2018年2月16日金曜日

「フィレモンへの手紙」ガイドブック はじめの挨拶 1〜3節(その1)

はじめの挨拶 1〜3節(その1)


ほかのパウロの手紙と同じように、
「フィレモンへの手紙」は三部構成の挨拶ではじまっています。
手紙の差出人としてはパウロとテモテの名が挙げられています。
手紙を通読してみるとわかるように、事実上の書き手はパウロです。
それでも、使徒パウロはこのはじめの挨拶にテモテと彼の名前を並記しました。
それは、テモテがパウロにとって深く信頼できる大切な同労者であったからです。
またそれは、この手紙の執筆時期に
テモテが使徒パウロのもとに滞在中であったことも示唆しています。
さらに、パウロ自身がこの手紙を書いたことの「証人」として
テモテの名が付記されているという意味合いもあるでしょう。

どの手紙でもパウロは自らの使命と地位について、
すでにはじめの挨拶ではっきり知らせています。
この「フィレモンへの手紙」のはじめの挨拶においてパウロが語っている内容は、
執筆時に彼がどこに滞在していたかについての手がかりを与えてくれます。
さらに、使徒自身と手紙の受け取り手との間柄についても、
この手紙は明らかにしてくれます。
冒頭1節目で、パウロは自らのことを
「キリスト・イエスの囚人」であると呼んでいます。
この表現は、当時の彼がイエス様のゆえに投獄されていたことも示唆します。

2018年2月12日月曜日

「フィレモンへの手紙」ガイドブック はじめに(その3)

はじめに(その3)

「オネシモ」という名の人物は、この手紙よりも少し後の時代に書かれた
キリスト教文献にも登場します。
アンティオキアの教会長(ビショップ)であったイグナティオスは、
西暦約100年頃に書いた手紙において、
エフェソの教会長(ビショップ)の名前が「オネシモ」であったと記しています。
はたしてこの人物がパウロのいた牢獄でキリスト信仰者になった奴隷と
同一人物であるかどうか、私たちは知りません。
しかし、これはありえないこととも言えません。
「主人のもとを逃げ出した奴隷が後に教会の責任者になった」
というこの仮説は、年代的には整合しています。
パウロがフィレモンにこの手紙を書き送ったのは
西暦約60年頃と推定されています。
もしもその頃のオネシモが20歳くらいであったとするならば、
西暦100年頃の彼は60歳前後だったことになります。
そして、これは教会長としては少しもおかしくない年齢です。


「フィレモンへの手紙」は私的書簡の体裁をとっています。
しかし、一方でこの手紙は教会全体宛の公開書簡であるとも言えます。
さらに、この手紙は現代の私たちが読むことをも
意図して書かれたものでもあります。
そうであるからこそ、この手紙は聖書の中に収められているのです。
この手紙には、神様が私たちにぜひとも伝えたい
多くの大切なメッセージが記されているのです。

2018年2月7日水曜日

「フィレモンへの手紙」ガイドブック はじめに(その2)

 はじめに(その2)


「フィレモンへの手紙」は、
主人のもとに帰ろうとしている奴隷にパウロが携えさせた「推薦状」です。
この手紙のなかでパウロはフィレモンに、
オネシモを「愛すべき信仰の兄弟」として扱うように懇請しています。
パウロがこの手紙を獄中から書いたのは確実です。
しかし、手紙の執筆された都市がどこであるかは、はっきりしません。
パウロは少なくともエフェソ、カイザリア、ローマという諸都市で
投獄されたことがあるからです。
この手紙はローマから書き送られたものである、
というのが伝統的な解釈です。
しかし、手紙の執筆された可能性が高い都市はエフェソだと推定されます。
その理由について、これから述べてみます。

フィレモンがどこに住んでいたのかを確実に知ることはできません。
それでも、
フィレモンがコロサイに居住した時期があったらしいことは推測できます。
パウロの書いた「コロサイの信徒への手紙」には
「オネシモ」という名のキリスト信仰者が登場し、
コロサイの住人であったことが記されています
(「コロサイの信徒への手紙」4章9節)。
これは、オネシモが仕えていた主人フィレモンが、
オネシモと同じくコロサイに住んでいたことの証拠であるとも考えられます。
ただし、これもまったく確実とは言えません。
手紙が書かれた当時の世界において
「オネシモ」というのはかなり一般的な名前だったからです。
ですから、「コロサイの信徒への手紙」に登場するオネシモが
「フィレモンへの手紙」でのオネシモとは
まったく別の人物である可能性も残っています。

しかし、もしもフィレモンがコロサイに住んでいたのであれば、
パウロがこの手紙を書いて送ったのは
エフェソからであった可能性が高いと言えます。
オネシモがコロサイから出発して、
たとえばローマまで逃避行を続けたとは考えにくいからです。
コロサイからエフェソまでなら、小アジアの陸路を歩いて行けばたどりつけます。
ところが、コロサイからローマまでとなると長大な船旅が必要になります。
そして、主人の許可なく放浪している奴隷が
このような大旅行を決行するのは容易ではなかったはずです。