2023年3月29日水曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」1章12〜17節 なぜ神様を蔑ろにする悪辣な者たちがこの世で成功を収めるのか?

 なぜ神様を蔑ろにする悪辣な者たちがこの世で成功を収めるのか? 

「ハバクク書」1章12〜17節

 

「わが神、主、わが聖者よ。

あなたは永遠からいますかたではありませんか。

わたしたちは死んではならない。

主よ、あなたは彼らをさばきのために備えられた。

岩よ、あなたは彼らを懲しめのために立てられた。

あなたは目が清く、悪を見られない者、

また不義を見られない者であるのに、

何ゆえ不真実な者に目をとめていられるのですか。

悪しき者が自分よりも正しい者を、のみ食らうのに、

何ゆえ黙っていられるのですか。

あなたは人を海の魚のようにし、

治める者のない這う虫のようにされる。

彼はつり針でこれをことごとくつり上げ、

網でこれを捕え、

引き網でこれを集め、

こうして彼は喜び楽しむ。

それゆえ、彼はその網に犠牲をささげ、

その引き網に香をたく。

これによって彼はぜいたくに暮し、

その食物も豊かになるからである。

それで、彼はいつまでもその網の獲物を取り入れて、

無情にも諸国民を殺すのであろうか。」

(「ハバクク書」1章12〜17節、口語訳)

 

なぜ真の神様を侮るカルデヤのようなものがユダを懲らしめる許可を得たのか

とハバククは神様に問います。

神様は見ておられないのか、それともこういうことは気にも留めないのか、と。

 

この箇所の冒頭(1章12節)からは、

カルケミシュの戦い(紀元前605年)の起きた後になって

ハバククがこのような記述をしているという推測も成り立ちます。

カルデヤがすでにユダに懲罰を下した状況について

ハバククは知っているからです。

 

神様がユダの罪を罰するためにカルデヤを遣わしたことを

預言者ハバククは理解しました(1章12節)。

同様の事例としては、

アッシリア(「イザヤ書」7章18〜20節、10章5〜6節)や

ペルシアのキュロス王(「イザヤ書」44章28節〜45章1節)

イスラエルの民を懲罰する「神様の鞭」として用いられました。

 

そうではあっても

神様の選ばれた民であるイスラエルが

敵によって完全に滅ぼし尽くされないことにはならないように

ハバククは神様に懇願します。

 

神様はこの世の始まる前から存在しておられます

(「あなたは永遠からいますかたではありませんか」1章12節)。

このことは「申命記」33章27節(「とこしえにいます神」)や

「詩篇」55篇20節(口語訳の19節「昔からみくらに座しておられる神」)、

また次に引用する箇所にも書かれています。

 

「山がまだ生れず、

あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、

とこしえからとこしえまで、

あなたは神でいらせられる。」

(「詩篇」90篇2節、口語訳)

 

神様は万物の造り主であられ、またこの世を支配し導くお方でもあられます。

 

ハバククは神様が

御本質(「あなたは目が清く、悪を見られない者、また不義を見られない者」)

に基づいて働きかけてくださるよう強く願っています。

それは神様が公正を実現してくださるようにという嘆願でもあります。

 

上掲の箇所(1章15節)は

カルデヤびとたちが周辺諸民族からの略奪や捕獲を繰り返してきたことを

比喩的に描いています。

「つり針」は聖書の他の箇所では

神様による裁きを表す比喩として用いられています。

 

「主なる神はご自分の聖なることによって誓われた、

見よ、あなたがたの上にこのような時が来る。

その時、人々はあなたがたをつり針にかけ、

あなたがたの残りの者を

魚つり針にかけて引いて行く。」

(「アモス書」4章2節、口語訳)。

 

同じ意味の比喩としては

「網」(「詩篇」141篇10節

(「わたしがのがれると同時に、

悪しき者をおのれの網に陥らせてください。」)、

「イザヤ書」51章20節、「ミカ書」7章2節)や

「わな」(「コヘレトの言葉」(口語訳では「伝道の書」)7章26節)

などを挙げることができます。

 

「主なる神はこう言われる、

わたしは多くの民の集団をもって、

わたしの網をあなたに投げかけ、

あなたを網で引きあげる。」

(「エゼキエル書」32章3節、口語訳)

 

