2022年12月23日金曜日

あなたのあがない主は生きておられる(「ヨブ記」19章25節)

 あなたのあがない主は生きておられる

 

フィンランド語版著者

テーム・ハータヤ (フィンランド・ルーテル福音協会牧師)

日本語版翻訳・編集者

高木賢 (フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

 

聖書の引用箇所は口語訳によるものです。

日本語版では表現に多少の編集が施されています。

 

 

「ヨブ記」は苦難に巻き込まれた

ある人物の経験した信仰の戦いを活写しています。

人生の前半までヨブは輝かしい成功を収めていました。

しかし彼は突然そのすべてを奪い去られました。

子どもたち全員、自分の健康、親戚一同、友人たち、財産のすべてを

ヨブは失うことになったのです。

どうして神様は

あらゆる不幸がヨブの身の上に降りかかることを許されたのでしょうか。

 

人生の危機はヨブを信仰の危機へと陥れました。

なぜ神様はあらゆる不幸が自分の身の上に起きることを許されたのか

とヨブは問います。

彼がこのような疑問をもったのは少しも不思議ではありません。

危機の只中に放り込まれたことのある人なら

誰でもヨブと同じような疑問を抱かずにはいられないでしょう。

ヨブはあらゆる苦しみを受け、

耐え難い痛みを覚え、

数々の疑問にとらわれながらも、

あたかも暗闇の中を手探りするようにして神様のほうへと向き直り、

次のように信仰告白します。

 

「わたしは知る、

わたしをあがなう者は生きておられる、

後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」

(「ヨブ記」19章25節、口語訳)

 

この節には信仰にかかわる大切な三つの視点が含まれています。

 

第一に、ヨブは「わたしは知る」と言っています。

あなたもまたキリスト信仰者としてヨブと同じように言うことができるのです。

それはなぜでしょうか。

聖書が間違っていることは決してないからです。

聖書の教えていることは正しく、約束していることは必ず実現します。

それゆえ、あなたも聖書に全幅の信頼を寄せてよいのです。

 

ところでヨブは何を知っていたのでしょうか。

それは彼をあがなう主は生きておられるということでした。

これが上記のヨブの言葉に含まれている信仰への第二の視点です。

ヨブは神様が生きておられることを知っていたのです。

そしてあなたもヨブのように言うことができるのです。

あなたの神様であり、あなたのあがない主である

イエス・キリストは生きておられます。

イエス様は苦しみを受けて十字架で死なれました。

この出来事が起きたのはあなたの罪のためであり、

あなたに罪の赦しをもたらすためだったのです。

死んだイエス様が埋葬された墓は

その内側にイエス様を閉じ込めておくことができませんでした。

イエス様は死んでから三日目によみがえられ、

今も永遠に生きておられるのです!

 

信仰にかかわる第三の視点は、

神様がヨブの人生と同じようにあなたの人生も

しっかり導いてくださっていることを信頼しなさいということです。

ヨブは自分のあがない主が

最後の日の裁き主としてこの地の上に立たれることを知っています。

神様に不可能なことは何もありません。

ヨブはこのことを実際に自分で見ることができました。

最終的にヨブは主の御前にへりくだり、

主に対して反抗的だったそれまでの自分の態度を悔い改めました。

改心したヨブが祈ると神様は彼の人生をすっかり変えてくださいました。

ヨブは神様から助けをいただいたのです。

 

「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、

主はヨブの繁栄をもとにかえし、

そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」

(「ヨブ記」42章10節、口語訳)

 

あなたの人生には喜ばしいことも苦しいことも含まれていると思います。

しかしたとえ苦しさの最中にあったとしても、

あなたのあがない主が生きておられ最後の日の裁き主として立たれることを

どうか思い起こしてください。

自分の罪深さと理解の足りなさを神様に告白し、

不可能なことが何もない神様にどうか信頼してください。

おそらく神様はあなたの抱えている問題のすべてを

取り除いてはくださらないでしょう。

私たちは依然として罪が様々な問題を引き起こし続けている

この地上で生活しているからです。

ヨブも自分の死んだ子どもたちを

神様に生き返らせていただくことはできませんでした。

しかし裁き主としてあなたの人生に最終的な宣告を下すのは神様です。

あなたが主を信じて主の御許に逃げ込むとき、

主はあなたをしっかり受け止めて天の御国へと導いてくださいます。

 

