2010年1月27日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章その1

第2回

神様の唯一の建物

エフェソの信徒への手紙 第2章

聖書の多くの章は、順を追って節ごとに調べていけば、一番よく意味がわかります。
しかし、いくつかの章についてはそうではありません。読み始める前に、その章について十分に時間をかけてある程度は背景知識を手に入れた方がよい場合があるのです。
こうした作業の後で、聖書の御言葉の意味がおのずとあきらかになります。
「エフェソの信徒への手紙」第2章は、まさにこのような章です。
もちろん、この章の意味は、信仰者にとって、背景知識がなくても、わりとたやすく把握できるものでした。ところが、背景知識があれば、このすばらしい章のさらに新しい広がりが見えてくるのです。

私は前回のはじめに、「エフェソの信徒への手紙」は「教会の手紙」であり、この手紙の中では「教会」という言葉は肯定的な意味でのみ用いられている、と述べました。
この章を読むときには、私たちはまず、今現実にあるキリスト教会の分裂状態と教会間の緊張関係をすべて心から追い出さなければなりません。たとえば、聖公会に由来する「高教会派と低教会派といった区分」[1]をひとまず忘れることにしてみましょう。
教会の分裂状態を修復することは、行政的な決定により教会間の境目を取り除いてみてもうまくいくものではありません。
そのためには、福音とサクラメントについて一致した理解を見出すことこそが大切なのです。
しかし、ここではまず、「エフェソの信徒への手紙」が言っていることを見てみることにしましょう。

[1] 聖公会では、「高教会派」はカトリック的であり、それとは正反対に、「低教会派」はメソジスト的です。

2010年1月22日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」 第1回目の終わりのメッセージ

第1回目の集まりのためのおわりのメッセージ

天のお父様、あなたは、
あなたの貧しく惨めな子である私が永遠の命を受け継ぐために、
私を創造し、貴いあなたの御子の血によってあがない、
あなたの聖霊様によって聖としてくださいました。

私は嘆きつつあなたに心から告白しますが、
人間的な盲目のゆえに、私は
このもっとも高価で非常に大きな賜物である「永遠の命」がどれほど大切なものか、
一度も理解したことがなかったのです。

私は永遠の命について、
それに対する相応な思いをもって喜んだことがないし、
それを考えることを通して慰めを受けることもありませんでした。

私は永遠の命を心の底から慕い求めたこともなかったのです。
残念ながら、
私の心はこの世的な事柄に向いていて、
世や、目の欲求や、肉の欲望や、贅沢な生活の方を、
私はより多く愛してきました。

愛するお父様、
私のこの大きな罪と愚かさを赦してください。
私の心から、
魂を汚しそれに反抗する、世や儚い栄光への執着や、肉的な欲望を、
根こそぎ抜き去ってください。
何のために私がつくられ、あがなわれ、聖とされたか、
私が理解できるように助けてください。

私は、神様、他の何よりもあなたを探し求め、
あなたのみを愛し、心から慕うために、
そうして、
あなたと永遠の命以外の他は何も望むことがないように、
また、あなたより他のものを慕ったり願ったりしないように、
つくられ、あがなわれ、聖とされたのです。

ちょうど鹿が小川を望むのと同じように、
私の魂もまたあなたを慕い求めるように、
私の中に永遠の命への聖なる渇きを起こしてください。
いかなる苦労や圧迫や迫害や悲しみも、
私をこの希望から引き離すことがないように、
助けてください。

なぜなら、私は、
私のあがない主が活きておられることをしっており、
この方に私がおいている希望は、
私を恥ずかしい目にあわせることなどは許さないからです。

どうか、あらゆる十字架と苦しみの中で、
永遠の命の希望が私を慰め、喜ばせ、
そうして、悲しみをみな和らげて取り除いてくださいますように。

ヨハン・アルント 「楽園の薬園」

2010年1月20日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」 第1回目の質問



第1回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第1章


第1章では、神様が私たちを救い出すためにしてくださったことすべてについて、神様に感謝をささげています。キリストはその血によって、私たちの罪を取り除いてくださいました。

