2022年2月23日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 誘惑と試練(その2)「ヤコブの手紙」1章2〜18節

 誘惑と試練(その2)

「ヤコブの手紙」1章2〜18節

  

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。

神は真実である。

あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、

試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」10章13節、口語訳)

 

上掲の節にあるように、

もしも私たちが誘惑(あるいは試練)から逃れたいと願うならば、

神様は私たちが誘惑(あるいは試練)から逃れ出るようにしてくださるのです。

 

「たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。

そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。

それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。」

(「ヤコブの手紙」1章11節、口語訳)

 

パレスティナでは東風(シロッコ)が吹き荒み始めると

瞬く間に草は枯れてしまいます。

それと同じように富裕な者のこの世の幸福も束の間のものであり、

結局は消え去ってしまいます。

ですから私たちは富を羨望するべきではありません。

 

「だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、

その忍耐力を十分に働かせるがよい。」

(「ヤコブの手紙」1章4節、口語訳)

 

上節からも伺えるように、ヤコブは人が完全な状態になれることを信じています。

このことから、

ヤコブは人間の可能性についてあまりにも楽観的な見方をしている

という批判を度々受けてきました。

しかしこのようにヤコブを決めつけるのは一方的すぎるでしょう。

彼はこの箇所全体を通して誘惑や試練についても語り続けているからです。

 

「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、

とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。

そうすれば、与えられるであろう。

ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。

疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。

そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。

そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。」

(「ヤコブの手紙」1章5〜8節、口語訳)

 

上の箇所を読んでいて

「それではキリスト信仰者には疑う権利がないのか」

という疑問を抱く人もいるのではないでしょうか。

疑うことについては

「理論的な疑い」と「実践的な疑い」の二つに分けて考える必要があります。

ここで「理論的な疑い」とは、

神様の与えてくださっている素晴らしい約束を完全に信じ切ることができない

という人間の弱さのあらわれのことであり、

「実践的な疑い」とは、

疑いの心に囚われたまま行動すること、

すなわち神様に信頼せずに自分自身に助けを求めることです。

この箇所でヤコブが意味しているのはおそらく後者の意味での疑いのことです。

 

「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、

上から、光の父から下って来る。

父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」

(「ヤコブの手紙」1章17節、口語訳)

 

神様の御許には「変化とか回転の影とかいうものはない」という表現は、

輝きに満ちておられる神様の御許にはどこにも影がないので

神様の光輝から逃れて隠れることはできない

という大切な真実を私たちに思い出させます。

2022年2月16日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 誘惑と試練(その1) 「ヤコブの手紙」1章2〜18節

 誘惑と試練(その1)

「ヤコブの手紙」1章2〜18節

 

これから扱う箇所には多様な視点があらわれます。

しかし、それらは「誘惑」あるいは「試練」という言葉に集約できるでしょう。

 

ヤコブは二つのタイプの連鎖反応を私たちに提示しています。

それらは肯定的な連鎖反応(2〜4節)と否定的な連鎖反応(14〜15節)です。

私たちが自分自身の生活を内省する時、

はたしてどちらの連鎖反応が起きていることに気づくことになるのでしょうか。

選択肢は次の二つです。

 

1)試練〜忍耐〜完全性 

2)誘惑〜欲望〜罪〜死

 

ところで「主の祈り」には「われらを試みにあわせず」という祈りがありますが、

この「試み」とは誘惑のことなのでしょうか、

それとも試練のことなのでしょうか。

伝統的なキリスト教の考え方によれば、

試練は信仰者を訓育する肯定的なものですが、

誘惑はそれとは反対に信仰者に傷を負わせる否定的なものです。

また、信仰者にとって誘惑は遠ざけるべきものですが、

試練は避けることができないし避けるべきものでもありません。

 

キリスト信仰者が罪に堕落する多くの場合の原因となるのは、

本来ならば誘惑(あるいは試練)から逃れるべき時に

自らその誘惑(あるいは試練)に挑んでいったことにある、

と説明した聖書の教師がいました。

とはいえ

いつも逃げ回っているばかりでは信仰において強められることもないでしょう。

はたして信仰者は誘惑(あるいは試練)からいつ逃げ去るべきであり、

またいつ立ち向かうべきなのでしょうか。

 

先ほど述べた二つの連鎖反応に共通して言えることは、

先に進めば進むほど

それを停止させることがよりいっそう難しくなっていくという点です。

 

「だれでも誘惑に会う場合、

「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。

神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、

また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。」

(「ヤコブの手紙」1章13節、口語訳)

 

