2009年11月27日金曜日

マルコによる福音書 第16回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ (前回と同じメッセージです)

「主は御自分の上に私たちのすべての罪の重荷を投げてくださいました。」(イザヤ書53章6節)この御言葉は、「キリストは私たちの罪を担ってくださった」という真理を力強く明瞭に告げています。この御言葉は新約聖書全体の正しさを証明する働きをしています。さらに、この御言葉は福音全体の唯一の基礎であり支柱です。この御言葉が立つ限り、ほかのすべても立ちます。もしも私たちが「キリストは私たちのために死んでくださった」と信じるならば、ほかのこともそれにつづきます。すなわち、キリストは私たちに聖霊様を賜り、こうして私たちをキリスト教会の真の会員としてくださいます。それゆえ、悪魔はこの御言葉を無効にするために全力を注ぎます。悪魔はすべてがそれに依存していることを知っているからです。

まさにこの信条において、ほかのあらゆる宗教と私たちの宗教の間の大きな永遠の相違があらわれています。この真理を心から真剣に信じる者は安全であり、すべての異端からよく守られています。聖霊様は本当にその人のもとにいてくださいます。聖霊様なしでは、この教えをしったり理解したり説教したりすることは不可能です。この主要信条から踏み外れる者は、ちょうど風によってあちこちに吹き飛ばされていくように、あらゆる間違った惑わしの教えにまきこまれる危険な状態にいます。

マルティン・ルター (「神様の子供たちに与えるマナ」)

2009年11月25日水曜日

マルコによる福音書 第16回目の質問

第16回目の集まりのために

マルコによる福音書16章

1)女たちは何をするためにイエス様が埋葬された墓にやってきましたか。そもそも、どうして女たちは墓にきたのでしょうか。

2)イエス様の復活は何についてのしるしでしょうか。

3)イエス様の復活は私たちの心をどのようにゆりうごかしますか。

4)マルコによる福音書16章9~20節はもともとは福音書に入っていませんでした。これは私たちにとってどのような意味を持っていますか。

5)復活された主が弟子たちにあらわれた出来事について、マルコによる福音書16章以外の聖書の記述を調べてみてください(たとえば、コリントの信徒への第1の手紙15章1~11節など)。どの出来事があなたを一番感動させますか。イエス様が500人以上の弟子たちにあらわれた出来事について、私たちは何を知っていますか。どのようなことが、イエス様の実の弟ヤコブを不信仰な者からイエス様を信じる者へと変えたのでしょうか。私たちは十分に知ることができるのでしょうか。なぜ聖書は私たちに(復活の主の顕現という)これらの奇跡についてもっと詳しく教えてくれないのでしょうか。

6)私たちがイエス様の復活を信じることには、何か理性でも納得のいくような理由があるのでしょうか。論理的に考えることで、人は正しい結論に導かれるものでしょうか。

7)(海外)宣教活動を行うようにという明確な「主の命令」があります。私たちはどんな具体的なことを宣教活動のために行うことができますか。

8)「信じるか信じないかによって、救われるか滅びるかが決まる」と、イエス様は明確な境界線を引いておられます。私たちの住んでいる国では、イエス様のこうした見方は十分はっきりと伝えられているでしょうか。海外宣教活動においてはどうでしょうか。

9)イエス様は、御自分を信じる者には「しるし」がともなう、と言われています。そして、しるしは弟子たちの伝道活動にともなっていました。このことはイエス様の当時の弟子たちに関してだけ言われているのでしょうか。それとも、現代でも、福音が正しいことを証するために、しるしが信仰者にともなっていなければならないのでしょうか。

