2017年9月29日金曜日

ニケア信条(ラテン語版から訳出)


ニケア信条[1] (ラテン語版から訳出)

天と地、すべての見えるものと見えないものを造られた方であり、
全能の父であり一なる[2]神様を、
私は信じます。

そして、
一なる主、イエス・キリストを、
私は信じます。

主は神様のひとり子であり、
すべての世に先立って、父より[3]お生まれになりました。

主は、
神様から[4]お生まれになった神様、
光からお生まれになった光、
真の神様からお生まれになった真の神様であり、
造られたのではありません。
主は父と同質であり[5]
主をとおしてすべてのものは造られました。

主は、
私たち人間のため[6]
また私たちの救いのために、
天からくだり、
聖霊様により[7]
処女マリアから[8]肉体を受けて[9]、人となられました。
さらに主は、
私たちのために[10]ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ、
苦しみを受け、
葬られ、
聖書のとおりに[11]三日目に復活なさり、
天にのぼられました。

主は、
父の右に座り、
栄光のうちにふたたび来られて、
生きている者たちと死んだ者たちとを裁かれます。
主の支配には終わりがありません。

そして、
主であり、活けるものとしてくださる聖霊様を、
私は信じます。

聖霊様は、
父と子から発出され[12]
父と子と共にあがめられ、
栄光を受けられます[13]

聖霊様は預言者たちをとおして話しかけてくださいました[14]

そして、
一つであり聖なる公同の使徒的な教会を、
私は信じます。

罪の赦しのための[15]一なる洗礼を、
私は告白します[16]

そして、
死者たちの復活と来たるべき世のいのちを、
私は待ち望みます。

アーメン。




[1] Die Bekenntnis-Schriften der evangelisch-lutherischen Kirche
1998  Herausgegeben im Gedenkjahr der Augsburgischen Konfession 1930. 12. Aufl., 47. -49. Tsd.
Göttingen : Vandenhoeck & Ruprecht. s.26. Symbolum Nicaenum
[2] ”unum”
[3] ”ex”
[4] ”de”
[5] ”consubstantialem patri”
[6] ”propter”
[7] ”de”
[8] ”ex”
[9] ”incarnatus”
[10] ”pro”
[11] ”secundum scripturas”
[12] ”ex patre filioque procedit”
[13] ”adoratur et glorificatur”
[14] ”locutus est”
[15] ”in+対格
[16] ”confiteor”

2017年9月22日金曜日

使徒信条(ラテン語版から訳出)

1500年代に本格化した宗教改革において誕生した
福音ルーテル教会(福音ルター派教会)は、
キリスト教信仰についての自らの立場を
「ルーテル教会信条集(一致信条書)」に明記しました。

この信条集には、
古来より西方教会の教えの根幹として公認されてきた
三つの信条(信仰告白)が含まれています。
この事実は、
ルーテル教会が西方教会の教えの伝統を尊重し
忠実に継承してきたことを示しています。

これら三つの信条、
使徒信条、ニケア信条、アタナシウス信条をラテン語版より訳出します。
今回は使徒信条です。
(高木賢、フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)


使徒信条(ラテン語版から訳出)[1]

天地の造り主、
全能の父なる神様を
私は信じます。

そして、
神様のひとり子、私たちの主なるイエス・キリストを
私は信じます。

主は聖霊様によりて[2]宿り、
処女マリアから[3]生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、
死んで葬られ、
よみにくだり[4]
三日目に死者の中から復活し、
天にのぼり、
全能の父なる神様の右に座られました。
主はそこから来て、
生きている者と死んだ者を裁かれます。

聖霊様を
私は信じます。
また、
聖なる公同の教会[5]
聖徒の交わり、
罪の赦し、
からだの復活、
永遠のいのちを信じます。

アーメン。





[1] Die Bekenntnis-Schriften der evangelisch-lutherischen Kirche
1998  Herausgegeben im Gedenkjahr der Augsburgischen Konfession 1930. 12. Aufl., 47. -49. Tsd.
Göttingen : Vandenhoeck & Ruprecht.
 s. 21. “Symbolum Apostolicum”
[2] ”de”
[3] ”ex”
[4] ”descendit ad inferna”
[5] ”sanctam ecclesiam catholicam”

2017年9月13日水曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その10)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その10)

フィンランド語版著者 
ヤリ・ランキネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版編集・翻訳者 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)

「キリストのからだであることをわきまえないで聖餐を食べまた飲む者は、
自分に対して裁きを食べまた飲むことになります」
(「コリントの信徒への第一の手紙」11章29節)。

聖餐の食卓からキリストや恵みを求めない者もまた、
キリストのからだと血をいただきます。
ただし、その場合にはその人は裁きを受けることになってしまいますが。
ですから、聖書が聖餐式について教えていることを軽視する者は、
聖餐式に参加するべきではありません。
それほどまでに聖餐式は聖なるものだからです。

子どもが聖餐式をほかの食べ物から区別することを知っており、
「聖餐式はイエス様とお会いすることだ」と知っているなら、
その子どもには聖餐を配ることができます。
こうした問題について、子どもからはあまり要求しすぎてはいけません。

初期のキリスト教会では、
ひどい罪を行っている者に対しては
聖餐をあずからせないようにすることがありました
(「コリントの信徒への第一の手紙」5章5節)。

罪を悔い改めようとはしない人間はどのような場所へ落ちていくか、
ということを教えるために、教会はこのように行ってきたのです。
罪を悔い改めようとはしない者は、
神様の恵みを受け入れていないのですから、
その当然の報いとして神様のおられない場所へと落ちていくほかありません。

教会は今でも同じように教え、また実行するべきです。

そうすることは、
滅びへの道へとさまよいこんでいる多くの人々にとって必要なことであり、
きわめて真剣な警告を発することでもあり、
また、その人が救われることを親身になって心配していることを
教会自身が示すことにもなるでしょう。

そうすることはまた、
私たちが実際に「永遠の滅び」という状態が存在することを
本当に信じていることを示すことにもなります。


女性牧師の配る聖餐式は正しい聖餐式でしょうか?
私はこのことをあるフィンランド福音ルーテル教会の教会長(ビショップ)
に尋ねたところ、彼はこう答えました、
「私はわかりません。
神様の明瞭な御言葉に反して牧師になった人間が
施行したり配ったりする聖餐式を、神様が祝福してくださるかどうか、
私は知りません。
私自身は確実な道を選びます。
ですから、私は確実に聖餐をいただける聖餐式に連なるし、
他の人たちにもそうするように忠告しています」。