この節は「誘惑は神様からくる」と考える人々が当時いたことを示唆しています。

しかしこのような考え方には

「神様が私を弱い者として創造なさったせいで私は罪を犯すのだし、

それに対して何をしてみたところで結局は無駄である」

という諦念が含まれているように思えます。

たしかに「試みる者」(すなわち悪魔)も

全能なる神様の権威の下に服している存在です。

とはいえ私たち人間は自らの罪の堕落を神様のせいにすることはできないのです。

2022年2月9日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 離散している神様の御民 「ヤコブの手紙」1章1節

 離散している神様の御民 「ヤコブの手紙」1章1節

 

「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、

離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。」

(「ヤコブの手紙」1章1節、口語訳)

 

ヤコブは誰に向けてこの手紙を書いているのでしょうか。

「離散している十二部族の人々」とは誰のことでしょうか。

考えられる答えは三つあります。

 

1)ユダヤ人

2)ユダヤ人キリスト信仰者

3)すべてのキリスト信仰者

 

第一にヤコブがユダヤ人を意味していたはずはありません。

なぜなら彼と彼の反対者たちとの間には

「イエス様こそ主なり」という共通の信仰があったからです(2章1節)。

ですからヤコブはユダヤ人を

「わたしの兄弟たち」(1章2節)と呼ぶはずがないのです。

二番目と三番目の答えのうちでどちらを選ぶかは研究者によって異なります。

 

三番目の選択肢によれば、

すべての新しいイスラエル、すなわち「ディアスポラ」

(我が家を失い離散した環境)の中で生きているキリスト教会のことを

ヤコブは意味していると考えることができます。


バビロン捕囚の終わった後(紀元前538年)、

ユダヤ人は次の二つのグループに分かれました。

この状態は今もなお続いているとも言えます。

 

1)地中海の東の端にあるイスラエルの地に居住するユダヤ人

2)イスラエルの地以外の様々な場所で散り散りに、

いわば「ディアスポラ」の中で生活するユダヤ人

 

大部分のユダヤ人たちと同じように

キリスト信仰者たちもまた全員が「我が家」から離れた状態で暮らしています。

天の御国だけが彼らにとっての唯一の真の故郷だからです

(「コリントの信徒への第二の手紙」5章1〜7節、特に6節)。

 

エルサレムの最初期の教会はキリスト教会全体の中で指導的な立場にありました。

エルサレム教会で重きをなしたヤコブやペテロは

ユダヤ人伝道に取り組みましたが、

それでもなお彼らの書いた手紙には

すべてのキリスト信仰者に向けられたメッセージが含まれているのはたしかです

(「ガラテアの信徒への手紙」2章1〜10節)。

2022年2月2日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 評価の分かれる手紙

 評価の分かれる手紙

 

新約聖書に含まれるべき福音書や手紙等の選定が最終的に済んだ時に

「ヤコブの手紙」を新約聖書に入れることを問題視した人々がいたことが

知られています。

彼らは「ヤコブの手紙」が使徒の手によるものでもなければ

異邦人キリスト教徒に向けて書かれたものでもないと主張し、

パウロの教えと矛盾していると考えたのです。

 

宗教改革者マルティン・ルターもまた「ヤコブの手紙」に対して

批判的な態度を取りました。

それは彼が書いた「ヤコブの手紙」に関する次の序文からもわかります。

 

「この聖ヤコブの手紙を昔の人々が捨ててしまったのはたしかだ。

しかし私はこの手紙に感謝しているし、よい手紙だとも思っている。

なぜならこの手紙は人間の教えを宣べ伝えようとはしておらず、

それとは逆に神様の律法の大切さについて熱心に教えようとしているからだ。

これから私は自分の意見を述べようと思うが、

それによって誰のことをも傷つけるつもりはまったくない。

私はこの手紙を使徒によって書かれたものであるとみなすことはできない。

その理由をこれから述べていくことにする。

第一に、聖パウロや聖書の他のすべての書物群とは反対に、

この手紙は行いを義なるものとして描いており、

2章21節で「わたしたちの父祖アブラハムはその子イサクを祭壇にささげた時、

行いによって義とされたのではなかったか。」と述べている。

ところがそれとは正反対に、聖パウロは「ローマの信徒への手紙」4章2節で

アブラハムは行いによってではなく信仰のみによって義とされたと教えている。

パウロはこのことを旧約聖書の「創世記」の記述

(アブラハムが我が子を神様に犠牲の捧げ物とする前に義とみなされたこと)

に基づいて証している。

この手紙が「行いによって義とされる」という立場をとっていることには

何らかの説明を与えることはできる。

しかし2章21節以降の記述で「創世記」15章6節

(「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」)