10)「キリストが天にあげられ、神様の右の座に着かれている」というのは、私たちにとってどのような意味を持っていますか。

2009年11月23日月曜日

マルコによる福音書について 16章19~20節

キリストは天におられます。 16章19~20節

最後の箇所は、イエス様がどのように天に挙げられ、お父様の右の座におつきになったかについて、短く語っています。弟子たちはさっそく行動に移り、福音をあらゆるところに伝えていきました。「イエス様がお父様の右の座におつきになったこと」は、私たちにはおそらくすでにあたりまえのことになっているでしょう。しかしそれは、マルコによる福音書のユダヤ人読者にとってはそうではありませんでした。ユダヤ人たちにとっては、神様は唯一のお方であり、その御座を誰か他の者と分け合うことなどはありえないことで、天使にも聖なる神様の近くに座る権利などはありませんでした。すべての人の罪を帳消しにするための十字架での使命を果たされたあとで、キリストはお父様の御許に戻られて、人間の理解を超えた栄光を私たちに確保してくださいました。主が私たちの罪の負債を御自分の血によってすっかり支払ったあとで、お父様から天と地のあらゆる権威を受けられたのは、私たちにとって計り知れないほど大きなことです。キリストがドアを開けてくださるとき、それを私たちの前で閉める者は誰もいません。もしもキリストがドアを閉めるならば、それを開けることは誰にもできません。弟子たちは福音をすべての被造物に伝えるために出かけて行きました。それは今日でもキリストの教会の基本の使命です。私たちは他のすべてのことを忘れてもかまいませんが、「主の苦難の僕」、神様の御子について証することは決して忘れてはなりません。この御子が私たちのために御自分を死に渡してくださいました。そして、この御子をお父様は死者の中からよみがえらせ、御自分の右の座へと挙げられました。

2009年11月20日金曜日

マルコによる福音書について 16章15~18節

弟子たちは使命をいただきます。 16章15~18節

イエス様の復活は、すぐに忘れ去られてしまう無意味な出来事では終わりませんでした。イエス様は使徒たちを御許に集められ、彼らに使命をお与えになりました。イエス様の「宣教命令」はマタイによる福音書にも記されています(28章18~20節)。今や全世界の人々をイエス様の弟子にしなければならない時がきました。これは洗礼を授け、教えることによって実現します。こうして「イエス様のもの」になった人は救われます。しかし、信じない者は滅びへと裁かれます。キリストは御自分のものたちとおわりまで共にいて、御自分の御言葉が真理であることを、御言葉にともなう「しるし」によって私たちに確信させると約束なさいました。新約聖書の「使徒の働き」は、どのようにこれらのしるしが具体的にキリストの弟子たちの伝道の働きを通してあらわれたか、語っています。

2009年11月18日水曜日

マルコによる福音書について 16章9~14節

キリストは「御自分のもの」である弟子たちにあらわれます。 16章9~14節

イエス様の復活を証したのは天使たちの啓示だけではありません。不信仰な「主のもの」たちは、自分たちの先生が生きていることを信じるようになるために、疑う余地のないたくさんの証拠を必要としていました。イエス様がマグダラのマリアの目の前にあらわれたことについては、ヨハネによる福音書(20章1~18節)に詳しく感動的に語られています。こうしてマリアは「イエス様が復活して生きておられる」というメッセージを他の弟子たちへ告げる仕事を与えられましたが、弟子たちはマリアの言うことを信じようとはしませんでした。「小さな村へと旅していたふたりの弟子たち」が、ルカによる福音書24章(13~35節)に語られている「エマオへの道を歩んでいたふたりの弟子たち」と同一であるのはまちがいありません。イエス様が11人の弟子たちにあらわれたことは、多くの聖書の箇所に記されています。また、こうした出来事が何度も繰り返し起きたのも確かです(コリントの信徒への第1の手紙15章1~11節、ヨハネによる福音書20章19~29節)。興味深いのは、イエス様が弟子たちの前に御自分をあらわされたことを語っている記事はこれで全部というわけではない、ということです。マルコによる福音書よりももっと古い伝承に基づいている多くのそのような出来事が、リストには欠けているのです。私たちはとりわけいくつかの出来事についてもっと知りたいという思いがあります。たとえば、復活された主は、どのようにペテロや御自分の兄弟であるヤコブにあらわれたり、どのように500人以上の弟子たちに同時に姿をお見せになったりしたのでしょうか(コリントの信徒への第1の手紙15章5~7節)。私たちの好奇心が満たされることはありません。復活の主を目の当たりにした証人はたくさんおり、不信仰な臆病者だった者たちが、死に至るまで主に忠実をつらぬいた伝道者に変わったこと自体が、彼らの確信が揺るぎのないものであったことを十二分に証明しています。「復活の主への信仰」は常に聖霊様の賜物であって、理性で考えた結果などではない、と私たちは信じています。

2009年11月16日月曜日

マルコによる福音書について 16章9~20節はどこからきましたか?

