2010年12月15日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」5章6~8節 

  
無きに等しい自慢の種 5章6~8節
  
パウロは不幸な事例をひとまず置いて、今度はより一般的なことについて話し始めます。
パウロはコリントの信徒たちが誇っている内容自体を否定しているわけではありません。
コリントの信徒たちは自分たちの恵みの賜物と教会を誇りにし、使徒の権威を認めようとはしませんでした。
こうした態度は、彼らが御言葉を捨て、神様の怒りの対象になる、という事態を招きました。
本来ならば、コリントの信徒たちはキリストを誇りとし、神様に栄光を帰するべきだったのです。
  
パウロは今度は、台所のことや誰でも知っている事柄について話し始めます。
パン種の入ったパンを作るときには、パン種はたくさんは要りません。
少しでも入っていれば生地全体がふくれあがります。
今、パウロはパン種を厳密な意味で完全に抜き去るように命じています。
こうした言い方の背景にあるのは、ユダヤ人の過越しの祭と出エジプトの出来事です。
その時、民全員はすべてのパン種を投げ捨てるように神様から命令を受けました。
新しいパン種ができあがる前に、神様は御自分の民をエジプトの隷属から解放してくださいました。
その当時、人々はパン種の入っていないパンを食べて生活していました。
そういうわけで、ユダヤ人の過越しの祭には、今も昔も、パン種を取り除くこととパン種の入っていないパンを食べる日が定められているのです。
今ここで、パウロはキリストの教会を「生地」と呼んでいます。
この生地は古い生地をこねなおしたものではなく、完全に新しい、つまり罪のない生地だ、ということです。
それゆえ、教会からは「古いパン種」、すなわち罪の生活を完全に除去して、教会を清く保たなければなりません。
確かにコリントの信徒たちは清いのです。
今パウロは彼の手紙の一番重要なことがらに話題を移します。
それは、キリストはすべてを清めてくださった、ということです。
キリストが賜物として与えてくださった「聖さ」がすべての根底にあります。
キリストは「過越しの羊」です。
この羊が犠牲となって流される血が、私たちを神様からの罰と死から守っています。
しかしそれは、もはや教会は神様の御心を探し求める必要がない、という意味ではありません。
このように奇妙なやり方でパウロは、罪に塗れた者たちが清められるように勧めているのです。
なぜなら、彼らは「すでに清い」からです。
キリスト教の信仰は鉄壁な論理などではありません。
それは神様とその恵みと共に生きることです。