2010年12月9日木曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」5章1~5節(その1) 

  
コリントの教会の姦淫の問題 5章1~5節(その1)
  
コリントの教会では激しい霊性と激しい放縦が奇妙に混交していました。
コリントは「姦淫」の中で生きていました。
それは、あらゆる意味でのルール違反を意味していたものと思われます。
それは、結婚前の性的関係のケースも、また不倫のケースも含んでいました。
特にひどいのは、パウロが例としてあげたケースです。
父親の妻と同棲している者がいた、というのです。
これがどういう意味だったか、完全にはわかりません。
おそらくその女性は自分の母親という意味ではなかったでしょう。
もしもそうならば、パウロはそう記していたはずです。
つまり、自分の継母と性的関係を結んだ男がいた、ということです。
彼の父親がまだ生きているかどうかについては何もわかりません。
ともあれ、モーセの律法はこのような関係を完全に禁止しています(「申命記」27章20節)。
まさにこのようなケースについてモーセの律法は死刑を定めています(「申命記」17章6~7節)。
「聖なる民」(ユダヤ人)からはあらゆる悪を滅ぼし尽くさなければならなかったのです。
異邦人もまた、継母との結婚を認めてはいません。
それゆえパウロは、「この点に関してコリントの信徒たちは異邦人たちよりも悪い」、と断言することができたのでした。
  
パウロがしきりにいぶかしんでいるのは、コリントの高度な霊性がこのようなことがらをまったく問題視してはこなかった、という点です。
このことについて私たちは確かな理由を知りません。
コリントの教会の有力者たちは、教会で上座を占めるのには長けていても、いざという時に教会を正しく指導する能力がなかった、ということはありえます。
しかし、より実情に近いと思われるのは、この問題には神学的な背景があった、ということです。
初代教会の時代には、霊的な力を知った多くの人々は、「どんなことをしてもかまわないのだ」、という思い込みを抱くようになってしまいました。
「(人が死ぬときには)どうせ肉体はこの世に残って朽ち果てる。
大切なのは、霊が神の高みに上ることだ」、というわけです。
コリントの教会には、「復活はもう起きたのであり、人間はもはや罪を犯すことがありえなくなっている」、と信じ込んでいる人たちがいたのはあきらかです。
しかしパウロは、このような話に耳を傾ける気など毛頭ありません。
教会は罪の中で安住してはいけないのです。
もしも人の心にキリストが住んでおられるならば、キリストはその人を罪との戦いに連れ出すものです。
  
(つづく)