2012年10月31日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第12回目の質問(21~22章)


  
13回目の集まりのために
  
 
「ヨハネの黙示録」2122
  
「ヨハネの黙示録」は新世界の描写で閉じられます。
どのようなことが「神様のもの」である人々を待ち受けているか、
ヨハネは見て、その不思議な素晴らしさに感銘を受けました。
この幻は「神様のもの」である人々に
これからも天国への道を歩みつづけるように励ましています。
非常に素晴らしい世界が約束されているので、
私たちは天国への道を歩むのを途中でやめたりはできません。
  
  
質問

1)新世界はどのようなものですか。
私たちが今いる世界とくらべて、どこが同じでどこが違うのでしょうか。
なぜ新世界は本当によい所なのでしょうか。
  
2)ヨハネは新しい都の大きさを測ります。
その測量結果は都についてどのようなことを物語っていますか。
211517節の説明を参照してください。
  
3)新しいエルサレムには神殿がありません。
このことは新世界における人間と神様との関係について
どのようなことを語っていますか。
  
4)聖なる都に入城できるのは誰でしょうか。
  
5)「ヨハネの黙示録」は新しい楽園について語っています(2215節)。
これとエデンの楽園(「創世記」24節~36節)との間には
どのような共通点と相違点がありますか。
  
6)のろいに縛られていない生活とはどういう意味でしょうか(223節)。
そのときの生活はどのようなものでしょうか。
  
7)2211節はどういう意味ですか。
この箇所の説明を参照してください。
  
8)イエス様は御自分のことを
「ダヴィデの若枝」とか「明けの明星」と言われています(2216節)。
これによって、イエス様は何を意味しておられるのでしょうか。
この箇所の説明を参照してください。
  
9)イエス様が早く再臨されるように、あなたは祈っていますか。
また、このように祈るべきでしょうか。
あなたはこう祈るのが怖いですか。
怖い場合、それはどうしてでしょうか。
  
10)「ヨハネの黙示録」があなたがた一人一人に
どのようなことを教えてくれたか、聖書研究会で話し合ってください。
何か特に印象に残ったことがらなどがありますか。
 

2012年10月29日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 22章20~21節 最後の挨拶 


 
最後の挨拶 222021
  
  
「ヨハネの黙示録」の最後の挨拶には二つの部分があります。
20節はおそらく初期の教会の礼拝式文の一部です。
そこには、
「そう、私はすぐに来ます」、というイエス様の言葉と、
「アーメン」、という教会の応答と、
「主イエス様、来てください」、という教会の祈りが
含まれています。
「コリントの信徒への第一の手紙」にはこれと対応する箇所があります
(「コリントの信徒への第一の手紙」1622節)。
21節は、
「ヨハネの黙示録」の読者に対する祝福の挨拶でもあり、
「イエス様の恵みが私たちと共にある」、という確証でもあります。
恵みに信頼しつつ、私たちは主の再臨を待ち望みます。
恵みが私たちの防壁なので、私たちには何の心配もありません。
イエス様の恵みは日々私たちと共にあります。
そしてそれは、
神様がこの世を裁かれるその日にも変わりません。
 

2012年10月26日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 22章18~19節 厳しい警告 


 
厳しい警告 221819
  
 
これらの節には厳しい警告が含まれています。
この警告はとりわけ
「ヨハネの黙示録」の写本を後に作成した人々に向けられています。
印刷技術が発明されるまでは人々は書物を手で書き写していました。
それゆえ、写本の製作者が
コピーされるべき書物に記されている全部のことを書き写さなかったり、
テキストに自分で加筆したりするという危険が大いにありました。
このことに対して警告が発せられているわけです。
この警告をもっと広く受け取り、
「ヨハネの黙示録」のすべての読者や釈義者にも
当てはめることができるのは確かでしょう。
この書物からは何も取り除いてはならないし、
この書物に自分の言葉を勝手に付け加えてもいけないのです。
この書物は削除も加筆もなしに、
つまり今の私たちに与えられているそのままのかたちで、
読まれ説明されるべきなのです。
  
「ヨハネの黙示録」が聖書の最後の書物になるなどとは、
ヨハネには予想もできなかったことでしょう。
しかし、そうなりました。
少なくとも私はここに神様の御手の働きを見ます。
今や全聖書は真剣な警告をもって閉じられようとしています。
これが私たちに対するメッセージです、
「聖書全体は神様が語られたものであり、
それゆえ聖書に対しては
神様の御言葉にふさわしい敬意をもって接するべきである。
聖書を捻じ曲げてはならないし、
聖書に自分勝手な加筆を施してもいけないし、
聖書からは何も取り除いてはならない。
聖書は削除も加筆もなしに宣べ伝えなければならない」。
教会の歴史の中では、
この「ヨハネの黙示録」の警告が実現したケースが多く見られます。
神様の御言葉が削除なしに宣べ伝えられたところでは、
人々は神様の祝福を得ました。
しかし、
神様の御言葉を修正しようとしたところでは、
人々は呪いを受けました。

