2017年6月30日金曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その4)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その4)


イエス様が本当に聖餐の中に存在していることを
信じるのが難しい場合があるのは、
聖餐式がとても地味なものだからでもあるでしょう。
聖餐を配るのは不完全な人間であり、
聖餐式の時に天から音声が響き渡るわけでもないし、
聖餐にあずかるのも罪深い人々の群れです。

ルター派の教会の信仰の教えは「十字架の神学」と呼ばれます。
神様はこの世では御自分の力を隠しておられます。
そして、神様が働かれているのは、
一見するとそのようには思えないところにおいてこそなのです。

私たちが信じるか信じないかにはかかわりなく、
イエス様は聖餐の中に臨在しておられます。
私たちの信仰が聖餐をつくりだすわけではありません。
聖餐をつくりだす(すなわち、聖餐を聖餐たらしめる)のは
神様の御言葉です。


どのようにしてイエス様がパンとぶどう酒の中におられるのかについて、
私たちルター派キリスト教信仰者は無理やり説明を試みようとはしません。
なぜなら、
聖書自身がそれについて何も語っていないからです。
私たちの好奇心がそのことについてもっと詳しく知りたいと思う場合でも、
聖書が明言している内容についてのみ語ることで満足するべきなのです。

(次回更新は8月になります。)

2017年6月5日月曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その3)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その3)


「「神の子」(イエス・キリストのこと)が
パンとぶどう酒の中に存在している」というのは、
単純すぎる迷信的な考えであると思われるものかもしれません。
天の御国において父なる神様の右の座におられるイエス様が
聖餐の中に臨在なさっていることや、
イエス様がいろいろな場所で行われている聖餐式に
同時に存在なさっていることを、
私たち人間の理性はおそらく理解しえないことでしょう。

こうした事柄を信じるのが困難であるのは、
私たちが聖餐式でイエス様にお会いしていることを
実感できないからでもあります。
イエス様がおられるならそれを感じるはずである、
と私たちは考えがちなのです。

しかし、私たちの理性や感情がどのようであろうとも、
神様の御言葉自体が何を言っているかを見つめて、
それを信じるべきなのです。
このようにすることで私たちは、
信仰を殺してしまう理性の乱用や、
私たちの信仰が自らの感情に左右されてしまう状態から
守られます。

信仰は神様の御言葉に基づくべきものです。
すなわち、
私たちは聖書が言っていることを信じる、ということです。
こうすれば、私たちの信仰は堅く保たれます。
神様の働きは私たち人間の感覚や理解に依存するものではありません。