)サムエル記上31章4~5節(サウル)
3)サムエル記下17章23節(アヒトペル)
4)列王記上16章18節(ジムリ)
多くの場合、人々の行動について評価を下さずに語るのは、旧約聖書に典型的な特徴です。にもかかわらず、読者は、たとえばサウルやアヒトペルのケースに関しては、彼らの自殺が「間違った道の間違った結末」であったことを理解します。新約聖書にあらわれる自殺の唯一のケースは、イスカリオテのユダの最期です。ペテロとユダという、罪に落ち込んだふたりの人間の後悔を比べてみるとそこに決定的な違いがあることに、クリスチャンたちは昔から注目してきました。すなわち、ペテロは悔いてキリストのみもとへと戻ったのに対し、ユダは後悔したあと絶望して自殺への道を選んだのです。

血に塗れた過酷な迫害は、初期の教会史に深い刻印を押しました。その時期には、あがない主イエス様を否定するぐらいなら自らすすんで死を選んだクリスチャンたちがいました。ある意味で彼らは迫害における英雄たちでした。
「殉教を慕う心は自殺を求める心に近いのではないか」とみなす研究者たちもいます。しかし実際は、クリスチャンに対して「自分からすすんで拷問を受けて、死になさい」などという教会の教えや助言はありませんでした。教会は何世紀にもわたって愛をもって殉教者たちを覚えてきましたが、一方では自殺を否定してきたのです。

神様の命令であるモーセの十戒の中の第五戒は、「あなたは殺してはならない」です。この主の命令に基づいて教会教父ラクタンティウスは、「人間は非常に聖なる存在であり、神様は人の命をそれを殺した者の手から要求なさる」と言っています。神様御自身が人間の中に命の炎を吹き入れてくださったのです。偉大な創造主の「時」がくると、主御自身がその命の炎を吹き消されるのです。このように行う権威は人間には与えられてはいません。他の人に対してもまた自分自身に対しても。私たちは命を神様の御手からいただきます。たとえそれが痛みと苦しみに満ちた困難な人生であったとしてもです。
私たちは「命を守る」ために働くべきです。それゆえ、隣り人の生きる意欲を聞いて助けて守るのがクリスチャンの義務です。この点について私たちはもっと他の人たちに対しキリストが与えてくださる愛をもつべきだし、もっと彼らを助ける意欲が今まで以上に必要なところです。

自殺してしまった人たちを裁くのは私たちの仕事ではありません。私たちは彼らを神様の御手にゆだね、彼らがすべての罪から憐れまれるように祈ります。
「偶然に生れた人はただの一人もいない。今存在しているのは偶然ではない。神様に忘れられている人もいない。人ひとりひとりの命は神様にとって貴くかけがいのないものだ」という真実を、今生きている私たちは決して忘れてはなりません。

2007年12月19日水曜日

もしも目の前に荒野があらわれたなら

信仰生活に疲れて、いろんな理由から教会に通う力もない、と感じることは誰でもあるでしょう。
そのような時にどうすればよいのか、少し考えてみたいと思います。


「もしも目の前に荒野があらわれたなら」

エルッキ・コスケンニエミ


イエス様を信じるようになるとき、多くの人はたくさんのことを経験します。ところが、時とともにそれら経験したものがすべて消えてしまうということがあります。そのようなときに何をすればよいのでしょうか。信仰は一瞬だけの泡のようなものにすぎないのでしょうか。真理とは何の関係もない、人の心の中の生々しいあらしにすぎないのでしょうか。

いつの時代もほとんどのクリスチャンが、こうした問題にぶつかってきました。この問題に対してよい薬を見つけた人もいれば、やましい良心をもちつづけている人もいます。「自分で信じる」という能力が消えると同時に、信仰を失ってしまう人が何人もいます。

自分自身の状態を正直に見つめて、「私は信仰者にはなれない。私は自分の信仰を失ったのだもの。」などという人も多いです。この人の言っている初めの半分は正しいです。しかし、終わりの半分についてはべつにそうなると決まっているわけではありません。それどころか、まさに今こそ本当の神様の恵みを見つけることが可能になるのです。

人が自分の中に「信じるための起爆剤」をもっている間は、その人の信仰はある種の「外面」をもっています。しかし、そうした起爆剤が底を尽きると、「自分の力」なるものは取り去られてしまいます。自分の力が完全に消えうせてしまったときになってはじめて、人は、神様の愛を受けるにはまったくふさわしくないはずである自分のような者を愛してくださっている神様へ、自分の心をあずけることができるようになります。聖書の神様に対して、心が開かれるのです。御自分を罪深い世の命として差し出してくださった神様に、自分を明け渡します。神様の恵みとはどういう意味か、わずかながらも次第にわかってくる時になったのです。

ルター派の信仰の最も貴い宝石のひとつに、日々復唱すべき信仰告白の第3条(聖霊について)の次のような説明があります。
「第3条 聖化について
聖霊様を、私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠の命を信じます。アーメン。

この意味は何でしょうか。答え。

「私は自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみもとに来ることもできない」ことを、私は信じます。けれども、聖霊様は、福音を通して私を召し、その賜物をもって私を照らし、真の信仰のうちに聖め、保ってくださいました。(以下略)」

これはへりくだった信仰告白であり、また祈りでもあります。私がキリストを選んだのではなく、キリストが私を選んでくださいました。もしも神様が今私から御霊を取り去るなら、私は一日たりとも信仰に留まることはできません。

人は、自分の力で行うことができ、知ることができる間は、聖礼典(洗礼と聖餐のサクラメント)とは何のかかわりもなく生きています。ところが、自分の力がすべて消えうせてしまうと、神様の力が大切になってきます。神様は洗礼において、私たちの上にキリストを着せてくださったのです。それはちょうど暖かくて清潔なコートを着せてくださるのと同じです(ガラテアの信徒への手紙3章27節)。[1]
聖餐式に参加するときに、あなたは自分の唇でキリストに、そのからだと血に触れることになります(コリントの信徒への第1の手紙11章)。
そのときに神様は私たちから遠く離れておられるのではありません。すぐ近くにおられて、私たちを憐れみ、罪を赦し、世話してくださっているのです。また、私たちにクリスチャンとして生きる新しい力を与えてくださっているのです。

イエス様を信じるようになることは、多くの人にとって素晴らしい経験です。とりわけ、「自分は信仰者などには到底なれない」とはっきりわかったときにはじめて、キリストの恵みが見出されるのです。そのときに、自分の積み上げてきた仕事は溶け去ってしまいます。しかし一方では、神様のみわざ、聖書、洗礼、聖餐とざんげ[2]とは、揺らぐことのない「岩」であることがあきらかになります。
こういうわけで、「荒野」はべつに悪いことばかりではありません。荒野は私たちに、自分の力をわきに斥けて、神様の力を見つめるように教えてくれます。ルターは、「神様は天国まで届くほどの、燃え上がる愛のオーブンである」と言っていますが、それはこのことを意味しているのだと思います。

「しかしシオンは、「主は私を捨て、主は私を忘れられた」と言いました。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあるでしょうか。たとえ彼らが忘れるようなことがあっても、私は、あなたを忘れることはありません。ごらんなさい、私は、手のひらにあなたを彫り刻みました。あなたの石がきは常に私の前にあります。」(イザヤ書49章14~16節) 

[1] 「キリストの中へとバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのです。」
この「着た」というのはギリシア語では中動態です。すなわち、人間が自分の力で積極的(能動的)にキリストを着たのではありません。といって、人間は一方的に(受動的に)キリストを着せられているわけでもありません(訳者註)。
[2] 「ざんげ」とは、神様に自分の罪を告白し、神様から罪の赦しの宣言をいただくことです。牧師が、ざんげする者の罪の告白を聞き、それから神様の御前で神様にかわり罪の赦しを宣言します。ざんげをした者は、その赦しの宣言が、神様御自身からのものであることを、疑わずにかたく信じなければなりません。

2007年12月15日土曜日

イエス様は、賜物であり模範です。

今回のテーマは、私たちにとってイエス様はどのようなお方であるか、ということです。当たり前のようでいて、バランスよくとらえるのが意外に難しいことがらだと思います。


イエス様は、賜物であり模範です。

エルッキ・コスケンニエミ

イエス様について語る人は多くいます。しかし、彼らはとくに「信仰者」になりたいと思っているわけではありません。彼らはあるいは信仰の道を捜し求めている人たちなのかも知れません。彼らは、イエス様の教えが知恵に満ち正しいことや、皆がイエス様の生き方や教えのとおりに教え生きるのが望ましいことを、よく知っています。しかし、彼らは、イエス様が私たちにとって、「賜物と模範」という二つの意味をもった存在であることを理解していません。そして、このことにまだ気が付いていない人は迷子になっています。

「イエス様が私たちにとって賜物である」というとき、次のことを意味しています。イエス様は私の罪を取り去って、私を神様の子供にしてくださいました。私はそのようなことをしていただくには値しない者なのに、イエス様がゴルゴタの十字架で私の悪い思いや言葉や行いを取り去ってくださったおかげで、私は罪のないきれいな存在でいられるのです。さらにイエス様は、私の人生の日々の生活の中で私の傍らを共に歩んでくださいます。イエス様は私の世話をすることや、つまずいた私を立ち直らせることや、私に罪の赦しを与えることに疲れてしまうようなことはありません。洗礼盤のほとりで、主の聖餐の台で、ざんげの執行に際し、神様の御言葉をひもとくとき、私はこの賜物をあがめます。私からは何も要求されていません。私は神様からたくさんのものをいただこうとしているのです。

「イエス様が私たちにとって模範である」というとき、次のことを意味しています。私たちのために御自分の命を差し出すために、神様の栄光から汚れに満ちたこの世に来られたとき、イエス様は御自分に従う者たちひとりひとりに模範を示してくださいました。私を救ってくださるときに、イエス様は御自分の命をまったく惜しまれませんでした。それゆえ、私は「自分の使命は自分だけを大切にすることではなくて隣人を愛することにある」、と理解するのです。この愛はたんなる思想ではなく、十字架のイエス様をたえず模範とするものです。十字架でイエス様は罪人のためにすべてを犠牲にし、しかも御自分を虐待する者たちのために祈られたのでした。私は本当にたくさんの罪を赦していただいたので、私には誰かと憎しみ合ったり、誰かを見下したりする権利はないのです。「私たちは愛し合います。なぜなら、イエス様がまずはじめに私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの第1の手紙4章)。

このようにイエス様は賜物でもあり模範でもあります。多くの人はイエス様を模範とみなそうとしています。しかし、イエス様が私たちにとってまずなによりも賜物であることを理解しない限りは、イエス様を模範とみなしても何の益もありません。仏教徒もイエス様の模範を褒め称えています。にもかかわらず彼らは真のイエス様を見出せないままでいるのです。イエス様のペルソナは人間の私たちにとって謎です。聖霊様がイエス様を私たちにとっての賜物であることをはっきり示してくださるときにはじめて、この謎が解けます。そして、そのあとでイエス様御自身が私たちにとって模範にもなるのです。

イエス様は私たちにとってまず第一に賜物であり、そしてその次に模範なのです。もしも人がイエス様をたんなる模範とみなすなら、その人は真のイエス様を理解してはいませんし、クリスチャンでさえありません。私は「クリスチャン」です。「キリストと共に十字架につけられた者」です。なぜなら、キリストが私をクリスチャン、「神様のもの」にしてくださったからです。そして、私の残された全人生は、私の偉大な模範(師匠)に学び従っていくという、心躍るチャレンジにほかなりません。

2007年12月7日金曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?