漁師の作業は主の民が捕囚の身になることを表す比喩であり、

彼らが母国からはるか遠く引き離されて見知らぬ地に投げ込まれる

という意味です。

バビロニアは周辺諸民族の強制移住を大規模に断行しました

(「列王記下」24章12〜16節、25章11〜12、18〜20節)。

バビロニア以前の覇者アッシリアも同様の捕囚政策を強行しています

(「列王記下」17章5〜6、24節)。

 

上掲の箇所(1章16節)には、

バビロニア人たちが自分の強大な軍隊を自画自賛し、

あたかもそれが己の神であるかのように崇拝する有様が描かれています。

2023年3月23日木曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」1章5〜11節  神様からの驚くべき答え

 神様からの驚くべき答え 「ハバクク書」1章5〜11節

 

「諸国民のうちを望み見て、

驚け、そして怪しめ。

わたしはあなたがたの日に一つの事をする。

人がこの事を知らせても、

あなたがたはとうてい信じまい。

見よ、わたしはカルデヤびとを興す。

これはたけく、激しい国民であって、

地を縦横に行きめぐり、

自分たちのものでないすみかを奪う。

これはきびしく、恐ろしく、

そのさばきと威厳とは彼ら自身から出る。

その馬はひょうよりも速く、

夜のおおかみよりも荒い。

その騎兵は威勢よく進む。

すなわち、その騎兵は遠い所から来る。

彼らは物を食おうと急ぐわしのように飛ぶ。

彼らはみな暴虐のために来る。

彼らを恐れる恐れが彼らの前を行く。

彼らはとりこを砂のように集める。

彼らは王たちを侮り、つかさたちをあざける。

彼らはすべての城をあざ笑い、

土を積み上げてこれを奪う。

こうして、彼らは風のようになぎ倒して行き過ぎる。

彼らは罪深い者で、おのれの力を神となす。」

(「ハバクク書」1章5〜11節、口語訳)

 

暴力的な悪がいたるところで横行していることを嘆くハバククに対する

神様からの返答は実に意外なものでした。

暴力的な悪行はこれからも続いていくどころか、

いっそうひどくなっていくというのです。

 

「カルデヤびと」の残虐さと悪辣さは

当時の人々の間では「格言」になるほど知れ渡っていました。

「カルデヤ」は一般的には「バビロニア」という名で知られている国です。

カルデヤ王国すなわちバビロニア王国(正確には新バビロニア王国)は

アッシリア帝国滅亡後の中近東世界に君臨した新たな覇者です。

 

使徒パウロはピシデヤのアンテオケで安息日に会堂に入って宣教したときに

「ハバクク書」1章5節を引用しています。

 

「『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。

わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。

それは、人がどんなに説明して聞かせても、

あなたがたのとうてい信じないような事なのである』」。

(「使徒言行録」13章41節、口語訳)

 

パウロは「ハバクク書」のこの節をイエス様の復活に結びつけています

(「使徒言行録」13章30、37節)。

まさしくイエス・キリストの復活は神様による驚くべき偉大な御業でした。

興味深いことに「ハバクク書」と「使徒言行録」の箇所の間にはどちらにも、

神様の御心を蔑ろにする者は神様による裁きの罰を自らの上に招くことになる

という意味が込められているという共通点があります。

 

ここで「ハバクク書」に戻ると、

強大な権力を握った者にしばしば起こることがやはりカルデヤにも起こりました。

カルデヤはおごり高ぶったのです(「ハバクク書」1章7節)。

カルデヤはその強大な権力を己の「偶像」(偽物の神)にしてしまいました

「ハバクク書」1章11節)。

権力はその行使者をいともたやすく堕落させてしまいます。

そもそも権力とは

ある種の高尚な目的を実現するための手段にすぎないもののはずです。

にもかかわらず、

いつまでも権力の座にしがみつくことが

権力者の最大の目的や関心事になってしまう場合が

あまりにもしばしばみられます。

 

上掲の箇所(「ハバクク書」1章8節)では

当時の中近東世界における「電撃戦」が描写されています。

カルデヤ軍は連戦連勝の快進撃を続け、

それに対抗できる国はひとつもありませんでした。

カルデヤは夥しい数の捕虜を遠方の捕囚地に強制移住させました

(「ハバクク書」1章9節)。

ユダ王国および首都エルサレムもこの「バビロン捕囚」の対象となりました。

紀元前586年のネブカドネザル二世の軍によるエルサレム制圧後、

イスラエルの民はメソポタミアへと強制移住させられたのです

(「歴代誌下」36章11〜21節)。

 