16章9~20節はどこから来たものでしょうか。

この章のつづきを研究する前に、あることに注目する必要があります。古典時代の書物はすべて、現代の私たちにコピーあるいはコピーのコピー(のコピー等)として保存され伝えられてきました。元本は残ってはいないのです。現存している写本はある程度互いに食い違っています。研究者たちは、いろいろな写本を比較検討して、もともとはどのように書かれていたか、を決定しようとしてきました。これは、非常に難しい場合もあれば、とても簡単な場合もあります。新約聖書を研究する環境は特有で、困難ではあれ祝福されています。新約聖書の写本が非常にたくさん保存されており、それらの写本を比較することで、多くの場合には、たとえばどの部分が元本にありどの部分が後の加筆かについて確実ともいえる理解を得ることができます。注意深い聖書の読者なら、聖書にはいくつかの節が欠けていることに気づくことでしょう(たとえば、ヨハネによる福音書5章4節)。括弧の中に入れられている箇所もあります(たとえば、ルカによる福音書11章4節)。これらは、なにか隠し事をしたり、聖書を貶めることではありません。それは、神様の御言葉から、しばしば何百年もあとから付け加えられた箇所を分別する目的でそうなされているのです。何節にもわたるこのような箇所は新約聖書では、ヨハネによる福音書8章1~11節と、今取り上げようとしているマルコによる福音書16章9~20節の二箇所だけです。写本によってはマルコによる福音書のテキスト自体は8節でおわっています。このあとに来る箇所については、ふたつの互いに異なる締めくくりの部分をもつ写本と、まったくない写本とがあります。どちらの締めくくりの部分もマルコによる福音書の元本には含まれてはいませんでした。もしも福音書が本来は8節で終わっていなかった場合には、その終わりの部分は失われてしまった、ということになります。現在私たちの手元に残っている締めくくりの部分は紀元後100年代になされた加筆です。そこには、復活されたイエス様が弟子たちに御自身をあらわされたことや、宣教命令を与えられたことや、そのあとで天にあげられたことが語られています。これらの大切なことがらはすべて、他の福音書にも、パウロが保存したイエス様の復活の証人たちの古くから伝わるリスト(コリントの信徒への第1の手紙15章1~11節)にも語られています。こういうわけで、これから取り上げる箇所は、福音書の元本にはなかったものの、聖書の他のさまざまな箇所によってその真実性が保証されている、と言うことができるでしょう。