今回はクリスチャンの特権である聖餐式の意味について考えてみることにしましょう。


私たちは聖餐について何を信じていますか?

ヤリ・ランキネン

「主の聖餐について私たちの諸教会(ルーテル教会)はキリストのからだと血とは聖餐の中に本当に存在しており、聖餐を受ける者たちに対して分け与えられます。私たちの諸教会はこれとは異なって教える者を峻拒します」(アウグスブルク信仰告白第10条)。

「これは私のからだです。(中略)これは私の血です」(マタイによる福音書26章26~28節)。この御言葉によって主イエス様が言われたいのは、「御自分が聖餐式の中に、ほとんど見えないかたちをとりながらも、本当に、他の場所よりはっきりと、存在しておられる」ということです。

ある人から「牧師が聖餐について正しく教えているか、どうしたら知ることができるか」とたずねられたルターは、その人が牧師に対して次のような質問をしてみるように命じました、「あなたが聖餐を分け与えているときに、あなたの手に持っているものは何ですか?」。もしも牧師が聖餐がどれほどすごいことであるかわかったならば、その牧師は「私は手にイエス様を持っています」と答えることでしょう。

イエス様はパンとぶどう酒の中におられます。それゆえ、牧師は祝福された聖餐のパンとぶどう酒を高く持ち上げて、それからそれらに対してひざまずくことがあるのです。あるいは、礼拝出席者たちが「神の小羊(イエス・キリストのことです)」に祈り歌うときに、牧師が聖壇の傍らに退いて、聖壇の中央にある聖餐のパンとぶどう酒の中におられるイエス様のみが、会衆の賛美の対象となるようにすることもあります。

どういったところからイエス様を見つけることができるでしょうか?病人が癒されたり、人が霊に満たされて倒れたり、などと特別なことが起きているところに、イエス様はおられるのでしょうか?それとも、イエス様の存在を体感できる集会とか、まれに見る優れた説教者がいるところに、イエス様はおられるのでしょうか?イエス様はそういったところにもおいでかもしれません。しかし、少なくとも、イエス様は聖餐の中に確実に存在しておられます。なぜなら、イエス様御自身がそのように約束してくださったからです。あなたは聖餐式に行きなさい。そうすればあなたはイエス様と会うことができます。あなたのかかえている事柄を聖餐のテーブルに携えていきなさい。そして、それらの重荷をイエス様にあずけなさい。そうすればイエス様はあなたに、あなたが必要としているものをくださいます。イエス様に会いたい他の人たちも聖餐のテーブルにつらなるようにさそいなさい。

「「神の子」(イエス・キリストのこと)がパンとぶどう酒の中に存在している」というのは、ナイーヴな迷信的な考えに感じられるかもしれません。「天国で父なる神様の右の座におられるイエス様が、聖餐の中におられる」こととか、「イエス様はいろいろな場所で行われている聖餐式に同時に存在されている」ということを、私たちの理性はおそらく理解しないことでしょう。こうした事柄を信じるのが難しいのは、聖餐式で「イエス様にお会いしている」とは感じられないからでもあります。「イエス様がおられるならそれを感じるはずだ」と私たちは考えがちなのです。私たちの理性や感情がどうであっても、神様の御言葉が何を言っているか、見つめて、それを信じるべきです。このようにして私たちは信仰を殺してしまう理性の乱用から守られ、私たちの信仰が自分の感情に左右されてしまうことからも守られます。信仰は神様の御言葉に基づくべきものです。すなわち、「私たちは聖書が言っていることを信じます」ということです。こうすれば、私たちの信仰は堅く保たれます。神様の働きは私たちの感覚や理解には依存していません。

「イエス様が本当に聖餐の中に存在している」ことを信じるのが難しい場合があるのは、聖餐式がとても地味なものだからでもあるでしょう。聖餐を配るのは不完全な人間であり、天から音が響き渡るわけでもないし、聖餐にあずかるのも罪人の群れです。ルター派の教会の信仰の教えは、「十字架の神学」と呼ばれます。神様はこの世では御自分の力を隠しておられます。そして、神様が働かれているのは、そうは見えないところにおいてこそなのです。

私たちが信じるか信じないかにはかかわりなく、イエス様は聖餐の中におられます。私たちの信仰が聖餐をつくりだすわけではありません。聖餐をつくりだす(つまり聖餐を聖餐たらしめる)のは、神様の御言葉です。

いかにしてイエス様がパンとぶどう酒の中におられるか、私たちは無理やり説明しようとしたりはしません。なぜなら、聖書はそれについて何も語ってはいないからです。私たちの好奇心がそれについてもっと知りたいと思っていても、聖書が言っていることだけを言うことで満足すべきです。

パウロは、聖餐はイエス様とのつながりである、と書いています(コリントの信徒への第1の手紙10章16節)。私たちと、私たちの罪を帳消しにしてくださるお方との間につながりが生まれるとき、私たちは「自分たちの罪がすでに帳消しにされている」という恵みを実際に我が身に受け取ることができるようになります。すなわち、私たちはそのとき罪の赦しをいただくのです。ルターは「聖餐にはどのような益があるか」という問題にこう答えています、「この聖礼典(「サクラメント」、ここでは聖餐をさしています)において私たちに罪の赦しが与えられています」。

聖餐式は罪の赦しの恵みをつくりだしませんが、そのかわり、すでに用意されているその恵みを分け与えます。聖餐式はイエス様をくりかえし犠牲としてささげる場ではなく、イエス様が一度限りの十字架の犠牲によって確保してくださった恵みを提供する場なのです。

とりわけこのことを理解するのは容易ではありません。聖餐式で人は聖壇のもとに来てひざまずき、祝福された聖餐のパンとぶどう酒を受け、罪の赦しをいただきます。「神様の恵みがこんなに容易に得られるはずがない」と、私たち人間は考えがちなのです。人間には罪が隅々まで染み付いているので、人間が考えることは、信仰にかかわる事柄については正しく教えない「欺きの声」なのです。イエス様のみもとに自分の罪をもってきて、罪の赦しを乞う人は、すべて赦されます。「まさにこのように恵みは簡単なことなのだ」と聖書は言っているのです。

聖餐式の最も難しいところは、その簡単さにあると言えるでしょう。私たち人間は、「あらゆることは、それを得るために自分で働いたその報酬として受け取るべきだ」という考え方に慣れています。私たちは、こうした考え方を神様の恵みに対してもあてはめがちなのです。「自分の生活から一番悪い罪だけを取り除くことができたら」、「少なくとも数日間はいつもよりよい人として生活することができれば」、「十分に深く罪を悔いることができたなら」、「悪い行いの償いをしたら」、「長く熱心に祈るなら」、「そうすれば私は神様のみもとに行くことができるし、神様は私のことを憐れんで下さる」などというように、人は考える傾向があります。しかし、神様の恵みは商売の取引の品とは違います。それは「ただ」(つまり「無代価」)なのです。神様の恵みを「買う」必要はまったくありません。それを受け取るのにまったくふさわしくないような人も、それをいただくことができます。もしも私たちが神様の「ただの恵み」について何か理解したのなら、それによって私たちは自分の信仰に堅固な基盤を得るのです。「信じている」という感情が消えてしまったり、「私はどうしようもない」とか「自分の信仰は非常に弱い」と感じるときでも、神様の恵みは変わらずに有効です。私たちは自分を恵みに完全にゆだねてよいのです。恵みにゆだねて弱い罪人である私たちは居心地よく生活していけます。恵みにゆだねて私たちは前にすすむ力が与えられ、天国に入って行きます。

これは「神様の恵みが聖餐の食卓にのみある」という意味ではありません。恵みはまた、宣教された福音や罪の赦しの宣言や洗礼の中にもあります。神様の恵みは豊かです。この同じ恵みが、神様が選ばれた多くの手段を通して、私たちのところにやって来ます。私たちはこれらのすべての手段を必要としています。なぜなら、「神様の恵みが十分であるかどうか、疑う」という不信仰が私たちの中にしつこく残っているからです。

聖餐式は罪の赦しをいただく場所です。それゆえ、聖餐式へと心を整える正しい方法は、自分の罪に気が付いて、悔い、それを告白し、罪の赦しを乞うことです。悔いることには、「私たちが罪から解放されるための力を真剣に神様に願い求める」ことが含まれています。

「あなたがたは、このパンを食べ、この杯から飲むたびごとに、主の死を宣べ伝えているのです」(コリントの信徒への第1の手紙11章26節)。聖餐式はイエス様の死を宣べ伝えることです。それは、イエス様の十字架について語る説教と同じように働きかけます。すなわち、十字架の意味がはっきりと示され、信仰が強められます。私たちは、どのようにして聖餐式がこのような働きかけをするのか、わかりません。「私たちの理解力に触れることがらだけが私たちの信仰を強める」と、私たちは考えがちなのです。にもかかわらず、聖餐式ではこのようなことが起きています。説明のしようがない方法で、聖餐式は信仰を養ってくれます。主の死を宣べ伝えることは、信仰について証することをも意味しています。日曜日の朝に教会に行き、そこで聖餐にあずかるとき、あなたはあなたの主を証しているのです。