なお、この攻撃では都市の外壁を破壊する際に土塁が築かれました

(「ハバクク書」1章10節、「ナホム書」2章6節)。

これと同様の戦術は

後年のユダヤ戦争でローマ軍が巨大な土塁を築いて防壁を突破し

ユダヤ人たちのマサダ要塞を陥落させた時にも用いられています(西暦72年)。

 

カルデヤ人は活ける真の神様を侮蔑する悪辣な民でした

「ハバクク書」1章11節)。

彼らは己の戦闘力を偶像のように頼りにしていました。

その様子は「ハバクク書」1章15〜17節に記されています。

また「ゼパニヤ書」2章15節には

カルデヤと同じように自らの権勢に酔いしれた

アッシリア帝国の惨めな末路が述べられています。

2023年3月14日火曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」1章2〜4節 社会に横行する悪行を嘆く預言者

 社会に横行する悪行を嘆く預言者 「ハバクク書」1章2〜4節

 

主よ、わたしが呼んでいるのに、

いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。

わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、

あなたは助けて下さらないのか。

あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、

何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。

略奪と暴虐がわたしの前にあり、

また論争があり、闘争も起っている。

それゆえ、律法はゆるみ、公義は行われず、

悪人は義人を囲み、公義は曲げて行われている。」

(「ハバクク書」1章2〜4節、口語訳)

 

この箇所でハバククは

当時のユダ王国で横行した悪事の数々について述べています。

それに対して後に出てくる1章12〜17節では

バビロニア人たちの悪名高い残酷さや悪辣さを描写しています。

また1章5〜6節ではバビロニアがユダを

その悪行のゆえに罰するために攻撃してくることが語られています。

 

上掲の箇所旧約聖書の「哀歌」と同じ形式で書かれています。

例えば「詩篇」3、13、22篇もこれと似た状況を描写しています。

 

「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

主よ、いつまでなのですか。

とこしえにわたしをお忘れになるのですか。

いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。

いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に

悲しみをいだかなければならないのですか。

いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。

わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、

わたしの目を明らかにしてください。

さもないと、わたしは死の眠りに陥り、

わたしの敵は「わたしは敵に勝った」と言い、

わたしのあだは、わたしの動かされることによって喜ぶでしょう。

しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、

わたしの心はあなたの救を喜びます。

主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、

わたしは主にむかって歌います。」

(「詩篇」13篇、口語訳)

 

「いつまで」は「哀歌」でもよく使われている言葉ですが、

「ハバクク書」1章2節の他にも

上掲の「詩篇」13篇2〜3節や「イザヤ書」6章11節などに出てきます。

もうひとつの典型的な言葉は「何ゆえ」です。

これは「ハバクク書」1章3節の他にも例えば「詩篇」22篇2節、

「エレミヤ書」20章18節、「哀歌」5章20節に登場します。

 

ユダ王国では数々の悪事が行われているにもかかわらず、

それを神様はあえて容認しておられる、とハバククは感じていました。

何ゆえに神様はそれらの悪行を妨げなかったのでしょうか

(「ハバクク書」1章2節)。

神様は御自分の民を助け支えることを約束なさっていたはずではありませんか。

旧約聖書にはこのテーマに関連する箇所がたくさんあります。

例えば「申命記」20章4節、「詩篇」18篇41節、33篇16〜19節、

「イザヤ書」59章1〜2節、「エレミヤ書」42章7〜11節などです。

同じような疑問に苦しめられた旧約聖書の代表的な人物としては

ヨブ(「ヨブ記」6章28〜30節)や

「詩篇」の詩人アサフ(「詩篇」73篇)を挙げることができます。

 

「今、どうぞわたしを見られよ、

わたしはあなたがたの顔に向かって偽らない。

どうぞ、思いなおせ、まちがってはならない。

さらに思いなおせ、

わたしの義は、なおわたしのうちにある。

わたしの舌に不義があるか。

わたしの口は災を

わきまえることができぬであろうか。」

(「ヨブ記」6章28〜30節、口語訳)

 

神様を平気で貶めている悪辣な連中は

何ゆえに神様から妨げられることなく悪を行い続けているのでしょうか。

悲惨な現実は少なくとも人間の目にはそのようなものとして映ったのです。

ユダ王国はエホヤキムの治世(在位期間は紀元前609〜597年)に

すっかり汚職に塗れ、法廷さえも賄賂によって左右されていました

「ハバクク書」1章3〜4節)。

2023年3月9日木曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」1章1節 表題

 表題 「ハバクク書」1章1節

 