 

 

 

 

2022年12月9日金曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 終わりの挨拶のないままに

「ヤコブの手紙」ガイドブック

 

終わりの挨拶のないままに

 

既出の5章19〜20節にて、

ヤコブは古典古代の手紙および新約聖書の手紙にはつきものの

終わりの言葉や挨拶を記さないまま唐突にこの手紙を閉じています。

それもあって「ヤコブの手紙」は

いわば序論付きの説教のようなものとみなされる場合もあります。

しかし例えば「ヨハネの第一の手紙」も

終わりの言葉や挨拶がないままで閉じられています。

古典古代における手紙の書き方の作法は絶対的なものではなく、

そこから逸脱した流儀で書かれることもありました。

「ヤコブの手紙」はそのような手紙でした。

しかし、まさにそれによって

最後の節がよりいっそう印象深いものになっていると思います。

 

 

(終わり)


フィンランド語版著者 パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)

日本語版翻訳・編集者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)


前回の掲載時に上記の箇所を加えるのを忘れていました。


次回からはまた別の聖書の手紙について取り上げることにします。

2022年11月24日木曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章19〜20節 キリスト信仰者は傍観者であってはいけない

 キリスト信仰者は傍観者であってはいけない

「ヤコブの手紙」5章19〜20節

 

「わたしの兄弟たちよ。

あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、

だれかが彼を引きもどすなら、かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、

そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、

知るべきである。」

(「ヤコブの手紙」5章19〜20節、口語訳)

 

この節の「真理の道から踏み迷う者」とは

本来のキリスト教ではない異端にまきこまれてしまった人のことか、

あるいは道徳的に堕落してしまった人のことを指していると思われます。

どちらの場合でも

人は神様との生き生きとした結びつきを失ってしまうことになります。

 

キリスト信仰者をこのような危険から正しい道へと立ち戻らせることは

教会で働いている牧師のみの責任ではありません。

これはキリスト信仰者各人の義務でもあります。

パウロは次のように教えています。

 

「兄弟たちよ。

もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、

霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。

それと同時に、

もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」

(「ガラテアの信徒への手紙」6章1節、口語訳)

 

上節でパウロは「その人を正しなさい」と言っています。

ギリシア語の動詞「カタルティゾー」は、

古典古代の医学では「関節から外れた体の部位を元どおりの位置に戻す」

という意味をもっていました。

この箇所にもその意味が込められています。

すなわち、迷子になったキリスト信仰者を

本来その人が属しているはずの場所

すなわち神様の御意思の下に連れ戻すことです。

 

「罪人を迷いの道から引きもどす人は、

そのたましいを死から救い出し、

かつ、多くの罪をおおうものである」

という上掲の「ヤコブの手紙」の御言葉は

「箴言」10章12節や

「ペテロの第一の手紙」4章10節の御言葉と同様に、

愛は多くの罪を覆うものであることを強調しています。

 

ある人たちはこの教えを

「よい行いは悪い行いを帳消しにしてくれる」

というように理解しました。

しかしこれでは

「よい行いと悪い行いとの関係が

それを行う人間の永遠の世界における命運を定める」

というイスラム教による救いの考え方と同じものになってしまいます。

 

それとは異なり、この箇所の教えは

「愛は罪の大きさには目を留めないものである」

と理解することもできます。

イエス様は

御自分のことを愛する者たちのみを愛してくださるのではありません。

むしろ、イエス様は

御自分の愛に相応しくないような者たちをこそ愛しておられるのです。

2022年11月16日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章13〜18節 祈り 〜 神様の御手を動かす力

 祈り 〜 神様の御手を動かす力

「ヤコブの手紙」5章13〜18節

 

これから扱う箇所についてはあらかじめ読者が知っておくべきことがあります。

それはヤコブは模範的な「祈りの人」であったということです。

ヤコブは真摯な信仰者であったため、

ユダヤ人キリスト信仰者たちは彼をエルサレム教会の指導者として受け入れていた

という面もあったのかもしれません。

古くからのキリスト教会の伝承によれば、

ヤコブはあまりにも熱心に祈る人だったために

彼の膝はラクダのもののようになっていたそうです。

 

「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。

その人は、教会の長老たちを招き、

主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。」

(「ヤコブの手紙」5章14〜15節、口語訳)

 