誰が聖餐式に連なることができるのでしょうか?イエス様は聖餐の食卓におられ、みもとに来るように呼んでおられます。2000年前に、イエス様にとって悪すぎる人は誰もいなかったし、イエス様を必要としないほどよすぎる人もいませんでした。これは今でも同じです。

驚くほど多くの人はこう考えています、「自分が聖餐式によりふさわしい存在になってから、聖餐式に行こう」。しかし、ルターはこう書いています、「もしもあなたが本当に自分の義や清さを見つめて、もはや何もあなたを誘惑しない状態に達するために努力するつもりなら、あなたは決して聖餐式に連なることはできないでしょう」。悪魔は人にその人の罪を示します。なぜなら、悪魔は「人がイエス様から離れたままでいる」ことを望んでいるからです。聖餐式というのは、人が目を自分から完全に背けて、イエス様を見つめることにほかなりません。このイエス様から人は、神様の子供が生活し天国に入るために必要なすべてのものを、贈物としていただくのです。

「キリストのからだであることをわきまえないで聖餐を食べまた飲む者は、自分に対して裁きを食べまた飲むことになります」(コリントの信徒への第1の手紙11章29節)。聖餐の食卓からキリストや恵みを求めない者もまた、キリストのからだと血を得ます、ただし、それらを自分の裁くものとして得るのです。それゆえ、聖書が聖餐式について教えていることを軽んじる者は、聖餐式にあずかるべきではありません。それほど聖餐式は聖なるものなのです。
子供が聖餐式をほかの食べ物から区別して、「聖餐式はイエス様とお会いすることだ」と知っているなら、その子供に聖餐を配ることができます。こうした問題について子供からあまり要求しすぎてはいけません。

初期のキリスト教会では、ひどい罪を行っている者に対しては聖餐をあずからせないようにすることがありました(コリントの信徒への第1の手紙5章5節)。このようにすることで、「人が罪を悔い改めようとはしない場合には、どこへ落ち込んで行くか」について、教会は教えてきたのです。罪を悔い改めようとはしない人は、神様の恵みがない場合に当然の報いとして受けるべき場所へと行くほかないのです。ですから、教会は今でも同じように教え実行するべきです。そうすることは、滅びへの道へとさまよいこんだ多くの者にとって必要であり、十分に真剣な警告であり、また、「その人のことを本気で心配している」ことを示すことにもなるでしょう。そうすることはまた、私たちが滅びの存在を本当に信じていることを示すことにもなります。

婦人牧師の配る聖餐式は正しい聖餐式でしょうか?私はこのことをあるビショップ(フィンランド福音ルーテル教会の指導者のひとりだった人)に尋ねたところ、彼はこう答えました、「私はわかりません。神様のはっきりした御言葉に反して牧師になった人間(女性)が施行したり配ったりする聖餐式を、神様が祝福してくださるかどうか、私は知りません。私は確実な道を選びます。だから、私は確実に聖餐をいただける聖餐式に連なるし、他の人たちにもそうするように忠告しています」。

2007年11月28日水曜日

どうして神様は人になられたのでしょうか?

今度の日曜日からアドヴェントの時期が始まります。それは教会暦の一年のはじめでもあります。
そこで、今回はアドヴェントの意味を考えてみることにしましょう。


どうして神様は人になられたのでしょうか?

エルッキ・コスケン二エミ


1.Ceterum censeo[1]

ここフィンランドでは、クリスマスもアドヴェントもその意味が見失われてしまいました。人々はそれらの意味を考えてみようともしません。
こうした一般の潮流に逆らって、ここでは、アドヴェントの時期を覚え、アドヴェントが本来クリスマスへの「橋渡し」であることの意味を考えてみることにしましょう。


2.ネヘミヤ記9章

他の多くの場合にもそうするように、私たちはここでも旧約聖書から出発することにしましょう。旧約の民が神様との関係を保ってどれほど「よく」生きていくのに成功したか、私たちは頭を悩ませる必要はありません。彼らの歩みの初めの部分については、ネヘミヤ記9章にある「民の大きな罪の告白」に記されています。それは、創造主や主である神様への賛美から始まります。神様はアブラハムを選び、彼の子孫に「約束の地」を与えることを約束してくださいました。ファラオの反対にもかかわらず、神様は御自分の民をエジプトから導き出してくださいました。神様は御自分の律法を御自分の民にお与えになり、彼らが反抗的であったにもかかわらず、耐え忍んでくださいました。神様は御自分の民を導いて、城壁に囲まれた町をつぎつぎに征服させました。神様の民が神様を見捨てるという罪を犯したゆえに、神様は御自分の民を攻め圧迫してくる敵の手に渡されました。しかし、彼らが苦しんでいるときに彼らの声を聞いて彼らに士師を与えてくださいました。主は御自分の民に対して預言者たちを通して語られましたが、民は聞こうとはしませんでした。神様をないがしろにする民の罪を長い間耐え続けたあとで、主は御自分の民を異邦人たちの手に渡されました。しかしながら、神様の忠実さはエルサレムの崩壊の後でさえも絶えることがなかったのです。こうして民は捕囚の中で生きていくことが許されました。ネヘミヤの時代になり、今や民は自分たちの土地に帰ることができました。そして、異邦人の政治的な支配下におかれる原因となった自分たちの罪を、神様に告白したのでした。

このようにネヘミヤ記9章はイスラエルの民の歴史を描き出しています。そこには、「神様は忠実であられたが、民は反抗的だった」というはっきりとしたメッセージがあります。

このようなイメージによく似ているのが、使徒の働き7章にでてくるステファノの説教です。人々は神様をないがしろにして生きてきたのに、神様は忠実で義であられました。人々が神様を捨て去ったにもかかわらず、神様は忠実さを守り続け、御自分の民を見捨てたりはなさいませんでした。神様は御計画を人々の力を借りて実現されたのではなく、むしろ「人々(の反抗)にもかかわらず」そうなさったのでした。神様はある人々の殺意を逆用して、御自分の民を守るために御計画を実現されたのでした。そのよい例が、ヨセフがエジプトに売られたことです。そのとき、実は神様がヨセフを通して多くの民の命を救おうと計られたのでした(創世記50章20節)。

すでに旧約聖書を通して、私たちは大切なことを学ぶことができます。その学ぶべきこととは、「ある人間のグループが神様の民の地位を得て神様の御心を知ることができる」ということだけではありません。さらに大きな問題は、「人間の神様をないがしろにする態度と悪さ」です。このために私たちは神様の御心に従うことができず、次から次へと新しいやっかいな問題の中に自分から突っ込んでいくのです。しまいには罪が私たちを神様から最終的に引き離してしまうことになります。人間の働きは何の助けにもなりません。神様の救いの働きが必要になります。神様は全世界に対して救いを用意してくださったのです。神様は歴史の中で働かれ、そこでひとりひとりの人に対して彼らが御自分のみもとへと帰ってくるための「道」を用意してくださったのでした。このすべてが「救いの歴史」と呼ばれるものなのです。


3.救いの歴史と新約聖書

新約聖書は、この「救いの歴史」が何を目指しているか、すでに詳しく知っていました。救いの歴史の神学者としては、とりわけ、ヘブライの信徒への手紙の書き手と福音書記者ルカを挙げることができます。ルカによる福音書のはじめの数章は、「キリストについての福音」がいかに矛盾なく密接に「旧約の義」と結びついているかをよく示しています。ザカリヤ、エリサベツ、ハンナ、そしてシメオンは、神様の働きが御民の只中で根本的に新しい段階に移行するのを見ました。これにはまた、イエス様が御自分の受難を予告なさったことも関係しています(ルカ9章22節)。ルカによる福音書24章13~35節では、復活されたイエス様御自身が、エマオへの道でふたりの弟子に神様の救いの歴史について教えてくださいました。ルカは「使徒の働き」でも救いの歴史について語り続けます。福音はシメオンの言葉どおり「異邦人を照らす光」です(ルカ2章32節)。「使徒の働き」の中でルカは、福音が新しい地域に伝えられていく過程を、詳細かつ正確に描き出しています。たとえば、サマリアに(8章)、何人かの異邦人に(10~11章)、すべての異邦人に伝道するプログラムとして(13章)というようにです。

同様に、ヘブライの信徒への手紙の背景にも、神様の救いの歴史について慎重に吟味された見方があります。このことは手紙のはじめの言葉からもわかります(ヘブライ1章1~2節)。ナザレ人イエス様は何の準備もなくこの世にあらわれたりはなさいませんでした。。それは、神様が昔から何度も様々な方法で預言者たちを通して語られたあとになってはじめて実現しました。この世に来たのは、偉大な大祭司であり、神様の御前、至聖所で、唯一の永遠に有効な犠牲をささげられた方でした。実は旧約聖書のあらゆる犠牲は、このただひとつの犠牲の予型だったのです。大いなる贖罪の日のただひとつの犠牲がそれらすべてをもはや必要のないものにしてしまいました。同時に、ヘブライの信徒への手紙の書き手は神様の民の荒野での歩みに目を留め、荒野の旅の後から来る休息を「神様のもの」である人々に「来るべき世」で約束されている「安息日」の予型として描き出しています。このように、旧約聖書は全体として「キリスト」へと集約されていきます。そして、キリストの中に罪人は命を見出します。


4.アドヴェントの時期と短い断食

私たちは、歴史の中での神様の救いのみわざに対して心が少しも動かないこともあります。それは、神様の救いの働きが「たんに文字の上のことで難しい」と感じられるためかも知れません。だからこそ、私たちはアドヴェントの時期が必要なのです。昔からアドヴェントは、イースターの前と同様に断食の時期でもあります。まさしくこの断食の時期のおかげで、私たちは神様の救いのみわざをたんに文字の上ではなく、実生活の中で体験することができるようになるのです。