「預言者ハバククが見た神の託宣。」

(「ハバクク書」1章1節、口語訳)

 

「ハバクク書」の預言全体の導入部はとても簡潔に書かれています。

 

「託宣」(1章1節)は原語のヘブライ語では「マッサー」といいます。

この言葉には「重荷」という別の意味もありますが、

「エレミヤ書」によれば

後者の意味でこの言葉を使用する預言者は主によって罰せられます。

 

「この民のひとり、または預言者、または祭司があなたに、

『主の重荷はなんですか』と問うならば、彼らに答えなさい、

『あなたがたがその重荷です。

そして主は、あなたがたを捨てると言っておられます』と。

そして、『主の重荷』と言うその預言者、祭司、または民のひとりを、

その家族と共にわたしは罰する。」

(「エレミヤ書」23章33〜34節、口語訳)

 

「託宣」はイスラエル以外の何か他の対象についての

予言を表す言葉として用いられるのが一般的でした。

そして「ハバクク書」の数々の予言の大部分もバビロニアに関わるものでした。

 

「ハバクク」に該当するアッカド語の「ハッバクーク」には

「園の植物」という意味があります。

旧約聖書の大部分はヘブライ語で書かれており、

アッカド語はヘブライ語と同じセム語族に属する古代言語です。

セム語には「語根」と呼ばれる三個のアルファベットの組み合わせが

それから派生する様々な単語の基本的な意味を規定するという特徴があります。

また「ハバクク」と同じ語根から派生したヘブライ語の動詞「ハーバク」には

「抱きしめる」や「手で掴む」という意味があります。

人名としての「ハバクク」にも

そのような意味が込められているとも考えられます。

2023年3月3日金曜日

「ハバクク書」ガイドブック「義人はその信仰によって生きる」

「ハバクク書」ガイドブック

「義人はその信仰によって生きる」

ここで当時のユダ王国の状況を振り返ってみることにしましょう。

敬虔なヨシヤ王(在位期間は紀元前640〜609年)は

前述のカルケミシュの戦いに向けて進軍するエジプトに戦いを挑み

メギドの地で戦死してしまいます。

ユダ王国を継承したエホアハズはわずか三ヶ月間在位しただけでした。

その次に王となったのは悪辣さで知られたエホヤキムです。

彼は紀元前609〜597年の間、ユダの王位にありました

(「歴代志下」36章1〜10節)。

 

絶望的に見える混迷の時代に主の預言者ハバククは

神様が偉大で全能なるお方であることを「選ばれた民」

すなわちイスラエルの民に説き聞かせます。

主はたしかに一時的にではあれ

バビロニア(「カルデヤびと」)が強大な権力を掌握することを許されました。

しかしそのバビロニアもいずれは主の御心によって滅ぼされることになる

ということについてハバククは語りました。

そしてその通りになったのです。

 

預言者ハバククは熱心に祈る人であり、

詩的な表現を巧みに駆使して預言を書き記す人でもあったことが

「ハバクク書」からは伝わってきます。

この書で彼は神様との対話を試みています。

「ハバクク書」1〜2章はおおよそ次のように区分することができるでしょう。

 

1章2〜4節 預言者の第一の嘆き

1章5〜11節 神様からの第一の返答

1章12〜17節 預言者の第二の嘆き

2章1〜20節 神様からの第二の返答

 

どうして神様は悪辣なバビロニア王国の力を使って

ユダ王国を罰するようなことをなさったのでしょうか。

この疑問をハバククは神様に素直にぶつけます。

バビロニアはユダよりもさらにひどいやりかたで神様を蔑ろにする

邪悪な国だったからです。


このもっともな質問に対する神様からの返答は次のようなものでした。


義人はその信仰によって生きる(「ハバクク書」2章4節)。

それに対し、神様を蔑ろにする悪辣な者は裁きを受ける。

最終的にはバビロニアもまた裁きを受けることになる

(「ハバクク書」2章7〜8節)。


事実、紀元前539年にペルシアがバビロニアに勝利し、

ユダの捕囚民を解放することになります。

 

ハバククは真の神様がいずれは世界中であまねく知られるようになる

という幻を受けていました(「ハバクク書」2章14節)。

すなわち、彼は主の御心を正しく伝える宣教活動が

世界中で大規模に展開される未来を予言していたことになります。

 