上掲の箇所に基づいてローマ・カトリック教会は

「終油」あるいは「病者の塗油」と呼ばれる

秘跡(サクラメント)を設定しました。

直接的にはこの箇所は魂の救いではなく

病者の癒しについて述べているにすぎませんが、

新約聖書の原典のギリシア語の単語(「ソーゾー」)には

そのどちらの意味もあります。

 

油を塗布することは旧約聖書の時代にも用いられていた病の癒し方です

(「イザヤ書」1章6節)。

イエス様の弟子たちも人々を癒すときに塗油を行なっていました

(「マルコによる福音書」6章13節、「ルカによる福音書」10章34節)。

しかし、この箇所でヤコブが強調しているのは祈ることの大切さです。

実のところ、塗油ではなく祈りこそが癒しの鍵なのです。

 

現代では高度に発達した医学が

癒しという恵みの賜物や病人のための祈りにとってかわった

という主張もなされています。

たしかに医学の進歩は

神様が人類に与えてくださった最大の賜物のうちのひとつです。

しかしその一方では、

最先端の医学をもってしてもすべての病を治すことはできない

というのも事実なのです。

私たち人間は神様のこの世に対する働きかけを制限することができません。

医学の分野に関してもそれは同じです。

 

「悩みの日にわたしを呼べ、

わたしはあなたを助け、

あなたはわたしをあがめるであろう。」

(「詩篇」50篇15節、口語訳)

 

この有名な詩篇の箇所は「神様への電話番号」などと呼ばれることもあります。

神様は人が諸々の困難に直面するのを容認なさる場合が少なからずあります。

そうしなければ、多くの人は神様の御許に自ら来ようとはしないからです。

 

キリスト信仰者の人生も実に多様な困難に遭遇します。

しかしそれらの試練は神様が彼らを見捨てた証拠などではありません。

 

「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、

雨が降らないようにと祈をささげたところ、

三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。

それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。」

(「ヤコブの手紙」5章17〜18節、口語訳)

 

ここでふたたびヤコブは旧約聖書の例を引き合いに出しています。

預言者エリヤはまったく普通の人間でしたが、

その一方では、力にあふれた祈りの人でもありました。

祈りによってエリヤはバアルの預言者たちに対しても勝利を収めたのです

(「列王記上」17〜18章)。

2022年10月7日金曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章12節 キリスト信仰者は誓ってもよいのか?

 キリスト信仰者は誓ってもよいのか?

「ヤコブの手紙」5章12節

 

「さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。

天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、

いっさい誓ってはならない。

むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。

そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。」

(「ヤコブの手紙」5章12節、口語訳)

 

多くの人はこの節と「マタイによる福音書」5章33〜37節とに基づいて

「キリスト信仰者はどのような誓いであれ一切誓ってはならない」

と解釈しています。

ヤコブのこの箇所は

パウロの「コリントの信徒への第二の手紙」1章17〜20節とも

かなり似ています。

 

しかしイエス様とヤコブは公の場でなされる宣誓ではなく

個人的に誓うことを禁じているのです。


当時のユダヤ人たちには誓いを頻繁に立てる慣習がありました。

このような宣誓は神様の御名を用いてなされました。

彼らは日常の些細な事についてもいちいち誓いを立て、

その度ごとに神様を「保証人」代わりにしていたとも言えます。

もちろんこれは尊い神様の御名のて適切な使用法ではまったくありません。

 

旧約聖書は特定のケースにおいては

むしろ誓いを立てることを要求しています。

次に一例を挙げます。

 

「双方の間に、隣人の持ち物に手をかけなかったという誓いが、

主の前になされなければならない。

そうすれば、持ち主はこれを受け入れ、隣人は償うに及ばない。」

(「出エジプト記」22章11節、口語訳)

 

預言者エレミヤは偽りの誓いについて述べています。

ということは正しい誓いもあることになります。

 

「彼らは、「主は生きておられる」と言うけれども、

実は、偽って誓うのだ。」

(「エレミヤ書」5章2節、口語訳)

 

「あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、

あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、

わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、

『われわれは救われた』と言い、

しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。」

(「エレミヤ書」7章9〜10節、口語訳)

 

次の例からもわかるように、

パウロの手紙には内容的に誓いであるような箇所も含まれています。

 

「ここに書いていることは、神のみまえで言うが、決して偽りではない。」

(「ガラテアの信徒への手紙」1章20節、口語訳)

 