イエス様のこの世で歩まれた道は、寝ぼけた人々がとりとめもなく思い巡らす特徴のない世論を伝え広めるようなことではありませんでした。イエス様の道は恥辱と下降への道であり、屈辱を甘受した人の道でした。イエス様は神様からお生まれになった神様であったにもかかわらず、動物小屋のくさいにおいや寒さや飢えを避けようとはなさいませんでした。人々の心のかたくなさ、神様をないがしろにした生活、最良の弟子たちにさえあった無理解、友の裏切り(ユダの接吻など)や親しい者たちの逃亡などが、イエス様の心を動かしました。打たれて死にそうなほど弱った、茨の冠をかぶせられたイエス様が民の前に押し出されたとき、民は「痛みに満ちた人、病気を知っている人」(イザヤ書53章)に対して「死を!」と叫んだのでした。
アドヴェントの時期に私たちは、とりわけイエス様の歩まれた足跡を探り、それらすべてを愛することを学びたいと思います。それらは私たちの心にとって、「復活された主が私たちを愛しており、私たちのためならすべてを与える用意ができているお方であること」を示す証印なのです。

神様のみわざは、何かの「理論」などではなかったし、今もありえません。血が御子の顔から流れ出たとき、同じように父なる神様の心からも血が流れ出たことを、私たちは知っています。熱情の神様は罪を憎んでおられます。しかし、罪人たちを愛しておられます。このように、キリストの十字架は、人間の私たちには理解しがたいような「神様の怒りと愛」を示しているのです。

[1] 大カトーが論弁の終わりによく用いた表現(ラテン語)。「ところで、私の意見では、」という意味。

2007年11月19日月曜日

「日常生活」という仕事 日々の礼拝

今日のテーマは「日常生活」です。テキストを書いているのは、長年、フィンランドでの聖書教育に携わってきた牧師です。彼のおじいさんは牧師として日本で伝道をしていたことがあります。


エルッキ・コスケンニエミ

「日常生活」という仕事 日々の礼拝


16年間

人生の問題に悩んでいたある若者が1505年7月2日に雷雨にあいました。彼はそこに神様の怒りをみて震え上がりました。そして、「もしもこの危険から命が救われるなら、修道僧になります」と神様に誓いました。あらしはやみました。ところが、また新しい「あらし」が起きました。神様に誓ったことを実行しようといた若きマルティン・ルターは、自分の非常に敬愛する父親と衝突することになったのです。父親からしてみれば、「息子が修道院に入る」ということは、今までに息子の教育のためにつぎこんだお金も無駄になり、自分の老後の世話をしてくれるはずだった息子から見捨てられてしまうことを意味していました。息子は父親の反対にもかかわらず、「もしも自分の人生を神様に仕えるためにささげることを誓ったのなら、神様に対して誓ったことはちゃんと守らなければならない」と意志を変えませんでした。しかもルターは自分を厳しく律しました。彼は、祈りや断食をし、自分に絶望するようにさえなるまで自分を吟味・批判することを続けて、「神様に仕えた」のです。ルターはキリストに従うために本当にすべてのものを捨て去ったのでした。富裕になること、この世での出世、結婚相手を得ることや家族を持つことなど、普通の人がいだく人生の夢は、もはや彼には関係のないことになりました。ルターは禁欲の道を選びました。「このようにしてのみ神様に仕えることができる」と思っていたからです。彼の父はあきらめるほかありませんでした。そうするしかなかったのです。

それから16年たってみると状況がまったく変わっていました。1521年11月21日に、すでに有名になっており、「荒野」すなわちヴァルトブルグ城に逃げ込んでいた息子は、父親に感動的な手紙を書きました。今や宗教改革者となった息子は、父親が昔まさしく適切な聖書の御言葉をもちだしたことを思い起こしました。父親はこう言ったのです。
「自分の両親に従わなければならない、ということをお前は聞いたことがないのか?」
父親のこの質問や「修道院に行ったことは人生の過ちだった」という真実に目を向ける勇気を得るまでに、息子は16年の歳月を要しました。ルターは心から神様に仕えたいと望みました。しかし、彼は、神様が命じられたことを行う代わりに、神様が命じられなかったことをしてしまいました。神様が与えなさいと頼みもしなかったささげものを神様にささげていたのでした。それと同時に、彼は神様が定められたあらゆることを無視してきたのです。例えば、「自分の両親を世話する」という仕事です。


世界を揺るがす発見

すべてを捨ててでもルターが入ろうとした「修道院」という制度は、ルターの時代よりも千年以上も前に始まりました。
西暦200年代にギリシア・ローマ文明の地域において新プラトン主義の哲学が影響力を持ち始めました。この哲学の基本的な考え方は、「あらゆる物質的なことは悪く軽蔑すべきことであり、非物質的なことは正しくよいことである」というものです。時とともにこうした考えは、キリスト教会の中でも強い影響を与えるようになりました。そして、馥郁とした日常の喜びに満ちたユダヤ的な考え方(旧約聖書はそのよい証拠です)にかわって、禁欲主義が尊重されるようになりました。自分を厳しく律してこの世的なことを拒絶することが、偉大な美徳であるとみなされるようになったのです。性差や結婚はこの世的なものにすぎず、あまり価値のないことであるとみなされました。荒野にたてられた修道院は、「神様に仕えるために完全に身をささげたい」という人々の間で人気を得るようになりました。このような傾向に拍車をかけたのは、まぎれもなく、「教会の職にある者たちがこの世的なものを愛して福音を忘れ去っていた」という悲しい事実でしょう。

何百年もの間、修道院は、多くのよいことも行いましたし、「自分を神様にささげたい」という若い女性や男性に場所を提供しました。修道院のこのような発展と、それに関係してでてきた性差を軽蔑する考え方は、地方の各個教会の働きに悪い影響を与えました。例えば、かつて非常に盛んだった女性たちによる教会での働きは、ほとんど消えうせてしまいました。さらに、「キリスト教的な生き方には二つのレヴェルがある」という考え方が形成されました。「普通のクリスチャン」は日常生活を営んでもよいが、「特別な聖人」になれるのは、神様の御国のためにすべてを捨てて、神様に仕えるために孤独の道を選んだ者だけである、という考え方です。

ルターの単純な発見は世界を混乱に陥れました。その背景には、次のような福音のすばらしい宝がありました。
「神様とは取引をする必要はなく、またできもしない。神様はキリストのゆえに、ただで、罪の赦しを与えてくださる。私が自分の命を神様にささげるのは、「私が救われるため」ではなく、「私は救われているから」だ。それゆえ、神様の召しに従うことは、隣人から離れ去ることではなく、逆に彼らに仕えることなのだ。」
ドイツ語の書き言葉の発展に大きく貢献したルターは、多くの言葉を創出しました。例えば、「職業」を意味するBerufという言葉もそのひとつです。ドイツでは今日でもホテルの客は宿泊カードを埋めるときにBeruf(「召命」)という箇所に自分の職業を記します。神様はあなたを、教師や農夫や高校生や工場労働者や調理人や主婦などとして「召して」くださいました。そして、それぞれ自分に与えられた場所で、あなたは神様に仕えているのです。このことについて、聖書はどう言っているでしょうか。


聖書は?

「マリアの賛歌」というすばらしい本の中で、ルターは偉大なる模範、イエス様の母親マリアについて語っています。私たちが知っている限りでは、神様の御子を産み育てるという仕事が与えられることを知ったあとも、マリアは修道院のようなところに入ったりはしませんでした。彼女は普通の生活を続け、家族の母親になり、こうした生活の中で神様に仕えました。

マリアは、「修道院」すなわち「孤独で静かな生活」の中に逃げ込んだりはしなかったことを、聖書は示しています。聖書には、「修道院制度が聖書的ではない」ことをよりはっきり示す根拠が他にもあります。新約聖書の手紙には、家族の中の成員(例えば、父親、母親、子供、主人や奴隷など)に対して、どのように生活するべきかという指示が与えられています(例えば、エフェソの信徒への手紙4~6章、ペテロの第1の手紙など)。神様に仕えることは、他の人たちから離れ去ることではありません。それは、隣人のもとへと向かい、彼らに仕えることです。殉教したウガンダのビショップ、フェスト・キヴェンゲレは、よく的を得た次のような逸話を残しました。彼は、妻と喧嘩した後で書斎に入って祈ろうとしました。すると聖霊様が彼に「キリストはあなたの妻と共に台所にいるのだから、あなたは今書斎でむだなことをしているよ」と告げてくださいました。彼は部屋をでて、まず妻と仲直りするほかありませんでした。

新約聖書はまた、「仕事をすること」についても教えています。本来、日常の仕事は、隣人に仕えることを通じて神様に仕えるための「手段」なのです。使徒パウロは、自分の仕事によって生活をまかない、また貧しい人たちを助けたいと思いました(使徒の働き20章33~35節)。彼はまた、「盗んだ者は、もはや決して盗んではなりません。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の両手で正当な働きをしつつ労苦しなさい」と教えています(エフェソの信徒への手紙4章28節)。クリスチャンの光栄は、人々に対してではなく、神様に対して仕事をきちんと行うことです。
「あなたがたに命じておいたように、落ち着いた生活を愛して大切にし、自分の仕事に身を入れ、自分の両手で働きなさい」(テサロニケの信徒への第1の手紙4章11節)。
キリスト教の教えを間違って理解して他の人の稼いだ収入に頼って生活している者に対しては、「自分で仕事をするように」という厳しい勧告が与えられます(テサロニケの信徒への第2の手紙3章8~14節)。しかし、これらの御言葉によって、不本意ながら無職の状態を余儀なくされている人を責め立てるようなことがあってはなりません。こうした人たちの置かれている状況は、この自己中心的な社会の残酷さを反映しているのです。そうではなく、これらの御言葉の箇所は、「自分で仕事をするなど思いもよらない」ような顔をしている「聖人」の生活や、「二つのレヴェル」のキリスト教的な生活などというたわいごとには、何の根拠もないことを示しています。


私たちは?