2012年10月24日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 22章10~17節 イエス様のお話(その3)


 
イエス様のお話 221017節(その3)

 
 
16節で、イエス様は御自分を
「ダヴィデの若枝」、「輝く明けの明星」と呼んでおられます。
「イザヤ書」はダヴィデの家系の若枝について語っています
(「イザヤ書」111節)。
この「ダヴィデの若枝」とは、
失権したダヴィデの家系から
いつか生まれることになる王のことを指しています。
御自身をダヴィデの若枝と呼ぶことによって、
イエス様は御自分が
旧約聖書の約束してきたメシアであることを
啓示されているのです。
イエス様にあって、イザヤの預言は成就されました。
イエス様こそが
皆に待ち望まれてきたあの「ダヴィデの子」なのです。
新しい一日が始まろうとするときに、明けの明星が見られます。
イエス様はまさにこの「明けの明星」なのです。
イエス様の死と復活とは、
人間の世界の歴史において「新しい日」の始まりを告げました。
「新しい日」はまた、
イエス様が栄光に包まれて地上に再臨なさる時にも始まることになります。
  
「ヨハネの黙示録」のはじめのほうの箇所には、
七つの教会に向けて書かれた七つの手紙がありました。
17節では、教会生活に話が戻されます。
ここで再び「花嫁」と呼ばれている神様の教会は
イエス様の再臨を待ち望み、
それが早く実現するように神様の御霊と共に祈ります。
この節はまた、神様の教会の使命を思い起こさせます。
教会は命の水をそれを欲する者皆に分け与えます。
命の水は永遠の命をあらわしているものでしょう。
そして、それにあずかれるのは、
まさしく神様の教会を通してなのです。
 

2012年10月22日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 22章10~17節 イエス様のお話(その2)



イエス様のお話 221017節(その2)



人間界は二つのグループに分けられます。
一方は汚らわしい者たち、もう一方は聖なる者たちです。
どこにその境界線があるのか、私たちには見えません。
しかし、神様の御目にはこの区別は明確です。
聖なる者たちとは、
「イエス様のもの」であり、
イエス様の聖さをもっている人々のことです。
汚らわしい者たちとは、
イエス様とその聖さを拒絶する人々です。
他に第三のグループなどはありません。
人は皆、
聖なる者のグループか、
汚れた者のグループかに属しています。
  
13節でイエス様は、
御自分が「アルファでありオメガである
(つまり、はじめでありおわりである)」、と言われます。
イエス様を通して世は創造されました。
そして、イエス様は最後の日に世の裁き主となられます。
父なる神様は御自分についてこれと同じこと
(神様はアルファでありオメガであること)を
「ヨハネの黙示録」で2回言われています
(「ヨハネの黙示録」18節、216節)。
イエス様は神様の御子なので、
御父について言えることは、御子についても当てはまるのです。
「ヨハネの福音書」でイエス様は、
「私と父とはひとつです」、
と言われている通りです(「ヨハネによる福音書」1030節)。

最後の日に人は皆、
神様の御前で罪人であることが示されます。
罪の赦しを受けた者のみが
神様の御前で耐えることができます。
14節の「衣を洗うこと」はこのことを意味しています。
罪の赦しをいただいた者は天国に入ることができます。
罪の赦しを受けなかった者に対しては天国の門は開かれません。
15節でイエス様は、
聖なる都に入れない「犬ども」について触れておられます。
ユダヤ人は
「選ばれた民」に属していない者たちを
「犬ども」と呼ぶ場合がありました。
これと同じ意味でこの言葉は用いられていると思われます。
「神様の民」、すなわち
洗礼を受けイエス様を信じている人々の集まり、
の外部にいる者たちは、新世界に入ることができません。
彼らは悪魔と同じ道を辿ります。
彼らは生きている間に、
おそらくは知らず知らずのうちに、悪魔に仕えていました。
15節の終わりに出てくる「偽り」もこのことを示しています。
悪魔は偽りの父です(「ヨハネによる福音書」844節)。
偽りを好む者は悪魔を愛しています。
彼らには彼らの親玉に対する裁きと同じ裁きが下されます。
この節のリストに挙げられている他の行いも、
それらを実行する者は神様の敵に仕えている、
ということを語っているのです。
  

2012年10月15日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 22章10~17節 イエス様のお話(その1)


  
イエス様のお話 221017節(その1)
   
  
ここでイエス様は
「ヨハネの黙示録」での最後の話をなさいます。
はじめにイエス様は、
ヨハネがこの書物のメッセージを
あらゆるところに伝え広げていくようにと、
お命じになります。
「ダニエル書」にはこれと正反対の命令があります。
ダニエルは、
「書物を後になってから公にするべく、今は隠しておくように」、
という命令を受けます(「ダニエル書」826節)。
これら二つの互いに正反対の命令は、
次のようにして説明できるでしょう。
ダニエルの時代は、
神様の救いの歴史において、
ダニエルに示された幻をまだ秘密にしておいたほうがよい
神様が判断された段階に相当していました。
ヨハネの時代には状況が変わっていました。
神様の御子の地上での働きはすでに過去のこととなり、
この方が地上に戻ってこられる時がすぐそこまで来ているので、
この時点で神様の救いの歴史は、
ヨハネが観たり聴いたりしたことを
私たち皆が知るべき段階に達していた、というわけです。
  