クリスチャンである人は、神様の子供であり、(御国の)相続者です。


1)洗礼を受けている人は、神様の子供です。

主の祈りの中で、私たちは自分たちのお父様として神様に話しかけます。

私たちが神様の子供であり、神様が私たちのお父様であることを、

私たちは忘れることが多く、感謝する心も消えてしまうようです。

どうすればよいのでしょう。

私たちは祈るときに神様に感謝することが少なすぎるのでしょうか。

今日私たちは何について感謝することができるでしょうか。

感謝の詩篇の中では、どのようなことについて感謝がささげられていますか(たとえば、詩篇98篇や104篇)。

「祈りの日記」をつける人もいます。あなたがたは同じようなことをしていますか。

どうして人は自分が神様の愛する子供であることをなかなか信じられないのでしょうか。


2)第1章のはじめの部分では、どのように神様がすべてを導いておられるか、

はっきりと語られています。

なぜ私たちは偶然や幸運や不運などについて口にするのでしょう。

神様の導きに頼りすぎたり、間違ったやり方で逃げ込むことがありうるでしょうか。


3)神様の計画なさったことが、どのようにあなた自身や身近にいる人たちの上に見えるかたちで実現しているか、語ることができますか。

あなたが教会に連なっているのは、どのようなことに基づいているのでしょうか。

どのようなことがらについて、神様が共にいて助けてくださることにもっともわかりやすく気がつくことができるでしょうか。


4)あなたは聖書の中から、自分の人生に適用できる具体的な指針を見つけましたか。

どの聖書の箇所があなたの心に触れ、あなたのそれまでの考え方を変えさせましたか。


「エフェソの信徒への手紙」1章15~23節は、教会員は神様の秘密と栄光についてごく一部のことしかしっていないことを、あきらかにしています。

この事実を考慮に入れることが私たちにはできるでしょうか。

それとも、私たちは神様をあまりにも矮小化してしまっているのでしょうか。

2010年1月15日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 1章15~23節(後半)

第1章の後半部では、「エフェソの信徒への手紙」に特徴的なことがらが取り上げられています。
パウロは、信仰者たちが神様をしることを学ぶように、待ち望んでいます。
これは私たちにいろいろなことを考えさせます。
牢獄の底から神様の愛を賛美する声が聞こえてきます。
手紙の著者は神様とその愛をしることを学んだ人です。
それゆえ、彼は苦い思いにとらわれることなく、熱心に、また我を忘れて、大いなる秘密をしるようにと手紙の読者をいざないます。
神様は、手紙の受け取り手に、彼ら自身が理解したことよりもさらに多くのことを分け与えようとしておられます。このことは私たちにどんなことを教えているでしょうか。

私たちクリスチャンも信仰生活において、落ち込んでいたり、怠けていたりするものです。
それというのも、神様の愛が広大であることや、私たちの希望が素晴らしいものであることを、私たちはほとんど気づかずに日々過ごしているからです。
まさにここに私たちの信仰生活と教会全体の重大な問題がある、と私はますます確信を深めてきました。
問題は、私たちが十分に努力していない、という点ではありません。
また、信仰を証するのが下手である、とか、現代世界の発展から取り残されてしまった、という意味でもありません。
さらには、私たちは感情を揺さぶるような強烈な体験をしなければならない、とか、新しい恵みの賜物を獲得しなければならない、とかいう意味でさえありません。
ここでのポイントは、「エフェソの信徒への手紙」が語っていること、すなわち、キリストの十字架が語っている「神様の圧倒的に大きな愛」のうち、ごくわずかの部分しか私たちはしってはいない、ということです。

「エフェソの信徒への手紙」の勉強を次のことから始めましょうか。
あなたには、あなたのままで、ただキリストの十字架と神様の愛のゆえに、御父がおられます。
これまであなたは御父の善性や偉大さや愛をあれこれ想像してみることしかできなかったのです。
要求、脅迫、条件ではなく、ひたすら神様の善性のみに注目しましょう。

もしもこれについて何かしらわかるなら、私たちは今「爆弾」のようなものを取り扱っているのだ、ということに気がつくでしょう。ヘドベルグがそれをしったとき、(現在のフィンランド福音ルーテル協会につながる)福音運動がはじまったのです。私たちもそれをしるならば、私たちの中にもリヴァイヴァル運動が生じるのは大いにありうることです。

2010年1月11日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 1章15~23節(前半)

1章15~23節 信仰者は神様を知ることを学ぶべきです。(前半)

このテキストは私たちをパウロと共に祈りの部屋へと連れて行きます。
パウロは教会のことを絶えず祈りに覚え、これらの教会がいただいた恵みについて感謝をささげています。それと共に、パウロは、教会が信仰の基礎をよりよくしることができるように、祈っています。
さあ、皆さん、気をつけて聴いてください。
今ここで問題になっているのは、「まったく神様をないがしろにして生きている人がキリストをしるようになる」、ということではないのです。
「信じるようになった人たちは神様の愛の偉大さをしることを学ばなければならない」、ということについてパウロは語っているのです。
つまり、「教会の中でさえ、神様の栄光と力について、ごくわずかの部分しかしられてはいなかった」、ということです。

19~23節によると、とてつもなく偉大な神様の救いのみわざが、私たちの信仰に影響を与えています。神様はキリストを死者の中からよみがえらせ、天にある御自分の右の座に高く挙げられました。キリストは今、御父と共に、あらゆる見えるものと見えないものとの主です。
それもたんにこの世の時だけではなく、来るべき時においてもそうなのです。

サタンはあるときイエス様にこれらすべてのうちのほんのわずかのものをあげるという約束によって、イエス様を試みようとしました(マタイによる福音書4章8~10節)。
今やサタンの権力は打ち砕かれました。
キリストがこの世を支配しておられることを、私たちは今すでに信仰によって見ることができます。
キリストは教会のかしらであり、私たちは皆、一緒にキリストの体を構成しています(このことには第5章のおわりで取り上げます)。
これらすべてを実現したのは、私たちに対する神様のよき御心です。
私たち自身の中にではなく、まさしくそこに、私たちの希望の礎があるのです。