私たちの生きている時代では、修道院は問題ではありません。一方で、私たちは、「日常生活が聖い営みである」ということを、まだよくは理解していないのです。

今の世界の中で、私たちの多くは、給料つきかどうかには関係なく、自分の日常の「仕事」をして生活しています。それらの仕事を通して、あなたは「自分が神様に仕えている」ということがわかっていますか。もしもあなたが教師なら、あなたは子供たちが自分自身の世話をし、他の人たちを助けることができるようになるように用意を整えてあげているのです。もしもあなたが何かを勉強しているなら、あなたはこの社会を築き上げるための準備をしていることになります。もしもあなたが家事を行い自分の子供たちの世話をするなら、あなたは、子供たちが本当に必要としていることを彼らに提供することになります。日常の中のいろいろ小さな事柄がバランスよく整っていることが、実は、私たちの健やかな生活を支えているのです。毎日自分たちの皿に食事が用意されることを、私たちは些細なことだとは思いません。こうした食事の背後にも、私たちは神様の善性を見ます。本当なら私たちは、これほど「よい神様」に今以上に感謝すべきところなのです。この社会の中でまっとうに仕事をしている人は皆、それによって神様に仕えているのです。こうした大切な視点は、しばしば忘れられています。

もうひとつ、同じように忘れ去れている事柄は、「家庭でクリスチャンとして生活すること」です。私たちがいくら心で信じているといっても、家庭や親戚の中にいるときにクリスチャンにはふさわしくない振る舞いをするならば、それは非常に残念なことです。聖書を読みながら国中をたくさん旅行する若者がいるかもしれません。しかし、その若者は家ではすっかり疲れ果てドアを乱暴に閉めることでしょう。主はお祈りやクリスチャンの若者の集いのときにだけ、共にいてくださるわけではないのです。それらの機会は、私たちがクリスチャンとして日常生活を送っていくための力を与えてくれるためのものです。
これはなにも若者だけの問題ではありません。さまざまな体験を追い求めて駆けずり回っている信仰者は、ともすると、信仰をもっていない隣人や親戚に対して冷たく振舞うかもしれません。私たちは聖書の教えに従って、夫や妻や子供として生活していくべきでしょう。

修道院時代にルターは、神様が命じられたことを無視し、神様が命じられなかったことを守るべく全力を尽くしました。しかし、キリストの福音を見い出した後で、彼は信仰にかかわる他の事柄も、それぞれしかるべきところに位置づけることができました(「神様を頂点にして、下の二つの角に人間と隣人が位置する「三角形」のように」)。人間の意見などではなく、神様が御言葉の中で何を言われているか、ちゃんと聴くべきです。このようにしてこそ、教会は新たにされていくのです。        

2007年11月8日木曜日

神様を畏れ、また愛しましょう。

今回のテーマは、「神様」についてです。


ヤリ・ランキネン

神様は、畏れるべき、また、愛するべきお方です。


これから神様について話しましょう。神様はどのようなお方でしょうか。「神様を知る」とはどういうことでしょうか。神様がどのようなお方であるか、一体どこから知ることができるのでしょうか。

「神は確かに存在するだろう。だけど、神について(少なくとも確実に)知ることはできない。だから、こういうことは深く考えないほうがよい。」
人々が信仰にかかわることがらに接するときのごく一般の態度はこのようなものだと、私は思います。

こうした考え方はある点で真実をついています。確かに、「神様を知る」ようになるための能力などは、人間である私たちの内にはありません。私は、自分が通った堅信キャンプで学んだことについて、今でもいくつかのことを覚えています。そのひとつは、「神様は隠されている」という教えです。これは、「神様は私たちの及びもしないところにおられる」ことを意味しています。また、私たちが零下の冬の夜に星空を見上げて、「神様は存在する。だけど、神様に直接会うことはできないし、見ることもできないし、考えの中で把握することもできない」と実感することでもあります。
人間というものは、神様について、あれこれ想像をめぐらすものです。こういうことが人間は得意なのです。この世界はさまざまな宗教や宗教的な考え方で充満しています。しかし、神様についての話は、それが「私はこう考えている」とか、「ある偉大な思想家はこう言った」とかいう類のものであるかぎり、たんなる推測にすぎません。見られたこともなく知られてもいないことについて話しているに過ぎないのです。そうした推測の中には、正しい考え方に近いものが含まれている場合もあるでしょうが、多くの点では神様について見当違いなことが言われているものです。本屋から「偉大な思想家たち」などという本を買い込んで、そこから神様についての思索を探す人は、実は徒労なことをしています。そうする人は多いですが、このやり方によっては、神様を知るようにはなりません。

「神様は隠されている」というのは真実ですが、それと同様に真実なのは、「神様を知ることができる」ということです。「神様は私を愛しておられるか、私を裁かれるか、私について興味をもっておられるか」、本当に知ることができるほど、私たちは神様をよく知ることができるのです。また、人と神様との間には「私は神様を知っており、また、私は神様のものだ」と言えるような親密な関係があるのです。なぜそのようなことがありうるのでしょうか。答えは神様の御言葉にあります。神様は、私たちの視線や考えが及ばないところから、御言葉を送ってくださっているのです。神様は御言葉を通して話し始め、御自分について語り、隠された真のお姿を私たちに明らかにしてくださいます。

このように神様はなさいました。神様は御言葉を私たちには見えないところから送られました。それは、ふたつのことを意味しています。

まず第一に、神様は聖書という書物を与えてくださいました。聖書は神様の御言葉です。クリスチャンはいつの時代もこのように信じてきましたし、私たちも同じように信じています。人から「幼稚だ」とか「時代遅れだ」と言われてもかまいません。神様はある人たちを選び、彼らに「神様が御自身について世界のすべての人たちに対して言われたいことを書き取らせる」という使命をお与えになりました。聖書は、「神様がさまざまな状況で何をなさったか」、「神様は何をお命じになったか」、「どのように神様は愛されたか」、「何を神様は裁かれたか」、「神様の選ばれた男たちや女たちは神様についてどんなことを教えたか」、について語っています。これらすべてのことは、「神様は、私たちが神様のことを知るようになるために、御自分を私たちにあきらかになさっている」ということに他なりません。「神様を知る」能力がない私たちに対し、聖書の中で話しているのは、神様御自身なのです。そして神様は御自分のことをよくご存知です。

第二に、「神様が御言葉を送られた」ということは、「神様御自身が御言葉を通してこの世に来られた」ということを意味しています。それは、イエス様がこの世に来られた時に実現しました。ヨハネによる福音書には、「イエス様は神様の御言葉であり、神様御自身です」と言われています(1章)。それは、「目に見えない隠された神様が、どこか遠くから御子の中に見えるようになられ、人々の只中に来てくださった」ということを意味しています。あるとき、十二弟子のひとりフィリポは、彼らが父なる神様を見ることができるよう、イエス様にお願いしました。イエス様は何とお答えになりましたか。
「フィリポよ、あなたは私を知らないのですか。私はあなたがたとこんなに長い間一緒にいたというのに。私を見た者は、お父様を見たのです。」(ヨハネによる福音書14章9節)
イエス様を見なさい。そうすれば、あなたは、他の方法では見ることができないお方を見ます。イエス様をより深く知るように学びつづけなさい。そうすれば、あなたは唯一の真の神様を知ります。どのようにイエス様が愛してくださったか、たずねなさい。そうすれば、あなたは、どのように神様が愛してくださっているか、知ります。イエス様はあることがらや人々をお裁きになられたかどうか、考えなさい。そうすれば、神様がお裁きになるかどうか、あなたは知ります。イエス様は誰に関心をもっておられたか、考えなさい。そうすれば、神様があなたに関心をおもちかどうか、あなたは知ります。

再び、聖書に戻りましょう。聖書は私たちが「イエス様を知る」ようになるように教えてくれます。聖書全体は、まさにイエス様について話しており、私たちがイエス様を知るようになることを目指して書かれています。このことはすでに旧約聖書についてもあてはまります。聖書から見出されるイエス様のみが、真のイエス様です。このイエス様の中に、神様は御自分をあきらかに示されたのでした。

私は単純な次のことを強調したいと思います。聖書を通して私たちは「神様を知る」ことを学びます。私たちが神様を知るためには、聖書以外の他の手段はありません。自然の中を散策しても、思索を凝らしても、もしもそれらが神様の御言葉に結びつかなければ、何の助けにもなりません。神様は御言葉の中で話しておられるのです。ところが、私たちクリスチャンの間でも聖書はあまり読まれていません。聖書を教え学ぶ機会も少ないです。聖書が語っているメッセージも無視されています。聖書は本棚でほこりをかぶったままです。「聖書など気に留める必要などない」と言う人たちもたくさんいます。「聖書は、人々が神についての経験を語っている本であって、神について書かれている他の書物よりも特別に価値があるわけではない」と言うのです。「私は、聖書が語っている神とは別の神を信じている」という人もいます。
上に述べたケースは、「神様は私たちに御自分について語ろうとしてくださっているのに、私たちは耳をふさぎ、神様が話しておられることを気にも留めない」という事実を示しています。もしも私たちがこうした態度を取るならば、私たちは「神様を知る」ことを学ぶようにはなりません。神様についてあれこれ思いを巡らすことはできますが、それはたんなる推測にすぎません。

あなたは、多くの人がするのとは違う態度を取りなさい。聖書を読みなさい。聖書が神様について何を言っているか、注意深く聞きなさい。そして、聖書が言っていることを、信じなさい。

聖書は神様の御言葉です。それは、「聖書は私たちに神様について信頼できる知識を語っている」ということを意味しているだけではありません。聖書はそれよりもさらに不思議な素晴らしさに満ちています。すなわち、「神様は、聖書という「御言葉」の中におられる」ということです。あなたが聖書を読んだり聞いたりするときに、また聖書について教えられたりするときに、神様はあなたのもとに来てくださるのです。御言葉の中で、神様はあなたに話しかけ、あなたが神様を知るようになるように教えてくださいます。あなたは、神様の御言葉とじっくり付き合いなさい。そうすれば、あなたは神様を自分のもとにお迎えできます。神様はあなたに教えてくださいます。こうして、あなたは、「私は神様を知っている」と言うことができるようになります。