1940年代に死海のほとりのクムラン洞窟で発見された

いわゆる「死海文書」には「ハバクク書」の釈義書も含まれていました。

しかしそれには「ハバクク書」3章の説明が欠けています。

ともあれ、この書がクムランで発見されたことから、

紀元前後の時期のユダヤ教において

「ハバクク書」が重要視されていたことがわかります。

 

また「ハバクク書」には

使徒パウロや宗教改革者マルティン・ルターにとって極めて重要になった

聖句が含まれています。

それは

「義人はその信仰によって生きる」(「ハバクク書」2章4節、口語訳)

という一節です。

この言葉は新約聖書の「ローマの信徒への手紙」1章17節や

「ガラテアの信徒への手紙」3章11節にも引用されています。

預言者ハバクク自身にとってこの言葉は、

真の神様への信仰を守り通すイスラエル人たちが

バビロニアという異国で捕囚の民として過ごす時期にも

信仰によって「主の民」として生き抜くことができる

という希望と慰めを与えてくれるものでした。


信仰を失った国民や人間は世界の混乱の只中で

正しい道を見失い行方が分からなくなってしまうものです。

しかしその一方で、

信仰を保ち続ける人々はどのような苦境の只中にあっても

耐えて生きていくことができます。

2023年3月1日水曜日

「ハバクク書」ガイドブック はじめに

 「ハバクク書」ガイドブック

 

フィンランド語版著者 パシ・フヤネン

(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)


日本語版翻訳・編集者 高木賢

(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

 

フィンランド語版ガイドブックの表現や内容には

ある程度の編集が加えられています。

 

日本語版では「ハバクク書」全文およびその他多くの聖書の箇所を

具体的に本文で明示しました。

聖書の引用は「口語訳」によっています。

 

 

なぜ神様は沈黙しておられるのか?

 

はじめに 

 

「義人はその信仰によって生きる」

 

「ハバクク書」の預言者ハバククについては殆ど何も知られていません。

例えば父親の名前や本人の出身地などについても

旧約聖書には記述が見当たりません。

ハバククはレビ族に属する神殿奏者だったのではないかという推論もあります。

「ハバクク書」3章は「詩篇」の形式で書かれており、

しかもそこには演奏する際の注意事項まで付記されているからです

(「ハバクク書」3章1、3、9、13、19節)。

 

このようにハバククは謎に包まれた人物です。


それでも

「ハバクク書」に記されている幻がいつの時代に該当するものか

確定するのは比較的容易であると言えます。


中近東地域の権力を掌握したカルデア人によって

ユダ王国とその首都エルサレムが滅ぼされる混迷の時代が到来することを

ハバククは予言しました。

このことから

ハバククは預言者エレミヤの同時代人であったのではないかと推測されています。

 

アッシリア帝国のアッシュルバニパル王が紀元前627年に死去すると、

中近東世界は後継者をめぐって大混乱に陥り、

その政治的な空白に乗じて権力奪取を目論む多くの者があらわれました。


その結果、紀元前612年にアッシリア帝国およびその首都ニネヴェは

メディア、エラム、バビロニア(世界史に登場する新バビロニア王国)

の攻撃を受けて滅亡します。


さらに、この状況を自国の権益拡大に利用しようとした

エジプトとバビロニアの間にも戦争が起こります。


そして、紀元前605年のカルケミシュの戦いに勝利したのは

ネブカドネザル二世に率いられた新バビロニア王国でした。


これ以降、エジプトは中近東地域での権勢を失うことになります。


「ハバクク書」に収められている予言が

このカルケミシュの戦いからまもない時期に書き記されたものであるのは

ほぼ確実です(「ハバクク書」1章12節)。


また、この戦いは次の「エレミヤ書」の箇所でも言及されています。

 

「エジプトの事、すなわちユフラテ川のほとりにある

カルケミシの近くにいるエジプトの王パロ・ネコの軍勢の事について。

これはユダの王ヨシヤの子エホヤキムの四年に、

バビロンの王ネブカデレザルが撃ち破ったものである。

その言葉は次のとおりである、」

(「エレミヤ書」46章2節、口語訳)

 

以上に述べた歴史的考察から、

預言者ハバククの活動時期は紀元前605〜598年頃であったと

推定することができるでしょう。

紀元前597年に始まった最初のバビロン捕囚について

「ハバクク書」は触れていないように見えるからです。