「わたしは自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言うが、

わたしがコリントに行かないでいるのは、

あなたがたに対して寛大でありたいためである。」

(「コリントの信徒への第二の手紙」1章23節、口語訳)

 

ここまでみてきたことから

私たちは「公になされる宣誓は正しい」と結論できるでしょう。


それとは異なり、

神様の御名以外によって誓う種々のやり方や、

自分の誓いに信憑性をもたせるために御名を軽率に引き合いに出すことは、

御名をぞんざいに扱うことにほかなりません。

2022年9月15日木曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章7〜11節 忍耐はいつかかならず報われる(その2)

 忍耐はいつかかならず報われる(その2)

「ヤコブの手紙」5章7〜11節

 

「だから、兄弟たちよ。

主の来臨の時まで耐え忍びなさい。

見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、

耐え忍んで待っている。」

(「ヤコブの手紙」5章7節、口語訳)

 

「前の雨」は秋の雨あるいは秋の収穫を、

また「後の雨」は春の雨あるいは秋の収穫を意味しているとも考えられます。

イスラエルでは秋にも春にも収穫期があったからです。

春には穀物が、秋には果物が実りました。

雨季も年に二回あり、

秋は十月に、春は三月から四月にかけてよく雨が降りました。

雨季と収穫については次に引用する旧約聖書の「申命記」にも記されており、

それがヤコブの言い回しの背景にあるとも考えられます。

 

「もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、

あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、

主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、

穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、

また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。

あなたは飽きるほど食べることができるであろう。」

(「申命記」11章13〜15節、口語訳)

 

忍耐の模範の例として旧約聖書の預言者たちやヨブが挙げられています。

参考箇所を次に挙げます。

 

「このほか、何を言おうか。

もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、

サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。

彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、

ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、

弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。

女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。

ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、

拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。

なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、

投獄されるほどのめに会った。

あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、

羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、

(この世は彼らの住む所ではなかった)、

荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。」

(「ヘブライの信徒への手紙」11章32〜38節、口語訳)

 

ヨブは、その「ひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」

(「ヨブ記」1章1節、口語訳)にもかかわらず、

あるいはそれゆえにこそ、実に様々な苦難に遭います。

財産も子どもたちも自らの健康さえも失い、

彼を慰めに来た友人たちも逆に彼を責め立てるようになります。 

それでもヨブは最後まで忍耐を貫き、

主なる神様に叫び声を上げて祈り続けました。

ヨブは大変な不幸を経た後で、裁き主なる神様から諌められ、悔い改めます。

ヨブを責め立てた友人たちは神様からきついお叱りを受けます。

最後にヨブの人生は好転し始めました。

次のように「ヨブ記」は閉じられます。

 

「主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、

「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。

あなたがたが、わたしのしもべヨブのように

正しい事をわたしについて述べなかったからである。

それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、

わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。

わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。

わたしは彼の祈を受けいれるによって、

あなたがたの愚かを罰することをしない。

あなたがたはわたしのしもべヨブのように

正しい事をわたしについて述べなかったからである」。

そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、

主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。

ヨブがその友人たちのために祈ったとき、

主はヨブの繁栄をもとにかえし、

そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。

そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、

および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、

彼と共にその家で飲み食いし、

かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、

おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。

主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。

彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

また彼は男の子七人、女の子三人をもった。

彼はその第一の娘をエミマと名づけ、

第二をケジアと名づけ、

第三をケレン・ハップクと名づけた。

国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。

父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。

この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。

ヨブは年老い、日満ちて死んだ。」

(「ヨブ記」42章7〜17節、口語訳)

 

次の「ヤコブの手紙」の箇所には、

ヨブを不当に断罪した友人たちに対する主の叱責に通じるものがあります。

 

「兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。

さばきを受けるかも知れないから。

見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。」

(「ヤコブの手紙」5章9節、口語訳)

 

裁く者が裁かれることをこの節は教えています。

イエス様も次のように言っておられます。

 

「人をさばくな。

自分がさばかれないためである。

あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、

あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」

(「マタイによる福音書」7章1〜2節、口語訳)

 

「兄弟たちよ。

互に悪口を言い合ってはならない。

兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、

律法をそしり、律法をさばくやからである。

もしあなたが律法をさばくなら、

律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。」

(「ヤコブの手紙」4章11節、口語訳)

 