11節は難解な箇所です。
不義な者はさらに不義を重ねて生きていくように勧められ、
聖なる者はより聖なる道を歩んでいくように命じられています。
これはどういう意味でしょうか。
「ヨハネの黙示録」は、
イエス様を知らない人に対してではなく、
クリスチャンに宛てて書かれています。
この箇所は、
「不信仰の中に留まり不義の生活を送るように」、
という勧告ではありません。
その目的は、
神様の教会に語りかけて、次のように言うことです、
「あなたがたは、
不義の世が神様とその御心を無視しているのを目にしています。
あなたがたはそれとは反対のことをしていきなさい。
不義の世が不義に留まり、
神様の御言葉が言っていることとはちがう生き方をし、
神様に対して戦いを挑んでくるのは、
ある意味で自然であろうとも言えます。
神様の教会が聖なる生活を送り、
信仰に留まり、神様の側に立って戦うのも、
それと同じくらい自然なことであるべきです」。
私たちは神様からいただいたものを守り抜くべきなのです。
もしもそれを失くせば、
イエス様の再臨の時に、
私たちもまた不義の世と共に裁かれることになってしまいます。


(次回の投稿は一週間後になります。翻訳者より)

2012年10月12日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 22章8~9節 ヨハネと天使



ヨハネと天使 2289
 
  
1910節と同じようなケースがここで語られています。
ヨハネは
自分に「ヨハネの黙示録」の描いている幻の数々を示した
天使の前にひれ伏します。
しかし、
ヨハネがそのようにすることを、天使は厳しく禁じます。
天使は、モーセの第一戒をよく知っているからです。
  
天使を神様に比肩する存在とみなす異端の教えは、
紀元1世紀に多くの教会に広がりました。
このような異端について、
今ここで警鐘が鳴らされているのです。
天使は神様の被造物なのであり、
それを造り主と同じ位置にまで
持ち上げるようなことがあってはなりません。
おひとり神様のみに
私たちはひれ伏しつつ祈るべきなのです。

2012年10月10日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 22章6~7節 信頼できるまことの言葉


 
信頼できるまことの言葉 2267
  
 
ヨハネは、
「彼に話された言葉はまことであり、
それゆえ信頼に値するものである」、
という声を耳にします。
言葉が信頼の置けるものであることを
神様御自身が保証してくださっているゆえに、
その言葉は信頼できるのです。
真理であられる神様は、偽りを言われません。
  
6節は、
神様の預言者が自分勝手に話さないことを、
読者に思い起こさせます。
神様の御霊が
神様の遣わした預言者の中で働きかけてくださるので、
預言者は神様から教えていただいたことを語るのです。
ヨハネは神様の遣わした預言者でした。
彼は言うべきことを神様からいただきました。
それゆえ、そのメッセージは信頼できるのです。
  
7節は、
「ヨハネの黙示録」で6回目の「幸いなるかな」という宣言です。
「ヨハネの黙示録」を真摯に受け入れる者を、
イエス様は「幸いなるかな」と言われています。
イエス様は王の中の王として、
いつか必ずこの世を裁くために来られることを、
「ヨハネの黙示録」は読者に語ります。
このことを本気で受け入れる者は、
「幸いなる者」として祝福されるのにふさわしいのです。
  

2012年10月8日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 22章1~5節 新しいエデン(その2)


 
新しいエデン 2215節(その2)

 
 
罪の堕落は、
すべての人間にかかわる呪いを意味していました。
この呪いを私たちは日々実感しています。
新世界では呪いの束縛はもはやない、とヨハネは言います。
新世界では、
罪の堕落とその帰結(「創世記」31719節)はもはや効力を持たず、
それゆえ、
今は実在しているこの世の苦痛が、そこでは消えうせてしまっています。
  
この世では、
人間は神様の御顔を直視することに耐えられません。
モーセはそれを望んだこともありましたが、
神様はこう言われました、
「あなたは私の顔を見ることができません。
なぜなら、
私を見た人間は一人として生きていることができないからです」
(「出エジプト記」3320節)。
新世界では、
このことも可能になります。
4節は、信じることが見ることにかわる、との約束を与えます。
これが実現するとき、不信仰が人間を悩ませることもなくなります。
「心の清い人は幸いです。
彼らは神様を見ることができるからです」
(「マタイによる福音書」58節)、
というイエス様の約束は、新しいエルサレムで成就されます。
  
5章の冒頭からはじまる大きなひとまとまりの箇所が、
この225節で閉じられました。
ヨハネには一群の幻が示されました。
彼は最後に新世界を目にすることもできました。
この間、私たちは
時間の世界から永遠の世界まで駆け抜けてきたことになります。
そして今、「ヨハネの黙示録」の終結部がはじまります。
それは五つに分けられます。