2014年9月26日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 第5回目の質問


5回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」5


パウロは、
アブラハムが信仰を通して神様に受け入れていただけたことを示した後で、
私たちが信仰の義を通して神様との平和をいただいており、
死の支配下から命の支配下へと移っている、
と断言しました。
これは、苦しみが終わるという意味ではなく、
キリストにあって命をいただく、という意味です。

1)パウロは、苦しみを誇る、と言っています。
これは、多くの人々の考え方とは正反対の考え方です。
パウロはこれによって何を意味しているのでしょうか。
苦しみや困難の只中にいる時に、私たちは感謝することができるでしょうか。
また、どのように感謝できるようになるのでしょうか。

2)神様の愛は、
本来ならそれをいただく資格が無いはずの人々に対して向けられている、
とパウロは強調します。
福音のこの考え方を、私たちは自分に対しても当てはめることができますか。

3)本来ならいただけるはずのない神様の愛が、私たちに向けられています。
ところで、私たちもまた、
この愛を他の人たちに分け与えていくことができるでしょうか。

「あなたがたは、自分を愛してくれる者を愛したとしても、
どれほどの感謝に値しましょうか。
罪深い人でさえ、自分を愛してくれる者のことを愛しているでしょう。
自分によくしてくれる者によくしたとしても、
どれほどの感謝に値しましょうか。
罪深い人でさえ、同じことをしているでしょう
(「ルカによる福音書」63233節)、
というイエス様の御言葉を参照してください。


4)パウロによれば、
一人の人間(アダム)を通して、死はこの世に入ってきました。
罪に対する罰として、すべての人が死ぬようになったのです。
小さな子どもも罪深い存在であり、
それゆえ、生まれたばかりであっても、
神様の御業である洗礼を必要としている、
ということを説明するために、何か別の根拠が必要でしょうか。

2014年9月19日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 5章12〜21節 二人のアダム(その4)


 
二人のアダム 51221節(その4)
 
 
この箇所を閉じるにあたり、
パウロは、律法の意味を巡る問題に解答を与えます。

キリストのゆえに罪が赦されるのなら、
なぜそれに加えて、モーセの律法や神様の戒めが必要とされたのか、
という問題に対する答えは明瞭です。

律法の目的は、罪を重大なものとして提示することでした。
人々を責め、良心の呵責へと導き、神様の御前で罪深い存在にする、
というのが、今も変わらない律法の使命なのです。

しかし一方では、律法によって、
誰一人、絶望へと追いやられてしまわないように
注意しなければなりません。
そして、
この自分自身への絶望から私たちを守ってくれるのが、
キリストの恵みなのです。

自分の弱さと罪深さを知っている人たちがいるところなら
どこであっても、
律法はその役割をすでに果たしています。
その時点で必要なことは、
律法によって罪人としての自覚をもった人たちに対して、
神様の愛の素晴らしさを伝えることです。

たとえ私たちの罪がどれほどひどいものであったとしても、
キリストの十字架は、
それらすべての罪が要求する罰という負債を
十分に返済する力を持っています。

「罪が大きくなったところでは、
恵みも満ちあふれるものとなりました」
520節)、と聖書は教えています。

この御言葉が該当しなくなるほど絶望的なケースは存在しません。
人間が多くの悪い行いをすることは確かにありえます。
しかし、
キリストの十字架の血によって贖えなくなるようなことは、
決して起こりません。

2014年9月12日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 5章12〜21節 二人のアダム(その3)


二人のアダム 51221節(その3)



キリストが十字架で人間全員のために、
神様と人間との間の和解をもたらしてくださったことは、
私たちを慰めてくれます。

私たちは、
主がくださる恵みを自分のような者がいただいてよいものかどうか、
躊躇してしまうものです。

そう悩んでいるあなたに言いますが、
恵みはすべての人のためのものなので、
もちろんあなたのためのものでもあります。

あなたのためにも、ゴルゴタの十字架の死を通して、
イエス様が罪の赦しの恵みを用意してくださったのです。

そして、イエス様の死の犠牲を通して、
世界全体が天の父なる神様と和解させていただいたので、
あなたもまた、天のお父様と仲直りしているのです。

それゆえ、今、私たちは皆、
この大いなる神様からの賜物を無視したり侮ったりしないように、
気をつけなければいけません。

これほどまでに偉大な神様の愛を足蹴にするようなら、
もし永遠の命をいただく代わりに
地獄の火の中で永遠に苦しむことになる場合には、
それは自分自身の責任となります。

自分に恵みをいただくためには、私たちは何も行う必要はありません。
なぜなら、
すでにキリストが十字架の死によって、
罪の赦しの恵みを用意してくださっているからです。