「神様が聖書の中で話しておられ、聖書は私たちが神様を知るようになるように教えていることを証明してみなさい」と、私たち牧師は要求されることがあります。私たちは何と答えたらよいでしょうか。私たちはそれを証明することはできません。もちろん一方では、「聖書は神様の御言葉ではない」ということも証明できるものではありません。私たちは、「反論が消え、皆が聖書を信じるようになる」ような論拠を挙げることはできません。にもかかわらず、納得の行く根拠があります。すなわち、イエス様が神様の御子であるかどうか、疑う者たちに対して、イエス様はこのように言われました。
「神様の御心を行おうと思う者であれば、だれでも、私の語っているこの教えが神様からのものか、それとも、私自身から出たものか、わかるでしょう。」(ヨハネによる福音書7章17節)
同じことがここでも言えます。もしもあなたが、聖書の教えが神様からのものかそうではないか、本当にはっきり知りたいと思いながら、聖書を読みまた聞くならば、聖書自体が「聖書では神様が話されている」ことを、あなたに納得させます。聖書の御言葉の中で神様御自身が働きかけてくださり、「聖書は神様の御言葉である」ことを、私たちに確信させてくださいます。聖書のことを疑っている者に対してこう質問してごらんなさい。
「あなたはこの書物を読む勇気がありますか。神様はこの書物の中であなたに御自分について啓示しておられる、とあなたも確信するようになるかもしれませんよ。」
実際こうしたことがある映画監督の上に起こったのでした。その人はイエス様について映画を撮りました。この仕事に取り掛かったときに、その監督は聖書に対して非常に深い疑いを抱いていました。映画のためにその人は聖書をたくさん読まなければなりませんでした。映画が完成する前に、神様はその人の中に「聖書というこの書物では、神様が話しておられる」ことを信じる信仰を生み出してくださったのでした。

これらのことは大切なことなのでしょうか。「神様が私を愛してくださっているか」、「神様は私に関心をもっておられるか」について知るのは、大切なのでしょうか。そう、大切なのです。実は、「神様を知ること」よりも大切なことは、他には何もないのです。それが一番大切である理由は、二つあります。

まず第一に、人は「神様のかたち」として創造されています。それは、「もともと人は、神様との関係が正常な状態で生きていくように創られている」という意味です。もしも人が神様を知らないのなら、人と神様との関係は正常ではないのです。もしも人が本来の生き方に反して生活する場合には、そこからさまざまな悪が生じてきます。おそらく人生がなんとなくむなしく感じられることでしょう。あるいは、心の中に説明しがたい不安があって、外国旅行をしたり、前よりも格好よい車を購入することで、内心を鎮めようとする人もいるかもしれません。「人の心は、神様の中に平安を見出すまでは、平安がありません」と、教会教父アウグスティヌスはかつて語りました。これは今でも本当です。「平安のなさが多くの現代人を苦しめているが、それは、人と神様との関係が正常ではないからだ」と私は確信しています。残念ながら自分の心に平和を、それがちゃんと見つかるところからさがす人はごくわずかです。この平和は「神様を知る」ことから得られます。信仰者でさえ、ともすると、神様との関係を軽く見て、神様以外のところからより多くのものをさがしもとめて、それで自分の人生を満たすようになりがちです。こうしたことが起きると、その人の人生の中身は消えうせてしまいます。

もうひとつのさらに大切な理由は、「この世での人生のあとで、永遠の世がはじまる」ということです。「そのときに私がどうなるか」を決めるのは、「私と神様の間の関係がちゃんとあるか、そしてそれは正常か」ということのみです。その関係が「正常」であるのは、私が神様を知っている場合だけです。もしも関係が正常ならば、神様は私に天国のドアを開けてくださいます。もしも正常でなければ、私は神様から際限なく隔てられてしまいます。「滅び」に落ち込むことほど、ひどいことはありません。それゆえ、「神様を知る」こと以上に大切なことは何もないのです。

それでは、神様とはどのようなお方なのでしょうか。

私たちは神様についてすべてを知ったり理解したりすることはできません。ときには神様は私たちを驚かせるようなやり方で働きかけられたり、私たちを傷つけるようなことさえなさいます。聖書を読んだり聞いたりしてきた人にとってさえ、考えもしなかったような神様の一面があきらかになることがあります。神様についてのさまざまな質問があり、私たちはそれらについて答えを求めていますが、神様は答えてくださらないことがあります。これらのことは、「私たちは神様についてすべてを把握してはいない」ことを意味しています。しかし、少なくとも私たちが知る必要があることがらについては、神様は、誰にとっても曖昧さが残らないかたちで、聖書の中で語っておられます。

神様はどのようなお方ですか。神様は本当に偉大なお方です。神様は力や知恵や栄光に満ちておられます。神様は全世界(全宇宙)を支配しておられます。詩篇は神様について、「夜空の星星よりもはるかに大いなるお方である」と語っています。神様はこういうお方でなければならなかったのです。そうでなければ、神様はこれらすべてのものを創造することはおできにならなかったでしょうし、これらすべてのものを維持することもおできにはならなかったことでしょう。その御手の内にすべてを、つまりこの全世界を、掌握しておられる神様は、「大いなる神様」です。聖書は、「神様が大いなるお方である」と語る一方で、「この大いなる神様は、宇宙のひとつの小さな惑星の中の、小さな人間ひとりひとりのことを気にかけておられる」ことも教えてくれます。神様にとって、「このひとりの人に何が起きるか」ということは大切な意味をもっています。神様はひとりひとりのことがらについて関心をもっておられ、配慮してくださっているのです。イエス様は「神様はこのようなお方である」と示してくださっています。イエス様はひとりの人に気がついてくださいました。イエス様は立ち止まって、ひとりの人に語りかけられました。回りには何百何千という人がいたにもかかわらず。まさにこのように神様はなさいます。あなたは大いなる神様にとって非常に大切で、神様はあなたのことに深い関心をもっておられるので、神様はあなたのもとに来られ、あなたの前に立ち止まり、あなたに話しかけられ、あなたのことやあなたの嘆きを聞き、「あなたと共にいたい」と望んでおられます。

おそらくこのことを信じるのは簡単ではないでしょう。この世界には何億人もの人々がいるからです。しかし、信じようと信じまいと、そういうことなのです。大いなる神様にはこれは可能なのです。「神様は私のことを心に留めてくださっている」というのは、非常にすばらしいことです。私のことを神様は知ってくださっています。一方で、それは重大な意味をもっています。神様は私のことを、私がどこで何をしていようとも見ておられるのです。どうやっても神様から逃げることはできません。大きな群衆の中に隠れることはできません。そこからでも神様は私を見つけ出されるからです。

イザヤ書の6章で預言者は自分のすごい経験について語っています。彼は神様に出会ったのです。神様の御前でイザヤは、彼と神様の間にある深刻な矛盾に気が付きました。彼は罪人であり、神様は清く聖なるお方です。このことに気が付いたイザヤは、「何ということだ。私は滅びてしまう。」と叫びました。これが神様です。神様は聖なるお方なのです。聖書の中のある女性を覚えている人もいるかもしれません(ヨハネによる福音書8章)。彼女は結婚を破る姦淫の罪で捕まり、イエス様の前に引きずり出されたのでした。彼女は「自分が今聖なる神様の御前にいること」と「自分の生き方は神様に裁かれて当然であること」を知りました。女性は地に倒れ、裁きが来るのを待ちました。ここで女性の態度はまったく正しかったのです。神様は罪を、心から深く憎んでおられます。神様は女性が行った罪を憎まれました。同じように、神様は、たとえばあなたが職場の同僚に何か悪いことを言ったり、隣人に対して冷たかったり、税金の申告を不正直に行ったりすることを憎まれます。神様は罪を決して是認なさいません。それがどんなに小さな罪であったとしてもです。神様は聖なるお方なので、罪に対しては罰を要求されます。あなたは(私と同様)罪を犯したのです。だから、あなたは(私と同様)神様の裁きを受けるのが当然なのです。

神様はこういうお方です。神様は御自分の聖さを放棄なさいません。

神様についてもうひとつ語るべきことがあります。イエス様の御前に引きずり出されたあの姦淫の現場を押さえられた女性は、自分が受けるべき処罰を受けましたか。いいえ。イエス様は彼女に対して、当然接するべきであるのとは違うやり方で、接されました。イエス様は彼女をお裁きにはなりませんでした。そうするのが当然であったにもかかわらず。イエス様は彼女を愛して、その罪を赦されました。イエス様にはこのようになさる権能がありました。なぜなら、イエス様は、十字架で、すべての人をそのすべての罪ののろいから解放してくださったからです。このように神様はあなたに対しても接してくださっています。あなたは裁きを受けるのが当然の立場にありながら、神様はあなたを裁きません。神様は憐れんでくださいます。今神様はこのようにしてくださっています。いつか神様は裁き主となられますが、今はまだ「恵みの時」です。今は神様はすべての罪を赦して、永遠の命を与えてくださいます。

神様は、御自分の御子の死によって、あらゆる罪に対して向けられる御自分の怒りから、あなたを解放してくださいました。それゆえ、神様はあなたを愛してくださっているのです。たとえあなたが罪人であってもです。神様はあなたをたくさん愛してくださり、あなたに配慮してくださり、あなたを御自分のみもと、天国へと導きたいと望んでおられます。

「神様を畏れること」とは何でしょうか。それは神様が大いなるお方であることがわかることです。神様はあまりにも偉大なので、人は神様に対して接するときには、自分と同じ立場にあるような友達に対するのとは異なる態度をとる必要があります。私は、大いなる神様の傍らでは、ごくちっぽけな存在に過ぎません。私自身の意見などは、神様の御言葉とは比べることができないほど軽いものです。このことを理解する者は、神様を敬って、神様が何を言われているか正確に聞き取り、神様に従いたいと望みます。

「神様を畏れること」とはまた、「私は大いなる神様に完全に依存している」ということを理解することでもあります。私の全人生は、何を神様が私に与えてくださるか、にかかっています。たとえば、神様は私に日々のパン(食事)や健康や「明日」という日を与えてくださるかどうか。私が救われるかどうかは、完全に、神様は私に対して憐れみ深いかどうか、にかかっています。それゆえ、私には神様を怒らせるような「勇気」はありません。もしも神様を怒らせるなら、神様は私を捨て去られます。私には確実にありとあらゆるかたちで悪いことが起こるでしょう。神様と御言葉を無視する態度を、神様は憎んでおられます。私には神様とその御心を無視して生きる勇気はありません。なぜなら、そうした生き方は聖なる神様を怒らせるからです。この「畏れ」が、「神様を畏れること」と呼ばれるものです。

それでは、「神様を愛すること」とは、何でしょうか。それは、神様は私に対して、信じられないほどよいお方であることがわかることです。神様は私の世話をしてくださいます。私は神様から裁きを受けるのが当然なのに、神様は私を裁かれません。私は滅ぶのが当たり前なのに、神様は私に永遠の命を与えてくださいます。これを理解することが、私の中で、私に対して信じがたいほどによいお方である神様への愛を生み出します。もしも誰かを愛しているなら、その人に喜ばれるように振舞いたくなるものです。その人のそばで生きて行きたいものです。その人に仕えたいものです。もしも神様を愛しているなら、神様に対しても同じようにするものです。

このように、私たちには神様に対してふたつの(正常な)関係があります。ひとつは「神様を畏れること」、すなわち、神様が大いなるお方であることを理解して、自分が完全に神様に依存しており、それゆえ、神様を怒らせる勇気などはもてないこと。もうひとつは「神様を愛すること」、すなわち、神様はなんとすばらしいお方か、理解すること。これらのうちどちらも忘れてはいけません。さもないと、神様について大切な何かを忘れることになり、神様との関係は、おかしくなってしまいます。

2007年10月29日月曜日

聖書は洗礼について何を教えていますか?