上掲の節は前にも引用しましたが、

ヤコブは他の人について悪い噂を撒き散らす者たちを厳しく戒めています。

 

それでもヤコブは神様を

私たちの罪を赦してくださる憐み深いお方として描き出しています。

これは多くの神学者のもつヤコブについての一般的な印象とは

かなり異なっていると思います。

彼らはヤコブが完全で聖なる信仰生活を人々に要求していると

誤解しているからです。

2022年9月12日月曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章7〜11節 忍耐はいつかかならず報われる(その1)

 忍耐はいつかかならず報われる(その1)

「ヤコブの手紙」5章7〜11節

 

「イエスの再臨について新約聖書がほとんど述べていないのは

それが重要ではないからだ」という主張もときおり耳にします。

「イエス様の再臨」とは、

この世の終わるときにイエス様がこの世に戻ってこられて

生きている人と死んでいる人とを裁かれる未来の出来事のことです。

しかし丁寧に読んでみると、

新約聖書はイエス様の再臨(および最後の裁き)について

実に約300もの箇所で触れているとも言われます。

新約聖書には全部で260の章があるので、

平均して1章につき約1回の割合で

イエス様の再臨(および最後の裁き)に言及されていることになります。

ヤコブばかりではなくパウロもまた

イエス様の再臨についてアテナイのアレイオパギアの賢者たちに対して

次のように語っています。

 

「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、

今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。

神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、

お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。

すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、

その確証をすべての人に示されたのである」。」

(「使徒言行録」17章30〜31節、口語訳)

 

このようにイエス様の再臨と最後の裁きとは

最初期のキリスト教の宣教において中心的なテーマであったことがわかります。

 

ユダヤ人たちは「主の日」の到来を待ち望んでいました。

その日はユダヤ人たちにとっては喜びの日となり、

異邦人たち(すなわち非ユダヤ人たち)にとっては

苦しみと裁きの日となるはずでした。

キリスト教信仰においても主の再臨への待望は、

上に述べた裁きと喜びという二つの対照的な出来事への期待が含まれています。

 

ヤコブはイエス様ができるかぎりすみやかに

この世に再臨してくださるのを待望していました。

しかしそうはなりませんでした。

ヤコブはまちがっていたのでしょうか。

使徒ペテロはイエス様の再臨を待ち続けることに関する同様の質問に

手紙で次のように答えています。

 

「愛する者たちよ。

この一事を忘れてはならない。

主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。

ある人々がおそいと思っているように、

主は約束の実行をおそくしておられるのではない。

ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、

あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」

(「ペテロの第二の手紙」3章8〜9節、口語訳)

 

イエス様の再臨はいまだ起きていません。

神様がそうなさっているのにはちゃんとした理由があります。

すべては恵みに基づくことなのです。

また、神様と人間とにはそれぞれまったく異なる時間の感覚がある

ということも覚えておかなければなりません。

 

どうしてイエス様の再臨の時がなかなか訪れないのか、

私たちは理性によってあれこれ考えあぐねるべきではありません。

むしろ、自然がいつものように種を成長させてくれることを期待しながら

種を蒔いていく者のような姿勢で活動していけばよいのです。

それと同じようにして、キリスト信仰者は神様の約束なさったことを信頼し、

それがいつかは必ず実現することを期待し続けなければなりません。

農夫は種が実を結ぶのを早めることはできません。

同様に、キリスト信仰者は

神様の立てられたスケジュールに従わなければなりません。

種が実を結ぶようにいつ再臨が訪れるのか、キリスト信仰者は知りません。

それをご存知なのは神様おひとりだけです。

 

「その日、その時は、だれも知らない。

天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」

(「マタイによる福音書」24章36節、口語訳)

 

このことと併せて、次に引用する「ルカによる福音書」12章の

イエス様の警告にも耳を傾けましょう。

 

「するとペテロが言った、

「主よ、この譬を話しておられるのはわたしたちのためなのですか。

それとも、みんなの者のためなのですか」。

そこで主が言われた、

「主人が、召使たちの上に立てて、

時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、

いったいだれであろう。

主人が帰ってきたとき、

そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。

よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。

しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、

男女の召使たちを打ちたたき、

そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、

その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。

そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。

主人のこころを知っていながら、

それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。

しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。

多く与えられた者からは多く求められ、

多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」

(「ルカによる福音書」12章41〜48節、口語訳)