2019年11月29日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様への叫び 「詩篇」38篇10〜23節(その2)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

神様への叫び 「詩篇」38篇10〜23節(その2)

宗教改革者マルティン・ルターは
彼の人生の決定的な転換期にあたる1514年に、
この「詩篇」に素晴らしい慰めを見出しました。
ルターは この「詩篇」を通じてキリストの苦しみの絶叫を聴き取り、
次のように書いています。

「これは、私たちの罪のせいで苦しみの只中に放り込まれた
私たちの贖い主の叫びであり嘆きです。
キリストは私たちの身代わりとして呪いと罪になり
(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節、
「コリントの信徒への第二の手紙」5章21節)、
私たちの罪をその身に担ってくださいました
(「イザヤ書」53章12節)。

キリスト御自身がこの「詩篇」で語っておられ、
父なる神様に対して私たちの代わりに私たちの罪を告白し、
御自分に対して罪の赦しを願い求めています。
すなわち、
キリストにおいて、キリストを通して、
私たちにも罪の赦しを求めておられるのです。

それゆえ、
この「詩篇」の言葉によって祈ることを通して
何らかの霊的な糧を得たいと望む者は、
自分自身において祈るべきではなく、キリストにおいて祈るべきです。
それと同時に、
キリストがこの「詩篇」のように祈っておられるのを聴き取るべきなのです。

さらにまた、
祈る者は自分の心をキリストの心と結びつけ、
キリストと共に「アーメン」と言わなければなりません。

キリストは私たちのために洗礼を聖なる礼典としてくださいました。
キリストは私たちのために洗礼を受けることを望まれました。
それとまったく同様にして、
キリストはまた私たちのために罪を告白してくださったのです。

教父アウグスティヌスによれば、
キリストと全キリスト教会は、
花嫁と花婿がそうであるようにひとつの身体です。
ですから、
彼らにひとつの同じ体と頭があるように
彼らにはひとつの同じ言葉があるということは、
はたして不思議なことでしょうか。」
(マルティン・ルター)

2019年11月22日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様への叫び 「詩篇」38篇10〜23節(その1)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

「詩篇」38篇


神様への叫び 「詩篇」38篇10〜23節(その1)

人は様々な苦しみを受けるものですが、
多くの人が最も苦しめられるのは「孤独」ではないでしょうか。
この孤独の問題について詩人はここで語り始めます。

敵が詩人に襲いかかってきました。
詩人自身の罪がそれを誘引した面もあるでしょう 
敵からの集中攻撃を受けている詩人を目の当たりにして、
詩人の友人たちは彼から離れ始めました。
敵どもは詩人を包囲していますが、
これは神様の許可があったからできたことです。
眼前の敵に対して詩人にはなすすべがありません。
彼にできることは神様に助けを叫び求めて祈ることです。
そのようにして彼は唯一の安全な「避難所」に身を隠します。

この詩人が結局どうなったのか「詩篇」は語っていません。
神様が自分を救ってくれることを詩人が確信していたかどうかも、
この「詩篇」からは伝わってきません。
しかし
「神様はあらゆるものを超越した大いなるお方である」
という事実だけははっきりと伝わってきます。

困難な状況が現出するのを許されたのが神様御自身なのだとすれば、
やはり神様だけが詩人を苦境から救い出す力を有しておられることにもなります。
だからこそ、
人は神様の御前で心から祈り叫ぶことができるのだし、
また神様から本当に助けをいただけることを確信できるのです。

2019年11月15日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 「詩篇」38篇1〜9節(その3)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について


神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 
「詩篇」38篇1〜9節(その3)

さらに「成功の神学」の信奉者たちは、
主の使徒たちが嘲られ侮蔑され鞭打たれる聖書の箇所をも
素通りするほかありません。
このような神学によってはまったく理解することができないこと、
すなわちこの神学がまったく聖書的ではないことを
ひときわ鮮やかに示す聖書の箇所は
「ヨブ記」のとりわけ以下に引用する21章でしょう。