を「行いによる義」として理解するその考え方を弁護することはできない。

「創世記」の箇所は聖パウロも

「ローマの信徒への手紙」4章3節で引用しているように、

アブラハムの行いではなく信仰についてのみ語っているのである。

それゆえ、このような欠けた点があることからして

この手紙は使徒の書いたものではないと結論することができる。

第二に、この手紙はキリスト教徒を教えようとしているが、

この長い教えの中でキリストの受難や復活や御霊については

一度も言及していない。

キリストの御名は二度ほど出てくるが、

キリストがどのようなお方であるかということについてはまったく教えないまま、

ただたんに神様への一般的な信仰について語っている。

正しい使徒職とは、キリストの受難と復活と使命について説教し、

このキリストへの信仰をキリスト教信仰の基とするためのものである。

キリスト御自身が「ヨハネによる福音書」15章27節で

「あなたがたも(・・・)あかしをするのである。」

と言っておられる通りである。

正統な聖書に含まれる書物群は

それらすべてがキリストについて宣べ伝えキリストをひたすら追求している

という点で一致している。

またキリストについて正しく述べているかいないかを明らかにしてくれる

という意味でこの特徴はあらゆる書物を評価する際の正しい基準ともなっている。

聖書全体はキリストを証している(「ローマの信徒への手紙」3章21節)。

パウロはキリスト以外のいかなるものについても知りたいとは願っていない

(「コリントの信徒への第一の手紙」2章2節)。

主キリストについて教えないものは、

たとえそれを教えているのがペテロやパウロであったとしても

使徒的ではない。

その一方では、キリストについて宣べ伝えている者は、

たとえそれを行っているのがユダやアンナスやピラトやヘロデであったとしても

使徒的なのである。

ところがこのヤコブは律法とその行いばかりを追求している。

それに加えて彼は一つの話題からもう一つの話題へと

構成を考えずに飛び跳ねているため、

善意と正義の人として使徒たちの幾つかの文言を収集したものを

彼自身が書き記したか、

あるいは誰か他の者が彼の宣べ伝えたことに基づいて手紙を書いたのではないか

と私は推測する。

1章25節で彼は律法を「自由の律法」と呼んでいるが、

それに対してパウロは律法を「奴隷と怒りと死と罪の律法」と呼んでいる

(「ガラテアの信徒への手紙」3章23節以降、

「ローマの信徒への手紙」4章15節、8章2節)。

そのほかにも彼は4章10節で聖ペテロの言葉

「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。」

(「ペテロの第一の手紙」5章6節)を引用している。

また4章5節ではパウロの言葉

「御霊の欲するところは肉に反するからである。」

(「ガラテアの信徒への手紙」5章17節)も使用している。

ヘロデがペテロの殉教以前にヤコブを殺害した可能性もなくはないが

(「使徒言行録」12章2節)、

これらのことから考えて「ヤコブの手紙」の書き手は

ペテロやパウロの殉教後にもこの世で生きていたのではないか

と推測することができる。

短くまとめると次のようになるであろう。

「ヤコブの手紙」の書き手は行いなき信仰に依り頼む者たちに反対しようとした。

しかし霊や理解や言葉によっては反対することができなかったため、

聖書を引き裂いてしまった。

こうして彼はパウロや聖書全体に対抗した。

使徒たちが人々の心を神様の御心にかなう愛へと向けさせたことを、

彼は律法を教えることによって実現しようとしたのだ。

それゆえに私はこの手紙を

私の聖書の中で正しい主著のうちのひとつに数え入れるつもりはない。

とはいえ他の人がこの手紙の書き手を高く評価するとしても、

それを妨げるつもりもない。

この手紙にとてもよい言葉がたくさん含まれていることもたしかだからである。

この世のことについても人はひとりでは何もできない場合が多い。

ましてやこの人物がたったひとりで

パウロ(の手紙)や聖書の他の書物群の絶対的な価値に反対するようなことが

ありえようか。」

(以上、ルターによる「ヤコブの手紙」についての説明)

 

しかし「パウロとヤコブは本当に互いに正反対の考え方をしていたのか、

それともパウロの教えに関する間違った解釈とヤコブの考え方との間に

齟齬があったのか」というのは熟考を要する問題です。

それについては後ほど2章の説明でより詳しく扱うことにします。

 

ルターの批判の影響もあってか、

新約聖書において「ヤコブの手紙」の置かれている位置は

翻訳によってまちまちな場合があります。

ある翻訳では公同書簡の中で最後から二番目に置かれています。

しかし「口語訳」も含め大多数の現代語訳の定本となっているギリシア語聖書

Nestle-Aland版)では「ヘブライの信徒への手紙」のすぐ後に続く

一連の「公同書簡」の中の最初の手紙になっています。