まずはじめに、ルター派の洗礼についての教えを紹介します。
以下の文章はもともとフィンランド語で、著者は、フィンランド福音ルーテル教会の牧師です。
彼は聖書に基づく素直な信仰を大切にしています。

「聖書は洗礼について何を教えていますか? 」

     ヤリ・ランキネン


おそらくあなたは洗礼についてさまざまな教えを聞いたことがあるでしょう。たぶん洗礼について論じ合う機会もあったかもしれません。この小文を通して、洗礼について、聖書は何を教え、ルター派のクリスチャンとして何を信じるか、はっきりさせたいと思います。

イエス様は洗礼を授けるようにお命じになりました、「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の御名によって、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えなさい。見なさい、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのです」(マタイによる福音書28章19~20節)。イエス様が行うように命じておられることは、行わなければなりません。たとえ洗礼を授ける理由が他に何もわからないとしても、イエス様の命令は洗礼を授ける十分な理由になります。私たちのやるべきことは、神様の命令を評価したり批判したりすることではなく、それらに従うことです。

聖書は洗礼について他のことも語っています。聖書の教えは「キリストへのつながり」という言葉に要約できます。洗礼において人はイエス様に結び付けられ、こうして、イエス様やイエス様が御自分のみわざによって私たちのために得てくださったことに、あずかれるようになります。これについてパウロはローマの信徒への手紙の6章に書いています。すなわち、私たちはイエス様の死の中へと洗礼を受け、こうして、イエス様の死において起こったことにあずかるようになります。キリストへのつながりはまた、キリストの中へ隠れることでもあります。悪である人間がイエス様とその聖さによって覆われ、こうして、聖さを要求なさる神様に認められ、受け入れていただけるようになります。パウロが洗礼において生じる「キリストを上に着ること」(ガラテアの信徒への手紙3章27節)について語っているとき、意味しているのはまさしくこれです。このことを記念して、洗礼を授けられる者は、その上を覆う長くて白い服を着せられます。ペテロは「洗礼が罪の赦しをもたらす」と説教しています(使徒の働き2章38節)。「罪の赦し」とは他でもなく、「罪人なる人間が、ゴルゴタでイエス様が私たちの身代わりとなって死んでくださったその報酬として、自分のものとすることができる事柄」であり、「罪人なる人間がキリストを着せられること」であり、「これに基づいて神様が、神様に認められないはずの人間を、神様に認められ受け入れられる存在としてみなしてくださる」ということです。

これは多くの人たちにとって奇妙なことに感じられるようです。罪を赦されてイエス様にあずかる者になり、イエス様の中に隠れる必要があるのでしょうか?
もしも神様が今の多くの人たちが考えているような、「ただただ愛して、認めて受け入れて、ちっとも裁かれない」お方だとしたら、これは必要ではありません。しかし、神様はそのようなお方ではありません。神様は「罪を憎む聖なる神」です。それゆえ、罪人なる人間は、聖なる神様の御前で耐えることができるために、自分を守ってくれるものとして、罪ののろいから救い出してくださるお方が必要なのです。このお方はまさしく洗礼において人間の守りとなってくださいます。

もしも洗礼が罪の赦しをもたらすのなら、洗礼では他のことも起きているにちがいありません。「罪の赦しを受けながらも、神様の子供ではないままの状態」というのは、ありえないことです。「洗礼において神様は御自分の子供としてくださる」と結論できます。「神様の子供でありながら聖霊様をいただいていない」というのもありえないことです。聖書は「神様のものである者たちには皆、神様の御霊が住んでいる」とはっきり教えています(例えば、ローマの信徒への手紙8章9節)。すなわち、洗礼では「神様の御霊が洗礼を受けた者の中に住みに来られる」ということが起きています。スヴェビリウスの教理問答書(ルターの小教理問答書の解説)は洗礼についての聖書の教えを次のように上手にまとめています、「父なる神様は、洗礼を受ける者を子供として受け入れてくださり、御子は、洗礼を受ける者に御自分の義を着せてくださり、聖霊様は、洗礼を受ける者を新しく生まれさせ、御自分の住まいになさる」。

罪への堕落の後にも、人は神様の創造された存在であることには変わりません。しかし、人は神様から離れてこの世に生まれてきます。洗礼において神様は人を、悪魔のものであるグループから御自分のものであるグループへと移動なさいます。それゆえ、ルターの洗礼式文では、洗礼を受ける者に対して「あなたは悪魔を捨てますか」尋ねることになっています。このように今でも尋ねるべきところです。それは、洗礼において何が起こっているかを思い起こさせるのにふさわしい質問です。

洗礼において人は、神様のものとして活き、天国に入るために必要なすべてのものを得ます。あなたも、洗礼を受けたときにそのすべてをいただいているのです。そして、それを受けるための報酬をあなたが用意する必要はありません。このことを驚きをもって考えて御覧なさい。このことを知ることを学びなさい。そしてこれについて神様に感謝しなさい。

どのようにしてこのようなことが起きるのでしょうか?子供は洗礼を受けるときに、洗礼について何もわからないでしょう?
洗礼は神様のみわざです。洗礼において神様はいてくださり、その場に来てくださり、みわざをなさり、恵みを分けてくださいます。「私たちが何をするか、どのくらいたくさんわかっているか」はそれほど大切ではありません。「神様が何をしてくださっているか」、すなわち、「神様は御自分のものとしてくださり、救ってくださる」ことが大切です。まさにこの点で、ルター派といわゆる自由派の洗礼理解は決定的に違っています。私たちルター派は、聖書もそう教えているように、「洗礼はまず第一に神様のみわざである」と教えています。自由派では「洗礼は人間の行いや決断や告白であり、人間が事の本質を理解し懸命に努力することを前提としている」ことが強調されます。

「もしも洗礼が、すなわち、水のそそぎかけとわずかな御言葉を言うことが、救うのだとしたら、それはほとんど魔法ではないか」と考える人もいるかもしれません。私たちにとってそれが魔法のようにか、または他の何かのように感じられるとしても、神様はこのようにして救う方法を選ばれたのです。なぜでしょうか?
それについて私たちは十分満足のいく答えを与えることは多分できないでしょう。おそらく、私たちの救いについて何か目に見えるしるしが与えられるためではないでしょうか?私たちがそれにしっかりとつかまって、「私も救われている」ことを信じることができるようになるためです。

小さい子供は信じているのでしょうか?「イエス様への信仰」とは、まずなによりも「聖霊様が人の中にお住まいになり、神様の善性と恵みへの信頼を生み出し、それを保ってくださる」ということです。子供は洗礼において聖霊様をいただきます。それゆえ、私たちは「子供は信じている」と言うのです。時が来れば、聖霊様は子供の中に子供が言葉で言い表せるような信仰を生み出してくださいます。しかしながら、このことについても最も深い問題は「信仰の本質とは一体なんであるか」、すなわち「聖霊様が人の中に住まわれている」ということなのです。

教会の教師たちは「洗礼は救いのために不可欠である」と言ってきました。洗礼を受けていない者は教会では神様のものとはみなされず、それゆえ、神様の子供たちの食事である聖餐式にも参加が許されてはきませんでした。古い教会では、洗礼盤は教会の外へ通じる扉のあたりに置かれていました。それは「洗礼は救われている者たちのグループに入る門であり、他の門は存在しない」ことを教会に来た人たちに思い起こさせるためでした。

ということは、洗礼なしには救われる可能性はまったくないのでしょうか?あるとき若い母親が子供を出産しましたが、赤ちゃんはとても弱って生まれました。助産婦は「子供に洗礼を授けましょうか」と訊きました。それに対して母親は深く考えないで「いいえ」と答えました。彼女は自宅で洗礼式を行いたいと希望していたのです。生まれてまもなく子供は死にました。幾日かたってその助産婦は病院で母親に会い、こう言いました、「あなたはずいぶん残酷な母親だね。自分の子供に洗礼を授けさせないで、滅びの地獄に送り込むなんて」。母親はすっかり取り乱して、「助産婦が言ったことは本当か」と牧師たちや他の人たちにも尋ねました。あなたの周囲にもこれと似たようなことが起きて、同じような質問を人から受けたり、自分で考えざるをえなくなった経験があるかもしれません。