なにゆえ悪しき人が生きながらえ、老齢に達し、かつ力強くなるのか。
その子らは彼らの前に堅く立ち、その子孫もその目の前に堅く立つ。
その家は安らかで、恐れがなく、神のつえは彼らの上に臨むことがない。
その雄牛は種を与えて、誤ることなく、
その雌牛は子を産んで、そこなうことがない。
彼らはその小さい者どもを群れのように連れ出し、その子らは舞い踊る。
彼らは手鼓と琴に合わせて歌い、笛の音によって楽しみ、
その日をさいわいに過ごし、安らかに陰府にくだる。
彼らは神に言う、
『われわれを離れよ、われわれはあなたの道を知ることを好まない。
全能者は何者なので、われわれはこれに仕えねばならないのか。
われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。
見よ、彼らの繁栄は彼らの手にあるではないか。
悪人の計りごとは、わたしの遠く及ぶ所でない。」
(「ヨブ記」21章7〜16節、口語訳)

神様をないがしろにする人々の「ランプ」が暗闇の中に立ち消えることは、
この世で頻繁に見られる現象ではありません。
神様を拒む富裕層が、
あたかも口に砂利をつっこまれるような屈辱的な体験をすることは
まず起こらないといってよいでしょう。
それどころかまったく逆に、
彼らは普通なら不満の全く出ないような大成功を
この世で収めることがよくあります。

少なくとも一部のキリスト教徒にとって
「成功の神学」はとても魅力的な教えに映るようです。
しかし、これは
神様の真理とはまったく関わりのない反キリスト教的な教えなので、
断じて許容するべきではありません。

主は、御自分に従うよう御許に招かれる人々に対して、
成功や健康を保証してはくださいません。
その代わりに主は、
十字架と辛苦とを私たちに差し出され、
御言葉に書かれてある通りのことを行われます。
しかしまた、
主のみがキリスト信仰者たちに真の命を与えてくださるお方でもあるのです。

2019年11月8日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様は罰を下すことがあるのでしょうか?「詩篇」38篇1〜9節(その2)

神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 「詩篇」38篇1〜9節(その2)
                                                            

「神様の罰」とはそもそもどういう意味なのか考えてみるのも時には大切です。

もしもあることがらが神様の罰なのだとしたら、
神様からはもう何も「よいこと」を期待するべきではない、
という結論になるのでしょうか。

神様の罰が何らかの意味で「よいこと」である場合ははたしてあるのでしょうか。
それとも、
神様の罰はいかなる場合にも例外なく常に「悪いこと」なのでしょうか。

この「詩篇」でも、また聖書の他の箇所においてもはっきり描かれていますが、
真なる神様は
罪には罰を下す一方で、
御心に従順な者には祝福を賜るお方です。

罪に対する罰の宣告については例えば
「マタイによる福音書」3章7節、
「ヘブライの信徒への手紙」3章11節、
「ヨハネの黙示録」6章16節などに見ることができます。

このことからどのような結論が導き出せるのでしょうか。
この世では、
粗雑な結論を性急に下したがる自称「聖書の教師」たちが
積極的に活動しています。
彼らのメッセージによれば、
金銭、健康、成功などは
「よい生活」を送った人間に対して神様が与えてくださる
「報酬」であるとされます。
ですから、
もしもそれらの要素があるキリスト教徒に欠けているならば、
それはその人のどこかに問題があるからである、ということにされます。
いわゆる「成功の神学」の信奉者たちはこのような調子で教えを垂れます。
最悪の場合には
「病気や貧困やあらゆる弱さには常に原因があるのだ」
と一方的に決めつけます。
「自分が神様に受け入れられている証拠として、
溢れるばかりに多様な賜物を与えられるほどの高みに達するまで
キリスト信仰者は自らの生活を改善していかなければならない」
といったメッセージを彼らは喧伝します。

しかしこれは、
実際に様々な苦痛に耐えている人々への同情心に欠ける冷淡な態度であり、
聖書の教えに従っているとはまったく言えません。
このような調子で聖書を理解していく者たちにとって、
キリストの受難の道を見つめることや、
御自分の民に対して十字架と苦難を与えるという主の約束に耳を傾けることは、
とうてい承服しがたいことなのです。