2009年11月6日金曜日

マルコによる福音書について 16章1~8節

全世界に

マルコによる福音書16章


まったくの驚き 16章1~8節
イエス様が墓に葬られたとき、イエス様のはじめられた運動は完全におわってしまったかのようにみえました。イエス様は死に、弟子たちは逃げ去り、敵が勝ったのです。あとに残っていたのは、死者に対して行わなければならない愛情のこもった仕事でした。それを行うために女たちが墓へとやってきました。痛めつけられたイエス様の体は金曜日の夕方に大急ぎで墓に入れられたので、それに埋葬の仕上げを施すことができていませんでした。そのときには太陽が沈みかけていたし、安息日がはじまろうとしていたからです。安息日にはこの仕事をすることは許されてはいなかったので、女たちはようやく日曜日の早朝になってから墓へ行くことができました。彼らは一刻も無駄にせず、朝の薄暗いときにはすでに墓へ来ていました。何かが金曜日とは変わっていることに、女たちはふと気づきました。墓の入り口をふさいでいた重い大きな石が取り除けられていたのです。墓の中にはイエス様の死体はありませんでした。そこにいたのは、主が死者の中からよみがえったことを告げる天使でした。女たちはこのメッセージをペテロやほかの弟子たちに伝える役目を与えられました。不意をつかれて困惑している女たちは、わけもわからないまま墓から出て行きました。そのときには彼らは何をどう考えればよいのかさえ、わからなかったのです。やっとあとになってから、「イエス様のもの」である信仰者たちにはこの出来事の意味をゆっくり考える時間がありました。復活なさった主御自身がこのことを手に取るようにわかりやすく説明してくださったのです。キーワードはここでも「イエス様の権威」です。イエス様が本当はどのようなお方かしろうとして周りに集まった人たちは、いろいろな質問をイエス様に投げかけました。人々にそのような気を起こさせるようなやり方で、イエス様は登場され振舞われたのです(たとえば4章41節、6章2節)。マルコによる福音書の読者はその答えを1章のはじめからしっています。「イエス様は神様の愛する独り子であり、お父様の与えてくださった使命を実現するためにこの世に来られた」ということです(1章11節)。これと同じメッセージは輝く山でも一瞬告げられました(9章7節)。しかしそれは人々の目からは隠されていました。キリストの真のお姿が大議会の前であきらかにされたとき、大祭司は自分の服を引き裂き、イエス様は神様を侮辱する者として死刑の判決を受けました。しかし、今、神様はイエス様を死者の中からよみがえらせてくださいました。これは、「イエス様には生前話されていた御自分の「権威」を実際におもちだった」という驚くべきことを意味しています。このように、イエス様の復活は人々の不信仰を徹底的に恥じ入らせたのです。イエス様は御自分で言われていたとおりのお方でした。しかし、私たちは2千年前に起きた奇跡を不思議に思うだけで済ませるわけにはいきません。復活は、私たち皆ひとりひとりにとって身近なことがらなのです。イエス様のこの地上での人生には、はっきりとした目的がありました。イエス様は御自分の使命を完璧に成就なさいました。イエス様はイザヤ書が予言した「主の苦難の僕」(53章)であり、すべての人々の罪を代わりに担うためにこの世に来られたのです。イエス様も弟子たちに御自分の使命についてこのように説明なさいました(マルコによる福音書10章35~45節)。ここでイエス様が十字架上で引用された詩篇22篇をもう一度読んで、とくにそのおわりの部分に焦点を当ててみましょう。主の苦難の僕は屈辱を受け、神様はその僕を「死の塵に伏させました」(詩篇22篇16節)。にもかかわらず、主はその僕から遠く離れたままではおらず、僕を助けるためにやってこられました。復活したキリストは神様に賛美の歌を歌います。この歌には神様の民全体と地の果てのすべての者が加わります。こうして、キリストの死と復活において世界の歴史全体が転換します。

2009年11月5日木曜日

マルコによる福音書 第15回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

「主は御自分の上に私たちのすべての罪の重荷を投げてくださいました。」(イザヤ書53章6節)この御言葉は、「キリストは私たちの罪を担ってくださった」という真理を力強く明瞭に告げています。この御言葉は新約聖書全体の正しさを証明する働きをしています。さらに、この御言葉は福音全体の唯一の基礎であり支柱です。この御言葉が立つ限り、ほかのすべても立ちます。もしも私たちが「キリストは私たちのために死んでくださった」と信じるならば、ほかのこともそれにつづきます。すなわち、キリストは私たちに聖霊様を賜り、こうして私たちをキリスト教会の真の会員としてくださいます。それゆえ、悪魔はこの御言葉を無効にするために全力を注ぎます。悪魔はすべてがそれに依存していることを知っているからです。

まさにこの信条において、ほかのあらゆる宗教と私たちの宗教の間の大きな永遠の相違があらわれています。この真理を心から真剣に信じる者は安全であり、すべての異端からよく守られています。聖霊様は本当にその人のもとにいてくださいます。聖霊様なしでは、この教えをしったり理解したり説教したりすることは不可能です。この主要信条から踏み外れる者は、ちょうど風によってあちこちに吹き飛ばされていくように、あらゆる間違った惑わしの教えにまきこまれる危険な状態にいます。

マルティン・ルター (「神様の子供たちに与えるマナ」)