かつて教父アウグスティヌスは次のように言いました、「洗礼が欠けていることは必ずしも人を滅ぼさないが、洗礼を侮ることは人を滅ぼす」。アウグスティヌスが意味しているのは、「私たち人間は神様の設定なさった恵みの手段(神様の御言葉、洗礼と聖餐のサクラメント)に縛られている。これら恵みの手段は私たちにとって、神様の恵みにあずかるようになったり、神様の恵みを他の人たちに提供するための唯一の手段である。しかし、神様はあらゆることの上方におられ、何に対しても縛られてはおられない。神様は例外的なことを行って、私たちには知られていない方法で、恵みの手段なしに人を救うことがおできになる」ということです。そういうわけで、私たちは「洗礼が間に合わなかった子供が確実に地獄で滅びる」とは言いません。これは「私たちは子供に洗礼を授けないまま放っておいてもよい」という意味ではありません。それこそ「洗礼を侮る」ことになります。私たちは可能な場合には洗礼を授けます。何らかの理由で可能性がなかった場合には、洗礼を受けなかった子供をよい神様の御手にゆだね、こう言います、「どうなさるか神様がお決めなさる。神様は決して間違ったことはなさらない」。このことは同じく、この世で生きている間に福音を聞かなかったクリスチャンではない人々にも当てはまります。私たちの使命は、彼らに福音をもっていくことです。しかし、私たちは「福音を聞かなかった何百万人もの人たちが確実に地獄で滅ぶ」とは言いません。私たちは裁きを神様にお任せします。これは、私たちをひどい苦しみをもたらすような疑問から解放してくれます。そして、私たちには神様の御言葉に基づきそうする権利があるのです。

「洗礼において救われる」というのは本当です。「洗礼においていただく救いを失うことがありうる」というのも同じように本当です。もしもイエス様を捨てて不信仰の中に生きるならば、救いを失います。そのような場合、洗礼を受けている者は、神様が救い出してくださる前に自分がいたところに戻ってしまいますが、ふつうは少しずつそうなっていきます。そしてそうなる理由は、洗礼を受けている子供が、神様が人を御自分のグループにとどめておくために用いられる「神様の御言葉」を聞かないことにあります。また、ある種の罪が洗礼を受けている者を神様から引き離そうとしていることもしばしばあります。「洗礼を受けている者は皆信じており、天国への旅の途上にある」と主張するのは、事実ではなく、人を騙すことであり、聖書のはっきりとした御言葉を無視することです。にもかかわらず、そうした主張が今もよく聞かれます。もしもあなたが洗礼を受けている子供たちに神様の御言葉を蒔くならば、あなたは大切な仕事をしているのです。

神様のみもとからさまよいだして、滅びへの道を歩んでいるとしても、洗礼を受けた者は、あいかわらず神様にとって愛する子供なのです。この迷子がみもとに戻り、失ってしまったものを再び神様からいただくようになるように、神様は心から呼びかけておられます。「信じるようになる」とか「悔い改める」とか、いろいろな言葉が用いられますが、それは結局のところ「洗礼においていただいたものへと立ち戻る」ことです。戻る者は再び天のお父様の子供になるために何か特別なことを行う必要はありません。お父様の側ではすでに仲直りの準備ができています。人はただ神様のみもとに戻って仲直りを受け入れるだけでよいのです。「放蕩息子」のたとえ話(ルカによる福音書15章)を思い起こしましょう。また、「信じるようになる」ことは洗礼を補完するものではないことを覚えましょう。洗礼において私たちは、救われるために必要なものをすべていただいたのです。「いつ信じるようになったか」などという質問には答えられなくてもかまいません。大切なのは、「今信じている」ということです。赤ちゃんのときに洗礼を受けた者が、洗礼式から墓に入るまで生涯にわたって、神様のものとしてとどまりつづけることがありえます。そうなれば理想的です。「このような人は実は信じていない」などと主張するのはまったく誤りです。「再洗礼」(幼児洗礼を否定して再び洗礼を受けること)は決して必要がありません。たとえ私たちがイエス様から離れ去った場合でも、イエス様を再び十字架につける必要はありません。イエス様の十字架のみわざと同様に、私たちを十字架につけられた私たちの主に結び付ける「洗礼」は、神様の一回限りのみわざなのです。

「子供にも洗礼を授けるべきか」と訊かれるとき、「子供も自分自身の外側からの力によって救われる必要があるか」という問題に戻って考えなければなりません。理性や人間の感情は「必要ない」と答えます、「子供は何も悪いことをしなかったでしょう。それにこの子は本当に可愛らしいし」。子供に洗礼を授けないままにしておく者は、自分の理性や感情の言いなりになっています。しかし、神様の御言葉はちがうことを告げています。「すべての人は罪を犯したため、神様の栄光をいただけなくなっています」(ローマの信徒への手紙3章23節)。「すべての人」という言葉には子供も含まれています。子供もまた罪を犯すようになりますし、子供の中には原罪があります。この原罪(生まれながらの罪)こそは「本当に罪であり、洗礼と聖霊によって生まれ変わらないすべての者を裁き、今すでに彼らに神様の永遠の死をもたらしている」(アウグスブルク信仰告白 第2条 原罪について)ものなのです。洗礼において子供に救いがもたらされます。子供はその救いを必要としており、イエス様はそれをその子供のためにも備えてくださっているのです。

パウロは洗礼を葦の海を渡ることに比しています(コリントの信徒への第1の手紙10章1節)。エジプトから逃げ出したイスラエルの民をファラオの軍勢が追いかけてきました。イスラエルの民の行く手に広がっていた海を二つに切り分けることによって、神様は御自分の民に救いを備えてくださいました。選ばれた民には、ほんの赤ちゃんからお年寄りまでいろいろな年齢の人たちがいました。当然のことながら、子供たちはファラオの手中に落ちるように海岸に置き去りにはされたりはしませんでした。子供たちは他の人たちと共に二つに分けられた海を越えて運ばれていきました。もしも誰かが「子供たちは今何が起きているかわからないのだから、浜辺に置き去りにするべきだ」と要求したのなら、その人は愚か者とみなされたことでしょう。これと同じようにおかしいのは、「子供たちには十分な理解力がない」という理由から、子供たちに洗礼を授けないままに放っておくことです。こうすることで、子供たちを、裁きを受けるのが当然である人間界を救うために神様が行ってくださったみわざとは関係のない状態に置き去りにすることになってしまいます。

子供(赤ちゃん)のときに受けた洗礼は、大人にとっても大きな意味を持っています。神様の子供たちの中に自分の場所をいただくために、私は何も行う必要がありません。洗礼はこのことを私たちに思い起こさせ、今もなおそのとおりであることを保障しています。私は神様の子供であることが許されています。私の中から神様の子供となるにふさわしい理由が見出だされる必要などはありません。私は救われるために何もできなかったにもかかわらず、神様は私を恵みにより救ってくださいました。つまり、私の救いは神様のみわざなのです。神様のみわざにゆだねるとき、私はしっかりした基盤に立っています。神様のみわざはこの世での人生の嵐にもびくともせず、私を天国へと運んでくれます。とりわけ、自分が悪いと思ったり、信仰が実に弱いと感じるときに、洗礼を思い起こす必要があります。私の悪さや弱い信仰は神様のみわざをだめにはしません。ルターと共に「私は洗礼を受けている。私は救われるのだ」と言うことができます。他には何も残っていないときでも、私は自分が受けた洗礼に避けどころを求めてよいのです。そして、他のものは必要ないのです。ここから「自分は救われている」という確信をもつことができます。

洗礼は私たちに尋ねています、「あなたは神様の子供になりました。あなたは神様の子供としてふさわしく生きていますか。洗礼において新しい命が始まりました。このことがあなたの生活の中に見えますか。洗礼を受けた者は、天の父なる神様の御心を聞きながら、それに従わなければなりません。もしもあなたが神様の御心に反して生きているのなら、あなたは洗礼においていただいたものを失ってしまう真に危険な状態にあります。あなたはどんなことについて神様の子供にふさわしくなく生きているか、考えてみなさい。そして、そうした事柄について悔い改めなさい」。

洗礼は「あなたと神様との関係が大丈夫であるかどうか」を洗礼を受けている者ひとりひとりに思い起こさせます。洗礼は神様と離れて生活している人に「神様のみもとに帰りなさい」と呼びかけています、「あなたは神様のものなのです。あなたは今、間違ったグループに入っています。あなたの本来の場所は神様の子供たちの中にあるのですよ。あなたのお父さんがあなたを待っています。お父さんのもとへとつづく道はあなたに向けて開かれています」。人が故郷に帰るのは、人が未知の場所に引っ越す場合よりも、簡単です。洗礼を受けている者は自分の「故郷」とちゃんとしたつながりがあります。その人は天のお父さんのところにいたのですから。

2007年10月12日金曜日

ルター通信

すっかり御無沙汰してしまいました。普段日記もつけない私のような人間にとって、ブログはどう使えばよいかわからない、という思いが強かったのですが、ひとつアイディアがでました。私は、聖書の教えとクリスチャンの日常の信仰生活にかかわりのあるテキストをフィンランド語から日本語に翻訳しています。それを時々ですがこのブログに載せていこうかと考えました。

私は短いルターのテキストを日本語に訳して希望者に電子メールで配信してきました。メールを読む方々の希望もあり、メール通信はできるだけ簡略なものにしています。
それを補完する意味で、このブログでは、もっとまとまった、ある特定なテーマについてのテキストを掲載することにしてみます。
なお、メール通信希望の方は、下記のメールアドレスに連絡してください。
ktakaki8@yahoo.co.jp

2007年6月4日月曜日

はじめまして

はじめまして。

高木賢(Takaki Ken)と申します。

私は1991年に日本福音ルーテル教会で洗礼を受けました。

日本で1900年から海外伝道をつづけてきた宣教団体SLEY(フィンランドルーテル福音協会。「スレウ」と読みます。英語名はLEAF)の宣教師だったフィンランド人と結婚して、今はフィンランドに住んでいます。

ヘルシンキ大学で神学を学び、卒業して、今はインターネットを用いた伝道を志しています。

ホームページも作ったことがないし、ブログをやるのははじめてですが、世界中で用いられているインターネットを通してイエス様の十字架と復活の愛のみわざを伝えるのは、神様の御心に適うことでもあると、確信しています。

このブログでは、今まで訳してきた御言葉とルターの説明などをときおり載せていこうかと考えています。

なお、テキストは、御言葉の部分は原語(ギリシア語やヘブライ語)から、ルターなどの説明はフィンランド語からの翻訳です。
本来はルターも原語(ラテン語やドイツ語)から訳すべきなのでしょうが、フィンランド語で聖書やルターを学んできた日本人もあまりいないと思いますし、フィンランド語経由の翻訳(部分的には抄訳です)を通しても、ルターのメッセージは心に響き、日常の信仰生活の糧になると思います。「ルターを研究する」のではなくて、「ルターのメッセージを日常で活かす」ことをめざしています。

それではまた。